50 / 61
心と向き合う1
しおりを挟む
武史と千尋の関係が何となく変わったことは、親しく付き合っている秀樹達には分かったようだ。
今まで頻繁に来ていたさくらも少し訪問を控えるようになった。
お盆が過ぎると朝晩は涼しくなり、千尋は今までにない穏やかな日々を過ごしていた。
『千尋さん、これでいいんですね。もう修正できないですよ』
「うん。美香ちゃん、お願いします」
美香に見えないと分かっていても思わず電話口で頭を下げた。
『私は作風にあったよい翻訳だと思っています。じゃないと編集者としてGOは出さないので。上司にも承認も貰っています。
ただ、今までの村上千尋の翻訳とは全然違うので……』
美香の言わんとしていたことはわかっている。
「私はこの翻訳が今出来る最高のものだと思っている。あとは読者に評価してもらうよ」
評価が貰えなかったら、美香からの仕事は来ないだろう。
お互いにそれが分かっているが、敢えて口には出さなかった。
美香から貰った仕事を完成させたのは、8月の終わりだった。
本当はお盆前に完成していたが、納得出来ず、締切まで時間があったため美香には出していなかったのだ。
あの夜、武史との一晩を過ごし、ほぼ全部といいくらい書き直した。
骨組みは出来ていたとはいえ、締切を考えると無謀なことだと分かっていたが、どうしてもやりたかった。
幸い、ルーティンの翻訳は少なかったため、ほとんどの時間を費やし締切までに完成させた。
大好きな作家が初めて書いた恋愛小説。
いつもは社会を風刺するような作品を多く書いている作者の初めて出した恋愛小説は本国でも賛否があると、留学していた頃の友人に聞いた。
いつも鋭い目線で社会を見ている作者なだけあって、愛の表現も重厚なものだった。
いつものように翻訳をするのは問題なかった。
ただ、そうして書いた文書はどうしてもこの作品に合わない。
傍から見れば大したことの無いくらいの違和感。現に中間報告で途中までデータを送った美香から来た返事には、細かい指摘はあれど大きな修正はなかった。
それでも千尋はいつものように仕上げた翻訳で美香に送る気にはなれなかった。
武史に一晩中愛され、一時的に満ち足りた心で自分の文章を見ると、この作品には相応しい言葉の選び方でないと感じた。
そう感じたら最後、居てもたってもいられなかった。
最低限の家事だけして、それ以外は自室に籠り仕事に没頭した。
時折根を詰めていないか心配そうに部屋を覗く武史に、枯渇している愛情を補給して貰いながら仕上げた。
『一週間後お会い出来るのを楽しみにしていますね!』
俊樹の結婚相手に挨拶するのに合わせて上京し、1週間程東京に滞在する予定だった。
もちろん、美香とも会う約束をしていた。
「私も楽しみにしているね。……美香ちゃん、色々ありがとうね」
千尋の声は自分にしか分からないくらいだったが震えていた。
『いえいえ。またうちで書いてくださいね』
美香の軽やかな声に返事はせずにじゃ、またという短い言葉を交わして電話を切る。
電話を切り終わった後、千尋は零れる涙を抑えきれなかった。
武史に心も体も励まされ、仕上げた翻訳の中にどうしても拭いきれない虚無感があった。
自分の中で最高の出来だと思う。それくらい推敲を重ねた。
出したものはプロとしてお金を貰っている以上、恥ずかしくないものだ。
美香は気づいていない。
自分にだけ分かる決定的なもの。
あれだけ武史が愛を囁いてくれるのに、足りない。
書けなくなる度に、心を埋めるように求めて、嫌がる素振りも見せずに全身で愛してくれる。
それなのに、ポッカリと空いた穴の全てを埋めることは出来なかった。
(私は、あんなに愛されていてもタケちゃんの側には行けないんだ)
止めようとすればするほど涙腺が壊れたように溢れ出て、自分ではもうどうしようもなかった。
いつの間にか寝ていたようだ。
気づいたら武史が傍にいた。
「ん?起きたんか?」
「……何してるの?」
武史は千尋の隣で絵を描いていた。少し照れくさそうに笑いながらも武史は絵を見せてくれた。
「千尋の寝顔描いとった。また一人で泣いとるわ、と思って起きるまで傍にいよう思ってな」
そう言って乾いている涙の跡を手でなぞる。
「いつでも胸貸せるけんな。……できればあんまり一人で泣くなや」
俺がおるやろ、という武史の言葉は今の千尋にとっては辛かった。
今まで頻繁に来ていたさくらも少し訪問を控えるようになった。
お盆が過ぎると朝晩は涼しくなり、千尋は今までにない穏やかな日々を過ごしていた。
『千尋さん、これでいいんですね。もう修正できないですよ』
「うん。美香ちゃん、お願いします」
美香に見えないと分かっていても思わず電話口で頭を下げた。
『私は作風にあったよい翻訳だと思っています。じゃないと編集者としてGOは出さないので。上司にも承認も貰っています。
ただ、今までの村上千尋の翻訳とは全然違うので……』
美香の言わんとしていたことはわかっている。
「私はこの翻訳が今出来る最高のものだと思っている。あとは読者に評価してもらうよ」
評価が貰えなかったら、美香からの仕事は来ないだろう。
お互いにそれが分かっているが、敢えて口には出さなかった。
美香から貰った仕事を完成させたのは、8月の終わりだった。
本当はお盆前に完成していたが、納得出来ず、締切まで時間があったため美香には出していなかったのだ。
あの夜、武史との一晩を過ごし、ほぼ全部といいくらい書き直した。
骨組みは出来ていたとはいえ、締切を考えると無謀なことだと分かっていたが、どうしてもやりたかった。
幸い、ルーティンの翻訳は少なかったため、ほとんどの時間を費やし締切までに完成させた。
大好きな作家が初めて書いた恋愛小説。
いつもは社会を風刺するような作品を多く書いている作者の初めて出した恋愛小説は本国でも賛否があると、留学していた頃の友人に聞いた。
いつも鋭い目線で社会を見ている作者なだけあって、愛の表現も重厚なものだった。
いつものように翻訳をするのは問題なかった。
ただ、そうして書いた文書はどうしてもこの作品に合わない。
傍から見れば大したことの無いくらいの違和感。現に中間報告で途中までデータを送った美香から来た返事には、細かい指摘はあれど大きな修正はなかった。
それでも千尋はいつものように仕上げた翻訳で美香に送る気にはなれなかった。
武史に一晩中愛され、一時的に満ち足りた心で自分の文章を見ると、この作品には相応しい言葉の選び方でないと感じた。
そう感じたら最後、居てもたってもいられなかった。
最低限の家事だけして、それ以外は自室に籠り仕事に没頭した。
時折根を詰めていないか心配そうに部屋を覗く武史に、枯渇している愛情を補給して貰いながら仕上げた。
『一週間後お会い出来るのを楽しみにしていますね!』
俊樹の結婚相手に挨拶するのに合わせて上京し、1週間程東京に滞在する予定だった。
もちろん、美香とも会う約束をしていた。
「私も楽しみにしているね。……美香ちゃん、色々ありがとうね」
千尋の声は自分にしか分からないくらいだったが震えていた。
『いえいえ。またうちで書いてくださいね』
美香の軽やかな声に返事はせずにじゃ、またという短い言葉を交わして電話を切る。
電話を切り終わった後、千尋は零れる涙を抑えきれなかった。
武史に心も体も励まされ、仕上げた翻訳の中にどうしても拭いきれない虚無感があった。
自分の中で最高の出来だと思う。それくらい推敲を重ねた。
出したものはプロとしてお金を貰っている以上、恥ずかしくないものだ。
美香は気づいていない。
自分にだけ分かる決定的なもの。
あれだけ武史が愛を囁いてくれるのに、足りない。
書けなくなる度に、心を埋めるように求めて、嫌がる素振りも見せずに全身で愛してくれる。
それなのに、ポッカリと空いた穴の全てを埋めることは出来なかった。
(私は、あんなに愛されていてもタケちゃんの側には行けないんだ)
止めようとすればするほど涙腺が壊れたように溢れ出て、自分ではもうどうしようもなかった。
いつの間にか寝ていたようだ。
気づいたら武史が傍にいた。
「ん?起きたんか?」
「……何してるの?」
武史は千尋の隣で絵を描いていた。少し照れくさそうに笑いながらも武史は絵を見せてくれた。
「千尋の寝顔描いとった。また一人で泣いとるわ、と思って起きるまで傍にいよう思ってな」
そう言って乾いている涙の跡を手でなぞる。
「いつでも胸貸せるけんな。……できればあんまり一人で泣くなや」
俺がおるやろ、という武史の言葉は今の千尋にとっては辛かった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
とっていただく責任などありません
まめきち
恋愛
騎士団で働くヘイゼルは魔物の討伐の際に、
団長のセルフイスを庇い、魔法陣を踏んでしまう。
この魔法陣は男性が踏むと女性に転換するもので、女性のヘイゼルにはほとんど影響のない物だった。だか国からは保証金が出たので、騎士を辞め、念願の田舎暮らしをしようとしたが!?
ヘイゼルの事をずっと男性だと思っていたセルフイスは自分のせいでヘイゼルが職を失っただと思って来まい。
責任を取らなければとセルフイスから、
追いかけられる羽目に。
離婚する両親のどちらと暮らすか……娘が選んだのは夫の方だった。
しゃーりん
恋愛
夫の愛人に子供ができた。夫は私と離婚して愛人と再婚したいという。
私たち夫婦には娘が1人。
愛人との再婚に娘は邪魔になるかもしれないと思い、自分と一緒に連れ出すつもりだった。
だけど娘が選んだのは夫の方だった。
失意のまま実家に戻り、再婚した私が数年後に耳にしたのは、娘が冷遇されているのではないかという話。
事実ならば娘を引き取りたいと思い、元夫の家を訪れた。
再び娘が選ぶのは父か母か?というお話です。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
魔性の大公の甘く淫らな執愛の檻に囚われて
アマイ
恋愛
優れた癒しの力を持つ家系に生まれながら、伯爵家当主であるクロエにはその力が発現しなかった。しかし血筋を絶やしたくない皇帝の意向により、クロエは早急に後継を作らねばならなくなった。相手を求め渋々参加した夜会で、クロエは謎めいた美貌の男・ルアと出会う。
二人は契約を交わし、割り切った体の関係を結ぶのだが――
完結 「愛が重い」と言われたので尽くすのを全部止めたところ
音爽(ネソウ)
恋愛
アルミロ・ルファーノ伯爵令息は身体が弱くいつも臥せっていた。財があっても自由がないと嘆く。
だが、そんな彼を幼少期から知る婚約者ニーナ・ガーナインは献身的につくした。
相思相愛で結ばれたはずが健気に尽くす彼女を疎ましく感じる相手。
どんな無茶な要望にも応えていたはずが裏切られることになる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる