ラプソディ・イン・ブルー

浅倉優稀

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#1

 三月最後の週末の夕方。その日は春だというのに大寒波が訪れた、とても寒い日だった。
 空はどんよりと灰色で、台風並みのような、雪交じりの強い風はどこまでも冷たく、身を芯から斬るような鋭い冷たさだった。
 北風と太陽が勝負したとしても、今日は北風のほうがきっと分がいい。なにせ低気圧という熱狂的サポーターを従えている。
 こんなに北風がでかい顔をしていては、春の訪れを感じて早くに咲いた桜の花は、みんなあっさりと吹き飛ばされてしまうだろう。
 この時期のために掛けた、長い時間が無駄になってしまう。大切なものほど、なくなるときは一瞬だ。
 まるで今の自分のようだと思いながら、桜井恭司さくらいきょうじは足早に目的地に向かっていた。
 最近は気温が高かったし、行き先が九州だったから、おそらく暖かいはずだと油断した。
 南に下るほど寒くなるとは思わず、こんな日に限って、見事に荒天を的中させた天気予報に、恨み節の一つも言いたくなる。
 春の花粉のせいか、それとも季節の変わり目か。数日前から少し喉に違和感を感じていた桜井は、ダークブラウンの冬用スーツの上に黒いロングコートと、この季節にしては風邪を用心して厚着をしたつもりだが、それでも寒さが半端なく、頭痛にも苦しめられている。
 交通機関が地味にマヒしているこんな日に九州旅行の計画を入れてしまったことに多少後悔も感じたが、日々多忙を極める身の桜井には、この週末しか時間がなかったのだ。
 呼び出したほうも大概だ。東京に住んでいる桜井をわざわざ九州に呼びつけるなんて。
 同窓会とか、そういう集まりでもないのに、短いメールで「明日、こっち来い」ときたものだ。
 そんなものに応じる自分もどうかと思うが、相手が桜井にとって有益な情報を持っていたので仕方ない。電話で済ませられたらいいのだが、法務部の弁護士という会社の機密を扱う桜井の立場上、話の内容を誰かに聞かれると、会社を巻き込んだスキャンダルに発展しかねない。
 それで仕方なく相手の誘いに応じたのだ。
 指定された喫茶店のドアをくぐると、黒系で統一された店内には、いかにも昭和の喫茶店を思わせるふかふかの赤いソファーと、麻雀かインベーダーかのゲーム卓が置いてある。
 平成の世にしては珍しすぎる骨董品。ドットも荒く、ディスプレイも古くなりすぎて暗いし汚い。
 カウンターの奥ではこの店のマスターだろう、黒いベストに蝶タイをした、ロマンスグレーの男性がハンドドリップでコーヒーを淹れていて、コーヒー好きにはたまらないいい香りが店内に溢れていた。
 店内にはジャズピアノが静かに流れていたが、その曲に、桜井の心臓がどきりとする。
 ――ラプソディ・イン・ブルー――
 この曲は、桜井が胸を焦がす、片想いの相手が好きな曲だ。ジャズに聴こえるのに、どことなくクラシックの雰囲気を感じる曲。二つのジャンルがなんとも不思議な世界観を紡ぎだしている。ジャズ独特のコードの楽しさと不安定さが絶妙に絡みあうピアノ曲は、誰もが知る有名曲だ。
 その相手からの着信にはラプソディ・イン・ブルーが流れるように設定してある。
 着信があると、まるで女子高生のように、どことなく気持ちが浮かれてしまって仕方ない、特別な曲。
 ゆっくりと店内を見渡していると、喫茶店の一番奥、壁に嵌めこまれた大きなエアコンの送風口、そのそばの席に、黒いカットソーを着た肩幅の広い男が座っていた。
「桜井」
 桜井を呼び出した相手・佐藤裕二さとうゆうじが「こっちだ」とばかりに手を振っていた。
 夜勤明けなのか、栗色の短い髪もぼさぼさ、無精ひげがうっすらと顔に出始めている。
 ちゃんとそれなりに身なりを整えれば、すらりとした背の高さに加え、鼻梁通る整った顔立ちが際立って、たいそう周囲を騒がせる美丈夫なのに、いつも薄汚さを纏わせているような格好だ。
 そこは佐藤曰く「桜井が嫉妬しないように、わざと人を遠ざける施策」だそうだが、あいにくと桜井自身は佐藤にそんな感情、一ミクロンの欠片すら持ち合わせてはいない。
「桜井、はるばる悪かったな」
「本当ですよ。あなたはいつもこうだ。急に人を、しかもとんでもなく遠くに呼びつける。近所のコンビニに呼び出すのとはわけが違うのに」
 挨拶を無視して、二人掛けのソファーの片方に荷物を置きながら桜井が不満をぶつけると、佐藤は「でもこうして応じたじゃないか?」と意地悪く笑う。
「で、綾樹の弟さんはどこにいるんです?」 
「あの鈍感な堅物とはうまくいってるのか? それともまだ切ない片想いか」
 鈍感な堅物とは、桜井が企業弁護士を務める大手の老舗製薬会社「ブリリアントファーマシー」の社長である新城綾樹しんじょうあやきのことだ。
 質問よりも桜井のデリケートな部分を突かれ、瞬間で気分がどんより重くなる。
 どうしてこの男は、こういう下らない先制攻撃を仕掛けるのか。
 無言のまま鋭い視線を刺し向ける桜井に、佐藤は「怖いな」と肩を竦めた。
「そんなゴミみるような目で見るなよ。一時は俺たち、大の仲良しだったじゃないか。毎晩、真剣に愛し合った」
「勘違いしないでください。私たちはただ、日々の鬱憤を互いの身体で晴らしていただけのこと。あれはただのストレス解消に過ぎない」
「ああそうだな。おまえは俺を通して、新城の幻影に抱かれた。おまえが妄想した世界で性欲を満たした。そういうことだもんな」
「下品な物言いも相変わらずで安心しました」
 頭の奥で脈打つような鈍い痛みが響く。ついでに吐き気までしてきた。長旅で疲れているだけではないだろう。
 体調不良の原因は間違いなく、目の前の男だ。
 このまま踵を返して帰りたいところだが、まだ用件が終わっていない。短時間で切り上げようと、気持ちを切り替える。
 この男に関わっていると、精神衛生上もきっと良くない。心も身体も不快感に塗れ、急激に重苦しくなる。
 桜井が掛けているチタンフレームの眼鏡リンドバーグすら、重みに耐えかねているのか、ずり落ちてくる始末だ。
 桜井は人差し指で眼鏡のブリッジをくいと上げ、わざとらしくため息をつきながら、ソファーに座った。
「で、結果を伺いましょうか? 私は忙しいんです。すぐにでも東京に戻らないと」
「そんなに新城のそばが恋しいかね」
 いちいち佐藤は嫌味をぶつけてくる。桜井が黙っていると「図星か」と歪に笑った。
 この男のこういうところが嫌いなのだ。
 人のデリケートな気持ちなどお構いなしに土足で踏み込んで、酷く荒らす。
 せっかくきれいに整理したはずの過去や想いを全部滅茶苦茶にして、さらにその上を自分の都合で踏みならし、余計な押し付けの種を蒔いていく。
 桜井にとって、佐藤は最低の男だ。一時でもこんな男に身体を委ねたなんて、桜井にとっては一生かかっても拭いきれない汚点だ。
 頑固な害虫のような佐藤には、きっとどんな殺虫剤も効きやしない。桜井は本気でそう思っている。
「本当に私には時間がないんです。大した用でなければ、あなたの首根っこをひっ掴んで、そこの埠頭から海に叩き込みますよ」
「俺が一度として、おまえに悪い話を持ってきたことがあるか、恭司?」
「名前で呼ばないでください。それにあなたが持ってきた話で、面倒ごとでなかったのは、片手で数えて余るほどです。しかも指一本すら満足に立てられるかも疑わしい。それを考えると、限りなくゼロに近いくらいだ」
「相変わらず手厳しいね」
 佐藤は愉しげに笑いながら、両手の指を組んで、肘をテーブルにつけた。
 佐藤はちらりとカウンターに視線を走らせると、そのまま桜井のほうに身を乗り出す。
「おまえから電話があって調べてみた。新城の弟、高木春樹か。そいつはうちの病院に入院してる」
 桜井は黙って佐藤の話を聞いていた。
 桜井は、自身が勤務するブリリアントファーマシー先代社長・新城聡樹から春樹のことをうっすら聞いていた。
 がんで亡くなる直前、喋るのがやっとだった聡樹は、会社のことと、聡樹の長男であり次期社長になる綾樹のこと、そして綾樹も知らない極秘事項を桜井に告げた。
 新城家には、綾樹の他に、認知している高木春樹という名の次男がいること。
 綾樹が十歳の時に水難事故で記憶を失ったあと、春樹は産みの母親に連れられて、どこかに姿を消してしまったこと。
 どこにいるか定かではないが、自分の死後は春樹にも遺産を分けてやってほしいとのこと。
 先代が亡くなってから遺産分配はスムーズに済んだものの、桜井にとって最初の誤算は綾樹の態度だった。
 それは同時に、桜井が長い間、大切にしてきた綾樹への恋が砕けた瞬間でもあった。
 まさか綾樹が春樹に執着するとは思わなかったのだ。
 何も兄弟の再会や身内としての付き合いなどは否定しないが、気が付けば彼を手元に置き、恋人にしてしまうなんて。
 おそらく綾樹と春樹は身体の関係もあるのだろう。春樹に対する綾樹の恋着ぶりは半端なく、彼を手放したくないばかりに、彼のためのマンションまで購入し、自宅ではなく春樹のところから出勤することも増えた。
 だが春樹のおかげで、綾樹の心に余裕が生まれたのも事実だ。
 常に仏頂面で、誰に対しても愛想ひとつなかったが、時折笑顔も見せるようになり、社員に対して思いやりを持つようにもなった。
 社員の士気も向上し、会社の業績も順調、綾樹自身の仕事もプライベートも充実していたようだが、春樹の母親の高木ひろえが現れたことで事態は悪いほうへと舵を切った。
 春樹を溺愛するあまり、最愛の息子を綾樹に連れ去られたと思い、取り戻しに来たひろえと口論になり、綾樹は刺されて大怪我を負った。
 それだけではない。大企業の社長が刺されたという事件はスキャンダルとなり、連日、テレビでは綾樹と桜井の画像が流され、ありもしない噂話や愛憎劇がお茶の間を賑わせた。
 しまいには、桜井がブリリアント社を乗っ取るために仕組んだという説まで飛び出し、一時、桜井はマスコミにパパラッチされる事態となった。
 そして桜井自身がそれを否定も肯定もしなかったので、マスコミの取材合戦はさらに過熱し、疑惑と好奇の目は桜井に集中した。
 桜井が取材陣を引きつけていたおかげで、新城家が今まで隠していた、春樹の事にまでは取材の手が及ばず、綾樹の状態に関してもノーマークのまま、報道はいつしか終息した。
 どうも綾樹から刺された際のやり取りを聞く限り、綾樹と春樹には、本人たちも知らないような兄弟間の秘密があるようだ。
 先代は知っているのだろうが、すでに亡くなっている。真相は墓の中だ。
 春樹はその後、綾樹に黙って、行方をくらませてしまった。
 周囲に気付かれぬよう、綾樹は春樹のことを探し回っているが、どうもその手掛かりすら見つけられていないらしい。綾樹がどんなに隠そうとも、春樹を失った彼の心痛がよくわかる。
 見ていて痛々しいのだ。
 普段と同じように仕事をしているのに、その顔からあらゆる表情と感情が消えた。目に光がなく、まるでプログラムに沿って動くロボットのようだ。
 ロボットだってバッテリーが切れれば動かなくなるが、綾樹の場合はそうではなく、本人が意識せずにオーバーワーク気味だ。食事もろくに摂らないし、顔色も悪い。
 春樹がいない空白を埋めようとして、綾樹はとにかく毎日がむしゃらに働いている。仕事をすることで、辛うじて精神を保っているように桜井には見えるのだ。
 他にこれといった趣味も綾樹は持たないし、友人関係だって限られている。  
 綾樹の抱えている悲しみや辛さ、それが自らの心の中にどんどん蓄積されていくのに、それを吐き出す方法を彼は知らない。
 このままでは、綾樹が壊れてしまう。
 桜井にとって、大事なのは綾樹だ。彼の幸せが自分の幸せだと思っている。綾樹が苦しんでいるのに、何も手を打たないわけにはいかない。
 綾樹のためにも、何としても春樹を探し出す必要がある。春樹の存在が、自分の片恋の障害になっているとしても、永久に綾樹を失うよりマシだ。
 ブリリアント社を辞めない限りは、綾樹のそばにいられるのだから。
 桜井はまず、先代から聞いた情報を基に、綾樹と春樹が幼い頃に育ったであろう原点から春樹の行方を探り始めた。
 自分の実母に綾樹が傷つけられたことで、春樹が何らかの罪悪感やショックを感じているのなら、それを緩和しようとして、綾樹から逃げ出したのだろうと、桜井は考えたのだ。
 人は傷つけば、それを修復しようとする。とりわけ心の場合は、人によって様々だが、大抵は楽しかった過去に思いを馳せる。
 春樹の行き先は、おそらく彼にとって綾樹との思い出がある場所――そして、桜井のその仮説は、見事的中したのだ。
 そこは小さな田舎町、かつて綾樹と春樹のふたりが共に暮らした場所だ。
 先代の話では、ふたりは大層仲のいい兄弟で、綾樹が事故に遭うまでは、毎日遊び転げていたという。
 春樹の身に何かあった場合を想定して、桜井は病院などにも捜索の手を入れた。その町には病院も数えるほどしかなく、春樹を探すのには苦労しなかったどころか、まさか入院中とは思わなかったが、二つ目の誤算は佐藤がいることだった。
 桜井と佐藤は大学時代の同級だ。そして桜井の恋心も知っていて、報われない恋情に苦しむ桜井のストレスを、何度となく「解消」した相手だ。
 佐藤は医師免許を取ってから、暫く都内の救急指定病院で働いていたのだが、突然実家に戻り、地元の病院に就職したとは話に聞いていた。
 しかし、まさかこんな事で再会とは。
「あいつに弟がいたなんて初耳だが、あの弟は新城とは真逆の性格だ。ちっとも似ていない。疑わしくなるが、本当に兄弟か?」
「綾樹がそう言うのですから、そうなんでしょう」
 確かに綾樹と春樹は全く似ていない。二人に共通するところを探すとするなら、先代譲りの涼しげな目元くらいだろうか。
 性格だって全然違う。
 綾樹は機械みたいなところがある。物事には恐ろしく正確さと完璧さを求めるが、春樹にそんなところはない。
 ただ春樹は、瞬間的に状況や物事を判断することには長けている。逆に綾樹は、瞬時に周囲や状況を判断することはしない。用心深いのだ。
 とはいえ、タイムイズマネーという言葉がある通り、執行権を持っている人間ほど、短時間で判断を迫られることは多い。
 育ってきた環境もあるが、潜在的にふたりは互いにないものを持っている。
 綾樹と春樹がともに、会社を継ぐ人材として聡樹に育てられ、第一線で二人がともに活躍してくれていたなら、ブリリアント社はさらに地盤を強固にできたかもしれないと、桜井は思っている。
 ほどなくウエイトレスがコーヒーを二つ持ってきた。佐藤が前もって頼んでおいたのだろう。
「飲めよ、おごりだ」
「当たり前です。私をこんなところに呼びつけたのですから。ですが、メニューを私に選ばせてほしかったですね」
 佐藤は「普通はありがとうだろ」と苦笑しながら、桜井の前に砂糖のポットを置き、ふたを開けた。
 中には褐色の少し小さな角砂糖が入っている。
「自分で入れるか? それとも入れてやろうか」
「あなたがいうと、なにか卑猥に聞こえます」
「コーヒーシュガーの話なのに? おまえ、想像力が豊かだね」
 うるさい。桜井はツンと無視して、ポットのトングをつまみ上げ、角砂糖を一つカップに落とす。
 くるんとひとまぜして、桜井はカップを取り上げて香りを吸い込む。
 ――マンデリン。桜井の好きな銘柄だ。
「桜井はそれ、好きだったよな」
「お気遣いありがとうございます」
 佐藤のこういうところが癪に障る。デリカシーのかけらなどないのに、こうした相手の嗜好品や喜ぶツボを心得ている。そしてそれをさりげなく出してくる。佐藤は粗野に見えて、気遣いが細かい。
 無駄に優しくされることなんか好まないのを、佐藤は知っているのに。まったく気に入らない男だ。
「で、新城は元気にしてんの? 刺されたらしいじゃないか。テレビで見たよ。しかも首謀者は桜井、おまえだって? 社長失脚劇の寝業師・桜井氏なんて渾名がついてたぞ」
「まさか本気にしているんじゃないでしょうね?」
 コーヒーを啜りながら、ギロリと鋭く佐藤を睨む。
「あれはマスコミのでっちあげです。あのバカバカしい推理は、綾樹が大爆笑するほど、でたらめと下衆の極みでしたよ。それに私なら、表沙汰になるような計画は立てない」
「神算鬼謀をめぐらすってやつだな。実におまえらしい」
「その言葉、ワイドショーのテレビマンに言って差し上げたいくらいです。彼らはなかなかお笑いの才能があるらしい。あれこそ神算鬼謀というものでしょう。何事にも動じない、あの綾樹を大爆笑させた挙句、傷を開かせるなんて……」
 あの事件を思い出すと、もはや呆れしかでてこないと、桜井はため息をこぼす。
 実際のところ、あの報道は綾樹の笑いのツボを正確に刺激したようで、ワイドショーに事件が報道されなくなった後も、彼は桜井の顔を見ては、しばしば思い出し笑いをしていた。
 いつも仏頂面で、取引先どころか、社員にまで敬遠されているあの綾樹が、あんなに声を上げて笑った姿など、桜井は見たことがない。
 笑うのは細胞を活性化させるので、傷の予後にはいいのだろうが、腹の傷は本当に開きかけてしまい、医者からテレビ禁止を言い渡されたくらいなのだ。
「まあおまえなら、新城を殺さなくてもあの会社を手に入れるのは容易だろ」
「残念ながら、その必要も予定もありませんが」
「しかし、テレビに出たおまえの写真、なかなかに色っぽかったぞ。その眼鏡リンドバーグの奥のよく切れそうな目元……。危うく俺はワイドショー見ながら抜くところだった」
「下品ですよ。せっかくのコーヒーがまずくなる」
「エスプリだろ」
「分厚い国語辞典にその頭をぶつけてみたらいかがです? お貸ししましょうか」
 桜井はそっけない態度で佐藤の冗談を地面に叩きつけた。早く話の本題に入りたいのに、佐藤はのらりくらりとつまらない雑談を交えてくる。
 桜井は時計を見ながら、「で?」と半ばやけ気味に呆れた半分のため息をついた。
「春樹くんの容態はどうなんです?」
「やっと本題に入る気になったか」
 入らせなかったのはあなただと、心の中で毒づく。
 しかし、綾樹をもとに戻すために、今だけは佐藤の協力がどうしても必要だ。多少の不愉快さは我慢しなければと、自分に言い聞かせる。
 話を聞いたら、即帰る。
「高木君の病状だが、実に良くないな」
「良くない? それはどういうふうによくないのです?」
「彼、脳腫瘍だ。しかも、普通の腫瘍とは違う特殊なタイプ。特殊なのは腫瘍が形成される速さなんだが。とんでもなく次が速い。ってか、俺はあんな症例は知らんし、おそらく全ての医者にとって『最初の症例』となるだろう。形成が速すぎて手術が追い付かない。俺ともう一人で担当しているが、正直頭を抱えている」
「あなたが困っているだなんて」
 桜井はコーヒーカップを手にしたまま、目を丸くした。
 佐藤はこう見えても腕は優秀だ。
 大学を卒業後、無事に医師免許を取った彼は、救命救急センターに勤めており、秒単位で命を削られていく患者の処置を行っていた。
 緊急を要するものや、難解な手術でも彼は見事にこなし、判断も的確。技術も非常に高い優秀な医師だと、医療に携わる者でその名を知らぬ者はいない。
 年の割には経験豊富な腕を持っている。
 それは桜井も認めるところなのだが、その佐藤の腕をもってしても、春樹の病状は深刻のようだ。
「駅でぶっ倒れてうちに担ぎ込まれてな。俺が執刀した。初めて頭の中見たときは俺、絶句したわ。頭の中に腫瘍の花が咲き乱れてる。あるものをきれいに取って経過を見たが、包帯もろくに取れないうちに、新しい腫瘍が出来やがった」
「腫瘍の……花?」
 何かピンとこない。どういう状況なのか、詳しく説明してほしい。どう訊ねようか言葉を選んでいると、佐藤が苛立ち気味にカップをソーサーに置く。
 ガチャンと音がして、ソーサーのわきに乗っていたコーヒーフレッシュが転がり落ちた。医師としての無力さのようなものを感じているのか、珍しく佐藤は感情的だ。
「速い、速すぎんだよ、ペースが。なんで病巣が高速で形成されるんだよ! 頭をずっと開けたままにして、脳をむき出しにしておきたいくらいだ!」
「あなたの見立てでは、今後どうなりますか?」
「ああ? 腫瘍?」
「いえ、彼です。彼の身体。治るんですか?」
「はっきり言うが、無理だ。余命はもって一年というところだろう」
 佐藤は白衣のポケットから煙草を取り出し、箱を軽く揺すって唇で挟んで引き抜いた。
 桜井はスーツのポケットからライターを取り出すと、火をつけて佐藤に差し出す。
「気が利くね」
 火をつけながら佐藤が口端を上げた。
「さすが、俺が惚れたやつだ」
「どうせ止めたって吸うんでしょう? 私が煙草嫌いなのを知っていて出すんですから」
「でもそんな男の癖を忘れられずに、すっとライター出してくれるなんて。相変わらずおまえはかわいい奴だ」
 佐藤は煙草を吸い、ふうと大きく息を吐きだす。二人が座る空間に白い煙がたなびくのを桜井はぼんやり目で追っていた。
 春樹の余命を聞けば、綾樹は動揺するだろう。
 しかし、彼にとって、春樹との恋は今までに経験したことのない、初めての体験だ。
 人を愛し、愛されることを知り、綾樹の心の中に他人を受け入れる余裕ができ、表情も変わった。
 人間らしく喜怒哀楽を顔に出すようになり、欲しい物は欲しいのだと、自分の意思を明確にするようになったのだ。
 綾樹は自身の変化に気づいていない。今の綾樹の心は、やっと歩き始め、自我が芽生えた子供と同じだ。
 成長過程の心を支える大切な人を失えば、道に迷い、失意の深淵に堕ちてしまうかもしれない。
 ――どう伝えれば、綾樹を動揺させずに済む?
 逡巡している思考を、佐藤が遮断する。
「新城に何と説明しよう。……そんなことを考えているのか?」
「そうですよ」
 きつく睨みつけると、佐藤は「過保護だな」と呆れていた。
「現実をそのまま突き付けてやればいいだろ」
「綾樹はあなたとは違うんです。綾樹は春樹くんをたいそうかわいがっている。あなただって、大切な人が死ぬような目に直面しているとなれば、その人を悲しませないように言葉を選ぶでしょう?」
「俺はおまえが死ぬような目に遭っているとしても現実を伝えてやるよ? 俺は医者だ。その上で患者や家族が戦う意思を示すのなら、俺は技術を惜しまない。現実を知らなければ判断を迷い、そしてたがう。そうだろ?」
 佐藤がじっと桜井を見つめていた。その視線に嘘や誤魔化しはなく、揺るぎない彼の信念がそこにあった。
 医師としては最高の腕を持つ男なのだ。
 そして医者ゆえに、彼は現実主義者だ。目の前のものが全てだと思う、そういうところが綾樹とよく似ている。
 広い肩幅、少し筋肉質な体格。短く整えた髪……身長も同じくらいだし、顔と性格以外、佐藤の姿はどことなく綾樹を思わせる。
 佐藤の姿に綾樹が一瞬重なる。
 桜井は一瞬心を奪われたが、すぐにはたと思い直すと、そこにはにやりと笑う佐藤がいる。
「俺に惚れたって顔、してるぜ。桜井?」
「ご冗談を」
 一瞬でもそうだったなんて認めたくない。
 桜井は気取られぬよう無造作に伝票を掴むと、席を立つ。
「ここでは誰に聞かれるかもわかりません。駅前のホテルに部屋を取ってありますので、そこに場所を移しませんか?」
「いいね。積極的なのは好きだぜ?」
「一応言っておきますが、春樹くんのことを伺うだけです。それ以上のことはありませんよ」
 誤解のないようにぴしゃりと言い放つと、佐藤は肩を竦めた。
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