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やっぱり自分はどうかしているのかもしれない。
桜井恭司は、ながぁいため息をついた。
今日は12月31日。大晦日だ。
桜井がやってきたのは、九州の田舎町で医師をしている佐藤裕二が住む職員寮。
櫻井はこの旅行のために、今年の冬休みを少し長めにとった。
別に佐藤に会いたかったわけじゃない。
佐藤を驚かそうと思っただけだ。
いきなり行ったら驚くだろうか。単純ないたずら心からだった。
佐藤に突然訪問のドッキリを仕掛けるためだけに、12月に入ってから桜井は毎日残業をし、仕事納めを2日前倒しした。
綾樹は連日残業をする桜井に「無理をするな。倒れてしまうぞ」とやんわり注意しつつ、時折差し入れを、そして時折残業に付き合ってくれた。
冬休みを前倒しすることも綾樹は快諾してくれたが、「遊ぶのは構わないが、悪い虫には気を付けるんだぞ」と、娘を心配する父親のような悲壮感を漂わせ、思い切り心配げでもあった。
在来線にのんびり揺られ、途中下車をしながら、やっとたどり着いた佐藤の自宅。
本人の家に行ってドアホンを鳴らしてみるも人の気配がなかったので、佐藤に在宅かどうか玄関前でLINEを投げたら、程なくして「1月2日の夜まで家にはいない」と返信が来た。
だがここは九州の片田舎と言っても、一番近くの町まで車で3、40分はかかる場所。コンビニやビジネスホテルなんかありそうな場所でもないので、本人が不在だというのは桜井にとって大きな誤算だった。
ためしにドアノブを回したら、幸か不幸か、そこはあっさりとあいた。
「無施錠ですか……。こういうことを気にしないのは昔から変わらないですね」
呆れてため息が口をつくが、ここでじっと立っているのもどうかと思い、とりあえず部屋にあがらせてもらう。
「おじゃましまーす……」
声をかけるも返事はなく、代わりに静寂と冷たい室温が桜井を出迎えた。
不用心にもほどがあるが、佐藤は昔からこういう事には無頓着で、東京にいたときには何度も泥棒に入られた。
佐藤によると、当時は仕事が忙しすぎて部屋が乱雑を超えてカオスだったとかで、泥棒は物色するには時間がかかりすぎると諦めたらしい。
とられたものはなにもなかったものの、警察官の友人から「鍵をちゃんとかけないからだぞ」と何度も注意され、しまいには防犯用の教材にも「被害なしという、大変稀有ではあるが、絶対にやってはいけない防犯24時」というネタにされてしまい、各地で佐藤の経験談が防犯講習でーー無論ダメな例としてーー披露されているようだ。
綾樹なら「鍵をかけていないとは何事だ!」と出先から速攻で戻るところだ。だが佐藤は、綾樹のように神経質ではない。……理屈っぽくはあるが。
そんな佐藤の存在が、桜井の中で少しずつ少しずつ大きくなっていた。東京で仕事をしていても、気がつけば遠く離れた九州へと思いを馳せている。
それで今回、ドッキリ訪問をしてみたわけだ。
寮とはいえ、彼の自宅は病院から離れた海のそば。晴れた日には水平線がどこまでも続く絶景のオーシャンビューの高層階……とは佐藤の言だが、実際は高台に建つ古い市営住宅の最上階だ。
白い壁に水垢の黒いラインが何本も縦に延びる年季のある佇まい。エレベーターやエスカレーターもないし、耳を澄ませば住人の生活音がまるっと聞こえてくる。
畳敷きの部屋の中は、無駄なことを嫌う佐藤らしいといえば佐藤らしく家具はそんなに多くない。黒いカーペットが敷かれたリビングにはローテーブル、ソファーにベッド……必要最低限のものだ。勤務が忙しすぎるのか、シンクは使ったあとがない。ここに帰ってきているのかも疑わしい。
洋服や医学関連の辞書なんかはそこらに散らかしっぱなしだ。
奥の寝室に行くと、ベッドの周辺は相変わらず洋服が乱雑しているが、なぜかベッドだけはきれいに片付けられていて、シーツもぱりっと糊がきき、清潔感がある。
寝室の隅にある机の上も書類や本で埋め尽くされていて、薄い雑誌が机からずり落ちそうになっていた。
気になって手に取ると、それは医学関連の小冊子で、ページを開くとカラーの見開きで佐藤の写真が載っていた。
桜井には何のことかわからないが、何か難しい手術を成功させた旨のインタビュー記事だった。
若いのに優れた腕を持っていると、記事は佐藤を賞賛していた。
東京にいた頃の彼は、部屋の乱雑さとは裏腹に、今よりもこざっぱりしている。白衣を着て、医師として、絶対の自信を称えたその写真の男ぶりに、桜井は思わず目を奪われてしまったが、すぐにはたと思い直し、雑誌を閉じた。
「裕二にとってはこんな賞賛、どうでもいいんでしょうね」
彼の功績をほめたとしても、佐藤はきっとこう言うだろう。「医者として、当たり前のことをしただけだから、こんな記事なんて大げさだ」と。
しかし、だ。
佐藤を驚かすためにはるばる九州まで来たものの、その本人がいないとは。
サプライズを仕掛けようとした桜井自身がなにやら落とし穴に落とされた気にもなるが、もとより相手の職業が普通のサラリーマンとは異なるので仕方ない。
命を預かる仕事だ。人の体調はなかなか暦通りにはいかない。
手のひらをそっとガラスに近づける。そこに触れずとも指先に冷気を感じた。九州なんて南のくせに、東京より寒い気がした。
灰色のどんよりとした空から降るのは、強風にのってくるみぞれ。晴れた日には青いはずの海も、今日は白波が立ち、こちらも空に負けず暗い色をしている。
大寒波到来の様相だが、このあたりは山に近いせいか、吹きおろしの風と海風がぶつかり、冬と言えばだいたいこんなものだと、以前に佐藤から聞いたことがある。
この景色を歌にするならば、浮かんでくるのは悲恋、悲壮、失恋、空虚……後ろ向きの言葉しか出てこない。
部屋の住人は年明けまで戻らない。
明日は新年なのに。知らない土地でたった1人の年越しとは。
このまま東京に戻るにしても、時間が時間だから空港に行く足もない。
「仕方ない。今日はここに泊まらせてもらいましょう」
コンビニで買ってきた袋をローテーブルに置き、中身を出す。佐藤と一緒に飲もうと思って、おつまみやビールを多めに買い込んだが、今日はひとりで手酌酒だ。
にしても、この部屋は寒い。Gパンにカッターシャツの上にお気に入りの黒いパーカーを羽織っているが、そんなものでは寒さに対する守備力など無いに等しい。さらにこの部屋はなんだか底冷えする。靴下も履いているが、冷気が容赦なく体の中を侵蝕してくる。
家主がいないのに、勝手にエアコンやファンヒーターを使うわけにはいかない。
佐藤にひとこと来訪している旨を告げればいいが、佐藤はいまこの時間も仕事をしている。
桜井の勝手で仕事の邪魔は出来ないし、佐藤には内緒で来たのだから、よけいに彼に連絡は出来ない。
だが。
「はぁ……寒い」
部屋の中で息が白いなんて。地球温暖化っていったいなんだと地球に毒づきながら、脱ぎ散らかされた佐藤の洋服の中から白いカーディガンを見つけた。
桜井が着るにはかなりぶかぶかでロングカーディガンになってしまうが、とにかく寒くてしょうがない。
「ちょっとこれを借りましょう」
上質の毛糸で編まれたそのカーディガンは、桜井が着るにはかなり大きめだが、背に腹は代えられない。
パーカーの上からそのまま着てちょうどいいサイズだった。袖は少し長く、桜井の手の甲を覆ってしまう。おかげさまで手が冷えることはない。
ふわりとカーディガンから消毒薬の匂いに交じり、清冽な森林の緑を思わせる香りが鼻腔をくすぐった。
おそらく彼の使っているフレグランスの香りだろう。
佐藤がこんな匂いを身体に纏わせていたなんて初めて知った。その香りに包まれていると、彼に抱きしめられているような気がして、頬が熱くなる。
強い風が窓ガラスをガタガタと激しく揺らしていた。
部屋の中が薄暗くなった。外を見れば、夜が急激に空を覆い始めている。
電灯からぶらさがる紐を引き、電気をつける。狭い部屋の中が明るくなり、桜井はソファーに腰かけた。
冬の夜は早くて長い。部屋の中にたった一人でいると、ふと子供のころを思い出してしまう。
両親を事故で失った初めての冬。誰もいない部屋で、冬の夜風が窓ガラスを叩く音に怯えた幼いあの日。あの時の淋しさと不安が桜井を襲い、思わず着込んだカーディガンごと自分の身体を抱きしめると、またカーディガンから佐藤のフレグランスがふわっと立ち上る。
ひとりなんて慣れているはず……だけど。
この香りは、不思議と心があったかくなってくる。
時計は午後5時を回ろうとしていた。
今年が終わるまであと7時間。
たった一人っきりのニューイヤーイヴ。
「こんな年越しもたまにはいいものですね。しかし……ああ寒い。ベッド借りちゃいましょう」
布団は最高の暖房器具だ。すっぽり頭まで被れば温かいはず。
眼鏡をはずしてテーブルに置くと、きれいにセットされたベッドにもぐりこむ。ふわりと軽くて暖かい羽根布団の下には毛足の長い毛布。敷布も起毛タイプだ。
布団を頭までかぶると、やはり清潔な緑を思わせる香りがする。佐藤の香りを大きく吸い込み、布団の中でじっとしていると、じきに温かくなってきた。
部屋の中は寒いけど、なんだか気分はほっこりとしている。
佐藤がいないのが少し寂しいけれど、彼の香りに包まれているだけでこんなに気分がおだやかになる。
佐藤の事なんか嫌いなのに。
桜井の気持ちなんか考えず、自分の考えと都合だけを押し付けていくあんな男なんか大嫌いなのに、どうして彼に会いに来てしまったのだろうと考えるが答えは出なかった。
結局、佐藤には会えなかったけれど、後悔はない。
東京に帰った後で、部屋を勝手に使ったことを謝っておこう。
黙って九州まで来たことに、驚いてくれるだろうか?
ーーいや待て。
「私はどうしてこんなにうきうきしてるんでしょうね?」
おかしなものだ。
あんな男の反応が見たくて仕方ないと思うなんて。
でもそれは、東京に戻ってからのお楽しみにしておこう。
長旅の疲れも手伝って、桜井はそのままゆっくりと睡魔に身体を乗っ取られていった。
*****
桜井恭司は、ながぁいため息をついた。
今日は12月31日。大晦日だ。
桜井がやってきたのは、九州の田舎町で医師をしている佐藤裕二が住む職員寮。
櫻井はこの旅行のために、今年の冬休みを少し長めにとった。
別に佐藤に会いたかったわけじゃない。
佐藤を驚かそうと思っただけだ。
いきなり行ったら驚くだろうか。単純ないたずら心からだった。
佐藤に突然訪問のドッキリを仕掛けるためだけに、12月に入ってから桜井は毎日残業をし、仕事納めを2日前倒しした。
綾樹は連日残業をする桜井に「無理をするな。倒れてしまうぞ」とやんわり注意しつつ、時折差し入れを、そして時折残業に付き合ってくれた。
冬休みを前倒しすることも綾樹は快諾してくれたが、「遊ぶのは構わないが、悪い虫には気を付けるんだぞ」と、娘を心配する父親のような悲壮感を漂わせ、思い切り心配げでもあった。
在来線にのんびり揺られ、途中下車をしながら、やっとたどり着いた佐藤の自宅。
本人の家に行ってドアホンを鳴らしてみるも人の気配がなかったので、佐藤に在宅かどうか玄関前でLINEを投げたら、程なくして「1月2日の夜まで家にはいない」と返信が来た。
だがここは九州の片田舎と言っても、一番近くの町まで車で3、40分はかかる場所。コンビニやビジネスホテルなんかありそうな場所でもないので、本人が不在だというのは桜井にとって大きな誤算だった。
ためしにドアノブを回したら、幸か不幸か、そこはあっさりとあいた。
「無施錠ですか……。こういうことを気にしないのは昔から変わらないですね」
呆れてため息が口をつくが、ここでじっと立っているのもどうかと思い、とりあえず部屋にあがらせてもらう。
「おじゃましまーす……」
声をかけるも返事はなく、代わりに静寂と冷たい室温が桜井を出迎えた。
不用心にもほどがあるが、佐藤は昔からこういう事には無頓着で、東京にいたときには何度も泥棒に入られた。
佐藤によると、当時は仕事が忙しすぎて部屋が乱雑を超えてカオスだったとかで、泥棒は物色するには時間がかかりすぎると諦めたらしい。
とられたものはなにもなかったものの、警察官の友人から「鍵をちゃんとかけないからだぞ」と何度も注意され、しまいには防犯用の教材にも「被害なしという、大変稀有ではあるが、絶対にやってはいけない防犯24時」というネタにされてしまい、各地で佐藤の経験談が防犯講習でーー無論ダメな例としてーー披露されているようだ。
綾樹なら「鍵をかけていないとは何事だ!」と出先から速攻で戻るところだ。だが佐藤は、綾樹のように神経質ではない。……理屈っぽくはあるが。
そんな佐藤の存在が、桜井の中で少しずつ少しずつ大きくなっていた。東京で仕事をしていても、気がつけば遠く離れた九州へと思いを馳せている。
それで今回、ドッキリ訪問をしてみたわけだ。
寮とはいえ、彼の自宅は病院から離れた海のそば。晴れた日には水平線がどこまでも続く絶景のオーシャンビューの高層階……とは佐藤の言だが、実際は高台に建つ古い市営住宅の最上階だ。
白い壁に水垢の黒いラインが何本も縦に延びる年季のある佇まい。エレベーターやエスカレーターもないし、耳を澄ませば住人の生活音がまるっと聞こえてくる。
畳敷きの部屋の中は、無駄なことを嫌う佐藤らしいといえば佐藤らしく家具はそんなに多くない。黒いカーペットが敷かれたリビングにはローテーブル、ソファーにベッド……必要最低限のものだ。勤務が忙しすぎるのか、シンクは使ったあとがない。ここに帰ってきているのかも疑わしい。
洋服や医学関連の辞書なんかはそこらに散らかしっぱなしだ。
奥の寝室に行くと、ベッドの周辺は相変わらず洋服が乱雑しているが、なぜかベッドだけはきれいに片付けられていて、シーツもぱりっと糊がきき、清潔感がある。
寝室の隅にある机の上も書類や本で埋め尽くされていて、薄い雑誌が机からずり落ちそうになっていた。
気になって手に取ると、それは医学関連の小冊子で、ページを開くとカラーの見開きで佐藤の写真が載っていた。
桜井には何のことかわからないが、何か難しい手術を成功させた旨のインタビュー記事だった。
若いのに優れた腕を持っていると、記事は佐藤を賞賛していた。
東京にいた頃の彼は、部屋の乱雑さとは裏腹に、今よりもこざっぱりしている。白衣を着て、医師として、絶対の自信を称えたその写真の男ぶりに、桜井は思わず目を奪われてしまったが、すぐにはたと思い直し、雑誌を閉じた。
「裕二にとってはこんな賞賛、どうでもいいんでしょうね」
彼の功績をほめたとしても、佐藤はきっとこう言うだろう。「医者として、当たり前のことをしただけだから、こんな記事なんて大げさだ」と。
しかし、だ。
佐藤を驚かすためにはるばる九州まで来たものの、その本人がいないとは。
サプライズを仕掛けようとした桜井自身がなにやら落とし穴に落とされた気にもなるが、もとより相手の職業が普通のサラリーマンとは異なるので仕方ない。
命を預かる仕事だ。人の体調はなかなか暦通りにはいかない。
手のひらをそっとガラスに近づける。そこに触れずとも指先に冷気を感じた。九州なんて南のくせに、東京より寒い気がした。
灰色のどんよりとした空から降るのは、強風にのってくるみぞれ。晴れた日には青いはずの海も、今日は白波が立ち、こちらも空に負けず暗い色をしている。
大寒波到来の様相だが、このあたりは山に近いせいか、吹きおろしの風と海風がぶつかり、冬と言えばだいたいこんなものだと、以前に佐藤から聞いたことがある。
この景色を歌にするならば、浮かんでくるのは悲恋、悲壮、失恋、空虚……後ろ向きの言葉しか出てこない。
部屋の住人は年明けまで戻らない。
明日は新年なのに。知らない土地でたった1人の年越しとは。
このまま東京に戻るにしても、時間が時間だから空港に行く足もない。
「仕方ない。今日はここに泊まらせてもらいましょう」
コンビニで買ってきた袋をローテーブルに置き、中身を出す。佐藤と一緒に飲もうと思って、おつまみやビールを多めに買い込んだが、今日はひとりで手酌酒だ。
にしても、この部屋は寒い。Gパンにカッターシャツの上にお気に入りの黒いパーカーを羽織っているが、そんなものでは寒さに対する守備力など無いに等しい。さらにこの部屋はなんだか底冷えする。靴下も履いているが、冷気が容赦なく体の中を侵蝕してくる。
家主がいないのに、勝手にエアコンやファンヒーターを使うわけにはいかない。
佐藤にひとこと来訪している旨を告げればいいが、佐藤はいまこの時間も仕事をしている。
桜井の勝手で仕事の邪魔は出来ないし、佐藤には内緒で来たのだから、よけいに彼に連絡は出来ない。
だが。
「はぁ……寒い」
部屋の中で息が白いなんて。地球温暖化っていったいなんだと地球に毒づきながら、脱ぎ散らかされた佐藤の洋服の中から白いカーディガンを見つけた。
桜井が着るにはかなりぶかぶかでロングカーディガンになってしまうが、とにかく寒くてしょうがない。
「ちょっとこれを借りましょう」
上質の毛糸で編まれたそのカーディガンは、桜井が着るにはかなり大きめだが、背に腹は代えられない。
パーカーの上からそのまま着てちょうどいいサイズだった。袖は少し長く、桜井の手の甲を覆ってしまう。おかげさまで手が冷えることはない。
ふわりとカーディガンから消毒薬の匂いに交じり、清冽な森林の緑を思わせる香りが鼻腔をくすぐった。
おそらく彼の使っているフレグランスの香りだろう。
佐藤がこんな匂いを身体に纏わせていたなんて初めて知った。その香りに包まれていると、彼に抱きしめられているような気がして、頬が熱くなる。
強い風が窓ガラスをガタガタと激しく揺らしていた。
部屋の中が薄暗くなった。外を見れば、夜が急激に空を覆い始めている。
電灯からぶらさがる紐を引き、電気をつける。狭い部屋の中が明るくなり、桜井はソファーに腰かけた。
冬の夜は早くて長い。部屋の中にたった一人でいると、ふと子供のころを思い出してしまう。
両親を事故で失った初めての冬。誰もいない部屋で、冬の夜風が窓ガラスを叩く音に怯えた幼いあの日。あの時の淋しさと不安が桜井を襲い、思わず着込んだカーディガンごと自分の身体を抱きしめると、またカーディガンから佐藤のフレグランスがふわっと立ち上る。
ひとりなんて慣れているはず……だけど。
この香りは、不思議と心があったかくなってくる。
時計は午後5時を回ろうとしていた。
今年が終わるまであと7時間。
たった一人っきりのニューイヤーイヴ。
「こんな年越しもたまにはいいものですね。しかし……ああ寒い。ベッド借りちゃいましょう」
布団は最高の暖房器具だ。すっぽり頭まで被れば温かいはず。
眼鏡をはずしてテーブルに置くと、きれいにセットされたベッドにもぐりこむ。ふわりと軽くて暖かい羽根布団の下には毛足の長い毛布。敷布も起毛タイプだ。
布団を頭までかぶると、やはり清潔な緑を思わせる香りがする。佐藤の香りを大きく吸い込み、布団の中でじっとしていると、じきに温かくなってきた。
部屋の中は寒いけど、なんだか気分はほっこりとしている。
佐藤がいないのが少し寂しいけれど、彼の香りに包まれているだけでこんなに気分がおだやかになる。
佐藤の事なんか嫌いなのに。
桜井の気持ちなんか考えず、自分の考えと都合だけを押し付けていくあんな男なんか大嫌いなのに、どうして彼に会いに来てしまったのだろうと考えるが答えは出なかった。
結局、佐藤には会えなかったけれど、後悔はない。
東京に帰った後で、部屋を勝手に使ったことを謝っておこう。
黙って九州まで来たことに、驚いてくれるだろうか?
ーーいや待て。
「私はどうしてこんなにうきうきしてるんでしょうね?」
おかしなものだ。
あんな男の反応が見たくて仕方ないと思うなんて。
でもそれは、東京に戻ってからのお楽しみにしておこう。
長旅の疲れも手伝って、桜井はそのままゆっくりと睡魔に身体を乗っ取られていった。
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