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ホテルにつき、部屋で佐藤から春樹の様子を一通り聞いたが、聞けば聞くほど、春樹の病状は深刻だった。
異様なスピードで腫瘍が形成され、手術をしてもしなくても、本人に記憶障害が残る恐れが高いこと。
本人の病歴を見ても、治療に耐えられる体力があるかどうか疑わしく、春樹本人すら手術を受ける意思を示していないこと。
佐藤の説明から、前向きな状況など見えてこない。
佐藤は最後に締めくくった。「このままなら確実に、来年の今頃には、彼は空の上だ」と。
「綾樹に何と言えば……」
今回の旅行は綾樹には内緒だ。春樹が見つかったことで、一時は綾樹にいい報告ができると思っていたのに、まさか春樹の状態がこんなにも悪くなっているなんて、綾樹に言えない。
彼にいいサプライズを届けるつもりだったのに、これでは綾樹を悲しませてしまう。
だがその裏側では、春樹が余命いくばくもないことを喜んだ自分がいた。
――来年には、綾樹と自分を邪魔する障害がなくなる。
綾樹が水難事故で記憶をなくして以来、桜井はずっとそばにいて綾樹を支えてきた。
友人の顔すら忘れてしまった十歳の綾樹の心に、桜井は自分だけを見てくれるように刷り込みをかけていった。
綾樹はよく人に誤解されていた。
冷酷なわけではないのだが、人から何をされても、感情を表に出すことがなかったから、子供のころは綾樹に近づくクラスメイトはほとんどなかった。
それは綾樹のせいではない。将来、ブリリアント社を担う後継者であったため、感情をむやみに出すなと、大人たちに言われていたからだ。
それでも桜井は、不器用な綾樹の優しさを知っている。
小学校の卒業式が迫ったある日、桜井は家族と繁華街を歩いていた。
お昼の歩行者天国。人混みでごったがえす中、ランチを食べようと、両親と一緒に通りを歩いていた桜井の目の前に、一台の大型トラックが突っ込んできた。それは一瞬のことだったが、桜井はいまだにそのことを鮮明に覚えている。
スローモーションのように、ゆっくりと自分に迫ってくるトラック。桜井を守ろうと前に立ちはだかった両親。
恐怖を感じる暇もなかった。
そのまま三人とも弧を描いて弾き飛ばされ、地面に激しく叩きつけられた。
病院のベッドの上で意識を取り戻した時、周りの大人は皆、両親は元気にしていると言っていた。
「今はけがの治療で君に会えないが、すぐに迎えに来てくれるよ」ーーだが両親は、既に神様が連れ去った後だった。
彼に真実を教えたのは、テレビのニュースだった。
生き残ったのは、自分ひとりだと知り、毎日ベッドの上で泣き暮らした。
大切な家族を失った悲しさと、一人になってしまった不安とが、桜井を絶望の荒波の中に突き落とした。
見舞いに来た綾樹は、不安と悲しみで泣きじゃくる桜井のそばにずっといた。
慰めの言葉をかけるわけでもなく、ただずっと、手を握って、桜井の涙が止まるまで。
桜井が泣き止んだころ、綾樹は桜井に言った。
『桜井と僕の失くしたものを同列にはできないけれど、僕たちは互いに大切なものを失くした。それはもうどうしようもない。ならふたりで乗り越えよう』
『ふたり……で? 綾樹、それどういうこと?』
戸惑う桜井の両手を取り、綾樹は真摯な瞳を桜井に向けた。
『どんな時でも、僕はずっと君のそばにいる。僕に何ができるかわからないけど、君が負う荷物を一人で抱え込ませたりはしないから』
子供の他愛ない励ましや、なぐさめの口約束などではない。
綾樹はその約束を違えなかった。
綾樹はいつも、黙って桜井を気遣ってくれた。
桜井自身は人に世話を焼かれるのが好きではないから、人に甘えたりすることをしなかった。
そういうものを、人として情けないとすら思っていた。両親を失ってからはなおさらだ。
しかし、綾樹の優しさは別だった。彼は口も手も出さない。不器用に背中をさすりながら、ただ、涙が止まるまで、笑顔が戻るまで、桜井のそばにいるだけだ。
桜井の辛さも悲しさも、すべて綾樹は受け止めてくれた。
それだけでよかった。
誰かがそばにいてくれるだけで、桜井の淋しさは埋められた。
桜井にとって、綾樹は絶望から引っ張り上げてくれた恩人だ。
あの時から、桜井は綾樹のために尽くそうと決めた。そして大人になるにつれて、それは恋心へと変化していったのだ。
時は流れ、綾樹も桜井も社会人になった。
桜井は綾樹と一緒に、十八年という時間を過ごし、綾樹の心の中に、自分の存在をしっかりと作ってきたつもりだ。
綾樹に頼られ、求められる存在でありたかったから、桜井は法曹の資格を取り、数多の法律事務所の誘いを断って、綾樹が代表を務める会社の弁護士となった。
会社になくてはならない存在として、綾樹に求められている。
願い通り、綾樹のそばにいられる人生を送るはずだった。
だが、春樹が現れて綾樹は変わった。
長い時間を掛けて桜井が作ったはずの領域は、あっさりと春樹で塗りつぶされた。
綾樹は春樹を受け入れ、求めるようになってしまった。
春樹のことが憎くてたまらなかった。桜井から綾樹を奪っていき、さらに綾樹の愛を一身に受けている彼の存在が。
死地に赴く人間ほど、強い存在はない。
なにせ、失えばもう会えることが出来ないから、強烈に記憶に存在を刻み込める。失った存在を時間が忘れさせてくれるなんてことはなく、時間が経つほどに想い出はどんどん美化されていく。
そんな相手に敵うわけがない。
それに綾樹の性格を考えると、恋を忘れるために恋をする、ということは考えづらい。
結局、自分の恋情は成就しないままで彷徨って、腐り朽ちていくのだろう。
今にも叫びだしてしまいそうなほど、強く苦しい綾樹への恋心。胸に抱えたそれをどこに持っていけば満たされるのか、桜井にはその道筋が見えてこない。
どれほど泣いても、言葉を重ねても、桜井に愛しい人の心が向くことはない。綾樹の姿が蜃気楼のように揺らめいているだけで、絶対に手が届くことはない。
だが、来年になれば……?
綾樹の心を取り戻せる可能性はあるのだろうか。
(いけない。私は何を考えているんだ)
桜井にとって唾棄すべき、厭らしい人間の本性。
わずかでもそう思ってしまった自分に反吐が出そうになる。
(綾樹……)
身体がなんだか熱くて気分が悪い。そのせいか、頭もずんと重い。
桜井はネクタイを緩めると、そのままベッドに腰かけた。が、突然視界が反転する。
「――!」
ぎしりとベッドが傾いで、佐藤が桜井の上に覆い被さってきた。
押し倒されたのだと思い、慌てて起き上がろうとしたが、佐藤は桜井の脚の間に自分の身体を滑り込ませていて、桜井の自由を奪っていた。
身動きすらとれない。
「どいてください」
「誘ったのはおまえだ」
「誘ったりなんてしていません」
「嘘つけ」
もともと佐藤はスポーツマンで体格がいい。細身の桜井では、佐藤を押し返すことができない。
桜井は軽く深呼吸をし、佐藤に再度「どいてください」と頼んだが、佐藤は桜井のことなど完全無視している。
「おびえた子猫みたいな目をしやがって。そんな潤んだ目をしている奴に何もしないなんて、そこまで人間が出来ちゃいねえんだ、俺は」
「私がいったいなにを……」
桜井を睥睨する佐藤の瞳の奥に、獲物を狙う猛禽類にも似た雄の炎が揺らめいている。
「俺の前で感情ごまかせると思うなよ。おまえ、新城の弟が死ぬと知って、一瞬、自分にもチャンスがあるかもしれないと考えただろう」
「そんなこと、考えるわけがないでしょう」
「わかるさ。完璧な人間なんていやしない。人間は打算と欲の塊だ。だがおまえはそういうものを徹底的に嫌う。本音と建前、そして救いを求める不協和音。おまえの心からその音が漏れ聞こえてくる。助けてってな」
「……っ!」
言葉が出なかった。
佐藤は桜井の心の中を見透かしている。しかもそれは頭に来るほど正確だ。
どんなに平然を装っても、僅かな感情のぶれすらも感じ取られてしまう。
この男の前では、密かな恋すら胸の内に閉じ込めておくこともできないのか。
悔しくて唇を噛む。
桜井が抱えるこの嵐のような狂おしい想いなど、欠片ほども知らないくせに。佐藤は勝手なことばかり言う。
綾樹のそばに寄り添うために、今まで努力してきたのに、今の綾樹は桜井を見てくれない。
春樹は綾樹の心に、熱線の如く自分の影を焼きつけ、空へ旅立つその時に、焼きつけた部分だけをぽっかり落として修復不能にするのだろう。
その場所は春樹の形に切り抜かれている。桜井の形がそこにきれいに収まるわけがない。
相当の時間をかけてきたものが、たったひとりの人間の出現であっさり壊れてしまった。
もう元には戻らない。希望の欠片すらそこにはない。
桜井の恋は、外の桜の花と同じだ。一年もの時間を掛け、咲き誇る瞬間を迎えたのに、風が花弁を引きちぎって散らせてゆく。桜井の恋もまた、綾樹が春樹を諦めない限り、花開くことはない。
佐藤はするりと桜井のネクタイを引き抜くと、引きちぎらんばかりにワイシャツのボタンを外した。
双眸に情炎が燃え滾り、それは桜井の全身を金縛りにする。
それはまるで残酷な燔祭だ。生贄にするのは、胸に綾樹への恋情を秘めた桜井の身体。
男の視線に絡めとられて桜井は動けない。
「やめてください、離して……っ!」
「おまえを助けてやるよ。じっとしてろ」
「なに、を……っ!」
喉がひりついて、声をうまく出せない。その間にも佐藤は桜井を組み敷いたままで、桜井が望まない『救済』の儀式を進めていく。
桜井の肌があらわになり、佐藤の指が桜井の胸をつっと滑る。桜井はびくりと身体を震わせた。
「――!」
佐藤の指先はとんでもなく冷たかった。こんなにも火傷しそうな気迫を纏っているくせに。
桜井の肌をなぞるその指はまるで、膚の下に閉じ込めた、綾樹への想いを抉り出すメスのようだ。
その手はゆっくりと下へ滑り、ついに桜井のベルトに手がかかる。ベルトが抜かれるまではあっという間だった。
身体を暴かれながら、脳裏に過るのは綾樹の姿だ。
いまここで佐藤に抱かれたくない。綾樹への想いを抱えたままでは――。
「お願いですから、やめてください。今はあなたとそんな気分にはなれない!」
語気を強めて必死に抵抗をするが、佐藤は薄く笑った。
「血があれば、その香りを嗅ぎつけて獣は寄ってくるんだ。そして獣が、餌を目の前に容赦なんかするか?」
「何言っているんです。意味が分からない!」
スラックスのボタンが外され、下着と共に蹴り下ろされた。佐藤の一瞬の隙をついて桜井は彼を強く押しのけ、身体の下から抜け出したが、足元に纏わりつく衣服が、まるで足枷のようになって、うまく動けない。
それでもなんとかベッドから滑り降りた瞬間、桜井は後ろから突き飛ばされ、目の前の壁にしたたかに頭をぶつけた。
「くっ……!」
さらに壁に頭を押し付けられ、その衝撃で桜井の眼鏡が床に落ちる。
「なに、を……」
「大人しくしておけ」
行為は暴力的なまでに激しいのに。その声は平坦で硬く、絶対零度の冷たさを帯びている。
情熱と冷静の間なんてもんじゃない。佐藤の中ではいま両方の感情が不安定にぶつかり、それが強烈な毒を孕んで、歪で激しい欲情の渦を生み出している。
「嫌だ……こんなの」
「そうか、わかった」
佐藤は桜井の腕を強引に掴むと、無造作に桜井の身体をベッドに引き倒した。
「あっ!」
一瞬だった。
彼は桜井の抵抗を読んだのか、起き上がる隙も与えない。俯せに倒れ込んだ桜井の両手首を捕らえると、そのまま後ろ手にねじあげて拘束する。
その力はとんでもなく強く、桜井は痛みに顔を顰めた。
「立ったままは嫌なんだろ? だったらベッドの上でならいいんだよな?」
「冗談……」
地の底を這うような低い声の命令を拒み、桜井は横の窓ガラスに視線を走らせた。
佐藤の横顔は、まるで能面のようだった。ガラス窓のせいで色彩がぼんやりしているせいか、表情の冷たさだけがやけに際立ち、そのガラス玉のような感情のない瞳が桜井を睥睨している。
「放して。私はこんなことをするために来たんじゃ」
「ふうん、それが人に物を頼む態度かよ? いいぜ、激しく犯してやるよ」
佐藤は桜井の下腹に手を差し入れ、まだ萎えている桜井自身と釣鐘をきつく握った。
「――!」
急所を握られた痛みに、桜井は弾かれたように体を浮かしてしまう。
佐藤はすぐさま桜井の腰に腕を差し入れてきた。あっという間に四つん這いにさせられ、征服の準備が完了する。
「さて、楽しもうじゃないか」
背後で佐藤がクックッと喉の奥で笑っている。
彼の手が桜井の滑らかな尻朶や腹を這いまわっていた。中心に近いところに近づくのに、そこには触れない。もどかしさに桜井は無意識に佐藤の手を導こうと腰を動かしたが、はたと我に返る。
しかし時は遅く、佐藤は桜井の痴態に気付いていて「触れてほしいのか?」と訊ねてくる。
佐藤は桜井の身体を知り尽くしている。直接的な前戯がなくても、桜井がどうすれば反応するのか、桜井の身体と意識を激しく淫らになるよう仕込んだのは誰あろう、佐藤だ。
不意打ちのように佐藤の指が背後から桜井自身に触れた。硬くなって蜜をこぼし始めたそこをゆるゆると扱かれる。
「んっ……」
思わず口から甘い喘ぎが飛び出る。
背筋にゾクリと走る甘い電流は、桜井の身体に官能の熱を溜めこませ、身体を開花させる合図だ。
「おまえ、嫌なんじゃなかったっけ? ここをこんなにして、俺を誘ってるけど?」
「あなたという人は。私をこんなにして楽しいんですか」
「ああ楽しいね。絶望の泉に立ち尽くして、新城の幻影に囚われているおまえは……最高に美しい」
快楽を呼吸で逃がそうとする桜井の首筋に、佐藤が噛みつくようなキスを落とす。
「痛っ……」
耳元で囁かれ、その魅惑的な低音に全身が期待に震える。それはまるで獣の交合の始まりーー。
「俺のことを残酷な奴だと思うか、恭司?」
皮膚が裂ける感覚に、唇を噛む桜井の耳元で重々しく、押し殺すような低い声で佐藤が囁く。
「呼べよ、あいつの名を」
気持ちをしっかり持っていなければ、暗い深淵の底に引きずり込まれてしまいそうだ。綾樹への想いを抱えていながら、佐藤なんかの手で淫らに変化してしまうのは絶対に嫌だ。
言い知れぬ恐怖が桜井を支配する。桜井の心の奥にしまっている綾樹への気持ちが踏みにじられてしまう。
(堕ちるな。私は。私は綾樹のことが……)
桜井のすべてを自由にしていいのは綾樹だけなのだ。
そんな現実、ありえないとしても。
そんな幸せ、絶対に来ないのだとわかっていても。
「これは愛あるセックスなんかじゃないんだぜ? おまえは俺にレイプされようとしてるんだ。 ほら、あいつに『助けて』って言ってみろよ」
佐藤の舌が桜井の耳を軽く噛む。その刺激だけで桜井の秘蕾が花咲こうと疼きだす。
だがこの男に沈むわけにはいかない。
綾樹のことが、好きなのだ。
「いや……です」
佐藤は「ふうん」とつまらなさそうに呟きながら、桜井がこぼす蜜を指に取った。
「じゃあ、せいぜいいい声を聴かせな」
佐藤は桜井の脚の間に自分の身体を割り込ませ、桜井のひくつくアヌスがよく見えるように、脚を拓かせた。
そこをじっと見る佐藤の目が、まるで舌のようにも思える。恥ずかしいのに、淫蕾をねっとりと舐められているような感覚を覚え、興奮が高まっていくのを抑えられない。
見られているだけなのに……気持ちいい。
「いい格好だ。そそるね」
佐藤が桜井の細い腰を掴む。窄まりに桜井の蜜で濡れた指を食まされ、「あっ」と小さな悲鳴が桜井の口から飛び出た。その声には甘さが乗っている。
身体中が過敏になっていく。少しの刺激でもたまらない。
佐藤は無言のままで蹂躙を始めた。彼の指が桜井の中で蠢いている。ほどなく桜井の蕾から濡れた音がし始め、襞の引き攣れた感覚がなくなった。
それは綾樹の指ではない。
だけど、だけど……。
「だ、だめ……やめて」
両手をきつく握りしめ、この快楽をどうかして逃がそうといろいろと思考を巡らしてみるも、そんなものは自身の身体に与えられる官能の快楽に上書きされる。
やがて蕾が柔らかくなり、男を迎え入れる準備が、着々と整っていく。
「じゅぶじゅぶいってるぞ? なんだ、もうでかいのをハメてもらいたくて我慢できねえの? 前も完全に勃っちまってるけど?」
「……そんなこと」
「……ふうん。じゃ、何されても感じないわけだ?」
男の指が桜井の敏感な部分を擦り上げた。
「ああっ!」
腹から電流のような快楽が瞬時に走り、たまらず桜井は一度吐き出した。きつく勃ちあがった自分自身から、勢いよく吐き出されたそれは、自分の腹やシーツを汚し、佐藤の虜囚であることを桜井に理解させる。
急激な射精で、息が苦しい。桜井は肩で息をつきながら、吐き出した己の精液を見つめていた。
他の男に身を任せようとしている自分の心は、きっとこんな風に濁っているのだろう。
「おやおや、もう出したのか。堪え性のない奴だ」
背後で佐藤が「仕方ないな」と子供の粗相を見るかのように笑っている。
「立て、桜井。窓ガラスのところに行け」
「……え?」
佐藤は何を考えている? どうして抱いてくれないのか。
「おまえは後ろからハメられるのが好きだろ?」
後背位が好きなわけではない。後ろから突き入れられると、相手の顔を見ずに済む。頭の中で描く、桜井の願望まで相手に自由にさせないための手段だ。
桜井はゆるゆると緩慢な動きでベッドを降り、言われた通り窓際へと向かう。佐藤は桜井が転倒しないよう身体を支えながらエスコートし、桜井の両手を窓ガラスにつけさせる。
「腰を後ろに突き出せ」
そのまま桜井の左足をスライドさせるように軽く蹴りながら佐藤が囁く。
かちゃりと金属の音がして、さっきの指よりも質量の大きいものをあてがわれる。
「ほら、これが欲しいんだろう?」
滾りきった佐藤の熱核が触れた。閉じた淫蕾がくちゅと音をさせながら、奥へ引き込もうと蠢きだす。
男に抱かれることを知る身体だ。そのサインの意味をいやおうにも感じてしまう。
「あっ……」
「腰をくねらせて、自分で挿れようとしているのか。こんな姿、あの堅物が見たなら、我慢できずにおまえを欲望のままに食っちまうだろうなあ」
「そんな……」
淫蕩な身体は正直だ。腹の奥が熱く疼いてたまらない。早くこの身体を雄芯で激しく貫いてほしい。
綾樹の手で導かれているわけではない。頭ではそれを理解しているのに、桜井は蜜を零しながら、男の手で徐々に理性を食われていた。
不意に佐藤が桜井の目の前に何かを突きつける。それは綾樹の写真だった。
「それっ…!」
会議が始まる前に、こっそりスマートフォンで撮影した写真。会場を撮るふりして、ファインダーに収めた愛しい人は、長身をダンヒルの黒いスーツに包み、真剣かつ怜悧な眼差しで、口を一文字に引き結んでいた。
これから会議という戦いに臨もうとしている、綾樹の姿がディスプレイに映っている。
少し前に、海外の大手製薬会社から企業買収をふっかけられた際のものだ。
報道陣も多数集まっていて、大手老舗企業の若き社長の手腕と判断に注目された。綾樹が社長となって、初めての危機。
桜井も綾樹と一緒に会社を守るために奔走した。
写真の綾樹の双眸からは、「絶対に引き下がらない」という不退転かつ、決死の覚悟が見える。
ゾクリとするほどの気迫を纏う綾樹は、怖いほど美しい。
上質なスーツがよく似合っていて、写真を見るたび、その姿に陶然とし、息が止まりそうになる。
桜井のスマートフォンに入っている、大切な綾樹の写真。
「昔は好きな子の写真はロケットに入れていたもんだが、時代が変わればツールも変わるんだな」
「あなたという人は、人のスマホまで勝手に」
取り返そうとするより早く、佐藤がひょいとスマホを取り上げる。
「これはお預けだ」
桜井の一番ナイーブなところまで引っ掻き回す気なのか。知っているだけに余計に腹立たしくなる。
――だったら、佐藤の望み通りにさせてやる。
首だけ回して背後の佐藤をきつく睨みつけた。
「あなたは私に……ここまで…させたんです。私を満足させなければ、承知しませんよ……」
男が「ああ、わかっている」と歪に嗤う。
はやく貫いてほしい。激しく犯してほしい。
佐藤の余裕すらじれったい。
「早く……」
我慢できずに挿入をせがめば、背後で男が声を殺して愉しげに笑う。
「さあ、始めようか?」
もうなんでもよかった。こんなに淫らに煽られて、ここでやめられたら気が狂うかもしれない。
粉々に壊してほしかった。
貪婪な身体も。綾樹へと惑い彷徨う恋情も。なにもかも。
桜井の中についに男が入りこんでくる。
「ん、ああっ!」
男はゆっくりと桜井の狭道を突き進む。熱核はさらに大きさを増して、その質量に息が詰まる。
「キツイか桜井。ゆっくり息を吐け。…そう、うまいぞ」
佐藤は桜井の呼吸に合わせながら腰を進め、彼の最奥にたどり着いた。
レイプまがいのことをしておきながら、桜井の身体への負担を最小限にとどめている。どうせなら好きに犯せばいいのに、佐藤のこういう半端に優しいところが憎たらしい。
だけど、今更抱くのをやめてほしくない。
頭ではわかっている。この手は綾樹ではないのだと。それなのに。
佐藤から強制的に与えられるものに抗えない。
「熱いな、おまえの中……」
「うる、さい……」
「奥がいじらしく震えてるぜ? 相変わらず男を上手に煽る身体だな。……最高だ、桜井。おまえの孔は」
佐藤の低い声が、蠱惑的な熱となり、桜井の耳から入り込んで全身を駆け巡る。
最奥を叩くように佐藤の切っ先が動く。だが、いきなりその動きは大きくなり、桜井を容赦なく打擲しはじめた。
「あうっ!」
吐息が絡み、汗が飛ぶ。密着する肌と肌は爛れきった性の快楽に色づいていた。
佐藤の手がまた桜井自身にのび、彼は桜井を貫きながら、蜜に濡れた茎を扱きだす。ちゅっちゅっと濡れた音だけがやけに大きい。それは自分の茎をしとどに濡らすこぼれた蜜の音。
「あっ、いいっ……、それっ…」
快楽に流されそうになりながら、桜井は窓ガラスに爪を立てていた。
ガラスの外に広がる灰色の空。そこに毎日会社で見る綾樹の姿を思い描くが、窓越しに映る酷薄な笑みを浮かべている佐藤の姿が、桜井を現実に引き戻す。
綾樹への想望すら、許されないのか。
どうせ叶わないのに。叶わないから、この時間が夢であってほしいと願うのに。
佐藤の手が速さを増す。腰が痺れて、腹の奥から熱水が沸き上がるのを感じる。男の手で身体をくねらせながら、この現実から意識がめりめりと激しく引き剥がされていく。
瞬間、桜井の中で暴れている佐藤の切っ先が、一番感じる場所を擦り上げた。
「あああっ! だめぇっ!」
甘い悲鳴が飛び出し、強烈な痺れが腹から全身に走る。
「私、は……やっ…! んんっ!」
白い闇に飲み込まれるような強烈な錯覚。とんでもなく危険で後ろめたい愉悦を感じながら、桜井は絶対に成就しない苦怨の恋に堕ちていく。
「ああ、綾樹……」
不意に口にする、愛しい名前。
「綾樹……、私は……ああ、綾樹」
涙が零れ落ちる。
綾樹のことが好きなのに。
どうして自分は綾樹以外の男に身を任せている?
どうしてそれを許せている?
「綾樹……綾樹」
「いいぞ恭司。もっとだ、もっとその名を呼べ」
その名前は、桜井の腹の奥で切ない痺れを発生させる。綾樹を想いながら、綾樹ではない男に身を任せている自分が許せない。
「綾樹…。いや…あん…んっ…! …綾樹、あやき…っ!」
全身が痺れて、力が抜けそうになる。背徳感が性感を最大まで高めてゆく。
「だめ、もう、あっ、あっ!」
だが、桜井の放埓は寸前で止められた。
身体も心もすべて、浅ましい悦楽に蕩けきった桜井の耳に届いた、この状況には不似合いな音楽。
それはスマートフォンの着信音。「ラプソディ・イン・ブルー」。桜井のスマートフォンから聞こえる音だ。
そして、その着信音の相手は。
見なくたって分かる。
いつもなら気持ちが舞い上がる曲なのに、処刑宣告をされたかのように、桜井の頭からさっと血の気が引き、全身が凍り付く。
「セックスの最中に電話とは無粋だな。俺たちの邪魔をしてるのは誰なんだろうな?」
佐藤の声が獰猛さを秘めている。
「出ないのか?」
「……私のスマホは……あなたが持っているから」
「俺のことなんか気にしないで出たらいい」
桜井の目前にスマートフォンを出す。画面には「新城綾樹」と表示されている。
桜井が画面から顔を背けると、佐藤がさらに身体を密着させ、桜井の耳元で囁いた。
「社長が法務弁護士に連絡してきているんだぜ? 電話に出ないのはさずがにまずいんじゃないの?」
「あとで……掛けなおしますから」
「この後、何度もかけられても興を削がれる。あの堅物はしつこそうだ。今出ておけよ」
佐藤は通話ボタンを押し、桜井の耳に「ほら」とスマートフォンを押し付けた。仕方なくそれを右手で取り、「もしもし」と応じると、「なにかあったのか?」と受話器越しに綾樹の心配そうな声がした。
生真面目な綾樹は、電話になかなか出なかった桜井の身を案じているのだろう。
それがわかるから、余計に心が軋む。
こんな情事に耽っている自分を心配してくれる、綾樹の優しさが痛すぎて。
「別に…なにも、ありません」
会話の内容を佐藤に聞かれたくない。しかし静かな部屋の中ではその会話はどうしたって漏れ聞こえる。
「社長、どうしたんです?」
後ろめたさを誤魔化すように、窓の外の景色を眺めながら、桜井は平静を装う。
自分を堕落させる淫毒を断続的に突き入れられながらも、意識を電話に集中させていた。
絶対に綾樹に悟られてはならない。こんな爛れた空間を。そして他の男を綾樹の代償にしている、薄汚い自分の本性を。
『大した用じゃないんだ。おまえの家の近くまで来たから、食事でも一緒にどうかと思って』
「春樹くんは?」
『ああ、うん。ハルのことはいいんだ。何も連絡がないのだから、あいつはあいつで好きに過ごしているんだろう。だけど、一人の週末も味気なくて。それでなんだか……』
綾樹は言葉を濁したが、春樹のいない淋しさを何とか紛らわそうとする、彼の切なさが伝わってくる。
『急に連絡してすまない。誰かと話したいんだ』
綾樹は桜井と違い、誰かを代わりにして淋しさを埋めることを知らない。
だから桜井に電話をしてきたのだろう。業務を離れれば、綾樹と桜井は気のおけない友人だ。食事に誘われたところで、何らおかしなところはない。
『とにかく賑やかな所がいいな。私が奢るよ。桜井が知っている店でもあればそこでもいい。家にいるなら出てこれないか?』
「社長、すみません。私は今……ああっ!」
不意に佐藤が激しく腰を突き込んできた。
「ん、ああっ……いや、社長、社長……」
『桜井? どうした、桜井?』
甘さと悲鳴と苦しさが口から洩れる。さらに佐藤は、のけぞる桜井の首筋に強烈なキスを落としてきた。その痛みすら心地いい。
「痛っ…」
『桜井、どこにいる。体の具合でも悪いのか?』
「違います、違うんです……あっ、やぁっ、んあっ……ああん……っ」
こんな甘ったるい声を聴けば、いくら鈍感な綾樹でも気づくだろう。
桜井が今、何をしているのか。
受話器越しに聞こえる綾樹の声が、桜井の性感帯を刺激し、下腹をじんと痺れさせる。それが全身を虫のように駆け巡っていく。
指先まで全部、綾樹の声に反応しながら、後ろからぐちゅぐちゅと中をかき回されて、桜井の身も心もドロドロに堕落していく。
――たまらない。
口唇は震え、ろくに喋ることもあやしい。性の麻薬は強力だ。
だけど、こんな状態、綾樹に知られたくない。
「綾樹……お願いです……切って、電話を切って……」
『何を言ってる。切れるわけないだろう』
「お願いですから、綾樹……綾樹……あ、んっ!」
綾樹にこんな恥ずかしい声を聴かれている。
悲しみに胸が張り裂けそうになるが、綾樹が佐藤と一緒に自分を犯しているような錯覚さえ覚え、桜井の神経がより快楽を激しく受け止める。
「綾樹……だめ、わたし、私は……綾樹」
『桜井……?』
戸惑ったように綾樹が桜井の名前を呼ぶ。
それがたまらなくいい。
恋が成就しないなら、電話越しの妄想でも何でも、もはやなんでもいい。桜井の中に入り込んでいる凶暴な熱核が、他人のものでも。綾樹が自分の名を呼んでくれるなら。
ひょいと桜井の手からスマートフォンが取り上げられた。
「そういうことだ、新城。桜井は今都合が悪い。あとで掛けなおさせるから、一回切るぜ?」
『……佐藤か』
「久しぶりだな、新城社長殿」
綾樹の声が部屋中に響き、桜井は驚いてびくんと身体を震わせる。どうやら佐藤はスピーカー通話ボタンを押したようだ。
綾樹の声が、喘ぎ悶える桜井にもよく聞こえるように。そして桜井の声をより拾えるようにだ。
趣味が悪いにもほどがある。
「おまえ、腹の傷はもういいのか?」
『私のことなどどうでもいい。桜井はどうしてる。何があった? 只事ではなさそうなんだが?』
佐藤の社交辞令など完全無視の綾樹は、佐藤と桜井の状況を訝っている。
「大したことじゃねえよ。風邪をひいてるようでな。薬を飲ませたんだが、その副作用だ。桜井と相性が悪かったらしくて、意識が朦朧としているんだ。妙な事を喋っているが、勘弁してやってくれよ」
『良からぬものでも飲ませたんじゃないだろうな』
「俺は一応医者なんですけど? 変なもんなんか飲ませるわけねえだろ。廃業のリスクなんか冒すか」
佐藤は綾樹に嘘の説明を平然としながら、腰の動きを絶対に緩めない。
右手でスマートフォンを持ち、左手で桜井の腰を抱き、接合をさらに密着させ、桜井の最奥をこつこつ叩いている。セックスの最中だというのに、その声に乱れがない。
『本当に桜井は無事なんだな?』
「ああ、おまえも仲間に入れてやりたいところだぜ。こいつわがままでさ。一人で面倒見るのは結構大変なんだ。おまえが手伝ってくれりゃ、桜井も早く元気になるだろうけどな」
冗談ではない。こんな痴態を見られたら。
桜井は泣いて懇願する。
「いや、やめて……綾樹、あやき……」
『桜井は本当に大丈夫なんだな? 彼は我が社の大切な人材だ。長期離脱されては困る』
「人材、か。おカタイねぇ新城。俺たち同級生じゃん? こんなプライベートの会話で社交辞令はいらないだろ? たまには名前で呼んでやったらどうなんだよ、恭司ってさ」
『佐藤……』
「桜井だって喜ぶだろうさ。なあ桜井?」
佐藤は桜井に話を振るが、桜井は唇を噛んで黙っていた。これ以上綾樹の声を聞いていたらおかしくなってしまいそうだ。
おそらく綾樹はスマートフォンを握りしめ、眉間に皺を寄せて、呆れかえって溜息でもついているに違いない。真面目な綾樹は、こういうことを嫌うから。
『桜井は病気なんだろう? つまらんことを無理に言わせようとするんじゃない。副作用で苦しんでいるなら、余計に体力を使わせるな。彼が疲れるだけだ。病気を長引かせたら悪い』
綾樹は言葉を慎重に選びながら、ゆっくりと話している。こういう時の綾樹は大体機嫌が悪いのだ。
おそらく、早くこの会話を終わらせたいが、桜井の様子も気になるといったところだろう。
綾樹が自分の目でその場を確認しているならまだしも、電話越し、しかも佐藤が相手だ。
佐藤のような、人の都合をあまり考えない人間を、綾樹は好まない。苦虫をガリゴリ噛み潰しながら会話をしているのは想像に難くない。
長く一緒にいるから、桜井には綾樹がどうしているのか、その姿、表情、思考までもが手に取るようにわかる。
『桜井に身体を労われと。そう伝えてくれ』
「いまここにいるんだ。おまえの口から言ってやれば?」
『……』
スピーカーからは小さな舌打ちが聞こえた。明らかに苛立っている。ふた呼吸ほど間があって、綾樹が呼び掛けてきた。
『桜井、聞こえているか?』
「聞こえて……います」
息も絶え絶えに返事をすると、綾樹のため息が聞こえる。
きっと呆れられているんだろうと思った。
好きな人に幻滅されるのは辛い。しかし、春樹がいる以上、どうしたって桜井の願いは届かない。
ここでいっそ綾樹が自分を突き放してくれたなら。
そうすれば、来週は法務弁護士として、彼の前に立てる。余計な感情に己を失うことなどないだろう。
桜井の目から涙がこぼれる。
彼の想いはここで葬るのだと決意する。
だが。
『身体の具合が悪いなら、ゆっくり休んでいろ。あと、嫌なことは嫌だと、佐藤にはっきり言いなさい』
まるで子供を叱るような綾樹の声。優しささえ感じるそれに、桜井は唇を噛んだ。
――どうして?
憐憫や同情ならいらない。綾樹に迷うことがないように、淡い恋心ごと叩き潰してほしいのに、綾樹は桜井の心配をしている。
『桜井は優しすぎるんだ。だから佐藤の様な輩がつけあがる。それに私はいつもおまえにはかなり迷惑をかけている。ハルの行方を捜してくれながら、通常業務をこなしているのを、私が知らないとでも思ったか?』
「綾樹……知っていたんですか」
桜井の心の琴線がピンと弾かれた。硬く澄んだ音が、静寂を切り裂くかの如く、驚愕と歓喜が桜井を満たしていく。
仄暗い諦めの湖に投げ込んだはずの恋心、それが欣幸の波紋を広げていく。じわじわと桜井の胸をときめきが揺さぶる。
「綾樹…?」
『オーバーワークもほどほどにしなさい。昔から無理をするのは、おまえの悪い癖だ』
――綾樹は私を見ていてくれたのか。
たとえそれが報われることがなくても、綾樹の歩く道から障害をなくすのが桜井の役割だった。
綾樹こそ、桜井を心配するようなそぶりは、一度も見せたことがなかった。だから桜井には無関心だと思っていたのに。
桜井だけが綾樹を見ていたのではない。綾樹もまた、桜井のことを見守っていたのだと初めて知る。
「あや、き……」
『私たちは十八年共にいるんだ。今更遠慮が必要な仲ではないはずだろう? おまえが重荷を抱えているなら、それを一人で持たせないと、私は言わなかったか』
「覚えて…いたんですか」
幼い日に綾樹が桜井にしてくれた約束。
まだ覚えているなんて。
「綾樹……」
『辛いことがあるなら、佐藤にではなく、今後は私に言いなさい。いいな、恭司』
同級生だというのに、少し上から目線の綾樹の優しさが痛いほど身にしみて涙が止まらない。
名前を呼ばれて、飛び上がりたいほど嬉しいのに、同時に底の見えない暗闇に落とされた気さえする。
やはり、そこに「恋」はない。
綾樹は友人としてしか、桜井を見ていない。
だが、今までに可能性はいくらでもあったはずだ。
強烈な後悔が、桜井の心臓を貫いた。
こんなことなら、一度でも綾樹に好きだと言っておけばよかった。
そうすれば、綾樹は桜井のものだったかもしれない。自分は、春樹よりも長い時間、一緒だったのだ。チャンスはたくさんあったのに、それを見送ったから、本当に好きな人と身体も、そして心も繋げられない。
己の身に男を咥えこんだ状態で、好きな人の声を聞き、その優しさを知るなんて。残酷なんてもんじゃない。
如何に自分が薄汚いのか、嫌になるほど思い知る。
「綾樹、私は」
『佐藤もだ。桜井は多忙な身だ。本当に風邪の介抱をしてくれているなら礼を言うが、桜井を困らせているなら承知しない』
綾樹はそれだけ言うと、一方的に通話を切った。無常に響くビジートーンに、絶望にも似た不安が桜井を襲う。
綾樹から見限られたような気がして。
佐藤はふんと鼻で笑うと、桜井のスマートフォンをベッドに放り投げる。
「ふふ、相変わらずの堅物だ。あれだけ煽っても、取り乱さないなんて、あいつは不感か」
「……呆れて電話を切ったに決まってるでしょう。こんなくだらない痴態を聴かせたんですから」
「聞いたか? おまえを困らせるなら承知しない、だってよ。困らせてないさ。なあ?」
佐藤は腰を引くと、勢いをつけて桜井を貫く。
「気持ち良くはしてやってるがな!」
「あんっ!」
同時に佐藤の手が桜井自身をぬちぬちと扱き始めた。
「天にも昇る快楽をくれてやる。あいつのモノで犯されてるところでも想像してろ」
綾樹じゃない。でも、綾樹であったなら。
佐藤と綾樹は顔以外はよく似ている。綾樹に抱かれるとしたら、こんな感じなのだろうか。
『辛いことがあるなら、佐藤ではなく、私に言いなさい』
さっき聞いた綾樹の声が、桜井の頭の中を駆け巡る。
だったら、今だけでいい。
己が作り出す幻想の中だけでも、綾樹に縋らせて。
桜井の中を蹂躙する男の熱を、今だけ綾樹なのだと思わせて。
「ごめんなさい…綾樹…」
ズッズッと激しく突き入れられ、佐藤の切っ先が最奥を激しく抉る。
「あ、んっ…や、き。綾樹……好き、好き……」
何度も何度も、大きく獰猛な熱核が桜井の全身を快楽という毒で蝕み、思考を麻痺させる。
何が現実で夢幻か。この快楽に囚われたまま、呼吸を止めることができたらいいのに。
そうすれば、もう苦しまない。
「綾樹、好き……シテ、私を、壊して……」
罪深く悲しいほどの甘く心地いい感覚に、急激に限界が近くなる。佐藤の手も、腰も、動きが激しくなり、桜井の身体で受け止めるには、大きすぎる愉悦の津波が意識を攫う。
「綾樹、ああ、いいっ…。もっと…もっと犯して…!」
爪が刺さりそうなほど手をきつく握りしめ、髪を振り乱しながら、桜井は頭だけで後ろを振り返った。
身体の中で爆発しそうな性の狂乱をどうにかしてほしくて、救いを求めるように背後で自分を貫く男に視線だけで縋る。
だが佐藤は桜井の顔を前に無理やり戻した。
「俺の顔を見るな。おまえを救うのは新城だ。今だけは新城の幻想に抱かれていろ」
官能を刺激する低い声に、桜井の全身がびくんと跳ねる。
幻? わかっている。なにもかもが幻だ。
どうせ自分の恋は叶わないのだ。
手の届く距離で毎日肩を並べるあの人に、桜井の想いも手も届かないから、苦しむことしかできない。
彼を求め彷徨いながら、たったひとりなるのが怖いから、綾樹への恋情と妄執を抱えたまま、彼を忘れることも、この身体の渇きを我慢することもできない。
自分自身でどうにもできないから、不埒な快楽に身を委ねるしかできないのだ。
激しく身体を揺らされながら、桜井は意識の奥に綾樹の姿を思い浮かべる。笑顔の彼が桜井にその手を差し伸べているその姿を。自分を救ってくれるのはきっと綾樹しかいない。
悦楽の彼方、綾樹の姿がガラス玉のようにぱあんとはじけ飛ぶ。
脳を灼く激しい絶頂と引き換えに、綾樹の姿が徐々に白い霧の中に消えていくような気がした。
綾樹が私を置いていく。ひとりにされてしまう。
瞬間的に恐怖を感じ、桜井は泣き叫んだ。
「いやだ綾樹…っ! 離れて…いかないで…!」
「……っ!」
佐藤が腰を奥に突き入れて、桜井の中に熱水を浴びせかけた。
「お腹が、あっ、ああ! 熱い…っ!」
腹の奥でじわりと感じる男の精に全身が震え、同時に桜井も限界を迎えた。
「だ、だめっ。綾樹! あ、あや、ああっ!」
堰き止めていたものが、一気に溢れだす。
解放感に抗えず、桜井は勢いよく白濁を噴き上げる。
「あや、き……。許して……汚い…私を……」
綾樹を想いながら他の男に抱かれて吐き出した、桜井の劣情の雫がガラスに飛び散り、灰色の風景に隠微な白い模様を描く。
「んんっ……ああ……」
「恭司……」
佐藤は桜井の名前を呼びながらゆっくりと腰を回す。それがさらに交合の余韻をくっきりと感じさせ、後戯の弱くて甘い電流が全身をゆるやかに駆け巡る。
……気持ちいい。
「ん、う、ンッ……あっ……」
こんなの、自分が望んだことじゃない。それなのに、抵抗の仕方を忘れてしまった。
もう、何にも考えたくない。
未だ自分の中にいる佐藤の存在も、桜井の心を締め付けてやまない綾樹のことも。
桜井は寄りかかり、後ろの佐藤に身体を預けた。
「……あなたはどうせ嗤っているんでしょう。好きな人がいながらほかの男に身を任せてしまう。節操のない淫乱だと」
「まさか、俺はおまえの荷物を減らしているだけさ。俺たちはストレスを発散した。そうだろ?」
耳元で囁くような低い佐藤の声がなんとも心地いい。
愛あるセックスではない。しかし自らが作る幻想の海にさえ堕ちることができずにいるのだから、麻薬のような余韻をもう少し味わっていたかった。
ややあって、男が桜井から出ていく。そして同時に彼が桜井の中に放った淫精が、桜井の腿をつっと伝っていく。
泣き腫らした目で、ガラスに映った己の姿をぼんやりと見つめる。
佐藤に背後から抱きしめられ、下肢をべたべたに濡らし、乱れた姿を晒す自分に、桜井は自嘲する。
心身ともに爛れきっている自分など、綾樹には似合わない。
きっと、これでいいんだ。
自分はこうしてどこまでも、佐藤とともに堕落の海を漂うしかできない。
自分が欲しくてたまらない、愛しい綾樹への欲求を、ほかの男とのセックスで補完できてしまう。
この姿が本当の自分の姿。
自身がガラスに放った精液が花のような形を作り、桜井の腹のあたりを飾っていた。
他人の姿を綾樹にすり替えて、邪欲に飢え渇く桜井の中で生成された劣情の雫は、ゆっくりとガラスを滑って落ちていく。
滴るほどその輪は形を崩し、歪に変化する。
それでまるで、桜井の絶望が作った、心の傷口から噴き出す鮮血のようにも見えて。
異様なスピードで腫瘍が形成され、手術をしてもしなくても、本人に記憶障害が残る恐れが高いこと。
本人の病歴を見ても、治療に耐えられる体力があるかどうか疑わしく、春樹本人すら手術を受ける意思を示していないこと。
佐藤の説明から、前向きな状況など見えてこない。
佐藤は最後に締めくくった。「このままなら確実に、来年の今頃には、彼は空の上だ」と。
「綾樹に何と言えば……」
今回の旅行は綾樹には内緒だ。春樹が見つかったことで、一時は綾樹にいい報告ができると思っていたのに、まさか春樹の状態がこんなにも悪くなっているなんて、綾樹に言えない。
彼にいいサプライズを届けるつもりだったのに、これでは綾樹を悲しませてしまう。
だがその裏側では、春樹が余命いくばくもないことを喜んだ自分がいた。
――来年には、綾樹と自分を邪魔する障害がなくなる。
綾樹が水難事故で記憶をなくして以来、桜井はずっとそばにいて綾樹を支えてきた。
友人の顔すら忘れてしまった十歳の綾樹の心に、桜井は自分だけを見てくれるように刷り込みをかけていった。
綾樹はよく人に誤解されていた。
冷酷なわけではないのだが、人から何をされても、感情を表に出すことがなかったから、子供のころは綾樹に近づくクラスメイトはほとんどなかった。
それは綾樹のせいではない。将来、ブリリアント社を担う後継者であったため、感情をむやみに出すなと、大人たちに言われていたからだ。
それでも桜井は、不器用な綾樹の優しさを知っている。
小学校の卒業式が迫ったある日、桜井は家族と繁華街を歩いていた。
お昼の歩行者天国。人混みでごったがえす中、ランチを食べようと、両親と一緒に通りを歩いていた桜井の目の前に、一台の大型トラックが突っ込んできた。それは一瞬のことだったが、桜井はいまだにそのことを鮮明に覚えている。
スローモーションのように、ゆっくりと自分に迫ってくるトラック。桜井を守ろうと前に立ちはだかった両親。
恐怖を感じる暇もなかった。
そのまま三人とも弧を描いて弾き飛ばされ、地面に激しく叩きつけられた。
病院のベッドの上で意識を取り戻した時、周りの大人は皆、両親は元気にしていると言っていた。
「今はけがの治療で君に会えないが、すぐに迎えに来てくれるよ」ーーだが両親は、既に神様が連れ去った後だった。
彼に真実を教えたのは、テレビのニュースだった。
生き残ったのは、自分ひとりだと知り、毎日ベッドの上で泣き暮らした。
大切な家族を失った悲しさと、一人になってしまった不安とが、桜井を絶望の荒波の中に突き落とした。
見舞いに来た綾樹は、不安と悲しみで泣きじゃくる桜井のそばにずっといた。
慰めの言葉をかけるわけでもなく、ただずっと、手を握って、桜井の涙が止まるまで。
桜井が泣き止んだころ、綾樹は桜井に言った。
『桜井と僕の失くしたものを同列にはできないけれど、僕たちは互いに大切なものを失くした。それはもうどうしようもない。ならふたりで乗り越えよう』
『ふたり……で? 綾樹、それどういうこと?』
戸惑う桜井の両手を取り、綾樹は真摯な瞳を桜井に向けた。
『どんな時でも、僕はずっと君のそばにいる。僕に何ができるかわからないけど、君が負う荷物を一人で抱え込ませたりはしないから』
子供の他愛ない励ましや、なぐさめの口約束などではない。
綾樹はその約束を違えなかった。
綾樹はいつも、黙って桜井を気遣ってくれた。
桜井自身は人に世話を焼かれるのが好きではないから、人に甘えたりすることをしなかった。
そういうものを、人として情けないとすら思っていた。両親を失ってからはなおさらだ。
しかし、綾樹の優しさは別だった。彼は口も手も出さない。不器用に背中をさすりながら、ただ、涙が止まるまで、笑顔が戻るまで、桜井のそばにいるだけだ。
桜井の辛さも悲しさも、すべて綾樹は受け止めてくれた。
それだけでよかった。
誰かがそばにいてくれるだけで、桜井の淋しさは埋められた。
桜井にとって、綾樹は絶望から引っ張り上げてくれた恩人だ。
あの時から、桜井は綾樹のために尽くそうと決めた。そして大人になるにつれて、それは恋心へと変化していったのだ。
時は流れ、綾樹も桜井も社会人になった。
桜井は綾樹と一緒に、十八年という時間を過ごし、綾樹の心の中に、自分の存在をしっかりと作ってきたつもりだ。
綾樹に頼られ、求められる存在でありたかったから、桜井は法曹の資格を取り、数多の法律事務所の誘いを断って、綾樹が代表を務める会社の弁護士となった。
会社になくてはならない存在として、綾樹に求められている。
願い通り、綾樹のそばにいられる人生を送るはずだった。
だが、春樹が現れて綾樹は変わった。
長い時間を掛けて桜井が作ったはずの領域は、あっさりと春樹で塗りつぶされた。
綾樹は春樹を受け入れ、求めるようになってしまった。
春樹のことが憎くてたまらなかった。桜井から綾樹を奪っていき、さらに綾樹の愛を一身に受けている彼の存在が。
死地に赴く人間ほど、強い存在はない。
なにせ、失えばもう会えることが出来ないから、強烈に記憶に存在を刻み込める。失った存在を時間が忘れさせてくれるなんてことはなく、時間が経つほどに想い出はどんどん美化されていく。
そんな相手に敵うわけがない。
それに綾樹の性格を考えると、恋を忘れるために恋をする、ということは考えづらい。
結局、自分の恋情は成就しないままで彷徨って、腐り朽ちていくのだろう。
今にも叫びだしてしまいそうなほど、強く苦しい綾樹への恋心。胸に抱えたそれをどこに持っていけば満たされるのか、桜井にはその道筋が見えてこない。
どれほど泣いても、言葉を重ねても、桜井に愛しい人の心が向くことはない。綾樹の姿が蜃気楼のように揺らめいているだけで、絶対に手が届くことはない。
だが、来年になれば……?
綾樹の心を取り戻せる可能性はあるのだろうか。
(いけない。私は何を考えているんだ)
桜井にとって唾棄すべき、厭らしい人間の本性。
わずかでもそう思ってしまった自分に反吐が出そうになる。
(綾樹……)
身体がなんだか熱くて気分が悪い。そのせいか、頭もずんと重い。
桜井はネクタイを緩めると、そのままベッドに腰かけた。が、突然視界が反転する。
「――!」
ぎしりとベッドが傾いで、佐藤が桜井の上に覆い被さってきた。
押し倒されたのだと思い、慌てて起き上がろうとしたが、佐藤は桜井の脚の間に自分の身体を滑り込ませていて、桜井の自由を奪っていた。
身動きすらとれない。
「どいてください」
「誘ったのはおまえだ」
「誘ったりなんてしていません」
「嘘つけ」
もともと佐藤はスポーツマンで体格がいい。細身の桜井では、佐藤を押し返すことができない。
桜井は軽く深呼吸をし、佐藤に再度「どいてください」と頼んだが、佐藤は桜井のことなど完全無視している。
「おびえた子猫みたいな目をしやがって。そんな潤んだ目をしている奴に何もしないなんて、そこまで人間が出来ちゃいねえんだ、俺は」
「私がいったいなにを……」
桜井を睥睨する佐藤の瞳の奥に、獲物を狙う猛禽類にも似た雄の炎が揺らめいている。
「俺の前で感情ごまかせると思うなよ。おまえ、新城の弟が死ぬと知って、一瞬、自分にもチャンスがあるかもしれないと考えただろう」
「そんなこと、考えるわけがないでしょう」
「わかるさ。完璧な人間なんていやしない。人間は打算と欲の塊だ。だがおまえはそういうものを徹底的に嫌う。本音と建前、そして救いを求める不協和音。おまえの心からその音が漏れ聞こえてくる。助けてってな」
「……っ!」
言葉が出なかった。
佐藤は桜井の心の中を見透かしている。しかもそれは頭に来るほど正確だ。
どんなに平然を装っても、僅かな感情のぶれすらも感じ取られてしまう。
この男の前では、密かな恋すら胸の内に閉じ込めておくこともできないのか。
悔しくて唇を噛む。
桜井が抱えるこの嵐のような狂おしい想いなど、欠片ほども知らないくせに。佐藤は勝手なことばかり言う。
綾樹のそばに寄り添うために、今まで努力してきたのに、今の綾樹は桜井を見てくれない。
春樹は綾樹の心に、熱線の如く自分の影を焼きつけ、空へ旅立つその時に、焼きつけた部分だけをぽっかり落として修復不能にするのだろう。
その場所は春樹の形に切り抜かれている。桜井の形がそこにきれいに収まるわけがない。
相当の時間をかけてきたものが、たったひとりの人間の出現であっさり壊れてしまった。
もう元には戻らない。希望の欠片すらそこにはない。
桜井の恋は、外の桜の花と同じだ。一年もの時間を掛け、咲き誇る瞬間を迎えたのに、風が花弁を引きちぎって散らせてゆく。桜井の恋もまた、綾樹が春樹を諦めない限り、花開くことはない。
佐藤はするりと桜井のネクタイを引き抜くと、引きちぎらんばかりにワイシャツのボタンを外した。
双眸に情炎が燃え滾り、それは桜井の全身を金縛りにする。
それはまるで残酷な燔祭だ。生贄にするのは、胸に綾樹への恋情を秘めた桜井の身体。
男の視線に絡めとられて桜井は動けない。
「やめてください、離して……っ!」
「おまえを助けてやるよ。じっとしてろ」
「なに、を……っ!」
喉がひりついて、声をうまく出せない。その間にも佐藤は桜井を組み敷いたままで、桜井が望まない『救済』の儀式を進めていく。
桜井の肌があらわになり、佐藤の指が桜井の胸をつっと滑る。桜井はびくりと身体を震わせた。
「――!」
佐藤の指先はとんでもなく冷たかった。こんなにも火傷しそうな気迫を纏っているくせに。
桜井の肌をなぞるその指はまるで、膚の下に閉じ込めた、綾樹への想いを抉り出すメスのようだ。
その手はゆっくりと下へ滑り、ついに桜井のベルトに手がかかる。ベルトが抜かれるまではあっという間だった。
身体を暴かれながら、脳裏に過るのは綾樹の姿だ。
いまここで佐藤に抱かれたくない。綾樹への想いを抱えたままでは――。
「お願いですから、やめてください。今はあなたとそんな気分にはなれない!」
語気を強めて必死に抵抗をするが、佐藤は薄く笑った。
「血があれば、その香りを嗅ぎつけて獣は寄ってくるんだ。そして獣が、餌を目の前に容赦なんかするか?」
「何言っているんです。意味が分からない!」
スラックスのボタンが外され、下着と共に蹴り下ろされた。佐藤の一瞬の隙をついて桜井は彼を強く押しのけ、身体の下から抜け出したが、足元に纏わりつく衣服が、まるで足枷のようになって、うまく動けない。
それでもなんとかベッドから滑り降りた瞬間、桜井は後ろから突き飛ばされ、目の前の壁にしたたかに頭をぶつけた。
「くっ……!」
さらに壁に頭を押し付けられ、その衝撃で桜井の眼鏡が床に落ちる。
「なに、を……」
「大人しくしておけ」
行為は暴力的なまでに激しいのに。その声は平坦で硬く、絶対零度の冷たさを帯びている。
情熱と冷静の間なんてもんじゃない。佐藤の中ではいま両方の感情が不安定にぶつかり、それが強烈な毒を孕んで、歪で激しい欲情の渦を生み出している。
「嫌だ……こんなの」
「そうか、わかった」
佐藤は桜井の腕を強引に掴むと、無造作に桜井の身体をベッドに引き倒した。
「あっ!」
一瞬だった。
彼は桜井の抵抗を読んだのか、起き上がる隙も与えない。俯せに倒れ込んだ桜井の両手首を捕らえると、そのまま後ろ手にねじあげて拘束する。
その力はとんでもなく強く、桜井は痛みに顔を顰めた。
「立ったままは嫌なんだろ? だったらベッドの上でならいいんだよな?」
「冗談……」
地の底を這うような低い声の命令を拒み、桜井は横の窓ガラスに視線を走らせた。
佐藤の横顔は、まるで能面のようだった。ガラス窓のせいで色彩がぼんやりしているせいか、表情の冷たさだけがやけに際立ち、そのガラス玉のような感情のない瞳が桜井を睥睨している。
「放して。私はこんなことをするために来たんじゃ」
「ふうん、それが人に物を頼む態度かよ? いいぜ、激しく犯してやるよ」
佐藤は桜井の下腹に手を差し入れ、まだ萎えている桜井自身と釣鐘をきつく握った。
「――!」
急所を握られた痛みに、桜井は弾かれたように体を浮かしてしまう。
佐藤はすぐさま桜井の腰に腕を差し入れてきた。あっという間に四つん這いにさせられ、征服の準備が完了する。
「さて、楽しもうじゃないか」
背後で佐藤がクックッと喉の奥で笑っている。
彼の手が桜井の滑らかな尻朶や腹を這いまわっていた。中心に近いところに近づくのに、そこには触れない。もどかしさに桜井は無意識に佐藤の手を導こうと腰を動かしたが、はたと我に返る。
しかし時は遅く、佐藤は桜井の痴態に気付いていて「触れてほしいのか?」と訊ねてくる。
佐藤は桜井の身体を知り尽くしている。直接的な前戯がなくても、桜井がどうすれば反応するのか、桜井の身体と意識を激しく淫らになるよう仕込んだのは誰あろう、佐藤だ。
不意打ちのように佐藤の指が背後から桜井自身に触れた。硬くなって蜜をこぼし始めたそこをゆるゆると扱かれる。
「んっ……」
思わず口から甘い喘ぎが飛び出る。
背筋にゾクリと走る甘い電流は、桜井の身体に官能の熱を溜めこませ、身体を開花させる合図だ。
「おまえ、嫌なんじゃなかったっけ? ここをこんなにして、俺を誘ってるけど?」
「あなたという人は。私をこんなにして楽しいんですか」
「ああ楽しいね。絶望の泉に立ち尽くして、新城の幻影に囚われているおまえは……最高に美しい」
快楽を呼吸で逃がそうとする桜井の首筋に、佐藤が噛みつくようなキスを落とす。
「痛っ……」
耳元で囁かれ、その魅惑的な低音に全身が期待に震える。それはまるで獣の交合の始まりーー。
「俺のことを残酷な奴だと思うか、恭司?」
皮膚が裂ける感覚に、唇を噛む桜井の耳元で重々しく、押し殺すような低い声で佐藤が囁く。
「呼べよ、あいつの名を」
気持ちをしっかり持っていなければ、暗い深淵の底に引きずり込まれてしまいそうだ。綾樹への想いを抱えていながら、佐藤なんかの手で淫らに変化してしまうのは絶対に嫌だ。
言い知れぬ恐怖が桜井を支配する。桜井の心の奥にしまっている綾樹への気持ちが踏みにじられてしまう。
(堕ちるな。私は。私は綾樹のことが……)
桜井のすべてを自由にしていいのは綾樹だけなのだ。
そんな現実、ありえないとしても。
そんな幸せ、絶対に来ないのだとわかっていても。
「これは愛あるセックスなんかじゃないんだぜ? おまえは俺にレイプされようとしてるんだ。 ほら、あいつに『助けて』って言ってみろよ」
佐藤の舌が桜井の耳を軽く噛む。その刺激だけで桜井の秘蕾が花咲こうと疼きだす。
だがこの男に沈むわけにはいかない。
綾樹のことが、好きなのだ。
「いや……です」
佐藤は「ふうん」とつまらなさそうに呟きながら、桜井がこぼす蜜を指に取った。
「じゃあ、せいぜいいい声を聴かせな」
佐藤は桜井の脚の間に自分の身体を割り込ませ、桜井のひくつくアヌスがよく見えるように、脚を拓かせた。
そこをじっと見る佐藤の目が、まるで舌のようにも思える。恥ずかしいのに、淫蕾をねっとりと舐められているような感覚を覚え、興奮が高まっていくのを抑えられない。
見られているだけなのに……気持ちいい。
「いい格好だ。そそるね」
佐藤が桜井の細い腰を掴む。窄まりに桜井の蜜で濡れた指を食まされ、「あっ」と小さな悲鳴が桜井の口から飛び出た。その声には甘さが乗っている。
身体中が過敏になっていく。少しの刺激でもたまらない。
佐藤は無言のままで蹂躙を始めた。彼の指が桜井の中で蠢いている。ほどなく桜井の蕾から濡れた音がし始め、襞の引き攣れた感覚がなくなった。
それは綾樹の指ではない。
だけど、だけど……。
「だ、だめ……やめて」
両手をきつく握りしめ、この快楽をどうかして逃がそうといろいろと思考を巡らしてみるも、そんなものは自身の身体に与えられる官能の快楽に上書きされる。
やがて蕾が柔らかくなり、男を迎え入れる準備が、着々と整っていく。
「じゅぶじゅぶいってるぞ? なんだ、もうでかいのをハメてもらいたくて我慢できねえの? 前も完全に勃っちまってるけど?」
「……そんなこと」
「……ふうん。じゃ、何されても感じないわけだ?」
男の指が桜井の敏感な部分を擦り上げた。
「ああっ!」
腹から電流のような快楽が瞬時に走り、たまらず桜井は一度吐き出した。きつく勃ちあがった自分自身から、勢いよく吐き出されたそれは、自分の腹やシーツを汚し、佐藤の虜囚であることを桜井に理解させる。
急激な射精で、息が苦しい。桜井は肩で息をつきながら、吐き出した己の精液を見つめていた。
他の男に身を任せようとしている自分の心は、きっとこんな風に濁っているのだろう。
「おやおや、もう出したのか。堪え性のない奴だ」
背後で佐藤が「仕方ないな」と子供の粗相を見るかのように笑っている。
「立て、桜井。窓ガラスのところに行け」
「……え?」
佐藤は何を考えている? どうして抱いてくれないのか。
「おまえは後ろからハメられるのが好きだろ?」
後背位が好きなわけではない。後ろから突き入れられると、相手の顔を見ずに済む。頭の中で描く、桜井の願望まで相手に自由にさせないための手段だ。
桜井はゆるゆると緩慢な動きでベッドを降り、言われた通り窓際へと向かう。佐藤は桜井が転倒しないよう身体を支えながらエスコートし、桜井の両手を窓ガラスにつけさせる。
「腰を後ろに突き出せ」
そのまま桜井の左足をスライドさせるように軽く蹴りながら佐藤が囁く。
かちゃりと金属の音がして、さっきの指よりも質量の大きいものをあてがわれる。
「ほら、これが欲しいんだろう?」
滾りきった佐藤の熱核が触れた。閉じた淫蕾がくちゅと音をさせながら、奥へ引き込もうと蠢きだす。
男に抱かれることを知る身体だ。そのサインの意味をいやおうにも感じてしまう。
「あっ……」
「腰をくねらせて、自分で挿れようとしているのか。こんな姿、あの堅物が見たなら、我慢できずにおまえを欲望のままに食っちまうだろうなあ」
「そんな……」
淫蕩な身体は正直だ。腹の奥が熱く疼いてたまらない。早くこの身体を雄芯で激しく貫いてほしい。
綾樹の手で導かれているわけではない。頭ではそれを理解しているのに、桜井は蜜を零しながら、男の手で徐々に理性を食われていた。
不意に佐藤が桜井の目の前に何かを突きつける。それは綾樹の写真だった。
「それっ…!」
会議が始まる前に、こっそりスマートフォンで撮影した写真。会場を撮るふりして、ファインダーに収めた愛しい人は、長身をダンヒルの黒いスーツに包み、真剣かつ怜悧な眼差しで、口を一文字に引き結んでいた。
これから会議という戦いに臨もうとしている、綾樹の姿がディスプレイに映っている。
少し前に、海外の大手製薬会社から企業買収をふっかけられた際のものだ。
報道陣も多数集まっていて、大手老舗企業の若き社長の手腕と判断に注目された。綾樹が社長となって、初めての危機。
桜井も綾樹と一緒に会社を守るために奔走した。
写真の綾樹の双眸からは、「絶対に引き下がらない」という不退転かつ、決死の覚悟が見える。
ゾクリとするほどの気迫を纏う綾樹は、怖いほど美しい。
上質なスーツがよく似合っていて、写真を見るたび、その姿に陶然とし、息が止まりそうになる。
桜井のスマートフォンに入っている、大切な綾樹の写真。
「昔は好きな子の写真はロケットに入れていたもんだが、時代が変わればツールも変わるんだな」
「あなたという人は、人のスマホまで勝手に」
取り返そうとするより早く、佐藤がひょいとスマホを取り上げる。
「これはお預けだ」
桜井の一番ナイーブなところまで引っ掻き回す気なのか。知っているだけに余計に腹立たしくなる。
――だったら、佐藤の望み通りにさせてやる。
首だけ回して背後の佐藤をきつく睨みつけた。
「あなたは私に……ここまで…させたんです。私を満足させなければ、承知しませんよ……」
男が「ああ、わかっている」と歪に嗤う。
はやく貫いてほしい。激しく犯してほしい。
佐藤の余裕すらじれったい。
「早く……」
我慢できずに挿入をせがめば、背後で男が声を殺して愉しげに笑う。
「さあ、始めようか?」
もうなんでもよかった。こんなに淫らに煽られて、ここでやめられたら気が狂うかもしれない。
粉々に壊してほしかった。
貪婪な身体も。綾樹へと惑い彷徨う恋情も。なにもかも。
桜井の中についに男が入りこんでくる。
「ん、ああっ!」
男はゆっくりと桜井の狭道を突き進む。熱核はさらに大きさを増して、その質量に息が詰まる。
「キツイか桜井。ゆっくり息を吐け。…そう、うまいぞ」
佐藤は桜井の呼吸に合わせながら腰を進め、彼の最奥にたどり着いた。
レイプまがいのことをしておきながら、桜井の身体への負担を最小限にとどめている。どうせなら好きに犯せばいいのに、佐藤のこういう半端に優しいところが憎たらしい。
だけど、今更抱くのをやめてほしくない。
頭ではわかっている。この手は綾樹ではないのだと。それなのに。
佐藤から強制的に与えられるものに抗えない。
「熱いな、おまえの中……」
「うる、さい……」
「奥がいじらしく震えてるぜ? 相変わらず男を上手に煽る身体だな。……最高だ、桜井。おまえの孔は」
佐藤の低い声が、蠱惑的な熱となり、桜井の耳から入り込んで全身を駆け巡る。
最奥を叩くように佐藤の切っ先が動く。だが、いきなりその動きは大きくなり、桜井を容赦なく打擲しはじめた。
「あうっ!」
吐息が絡み、汗が飛ぶ。密着する肌と肌は爛れきった性の快楽に色づいていた。
佐藤の手がまた桜井自身にのび、彼は桜井を貫きながら、蜜に濡れた茎を扱きだす。ちゅっちゅっと濡れた音だけがやけに大きい。それは自分の茎をしとどに濡らすこぼれた蜜の音。
「あっ、いいっ……、それっ…」
快楽に流されそうになりながら、桜井は窓ガラスに爪を立てていた。
ガラスの外に広がる灰色の空。そこに毎日会社で見る綾樹の姿を思い描くが、窓越しに映る酷薄な笑みを浮かべている佐藤の姿が、桜井を現実に引き戻す。
綾樹への想望すら、許されないのか。
どうせ叶わないのに。叶わないから、この時間が夢であってほしいと願うのに。
佐藤の手が速さを増す。腰が痺れて、腹の奥から熱水が沸き上がるのを感じる。男の手で身体をくねらせながら、この現実から意識がめりめりと激しく引き剥がされていく。
瞬間、桜井の中で暴れている佐藤の切っ先が、一番感じる場所を擦り上げた。
「あああっ! だめぇっ!」
甘い悲鳴が飛び出し、強烈な痺れが腹から全身に走る。
「私、は……やっ…! んんっ!」
白い闇に飲み込まれるような強烈な錯覚。とんでもなく危険で後ろめたい愉悦を感じながら、桜井は絶対に成就しない苦怨の恋に堕ちていく。
「ああ、綾樹……」
不意に口にする、愛しい名前。
「綾樹……、私は……ああ、綾樹」
涙が零れ落ちる。
綾樹のことが好きなのに。
どうして自分は綾樹以外の男に身を任せている?
どうしてそれを許せている?
「綾樹……綾樹」
「いいぞ恭司。もっとだ、もっとその名を呼べ」
その名前は、桜井の腹の奥で切ない痺れを発生させる。綾樹を想いながら、綾樹ではない男に身を任せている自分が許せない。
「綾樹…。いや…あん…んっ…! …綾樹、あやき…っ!」
全身が痺れて、力が抜けそうになる。背徳感が性感を最大まで高めてゆく。
「だめ、もう、あっ、あっ!」
だが、桜井の放埓は寸前で止められた。
身体も心もすべて、浅ましい悦楽に蕩けきった桜井の耳に届いた、この状況には不似合いな音楽。
それはスマートフォンの着信音。「ラプソディ・イン・ブルー」。桜井のスマートフォンから聞こえる音だ。
そして、その着信音の相手は。
見なくたって分かる。
いつもなら気持ちが舞い上がる曲なのに、処刑宣告をされたかのように、桜井の頭からさっと血の気が引き、全身が凍り付く。
「セックスの最中に電話とは無粋だな。俺たちの邪魔をしてるのは誰なんだろうな?」
佐藤の声が獰猛さを秘めている。
「出ないのか?」
「……私のスマホは……あなたが持っているから」
「俺のことなんか気にしないで出たらいい」
桜井の目前にスマートフォンを出す。画面には「新城綾樹」と表示されている。
桜井が画面から顔を背けると、佐藤がさらに身体を密着させ、桜井の耳元で囁いた。
「社長が法務弁護士に連絡してきているんだぜ? 電話に出ないのはさずがにまずいんじゃないの?」
「あとで……掛けなおしますから」
「この後、何度もかけられても興を削がれる。あの堅物はしつこそうだ。今出ておけよ」
佐藤は通話ボタンを押し、桜井の耳に「ほら」とスマートフォンを押し付けた。仕方なくそれを右手で取り、「もしもし」と応じると、「なにかあったのか?」と受話器越しに綾樹の心配そうな声がした。
生真面目な綾樹は、電話になかなか出なかった桜井の身を案じているのだろう。
それがわかるから、余計に心が軋む。
こんな情事に耽っている自分を心配してくれる、綾樹の優しさが痛すぎて。
「別に…なにも、ありません」
会話の内容を佐藤に聞かれたくない。しかし静かな部屋の中ではその会話はどうしたって漏れ聞こえる。
「社長、どうしたんです?」
後ろめたさを誤魔化すように、窓の外の景色を眺めながら、桜井は平静を装う。
自分を堕落させる淫毒を断続的に突き入れられながらも、意識を電話に集中させていた。
絶対に綾樹に悟られてはならない。こんな爛れた空間を。そして他の男を綾樹の代償にしている、薄汚い自分の本性を。
『大した用じゃないんだ。おまえの家の近くまで来たから、食事でも一緒にどうかと思って』
「春樹くんは?」
『ああ、うん。ハルのことはいいんだ。何も連絡がないのだから、あいつはあいつで好きに過ごしているんだろう。だけど、一人の週末も味気なくて。それでなんだか……』
綾樹は言葉を濁したが、春樹のいない淋しさを何とか紛らわそうとする、彼の切なさが伝わってくる。
『急に連絡してすまない。誰かと話したいんだ』
綾樹は桜井と違い、誰かを代わりにして淋しさを埋めることを知らない。
だから桜井に電話をしてきたのだろう。業務を離れれば、綾樹と桜井は気のおけない友人だ。食事に誘われたところで、何らおかしなところはない。
『とにかく賑やかな所がいいな。私が奢るよ。桜井が知っている店でもあればそこでもいい。家にいるなら出てこれないか?』
「社長、すみません。私は今……ああっ!」
不意に佐藤が激しく腰を突き込んできた。
「ん、ああっ……いや、社長、社長……」
『桜井? どうした、桜井?』
甘さと悲鳴と苦しさが口から洩れる。さらに佐藤は、のけぞる桜井の首筋に強烈なキスを落としてきた。その痛みすら心地いい。
「痛っ…」
『桜井、どこにいる。体の具合でも悪いのか?』
「違います、違うんです……あっ、やぁっ、んあっ……ああん……っ」
こんな甘ったるい声を聴けば、いくら鈍感な綾樹でも気づくだろう。
桜井が今、何をしているのか。
受話器越しに聞こえる綾樹の声が、桜井の性感帯を刺激し、下腹をじんと痺れさせる。それが全身を虫のように駆け巡っていく。
指先まで全部、綾樹の声に反応しながら、後ろからぐちゅぐちゅと中をかき回されて、桜井の身も心もドロドロに堕落していく。
――たまらない。
口唇は震え、ろくに喋ることもあやしい。性の麻薬は強力だ。
だけど、こんな状態、綾樹に知られたくない。
「綾樹……お願いです……切って、電話を切って……」
『何を言ってる。切れるわけないだろう』
「お願いですから、綾樹……綾樹……あ、んっ!」
綾樹にこんな恥ずかしい声を聴かれている。
悲しみに胸が張り裂けそうになるが、綾樹が佐藤と一緒に自分を犯しているような錯覚さえ覚え、桜井の神経がより快楽を激しく受け止める。
「綾樹……だめ、わたし、私は……綾樹」
『桜井……?』
戸惑ったように綾樹が桜井の名前を呼ぶ。
それがたまらなくいい。
恋が成就しないなら、電話越しの妄想でも何でも、もはやなんでもいい。桜井の中に入り込んでいる凶暴な熱核が、他人のものでも。綾樹が自分の名を呼んでくれるなら。
ひょいと桜井の手からスマートフォンが取り上げられた。
「そういうことだ、新城。桜井は今都合が悪い。あとで掛けなおさせるから、一回切るぜ?」
『……佐藤か』
「久しぶりだな、新城社長殿」
綾樹の声が部屋中に響き、桜井は驚いてびくんと身体を震わせる。どうやら佐藤はスピーカー通話ボタンを押したようだ。
綾樹の声が、喘ぎ悶える桜井にもよく聞こえるように。そして桜井の声をより拾えるようにだ。
趣味が悪いにもほどがある。
「おまえ、腹の傷はもういいのか?」
『私のことなどどうでもいい。桜井はどうしてる。何があった? 只事ではなさそうなんだが?』
佐藤の社交辞令など完全無視の綾樹は、佐藤と桜井の状況を訝っている。
「大したことじゃねえよ。風邪をひいてるようでな。薬を飲ませたんだが、その副作用だ。桜井と相性が悪かったらしくて、意識が朦朧としているんだ。妙な事を喋っているが、勘弁してやってくれよ」
『良からぬものでも飲ませたんじゃないだろうな』
「俺は一応医者なんですけど? 変なもんなんか飲ませるわけねえだろ。廃業のリスクなんか冒すか」
佐藤は綾樹に嘘の説明を平然としながら、腰の動きを絶対に緩めない。
右手でスマートフォンを持ち、左手で桜井の腰を抱き、接合をさらに密着させ、桜井の最奥をこつこつ叩いている。セックスの最中だというのに、その声に乱れがない。
『本当に桜井は無事なんだな?』
「ああ、おまえも仲間に入れてやりたいところだぜ。こいつわがままでさ。一人で面倒見るのは結構大変なんだ。おまえが手伝ってくれりゃ、桜井も早く元気になるだろうけどな」
冗談ではない。こんな痴態を見られたら。
桜井は泣いて懇願する。
「いや、やめて……綾樹、あやき……」
『桜井は本当に大丈夫なんだな? 彼は我が社の大切な人材だ。長期離脱されては困る』
「人材、か。おカタイねぇ新城。俺たち同級生じゃん? こんなプライベートの会話で社交辞令はいらないだろ? たまには名前で呼んでやったらどうなんだよ、恭司ってさ」
『佐藤……』
「桜井だって喜ぶだろうさ。なあ桜井?」
佐藤は桜井に話を振るが、桜井は唇を噛んで黙っていた。これ以上綾樹の声を聞いていたらおかしくなってしまいそうだ。
おそらく綾樹はスマートフォンを握りしめ、眉間に皺を寄せて、呆れかえって溜息でもついているに違いない。真面目な綾樹は、こういうことを嫌うから。
『桜井は病気なんだろう? つまらんことを無理に言わせようとするんじゃない。副作用で苦しんでいるなら、余計に体力を使わせるな。彼が疲れるだけだ。病気を長引かせたら悪い』
綾樹は言葉を慎重に選びながら、ゆっくりと話している。こういう時の綾樹は大体機嫌が悪いのだ。
おそらく、早くこの会話を終わらせたいが、桜井の様子も気になるといったところだろう。
綾樹が自分の目でその場を確認しているならまだしも、電話越し、しかも佐藤が相手だ。
佐藤のような、人の都合をあまり考えない人間を、綾樹は好まない。苦虫をガリゴリ噛み潰しながら会話をしているのは想像に難くない。
長く一緒にいるから、桜井には綾樹がどうしているのか、その姿、表情、思考までもが手に取るようにわかる。
『桜井に身体を労われと。そう伝えてくれ』
「いまここにいるんだ。おまえの口から言ってやれば?」
『……』
スピーカーからは小さな舌打ちが聞こえた。明らかに苛立っている。ふた呼吸ほど間があって、綾樹が呼び掛けてきた。
『桜井、聞こえているか?』
「聞こえて……います」
息も絶え絶えに返事をすると、綾樹のため息が聞こえる。
きっと呆れられているんだろうと思った。
好きな人に幻滅されるのは辛い。しかし、春樹がいる以上、どうしたって桜井の願いは届かない。
ここでいっそ綾樹が自分を突き放してくれたなら。
そうすれば、来週は法務弁護士として、彼の前に立てる。余計な感情に己を失うことなどないだろう。
桜井の目から涙がこぼれる。
彼の想いはここで葬るのだと決意する。
だが。
『身体の具合が悪いなら、ゆっくり休んでいろ。あと、嫌なことは嫌だと、佐藤にはっきり言いなさい』
まるで子供を叱るような綾樹の声。優しささえ感じるそれに、桜井は唇を噛んだ。
――どうして?
憐憫や同情ならいらない。綾樹に迷うことがないように、淡い恋心ごと叩き潰してほしいのに、綾樹は桜井の心配をしている。
『桜井は優しすぎるんだ。だから佐藤の様な輩がつけあがる。それに私はいつもおまえにはかなり迷惑をかけている。ハルの行方を捜してくれながら、通常業務をこなしているのを、私が知らないとでも思ったか?』
「綾樹……知っていたんですか」
桜井の心の琴線がピンと弾かれた。硬く澄んだ音が、静寂を切り裂くかの如く、驚愕と歓喜が桜井を満たしていく。
仄暗い諦めの湖に投げ込んだはずの恋心、それが欣幸の波紋を広げていく。じわじわと桜井の胸をときめきが揺さぶる。
「綾樹…?」
『オーバーワークもほどほどにしなさい。昔から無理をするのは、おまえの悪い癖だ』
――綾樹は私を見ていてくれたのか。
たとえそれが報われることがなくても、綾樹の歩く道から障害をなくすのが桜井の役割だった。
綾樹こそ、桜井を心配するようなそぶりは、一度も見せたことがなかった。だから桜井には無関心だと思っていたのに。
桜井だけが綾樹を見ていたのではない。綾樹もまた、桜井のことを見守っていたのだと初めて知る。
「あや、き……」
『私たちは十八年共にいるんだ。今更遠慮が必要な仲ではないはずだろう? おまえが重荷を抱えているなら、それを一人で持たせないと、私は言わなかったか』
「覚えて…いたんですか」
幼い日に綾樹が桜井にしてくれた約束。
まだ覚えているなんて。
「綾樹……」
『辛いことがあるなら、佐藤にではなく、今後は私に言いなさい。いいな、恭司』
同級生だというのに、少し上から目線の綾樹の優しさが痛いほど身にしみて涙が止まらない。
名前を呼ばれて、飛び上がりたいほど嬉しいのに、同時に底の見えない暗闇に落とされた気さえする。
やはり、そこに「恋」はない。
綾樹は友人としてしか、桜井を見ていない。
だが、今までに可能性はいくらでもあったはずだ。
強烈な後悔が、桜井の心臓を貫いた。
こんなことなら、一度でも綾樹に好きだと言っておけばよかった。
そうすれば、綾樹は桜井のものだったかもしれない。自分は、春樹よりも長い時間、一緒だったのだ。チャンスはたくさんあったのに、それを見送ったから、本当に好きな人と身体も、そして心も繋げられない。
己の身に男を咥えこんだ状態で、好きな人の声を聞き、その優しさを知るなんて。残酷なんてもんじゃない。
如何に自分が薄汚いのか、嫌になるほど思い知る。
「綾樹、私は」
『佐藤もだ。桜井は多忙な身だ。本当に風邪の介抱をしてくれているなら礼を言うが、桜井を困らせているなら承知しない』
綾樹はそれだけ言うと、一方的に通話を切った。無常に響くビジートーンに、絶望にも似た不安が桜井を襲う。
綾樹から見限られたような気がして。
佐藤はふんと鼻で笑うと、桜井のスマートフォンをベッドに放り投げる。
「ふふ、相変わらずの堅物だ。あれだけ煽っても、取り乱さないなんて、あいつは不感か」
「……呆れて電話を切ったに決まってるでしょう。こんなくだらない痴態を聴かせたんですから」
「聞いたか? おまえを困らせるなら承知しない、だってよ。困らせてないさ。なあ?」
佐藤は腰を引くと、勢いをつけて桜井を貫く。
「気持ち良くはしてやってるがな!」
「あんっ!」
同時に佐藤の手が桜井自身をぬちぬちと扱き始めた。
「天にも昇る快楽をくれてやる。あいつのモノで犯されてるところでも想像してろ」
綾樹じゃない。でも、綾樹であったなら。
佐藤と綾樹は顔以外はよく似ている。綾樹に抱かれるとしたら、こんな感じなのだろうか。
『辛いことがあるなら、佐藤ではなく、私に言いなさい』
さっき聞いた綾樹の声が、桜井の頭の中を駆け巡る。
だったら、今だけでいい。
己が作り出す幻想の中だけでも、綾樹に縋らせて。
桜井の中を蹂躙する男の熱を、今だけ綾樹なのだと思わせて。
「ごめんなさい…綾樹…」
ズッズッと激しく突き入れられ、佐藤の切っ先が最奥を激しく抉る。
「あ、んっ…や、き。綾樹……好き、好き……」
何度も何度も、大きく獰猛な熱核が桜井の全身を快楽という毒で蝕み、思考を麻痺させる。
何が現実で夢幻か。この快楽に囚われたまま、呼吸を止めることができたらいいのに。
そうすれば、もう苦しまない。
「綾樹、好き……シテ、私を、壊して……」
罪深く悲しいほどの甘く心地いい感覚に、急激に限界が近くなる。佐藤の手も、腰も、動きが激しくなり、桜井の身体で受け止めるには、大きすぎる愉悦の津波が意識を攫う。
「綾樹、ああ、いいっ…。もっと…もっと犯して…!」
爪が刺さりそうなほど手をきつく握りしめ、髪を振り乱しながら、桜井は頭だけで後ろを振り返った。
身体の中で爆発しそうな性の狂乱をどうにかしてほしくて、救いを求めるように背後で自分を貫く男に視線だけで縋る。
だが佐藤は桜井の顔を前に無理やり戻した。
「俺の顔を見るな。おまえを救うのは新城だ。今だけは新城の幻想に抱かれていろ」
官能を刺激する低い声に、桜井の全身がびくんと跳ねる。
幻? わかっている。なにもかもが幻だ。
どうせ自分の恋は叶わないのだ。
手の届く距離で毎日肩を並べるあの人に、桜井の想いも手も届かないから、苦しむことしかできない。
彼を求め彷徨いながら、たったひとりなるのが怖いから、綾樹への恋情と妄執を抱えたまま、彼を忘れることも、この身体の渇きを我慢することもできない。
自分自身でどうにもできないから、不埒な快楽に身を委ねるしかできないのだ。
激しく身体を揺らされながら、桜井は意識の奥に綾樹の姿を思い浮かべる。笑顔の彼が桜井にその手を差し伸べているその姿を。自分を救ってくれるのはきっと綾樹しかいない。
悦楽の彼方、綾樹の姿がガラス玉のようにぱあんとはじけ飛ぶ。
脳を灼く激しい絶頂と引き換えに、綾樹の姿が徐々に白い霧の中に消えていくような気がした。
綾樹が私を置いていく。ひとりにされてしまう。
瞬間的に恐怖を感じ、桜井は泣き叫んだ。
「いやだ綾樹…っ! 離れて…いかないで…!」
「……っ!」
佐藤が腰を奥に突き入れて、桜井の中に熱水を浴びせかけた。
「お腹が、あっ、ああ! 熱い…っ!」
腹の奥でじわりと感じる男の精に全身が震え、同時に桜井も限界を迎えた。
「だ、だめっ。綾樹! あ、あや、ああっ!」
堰き止めていたものが、一気に溢れだす。
解放感に抗えず、桜井は勢いよく白濁を噴き上げる。
「あや、き……。許して……汚い…私を……」
綾樹を想いながら他の男に抱かれて吐き出した、桜井の劣情の雫がガラスに飛び散り、灰色の風景に隠微な白い模様を描く。
「んんっ……ああ……」
「恭司……」
佐藤は桜井の名前を呼びながらゆっくりと腰を回す。それがさらに交合の余韻をくっきりと感じさせ、後戯の弱くて甘い電流が全身をゆるやかに駆け巡る。
……気持ちいい。
「ん、う、ンッ……あっ……」
こんなの、自分が望んだことじゃない。それなのに、抵抗の仕方を忘れてしまった。
もう、何にも考えたくない。
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桜井は寄りかかり、後ろの佐藤に身体を預けた。
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泣き腫らした目で、ガラスに映った己の姿をぼんやりと見つめる。
佐藤に背後から抱きしめられ、下肢をべたべたに濡らし、乱れた姿を晒す自分に、桜井は自嘲する。
心身ともに爛れきっている自分など、綾樹には似合わない。
きっと、これでいいんだ。
自分はこうしてどこまでも、佐藤とともに堕落の海を漂うしかできない。
自分が欲しくてたまらない、愛しい綾樹への欲求を、ほかの男とのセックスで補完できてしまう。
この姿が本当の自分の姿。
自身がガラスに放った精液が花のような形を作り、桜井の腹のあたりを飾っていた。
他人の姿を綾樹にすり替えて、邪欲に飢え渇く桜井の中で生成された劣情の雫は、ゆっくりとガラスを滑って落ちていく。
滴るほどその輪は形を崩し、歪に変化する。
それでまるで、桜井の絶望が作った、心の傷口から噴き出す鮮血のようにも見えて。
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