傷ついた心を癒すのは大きな愛

雪本 風香

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過去の男1

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柳田との出会いは、会社の応接室だった。
大学時代、アルバイトをしていた翻訳会社にそのまま就職をした千尋にとっては働きやすいいい会社だった。
育ててくれた祖父を亡くし、大学生活の途中で実家の賃貸マンションで祖母との二人暮らしに戻った千尋にとって、フレックス出勤も在宅勤務も認められていることがありがたかった。
柳田の名前は以前から知っていた。
社長の友人で有名なデザイナー兼装丁家。本屋で何気なく表紙が気に入った本を手に取り、装丁家の名前を見ると、大抵柳田の名前が書いていた。

たまたま柳田が会社に訪ねたときにお茶を出した。
「君はこの会社長いな。ずっと産業翻訳?」
「アルバイトの時からお世話になっていますから。ずっと産業翻訳をしております」
「そうか。出版翻訳に興味はあるか?」
まだ社長は部屋に来ていなかった。どう返事をしたら良いか考えあぐね、何も言わずにお茶を置き、退出した。

一時間後、社長に応接室に呼ばれた。
「産業翻訳しかしたことないらしいな?一度出版翻訳してみないか?」
柳田にそう声をかけられ、一冊の詩集を差し出された。
「先程社長と話をして、個人として仕事を受けてならいいとのことだ。プライベートの時間に訳すことになるし、大して金にはならんが、興味あるなら一度出版社の方へ推薦はしておく」
社長も口添えをする。
「村上が興味あるならやってみたらどうだ?仕事の幅は広がるぞ」
返事は躊躇わなかった。
「ありがとうございます。ぜひさせてください」

プライベートの時間を削って仕上げた翻訳を柳田から教えて貰った担当へ連絡をして原稿を預けた。
「確かにお預かりしました。またご連絡しますね」
山崎 美香やまさき みかとは、その時の担当だった。
後日、美香から電話がかかってきた。
「村上さん!柳田さんが装丁してくれるそうです!」
弾んだ声でそう伝える美香に千尋はピンときていない様子だった。
「柳田さんレベルになると、今回のような部数が少ない本の装丁は予算が足りなくて依頼できないんです。今回は知り合いだからこちらの言い値でしてくれるそうですよ」
良かったですね、という言葉と共に美香からの電話は切れた。


貰っていた名刺の連絡先に電話したのは、ただ純粋にお礼が言いたかったからだ。
『はい』
7回コールしても出ないので切ろうと思った時に繋がる電話。
「村上千尋です。柳田さんの携帯でしょうか?」
『そうだ。なんだね』
「先程出版社の山崎さんから話を聞きました。あの詩集の訳書の装丁をしていただき、ありがとうございます」
そんなこと、と低く笑う。
『あの訳書を見ていると相応しいデザインをしたくなっただけだ。
俺の見込んだ通りだ。お前は独特のセンスがある』
たまには出版翻訳もやれよ。
それだけ言い、唐突に電話が切れた。

それきり柳田と会うことはなかった。
美香から出来上がった見本を見たときにあまりにも出来映えに思わず声があがった。
「素敵…」
柳田の装丁の美しさに身震いした。そして、自分の実力が足りていないことも自覚した。
この本に見合うだけの翻訳が出来ていない。黙り込んだ千尋を美香は良い方に解釈した。
「ですよね!私も見本が届いた時に驚きました」
重版目指して頑張って売りますね!という美香の言葉通りにはいかなかったが、詩集としてはそこそこの売上だった。

それでも、柳田が装丁をした本というので業界では注目をされていたようだ。
女だから体で取った仕事だろう、という話はどこからともなく聞こえてきた。
「気にするなよ」
社長にそう声をかけられたが、悔しかった。
自分の実力が見合わないことも、それに伴って云われない噂を立てられることも。
(もっと実力をあげたい)

そう思っている時に祖母の具合が悪くなった。
会社と何回か話す中で、雇用形態を業務委託に切り替えることにした。
少しだけだが、千尋を指名してくる出版翻訳の仕事もしてみたかった。
多くの社員が業務委託で働いていたことで話はすんなり進んだ。
「まぁ仕事の中身は変わらんが、やればやるほど返ってくる。だが、おばあさんのこともあるし無理はするなよ。村上は無理しがちだからな」
社長はそう言って送り出してくれた。

会社にも少なからず苦情が来ていたのは知っていた。
それでも千尋に一切何も言わずに支えてくれた社長と会社。
恩返しの意味も込めて業務委託になってからますます仕事に励んだ。
千尋にはフリーランスの方が向いていたようだった。
元の会社から回ってくる仕事だけでなく、美香から来る仕事も余力があれば受けていた。
「千尋さん!助かります」
何回か仕事をする内に呼び名も千尋さん、美香ちゃんになる程、懇意にしていた。
少しずつ自分のペースで仕事が出来るようになった頃、柳田と再会した。
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