14 / 14
異端審問官の寂寞
しおりを挟む
レナトは、セシリアを救えただろうか。監禁しただけで。愛を与えただけで。どこまでセシリアを孤独から救っただろうか。これからも、狼となったセシリアには孤独が付きまとう。狼は群れで行動する生き物だ。けれど、セシリアはその輪に入ることはできない。この先もずっと、独りぼっちだ。結局レナトは、セシリアを本当の意味で救うことはできなかった。
それでも、愛している。セシリアの体を構成する一部になりたい。そうすれば、セシリアの中にレナトは生き続ける。それはセシリアの孤独を癒せるだろうか。そうであったら、いい。
「もっと僕に触れて、セシリア」
血がたまった手のひらをセシリアに近付けると、おずおずとセシリアはレナトの手を舐めた。手のひらに血が無くなったら、またナイフで傷をつける。
セシリアは震えながら、レナトの傷口に舌を這わせる。この行為をやめるのならば、これが最後の地点だった。けれど、レナトにやめる気はない。ナイフを置き、空いている方の手でセシリアの背中を撫でた。震えている、小さな背中を抱きしめた。これが最後だ。本当に、最後。小さな体を壊れるほど抱いて、レナトも一粒の涙をこぼした。
*
きっと、今までの人生は君を見つけ出すためにあったんだ。レナトはかすかな意識の中でそう思う。指の先から齧られて、右腕は肘から下がもう殆どない。失血で命を手放すのも時間の問題だろう。薄れゆく意識の中で、レナトは最初で最後の恋を握りしめる。
探していたんだ。君という奇跡を。愛し愛されるという、簡単には手に入れられないものを。もっと、触れて。もっと、食べて。僕を君のものにして。レナトの右腕を咀嚼するセシリアの髪を、左手で撫でる。この感覚が心地よかった。さらさらと手からこぼれていく細い髪の感触を、永遠に味わっていたかった。
もうじき、死ぬだろう。冷たくなっていく体を感じながら、レナトは最後に残った意識でセシリアの顔をじっと見る。セシリアはまだ、泣いていた。
「泣き虫の人狼さん」
「……っ、れなと、あいしてる」
「僕も……永遠に、愛しているよ。セシリア」
生まれ変わるときを待ち焦がれている。次の人生があるとしたら、またセシリアを愛する。そして今度こそ、幸せにしてみせる。今の不甲斐ない僕ではできなかったことを、どうか、来世では。
来世の僕よ、もっと強くなってくれ。セシリアを守り通せるくらいに、強くなってくれ。もう一つ期待するなら、異端審問官ではない、普通の男としてセシリアを抱きしめたい。
「あいしてる」
震えた声で紡いだ言葉は、セシリアに届いただろうか。分からない。この言葉を最後に、レナトは意識を手放した。
*
ぐちゃ。ぺちゃ。ずるり。咀嚼音だけが静かな部屋に響いている。
柔らかかった絨毯は、レナトの血を吸って冷たくなっていく。壁に飾られたカトリック両王の肖像画には血が飛んで、顔を塗りつぶしていた。
セシリアは本能のままにレナトを齧っていく。もう右腕は全部食べた。左腕も、あと半分くらいだ。夜が明ける。セシリアの細かった腕は、銀色の毛が覆いつくしていた。髪を飾っていた組み紐が絨毯の上に落ちる。セシリアは四つん這いになって、レナトの体を咀嚼し、血を舐めていく。飢えている。いくら食べても足りないのだ。聖職者の肉は蕩けるように甘い。がつがつとレナトの体をひたすらに貪る。
朝が来て、太陽が空の頂点に来て、そうして大地の向こうに消えていくまで。一日かけて、セシリアはレナトを貪った。絨毯に染み広がった血も吸いつくすように舐めた。そして最後に残った心臓を、大きな口に生えた牙で嚙み千切って。……ごちそうさまでした。そうしてセシリアは──セシリアであった銀色の狼は、スペインの広大な大地へと消えていった。
*
コンコン、とレナトの家の扉が叩かれる。アンヘルだ。
レナトは仕事を無断欠勤したことなどなかった。だが、もう三日も異端審問所に顔を出していない。病でも患ったのだろうか、と、アンヘルはどうしても気にかかり、レナトの家を訪ねたのだ。ノックしても、反応はない。
「レナト様! いらっしゃらないのですか!」
呼んでも、レナトからの反応はなかった。嫌な予感に、アンヘルはドアノブを捻る。すると、鍵がかかっておらず、ドアはすんなりと開いた。レナトがこんな不用心をするはずがない。アンヘルは背中に冷たい汗が流れていくのを感じた。決死の思いで扉を開け、中に入ると、鉄臭さだけが静かな家の中を支配している。
「レナト様……?」
玄関にあった蝋燭にマッチで火を灯し、アンヘルは廊下を進む。カーテンが閉まっているのか、それともこの曇り空のせいか。部屋の中は異様に暗く、そして冷たい空気だけが流れていた。
そうしてさほど時間がかからないうちに、アンヘルは見ることになる。それは食いちぎられた血まみれのローブの間から見える、しゃぶり尽くされた骨。糸が切れてバラバラに散らばったロザリオを、アンヘルが見間違えるはずもない。
「レナト……様……」
何処で間違えたのだろう。何が彼を追い詰めたのだろう。後悔しても、もう何もかもが手遅れだ。レナトの心など、今更知ることもできない。ただ一つ真実なのは、レナトの魂はもうこの世にいない、ということだけだ。
数日の後に、レナトの葬儀が執り行われた。田舎からレナトの両親が来て、レナトが納められている棺桶を抱きしめて泣いていた。立派な職に就き、順風満帆な暮らしを送っていたはずの息子がなぜ、と嘆いていた。アンヘルはそれを黙って見ていることしかできない。
アンヘルは、レナトの両親にレナトの死にざまを伝えることはできなかった。体を失い、骨だけとなったなどと言えなかった。だからこそレナトの両親が来る前に、棺桶の蓋に釘を打ったのだ。レナトの両親は最後に息子の顔が見たいと懇願していたが、アンヘルの指示もあり、誰も棺桶の蓋を開けることはしなかった。あまりにも残酷な死にざまだったからだ。
アンヘルが最後に奉公できることがあるのならば、レナトが最後まで清廉な異端審問官であったということにする、それだけだった。
静かに墓穴の中にレナトの棺桶が沈められた。土をかけて、それっきりだ。哀れな異端審問官の死は、今後語られることは無いだろう。異端審問官と人狼の恋は、これっきりで終わりだ。誰も、その恋を知ることはない。雲雀が鳴く春の頃になると、レナトの墓標に、野に咲く白いイベリスの花が置かれていることも、誰も知ることは無いだろう。
イベリスの花言葉は「初恋の思い出」。そう、この花をレナトの墓に置いた誰かも──真実に、レナトのことを愛していた。
それでも、愛している。セシリアの体を構成する一部になりたい。そうすれば、セシリアの中にレナトは生き続ける。それはセシリアの孤独を癒せるだろうか。そうであったら、いい。
「もっと僕に触れて、セシリア」
血がたまった手のひらをセシリアに近付けると、おずおずとセシリアはレナトの手を舐めた。手のひらに血が無くなったら、またナイフで傷をつける。
セシリアは震えながら、レナトの傷口に舌を這わせる。この行為をやめるのならば、これが最後の地点だった。けれど、レナトにやめる気はない。ナイフを置き、空いている方の手でセシリアの背中を撫でた。震えている、小さな背中を抱きしめた。これが最後だ。本当に、最後。小さな体を壊れるほど抱いて、レナトも一粒の涙をこぼした。
*
きっと、今までの人生は君を見つけ出すためにあったんだ。レナトはかすかな意識の中でそう思う。指の先から齧られて、右腕は肘から下がもう殆どない。失血で命を手放すのも時間の問題だろう。薄れゆく意識の中で、レナトは最初で最後の恋を握りしめる。
探していたんだ。君という奇跡を。愛し愛されるという、簡単には手に入れられないものを。もっと、触れて。もっと、食べて。僕を君のものにして。レナトの右腕を咀嚼するセシリアの髪を、左手で撫でる。この感覚が心地よかった。さらさらと手からこぼれていく細い髪の感触を、永遠に味わっていたかった。
もうじき、死ぬだろう。冷たくなっていく体を感じながら、レナトは最後に残った意識でセシリアの顔をじっと見る。セシリアはまだ、泣いていた。
「泣き虫の人狼さん」
「……っ、れなと、あいしてる」
「僕も……永遠に、愛しているよ。セシリア」
生まれ変わるときを待ち焦がれている。次の人生があるとしたら、またセシリアを愛する。そして今度こそ、幸せにしてみせる。今の不甲斐ない僕ではできなかったことを、どうか、来世では。
来世の僕よ、もっと強くなってくれ。セシリアを守り通せるくらいに、強くなってくれ。もう一つ期待するなら、異端審問官ではない、普通の男としてセシリアを抱きしめたい。
「あいしてる」
震えた声で紡いだ言葉は、セシリアに届いただろうか。分からない。この言葉を最後に、レナトは意識を手放した。
*
ぐちゃ。ぺちゃ。ずるり。咀嚼音だけが静かな部屋に響いている。
柔らかかった絨毯は、レナトの血を吸って冷たくなっていく。壁に飾られたカトリック両王の肖像画には血が飛んで、顔を塗りつぶしていた。
セシリアは本能のままにレナトを齧っていく。もう右腕は全部食べた。左腕も、あと半分くらいだ。夜が明ける。セシリアの細かった腕は、銀色の毛が覆いつくしていた。髪を飾っていた組み紐が絨毯の上に落ちる。セシリアは四つん這いになって、レナトの体を咀嚼し、血を舐めていく。飢えている。いくら食べても足りないのだ。聖職者の肉は蕩けるように甘い。がつがつとレナトの体をひたすらに貪る。
朝が来て、太陽が空の頂点に来て、そうして大地の向こうに消えていくまで。一日かけて、セシリアはレナトを貪った。絨毯に染み広がった血も吸いつくすように舐めた。そして最後に残った心臓を、大きな口に生えた牙で嚙み千切って。……ごちそうさまでした。そうしてセシリアは──セシリアであった銀色の狼は、スペインの広大な大地へと消えていった。
*
コンコン、とレナトの家の扉が叩かれる。アンヘルだ。
レナトは仕事を無断欠勤したことなどなかった。だが、もう三日も異端審問所に顔を出していない。病でも患ったのだろうか、と、アンヘルはどうしても気にかかり、レナトの家を訪ねたのだ。ノックしても、反応はない。
「レナト様! いらっしゃらないのですか!」
呼んでも、レナトからの反応はなかった。嫌な予感に、アンヘルはドアノブを捻る。すると、鍵がかかっておらず、ドアはすんなりと開いた。レナトがこんな不用心をするはずがない。アンヘルは背中に冷たい汗が流れていくのを感じた。決死の思いで扉を開け、中に入ると、鉄臭さだけが静かな家の中を支配している。
「レナト様……?」
玄関にあった蝋燭にマッチで火を灯し、アンヘルは廊下を進む。カーテンが閉まっているのか、それともこの曇り空のせいか。部屋の中は異様に暗く、そして冷たい空気だけが流れていた。
そうしてさほど時間がかからないうちに、アンヘルは見ることになる。それは食いちぎられた血まみれのローブの間から見える、しゃぶり尽くされた骨。糸が切れてバラバラに散らばったロザリオを、アンヘルが見間違えるはずもない。
「レナト……様……」
何処で間違えたのだろう。何が彼を追い詰めたのだろう。後悔しても、もう何もかもが手遅れだ。レナトの心など、今更知ることもできない。ただ一つ真実なのは、レナトの魂はもうこの世にいない、ということだけだ。
数日の後に、レナトの葬儀が執り行われた。田舎からレナトの両親が来て、レナトが納められている棺桶を抱きしめて泣いていた。立派な職に就き、順風満帆な暮らしを送っていたはずの息子がなぜ、と嘆いていた。アンヘルはそれを黙って見ていることしかできない。
アンヘルは、レナトの両親にレナトの死にざまを伝えることはできなかった。体を失い、骨だけとなったなどと言えなかった。だからこそレナトの両親が来る前に、棺桶の蓋に釘を打ったのだ。レナトの両親は最後に息子の顔が見たいと懇願していたが、アンヘルの指示もあり、誰も棺桶の蓋を開けることはしなかった。あまりにも残酷な死にざまだったからだ。
アンヘルが最後に奉公できることがあるのならば、レナトが最後まで清廉な異端審問官であったということにする、それだけだった。
静かに墓穴の中にレナトの棺桶が沈められた。土をかけて、それっきりだ。哀れな異端審問官の死は、今後語られることは無いだろう。異端審問官と人狼の恋は、これっきりで終わりだ。誰も、その恋を知ることはない。雲雀が鳴く春の頃になると、レナトの墓標に、野に咲く白いイベリスの花が置かれていることも、誰も知ることは無いだろう。
イベリスの花言葉は「初恋の思い出」。そう、この花をレナトの墓に置いた誰かも──真実に、レナトのことを愛していた。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
永遠の十七歳なんて、呪いに決まってる
鷹 綾
恋愛
永遠の十七歳――
それは祝福ではなく、三百年続く“呪い”だった。
公には「名門イソファガス家の孫娘」として知られる少女キクコ。
だがその正体は、歴史の裏側で幾度も国を救ってきた不老の元聖女であり、
王家すら真実を知らぬ“生きた時代遺産”。
政治も権力も、面倒ごとは大嫌い。
紅茶と読書に囲まれた静かな余生(?)を望んでいたキクコだったが――
魔王討伐後、王位継承問題に巻き込まれたことをきっかけに、
まさかの王位継承権十七位という事実が発覚する。
「……私が女王? 冗談じゃないわ」
回避策として動いたはずが、
誕生した新国王アルフェリットから、なぜか突然の求婚。
しかも彼は、
幼少期に命を救われた“恩人”がキクコであることを覚えていた――
年を取らぬ姿のままで。
永遠に老いない少女と、
彼女の真実を問わず選んだ自分ファーストな若き王。
王妃になどなる気はない。
けれど、逃げ続けることももうできない。
これは、
歴史の影に生きてきた少女が、
はじめて「誰かの隣」を選ぶかもしれない物語。
ざまぁも陰謀も押し付けない。
それでも――
この国で一番、誰よりも“強い”のは彼女だった。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる