夏空を舞う翼

浅倉優稀

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#3 

告白

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 ジャングルには、連日強い日差しが照りつけたが、時折ひどい雨にも見舞われた。
 だが雨が降れば、しばし不快な蒸し暑さを忘れられるし、なにより喉を潤すことが出来る。雨水は私たちの命を繋ぐ、大切な空の恵みだった。
 今夜も湿った風に乗って水の匂いがする。どうやらひと雨来そうだ。見上げた空に星はなく、朧月の輪郭が雲に透けていた。
 結局私たちは、そんなに歩かないうちに日暮れを迎えてしまい、途中で見つけた洞窟で一夜を明かすことにした。
 洞窟の奥行きはさほどなく、私たち二人が寄り添ってやっと座れる程度で、本当に雨露を凌げるくらいの広さだ。
 ジャングルには人間を狙う危険な動物が多い。彼らを寄せ付けないためには、焚き火が最適の手段だが、闇に燃える火は敵に居場所を教えることになり危険だ。
 私たちは暗闇の中でじっと朝を待つことにした。
 岩の割れ目や天井からはちょろちょろと水が染み出していた。その水はこんな蒸し暑い場所とは裏腹にとても冷たかった。
 ろくに水も飲まないままだった私たちは、岩肌に舌を這わせ、染み出る水を必死に飲んだ。
 渇いた喉を潤す冷たい水は死ぬほどおいしく、私は喉を鳴らしてその水を飲み、そばに生えていた名も知らぬ苔を食べて、空腹を凌いだ。
 腹がある程度満足し、私は中将の命令で横になっていた。
 熱は幾分か下がったような気がしたが、それでも寒気は相変わらずだった。
 中将はそんな私を気遣い、自分の上着を脱いで私にかけてくれ、自らも横になり私に腕枕をしてくれた。硬い地面ではゆっくり休めないだろうという彼の配慮だった。
 戦いの歴史が刻み込まれたような、汚れてボロボロの軍服ではあるが、彼の優しさに包まれ、私はとても嬉しかった。
 かけられた上着ごと抱き寄せられ、私は中将に寄り添って眠りにつく。
 だが、自分ひとりだけがこうして生きているのが忍びなかった。
 眠りかけると、夢の中に昼間死んだ仲間たちが現れる。生気のない虚ろな瞳で私たちの周りを取り囲んで聞くのだ。
『俺たちはいったいどうしてあの場所から動けないのだ』と。
 鈍色の彼らの手が私の頸を捕らえる。
『なあ瀬川。おまえは俺たちを置いて逃げているのか』
『敵に背を向けて逃げるのか。この非国民、裏切り者!』
 血や肉片がこびりついた、彼らの割れた爪が私の身体中に食い込んで、悲しみと恐怖が満ちる緋色の泉へ引き込もうとする悪夢。
 悲鳴を上げて私が何度も飛び起きるたび、中将は胸の中に私を抱き寄せ、落ち着くまでずっと「俺がいるから大丈夫だ」と何度も耳元で囁いてくれた。
 私たちの命はちっぽけなものかもしれない。それでも今は生きるために歩いている。
 だが彼らの歩みは、強制的にあの場所で止められてしまったのだ。
 自分が生き残ったことの罪深さを痛感する。
 胸が張り裂けそうになって、空を見上げると、雲間から月が顔を出していた。
 柔らかな光を地上に振りまく月は、世界のどこでも変わらないようだ。
 悪夢のおかげで汗をたっぷりかいたが、そのせいか身体は少し楽になった。
 横では中将が静かな寝息を立てて熟睡している。私がそっと起き上がると、中将の腕が私の腰に絡みついてきた。
「瀬川、どこへ行く」
 中将は目を閉じたまま私に聞いた。
「まだ体が熱い。夜が明けるまで寝ていろ」
「いえ、ちょっと夜風を浴びようかと」
「雪隠か」
「そうではありません。寝ていたら少し体が楽になったので。もう中将におぶわれずともちゃんと歩けそうです」
「ふむ、しかし」
 中将も起きだしてきて、私の背後から腕を回した。そのまま自分の胸に抱きとめると、私の額に手を当てる。
「まだ無理をさせられないな」
「中将殿は過保護ですね」
「おいおい、そこは『優しいですね』と、俺に甘えるところだろう?」
 中将の大きな手が、私の頭に乗る。
「ほら、甘えろ。遠慮は要らんぞ、瀬川」
 私は甘えて、中将に背中を預けた。人肌の温もりが私に安心感を与えてくれる。
「中将はお優しいですね。まるで兄のように年下の私を気遣ってくれて。そういえば妹さんがいらしたんですよね? こんな素敵な兄上をお持ちで羨ましい」
「そうか。ならおまえは今日から俺の弟にしてやる。その代わり、兄の言うことは絶対だ。さらに口やかましくおまえを叱るが、いいか?」
「兄の言うことは絶対なのですか?」
 確かめるように私が訊くと、中将は「おおう?」とたじろいだ。
「そのう、あれだ。嫌なら嫌だと言っていいんだぞ。俺は心の広い兄だからな、だがたまには俺の言うことも聞け」
 きっと中将は過保護で優しい兄なのだろうが、なんとなく下の子たちに振りまわされているような気がしないでもない。そんな姿を想像し、私は思わず吹き出してしまった。
 そう言えば声を上げて笑ったのも久しぶりだ。血と死臭ばかりの中にいたから、こんななにげないことで笑う余裕などなかった。
 だが中将は不可解だといわんばかりの顔だ。
「おい瀬川、何がおかしい? 俺は何か妙なことを言ったか?」
「いえ。私たちの憧れであった中将殿が、意外に茶目っ気がある人だったと、少々驚いているだけであります」
「茶目っ気? 俺がか?」
「この密林の中、他に誰がいらっしゃいましょうか」
 私が言うと、中将は「む?」と不満げに唸った。
 誰もが羨望の溜息をつく美男は、どうやら自分のことには疎いようだ。
 私がクスリと笑うと、中将の声色がすっと硬くなった。
「兄をからかって楽しむとはな。おまえには仕置きが必要だ」
「え!」
 ヤバイ。調子に乗りすぎたか。上官に向かって無礼なことを。
 私はあわてて身体を離し、中将に向き直ると、その場に土下座した。
「そんなつもりはありません。口が過ぎたなら謝ります。お許しください」
「許せんな」
 薄闇の中、中将の双眸がギラリと鋭い光を放った。どうやら私は本気で中将を怒らせたようだ。
 たった二人しかいないと思って、調子に乗った私が悪いのだ。
 ここは甘んじて罰を受けて許しを請うしかない。
 私は上官に対し、到底許されない生意気な態度をとった。まさかとは思うが、足手まといにしかならない私を、いきなり銃殺することだってありえない話ではない。
 中将だって、私がいないほうが生存確率が上がるというもの。
 いや、そんなことより。
――中将に、心底嫌われたのではないか?
 殺されることよりも、置き去りにされるよりも、中将に愛想を尽かされることのほうが死より辛い。
 私の頭からすっと血の気が引いた。この人に嫌われたくない。見向きもされなくなるのが怖い。
 心臓がみっともなくバクバクと激しく打ち、どうすれば許してもらえるかを考えるが、ろくな案は浮かばない。
「中将殿……」
 おずおずと頭を上げると、中将の射抜くような鋭い視線とぶつかった。
 身体がびくりと跳ね上がり、私はまたあわてて頭を下げ、額を地面にこすりつける。
 その瞳をまっすぐ受け止められない。畏敬もあるが、もっともっと、人間の裸のところで私は彼の視線を感じていた。
 彼に謝らなければならないのに、なぜか顔が火照り、中将を意識しすぎて全身が震える。
 自分でも制御できない感情の波に、私は混乱していた。
――私はどうしてしまったのだろう。
「瀬川、顔を上げろ」
 中将の硬い声が上から降ってくる。だが私は顔を上げられなかった。
 こんな情けない顔を見られたくなかったのだ。
「瀬川、顔を上げて俺の目を見ろ」
 中将の声に苛立ちが混じる。これ以上怒らせては、本当に嫌われかねない。
 私は意を決して顔を上げた。だがその双眸と対峙することは出来ず、私は中将から目を逸らした。
「瀬川、俺は何と言った?」
「顔を上げて……、中将殿の目を見ろ、と」
「ではなぜおまえは俺を見ようとしない」
「その……」
 逃げ道を断つような厳しい尋問。頭から湯気が出てしまいそうな羞恥が私の思考回路を狂わせ、冷静さを失わせる。男の私が中将を意識してしまったなどと、口が裂けても言えない。
「瀬川」
 私の両肩に中将の大きな手が置かれた。
「瀬川、もしかして、おまえは俺が嫌いか?」
「え……?」
 想定外の質問をぶつけられ、私は初めて中将の顔を見た。
 目鼻立ちのはっきりした、相変わらず男ぶりがする整ったその表情が、朧月の明かりでもはっきりとわかるほどに不安に揺れている。
 不思議な空気が私たちの間に流れた。
 こんな名もよく知らない南の島で、私たちは二人きりとなった。頼れるのは互い以外にいない。
 だが私は、中将の問いに対する答えを見つけられなかった。
 好きと言うべきか。嫌いなんて絶対言えない。
 この先生きていられる保証はないし、国を守るために、私は自分の未来などとうに捨てたはずだ。
 軍人として、潔く死にに来たというのに。
(私は中将殿のことが……)
 中将に対する私の「好き」は、おそらく尊敬の念を超えたところにある。
 その気持ちをそのまま伝えていいものか。
 中将を見つめ、憧れ、そして今も胸を切なく締め付けるこの痛みを言葉にして伝えたところで、結局は……。
 狂った時代に生まれたから、私が抱える想いも狂い、そして成就も叶わない。
 そう考えると、うなだれるしかできない。
「瀬川……いや、将希」
 感情を抑えた低い声で名前を呼ばれ、私ははじかれたように顔を上げた。
「将希……」
「は、い……」
 中将は苦しげに、しかし愛おしく私の名前を呼ぶ。 
 優しく頬に触れ、そしてそのまま私を真正面から抱きすくめた。
「やっとおまえを名前で呼べた……」
「中将殿……」
「ずっとずっと俺は、おまえを名前で呼びたかった」
「えっ……?」
 中将が私の名前を呼んだ瞬間から、私たちの関係がどこか変わるのを感じ、また私の胸がチリリと痛む。中将に対する愛しさが弾けそうなくらい大きく膨らんで、泣きだしてしまいそうになる。
 どうして、この人を見ていると、私は臆病になってしまうのだろう。
「中将殿……」
 この人の胸に飛び込みたい。
 そして、私の思いのたけを聞いてほしい。 
 そうすれば、私を苛むものの正体がわかる気がする。
 切ない衝動をこらえる私に、中将が投げやりに笑った。
「男であるおまえに、こんなことをする俺をおかしいと思うだろう?」
 自嘲するような態度と裏腹に、今日まで私を守ってくれた彼の両腕が震えている。
「中将殿……」
「だがもう止められないんだ……。こんな時にこんなことを言い出すなんて」
「……」
「おかしいのは自分でもわかっている。しかし、明日をも知れない運命なら……」
 このまま背骨が折れてしまいそうなほどに、私はきつく抱きしめられる。
「ずっとおまえに恋していたと、告げておきたい」
「……え?」
「おまえが、愛しい」
 耳元で囁かれた短い告白に、私は思わずどきりとして彼を仰ぎ見る。
――中将が私を愛しい、と?
 その告白は、私の心の水面に漣を立て、私の胸の痛みを徐々に別の感情に変えていく。
 そのとき、初めてわかったのだ。
 私が抱く、彼への気持ち。
 彼のことがとてつもなく好きでたまらないのだと。
 尊敬の念ではなく、それは私の欲望。
 彼だけのものになりたい。そして、彼に愛されたい。
 激しい雨が空しく窓ガラスを打ち付けるような、どうしようもない切ない痛みは、彼に対する恋情であったのだ。
 私の目から熱い涙がほろりと零れ落ちる。
「中将殿……」
 混沌の中で花開いたこの恋。それが狂った時代のせいで儚く散るとしても、好きな人に抱きしめられて、好きだと言われて、これ以上の幸せはない。
「中将殿、私は……」
「将希、おまえが俺のことを嫌いなら、俺を跳ね除けて今すぐ殺せ」
 中将の声が震えている。 
「そうでなければ、今の俺はおまえに何をするかわからん。それに……」
「……それに?」
「貴様の手で名誉の戦死ができるなら、敵に殺されるよりずっといい」
 私ははっとした。
 そうだ、私達は死と隣り合わせ。明日にはどうなっているかわからないのだ。
「中将殿、私もです」
 私は彼を跳ね除けるかわりに、そっと中将の背中に腕を回す。
「私も中将殿をお慕いしておりました……」
 震える唇で告げる精一杯の告白を、ジャングルの虫の音が邪魔をする。
 ちゃんとこの人に、私の想いは通じたのだろうか。
 私も同じ気持ちなのだと、わかってもらえただろうか。
 どうして人に好きと告げるだけで、人はこんなにも臆病になる?
「好きです。私もあなたのことが好きです」
 私はただただ中将にしがみつき、何度も好きだと告げた。
「大好きで愛しいあなたを、どうして殺すなんて出来ましょう……」
 本気だった。だからこそ、私のために彼を死なせたくなかった。
 私たちは身体を離し、互いに見つめ合う。
 ここは戦場だ。仲間も失い、私たちには武器も食料もない。敵に狙われれば、今度こそ私たちの命運は尽き、ここで倒れてしまうだろう。
 極限が私たちを急かし、無言は激しい愛しさをもって、確かな絆を渇望する。
 明日がくることすら約束できない、私たちの不安定な恋。
 私たちの未来が、ここで途切れてしまうかも知れないなら、今しかない。
 深呼吸し、私は意を決した。
「中将殿……お願いがあります」
 狂ったような虫の音が、私の背中を押す。
「私を……抱いてください」
「将希……」
 驚愕か、それとも戸惑いか。中将の声が僅かに上ずる。
 彼と私の間で、静かな緊張がピンと糸を張っていた。
「あなたの存在を、私に刻み込んでください。何があっても私があなたに還れるように。あなたのすべてを私に……」
 その先は言葉に出来なかった。とんでもないことを求めたのはわかっている。
 赤面し、深く俯いた私の顎に中将の指がかかり、そのまま顔を上げさせられる。
「……いいのか?」
「はい」
 猛禽類のような中将の鋭い双眸の奥に、欲情燃え盛る雄の光が見える。
「後悔はしないか?」
「しません」
 私は静かに頷いた。
 どれだけ彼が好きでも、私が彼になることはできないから。
「私は苦しいんです。あなたに恋してからずっと。こんな状態がずっと続いたら、私はきっとおかしくなる。だから、だから……」
「……」
 中将の視線が僅かに眇められ、私の体が歓喜に震える。
 想いは、男同士で契ろうとする狂気を孕みながら、私たちの間を行ったり来たりする。
 彼のすべてがほしい。熱も吐息も衝撃も、彼から与えられるものすべて。
 彼に抱かれるなら、もう朝など見なくてもいい。
「私をあなたのものにしてください」
 私は目を閉じた。それを合図に、彼の腕がゆっくりと私の衣服にかかる。
 きっと長い間、私は心のどこかでこの時を待ち望んでいたに違いない。
 中将とひとつになることを――。

***
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