大晦日のフレグランス

浅倉優稀

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#2

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 翌朝7時。スマホのアラームがぬくぬくした微睡を引き裂いた。
 アラームを止めようと布団から手を伸ばしたが、あまりの冷気に驚いて手を引っ込めてしまった。そこで少しだけ意識がはっきりしたものの、やはり眠気には勝てない。アラームもなぜか勝手に止まってしまった。
 だが、今日は東京に帰るのだ。
 佐藤はどうせ明日まで戻らないから、ここにいても仕方ない。でも布団の中がいい感じに暖かい。
 もう少しだけ寝てよう……と寝返りを打ったとき、不意に誰かに声をかけられた。
「目が覚めたか?」
「うん……?」
「俺のカーディガンまで着て。寒かったのか?」
「でもあったかいですよ……?」
 夢うつつで借りた礼を述べると、声の主は「そうか」と安堵したように桜井の頭をなでた。
「だけどおまえには大きすぎたな。萌え袖になってるじゃないか」
 上から降ってくる、優しい声。
「いきなり来て、ベッドに潜り込んでるなんて。しかも可愛らしく眠ってやがる。反則の上、不法侵入だぞ。恭司」
 その声の主は何がおかしいのか、笑いをかみ殺している。
ーー待て。 
 この声は誰だ?
 驚いて声のしたほうを仰ぎみれば、そこには明日まで帰らないはずの、ここの家主が肘枕をしてニヤニヤ笑っているではないか。
 一気に目が覚めた。
 なぜ、どうして?! どうしてここにいる?!
「ゆっ、裕二?! なんでここに?!」
「なんでって、ここ、俺の家」
「ありきたりなボケをかまさないでください。あなたは明日まで帰らないって言ったじゃないですか?」
「だからだよ」
 佐藤は腕を伸ばして、桜井を抱きしめた。
「おまえが俺に家にいるかどうか尋ねたのなんか、これが初めてだったんでな。東京にいるおまえが、なんで俺の在宅を気にしてるか考えた。もしかしたらおまえがサプライズかまして来てるんじゃないかと思って、正月の夜勤を代わってもらった。帰ってみたらドンピシャだ。全く俺は運がいい。しかし、腹立たしいことがある」
「……えっ?」
 腹立たしいこと?
 勝手に上がり込んだことかと尋ねると、佐藤は『違う』と否定した。
「俺が怒っていることはふたつある。一つ目は部屋が冷えてることだ。ここは下手すりゃ東北より寒い日だってある。なぜ暖房を入れなかった? エアコンくらい使ってかまわん。おまえがたったひとりで寒い思いをしていることが俺はつらい。もうひとつはーー」
 そこで言葉を切り、佐藤は桜井の額に自分のそれをくっつけた。
「ーーおまえ、熱がある」
「熱?」
 確かにここについてから、妙に頬は熱かったが、それは風邪じゃなくて。
 きっと、それはーー。
『あなたの香りに包まれていたから』なんて言えない。
「俺にときめいて熱を上げるのは嬉しいが、この熱は間違いなく身体を冷やしたからだ。暖房なしで薄着は風邪をひく。おまえはそんなに身体が強い方じゃないんだから」
「そんな、私はちゃんとーー」
「風邪かそうでないかくらいはわかるぜ? 俺は医者だからな」
 佐藤は肘枕のままで、桜井に唇を重ねていく。
「唇もカサカサだ。こりゃ高熱だな」
「でも私は、今日東京に戻るつもりでーー」
「だめだ。今日はベッドから出せない」
「でも仕事が」
「今日は1月1日だ。仕事始めなんてまだ先だろ。それとも、新城あの堅物はおまえに冬休みもろくにくれないのか?」
「そんなことないですけど」
 むしろ冬休みを余計に貰ったけれど。
「早めに帰って治します。仕事始めに影響が出ると困りますし、あなたにうつしたら」
「仕事始めに間に合わなければ、あの堅物には俺から連絡してやる。それに俺には絶対にうつらない。だから予約便はすべてキャンセルしろ。大丈夫だ、こんな僻地でもスマホはちゃんと圏内だからな」
「……あなたはいつも強引だ。私の都合なんか本当に考えない」
「医者としては、熱発で赤い顔してる患者の要求なんか聞いてられないな」
 抱きしめている佐藤の腕が、桜井の背中を優しくさする。
「呼吸音もなんかおかしい。おまえ、喘息持ちだろう。発作が出かけてる」
「私の持病をよく知ってますね」
 喘息は子供の頃から切っても切れない縁だ。ちょっとした疲労や激しい運動、ストレスでも発作が起きるので、桜井はポケットに発作止めを入れている。
 佐藤に喘息のことは話した覚えはないのだが、もしかして綾樹から聞いたのかと尋ねてみると、佐藤は「いや?」と笑った。
「喘息患者はすきま風みたいな音を出して呼吸をする。聴診器当てなくてもわかるさ」
 佐藤は自身の手のひらを桜井の背中に押し付け、耳元で囁く。
「俺の手が背中に当たっているのがわかるか。ここに触れれば、おまえの身体の悲鳴が手のひらを通して感じ取れる。呼吸も苦しそうだ。やはり今日は、おまえをここから出せない」
「驚きました。あなたがお医者様らしいことを言ってるなんて」
「医者だからな。正確には、相当腕がいいという枕詞付きだ」
「自惚れですか」
「いいや、事実だ」
 佐藤は言いながら桜井の頭に腕を差し入れた。腕枕をされて、そのうえ胸に抱き寄せられて、どうにも身体が熱くなる。
 佐藤と身体を繋げたことなんか何度もあるのに、ドキドキが止まらない。
 こんな気持ち、綾樹のことが好きだったころに似ている。
 (ん?)
 綾樹のことが――「好きだった」?
 自分の中で綾樹が過去形になっている。
(どうして?)
 あれほど綾樹が好きだったのに。
 佐藤に抱かれるのは、ただのストレス解消なのに。
 どうしてこんなにも、佐藤の存在だけが強く強く心にあるのだろう。
 それでもひとつだけ、確かなことがある。
 今、この瞬間が。
 佐藤の腕の中にいるこの瞬間が、とてつもなく幸せだ。
(ああ、私は……)
 自覚した。
 佐藤のことが、好きだ。とても。
 彼から離れたくない。
 ずっとこのまま、抱いていてほしい。
 はっきりわかってしまった。
 綾樹の代用品としてではなく、佐藤が好きなのだと。
 子供の頃からずっと綾樹が好きだった。でも彼は、桜井じゃない人と恋を始めた。
 悔しくて悲しくて。それ以上に、何も出来ないままだった自分に後悔した。
 長い間一緒にいたのに、気持ちを伝えられないままで、桜井の恋は片想いは砕け散った。
 佐藤は、そんな桜井の荒れた心を土足で踏み荒らしていくだけの男だった。
 それでもくすぶる思いは行き場所がなく、佐藤と身体を重ねることで、熾火のようにいつまでも心を灼く恋情に水をかけてきた。
 その火は絶対に消えない。
 しばらくすれば、かなわぬ恋へのストレスを燃料にして、また燃え上がる。
 セックスをすることで、ストレスを発散させていたのだ。
 佐藤とのセックスは、綾樹に抱かれる妄想。
 そのはずだったのに。
 今はーー佐藤に抱かれたい。 
 この気持ちが、佐藤への気持ちが本物かどうか確かめたい。 
 抱かれれば、きっと答えがでる。
 彼に抱かれるときに、綾樹の幻影を見なければ、桜井の心の中にいる人が誰か、わかる。
 それを知ったら、もう自分をごまかさない。
 今度はちゃんと、自分の気持ちを伝える。
 今度こそ、恋を間違わない。
「裕二……」
「なんだ?」
「お願いがあります」
 今しかない。
 自分の気持ちを確かめるのは、今しかないのだ。
「……私を抱いてほしいんです。今、ここで」
「おまえからそういうのは初めてだな。だがわかっているか? 自分から抱いてくれと言う意味を」
「意味……?」
 聞き返す桜井を身体から離し、佐藤は熱い瞳で桜井を見つめた。
「俺達の関係が変わる。おまえは俺だけのものになると言うことだ。身体も……」
 佐藤は桜井の左胸に自らの手のひらをそっと押しつける。
「心もだ」
「……はい」
「おまえの中には、まだ新城がいるんだろう?」
「わかりません……だけどあなたに抱かれれば、その答えが見える気がします」
「……答え?」
「このところ、ずっとずっと浮かぶのはあなたのことばかり。私が世界で一番大嫌いなあなたのことです」
 世界で一番嫌いなのかよと、佐藤は苦笑する。
「世界で一番嫌いなあなたが、私の中から離れない。前はあなたに抱かれて、あなたの肩の向こうに見える綾樹を妄想していました。私が絶対に手に入れることの出来ない、綾樹の幻をあなたに見て、刹那の快楽を味わっていた。でも今は…今は違う」
 自分の中で大きくなって破裂してしまいそうだ。愛しくて苦しくてたまらなくて、その気持ちがあふれ出す。
「私は欲しいんです。あなたを……裕二のすべてを」
「恭司……」
「綾樹の代用品じゃなく、私はあなたが欲しい。そして、あなただけのものになりたい……」
 佐藤はしばし黙っていたが、ややあって口元を綻ばせた。
「ーーわかった」
「裕二……」
「だが、本当にいいのか。新城への恋を捨てていいのか?」
「……はい」
「今ならまだ止めてやれるぞ」
「後悔なんか……もう二度としたくない。黙ったまま、また恋を失うのはイヤなんです。綾樹ではなく、私はあなたを好きになってしまった」
 佐藤の胸にすがりついて、懇願する。
「お願いだから、私をあなたのものにして……っ!」
「……おまえの気持ちは分かった」
「ゆう……」
「だが、今はおまえの気持ちに応えてやれない」
「どうして……っ!?」
 自分の気持ちに嘘なんかついていない。
 今までは綾樹の代用品としてつき合っていたし、互いにそれを割り切っていた。
 だけど、今は違う。
 桜井の本心が、佐藤を欲している。
 絶対に解けぬ鎖があるならば、もうそれで自分を縛って欲しい。
 なのに佐藤は硬い表情で「ダメだ」と首を振る。
「なぜダメなんですか……?」
 どうして自分の恋は成就しないのか。
 自分の何がダメなのか。
 欲しいと思わないときは鬱陶しいくらいなのに、本気になったとたんそっぽをむかれるなんてない。
「私のこと……嫌いなんですか」
「そうじゃない」
「じゃあ、どうして……」
「俺はおまえのことが好きだ。だからこそ、今はダメだ。熱がでてるくせに、無茶はさせられない」
「え……?」
 あまりにも拍子抜けした。
「私のこと、嫌いなんじゃ……ない?」
「おまえほど、スキスキオーラをあからさまにしないだけだ。俺は一度として、おまえのことを嫌ったことはない。むしろ、念願叶いそうでホッとしてる。だけど、好きだからこそ、つらい思いはさせたくない」
「つらくなんか……」
 苦しい。苦しすぎて、息が詰まる。
 嬉しいのか、悲しいのか、よくわからない激しさが全身を支配し、もはや自分が何を言っているのかすらわからなくなる。
「裕二、ゆう、じ……っ!」
「おまえの気持ちはよくわかった。だから、おまえが元気なときに改めて聞かせろ。今はおまえを休ませるのが先だ。とはいえ……」
「あっ……?」
 急に桜井の身体が仰向けにされる。泣きべそを見られたくなくて、桜井が掛布で顔を隠そうとしたが、佐藤はそれを許さず、桜井の上に乗ると、そのまま涙をキスですくい取る。ふわりと香る緑のフレグランスが今度ははっきりと濃く感じた。
 佐藤の香りを身体いっぱいに吸い込んで、身体の中もすべて彼で染まりたい。
「いい人ぶってみようと思ったが、やはり無理だ」
「ゆう……じ?」
「今のおまえに無理をさせたくないのに、俺はおまえを抱きたくて仕方ない」
 顔中キスの雨を受け、くすぐったくて顔を背けるも、そのまま唇を奪われ、否応にも身体の期待の方が高まってしまう。それは佐藤の方も同じのようで、彼の滾りが桜井の中心に触れる。
「当たってますよ、裕二」
「おまえもな。俺たちはどうも我慢強くなくていけないな。良い大人がまるでガキみたいになってる」
 互いに顔を見合わせてくすっと笑みがこぼれる。
 身体なんか何度も重ねたのに。
 今日はなんだか、恥ずかしいような切ないような、甘く胸が締め付けられて、抱かれる期待が下腹をきゅうんと震わせる。
 ふるえる指を伸ばして佐藤の頬を包むと、佐藤は「冷たいな」と笑う。
「こんなに指先は冷え切っているのに、おまえの身体はとんでもなく熱い。だからと言って、ここで引き下がれない」
「かまいません。あなたになら、私はもう壊されてもいい。この目も口も、頭の中も、あなただけにしかむかないようにして……」
 息も出来ないほど、佐藤が愛しい。
 それは熱のせいじゃない。
「恭司……」
 佐藤の瞳が鋭さを湛えた。だがその視線は、真っ直ぐに桜井に注がれている。視線だけなのにそのまま佐藤にすべてをさらけ出しているような気さえする。
 早く、彼のものにして欲しい。
 この飛び出していきそうな恋心が、切なさに迷い、痛むことの無いように。
 佐藤に向かって、想いが走り出す。
「抱いて、いいな?」
「はい……」
 涙混じりに頷くと、佐藤の身体が桜井に重なる。
 彼のフレグランスに全身で感じながら、桜井は身を委ねる。
 ーー長い間、自分の気持ちに気づけず、錆びたままだった運命の歯車が、ゆっくりと動き始めた。
 それはこの先の幸せを作り出していくはずのもの。

*****
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