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小鳥のさえずる声は、最高の目覚まし時計。
「ん……」
瞼に眩しい光とほんのり熱を感じて、桜井恭司は重い瞼をゆるゆる開けた。
うつ伏せに寝返りを打って、ふわふわの枕を抱きしめる。まだ起き上がる気にはなれなくて、そのまま枕の柔らかさに頭を沈めてまどろんでしまう。
今日は出張で地方に来ている。ここは宿泊しているホテルの一室。
桜井が法務の顧問として務める製薬会社「ブリリアントファーマシー」が、新しい工場を建て、その落成式のためだ。
落成式には代表取締役社長である新城綾樹が出席するため、桜井はそれに随行したのだった。
綾樹が桜井のためにいい部屋を取ってくれた。広すぎる2人部屋。大きなベッド、ふかふかの布団。さらには室内には露天風呂もあって、高層階で大きな窓からは海が一望できた。
広いバルコニーに出ると、心地いい海風が吹いていて、空も海も独り占め。自然に抱かれる体験をーーそんなホテルのキャッチフレーズそのままの部屋だ。
お天気のいい日には、陽光きらめく海原が大層美しいのだという。
綾樹と一緒にいたくて「こんな豪華な部屋でなくても、出張なんだからあなたと一緒に安いツインでいい」と綾樹に言ってみたものの、日ごろ頑張ってくれている礼だとして「ゆっくりするといい」と鍵を渡された。
その綾樹自身は、役員連中と共に数ランク下の部屋を取ったようだ。階下の部屋で役員連中と一緒に飲み明かしていたようで、深夜、桜井が飲み物を買いに1階まで下りたときに、フロント横のレストスペースで、ぐったりしている彼を見た。
顔も、浴衣からはだけた男らしい筋肉のついた胸板も、ほんのり桜色に染まっていて、いつもは怜悧な目元が、この日は少し潤んで野獣のような熱を秘めているように見えた。
目が合った瞬間に、その危険な香りを潜ませている男らしさに目を奪われた。
一気に跳ね上がる鼓動。綾樹と毎日顔を突き合わせているのに、恋心がまた大きくなる。
ときめきに震える心を誤魔化すように、桜井は綾樹に水のペットボトルを渡し、「明日寝坊しないでくださいね」とやんわり注意した。
まともに顔を合わせてしまえば、その視線に囚われてしまうから。
彼は「ありがとう。助かる」と言って、桜井の頭をくしゃりと撫で、その水を一気に煽った。
それだけで、桜井の胸が一気にときめいてしまう。
「社長、少し飲み過ぎでは?」
「これくらい大丈夫だよ。それに今日くらい、社長と呼ばなくていいぞ。祝い事で来てるんだから、羽目を外したらいい」
常識の範囲内でな、と綾樹はいたずら好きな子供のようにウインクする。
綾樹の乱れた姿など、めったに見られるものじゃない。写真に収めるべき瞬間なのに、スマホを部屋に置いていたのは失敗だ。桜井は心の中で臍を噛む。
だが次の瞬間、桜井の心は現実に引き戻された。
「……春樹も連れてきてやりたかったな。あいつに、うまいものをたくさん食わせてやりたかった」
綾樹が目を細めてぽつりとつぶやく。春樹とは、彼の弟であり、そして彼の恋人だ。
片想いに胸を焦がす桜井から、綾樹を奪ったひと。その名前が出るたび、嫉妬の針が生まれ、桜井の恋心をチクチク刺激する。
だが、この春樹の存在のおかげで、綾樹自身に心の余裕ができたのは言うまでもない。
今までは表情もなく、ゼロか1かで物事を判断する容赦ないロボットのようだったのに、春樹と付き合い始めてからというもの、彼に対する優しさと同じくらいの思いやりを周囲に持つようになり、会社の雰囲気がガラリと変わった。
ほぼ現場を見ることもなく、トップダウンで機械的に命令を下していたものが、社長も現場に入り込み、しかも現場と密に連携を取りながら業務を回すという、全員一丸手法に切り替えたものだから、社員の気持ちが綾樹に向いた。
おかげで綾樹自身の手間も増えたが、どうも彼も人から頼ったり頼られたりして、楽しく仕事をしているようで、業績も右肩上がりの高水準をキープしている。
とはいえ、社長は社長で忙しく、その辺の線引きはもっぱら桜井が行っている。弁護士兼社長秘書のような立ち位置だ。
桜井にとって大切なのは、綾樹と彼を取り巻くものすべてだ。当たり前だがその中には会社も入っている。桜井が自分の恋を犠牲にした結果は、業績として如実に顕れているのだった。
だがそんな若手のやり手社長と名高い彼も、こと酒に関しては、綾樹より年上の役員連中にはかなわないようだった。
綾樹から仏頂面の仮面と生真面目さを取り払い、あんなふうに男の色香漂う、ルーズな姿を引きずり出してしまうのだから、酒とは恐ろしい。
社員らと宴会の席で和気あいあいと飲むなんて、以前の彼では絶対になかった。しかも多少の失言も笑って済ませる器のでかさも身に着けたようで、宴会の席では社員と社長の距離を急速に縮めている。
これも綾樹の恋人がもたらした「僥倖」だろう。
さて、綾樹はといえば、いい感じに酔いがまわっているようだ。
「いいお酒を楽しまれたようですね。綾樹がそんなに呑み助とは知りませんでした。明日ちゃんと起きられますか?」
「寝坊したらおまえが起こしてくれるだろ、桜井」
桜井がいるから、私は安心して寝坊ができると、綾樹はご機嫌だ。
綾樹と桜井は立場上、常にいくつかの案件を抱えていて、それが日々進行している。綾樹はワンマンというわけではないが、決定権・執行権を持っている人間なので、お祝い事とはいえ、何かと気の休まることはない。
とはいえ、この出張は綾樹にとってもつかの間の気分転換にはなったようだ。
ーーそんな昨夜のやり取りが、ぼんやりと微睡む記憶にふわっと蘇る。
落成式は午前11時からだ。時計を見ればまだ時間は7時過ぎ。
(もう少し眠れる……。あとで綾樹を起こさないと)
その綾樹は、業務においては正確性と完璧さを求めるが、朝は少し寝坊する癖がある。めったなことで遅刻はしないものの、毎朝綾樹のケータイにモーニングコールをするのが桜井の日課だ。
綾樹は桜井の上司であり、また気のおけない友人であり、ーー長年胸を焦がす片想いの相手だ。
先日、その恋は派手に砕けたものの、桜井自身はまだ綾樹のことを諦められない。
今はじっと胸の中で燃え狂う恋情を抑え込んでいる。
いつか、綾樹と結ばれる日が来るかも知れない。
「いつか」――それが「いつ」かはわからないし、その日なんて来ないかもしれなくても、明るい希望を待つこと自体は悪いことじゃない。
でもささやかな幸せは欲しい。
綾樹と一緒に仕事をして、彼のサポートをすることが、今の桜井にとって何より幸せなことなのだ。会社を守る法務部の弁護士として。
朝の二度寝、桜井が微睡の夢映画を見ようとした瞬間、不意にスマートフォンが着信を知らせ、桜井の幸せな時間を強制的に終了させた。
「まったく……」
重い身体を引きずるようにうーんとベッドサイドに腕を伸ばすが、着ているパジャマが身体の重みで押さえられて動きを制限する。手が届かないので、仕方なく起き上がってサイドテーブルの上にあるスマホと眼鏡を取る。
「こんな朝早くから……」
役員連中からだろうか。しかしそれなら電話ではなく、直接部屋に来ればいい。部屋番号は教えてあるのだから。
相手をろくに確認もせず、眼鏡をかけつつディスプレイを操作し、そのままスマホを耳につける。
「もしもし、桜井です」
夢うつつの極上時間を奪った罪は重い。声に機嫌の悪さをたっぷりと乗せて応答する。
が。
『よぉ恭司、もう朝だぞ。ほら早く起きな』
瞬間桜井は反射的にスマホを耳から離した。
桜井のことを「恭司」なんて気軽に名前で呼ぶ人間は綾樹以外には一人だけだ。
電話の相手は、桜井にモーニングコールよろしくサプライズをぶちかましてきた。微睡は一気に醒め、朝だというのに全身にずっしりと疲労を感じる。
これは、桜井にとって面倒な相手だ。
「なぜ私がここにいるのがわかったんです?」
『あ? フロントで聞いた』
「よく教えてもらえましたね?」
『正確には、教えてもらえなかったが、そのおかげでおまえがそこにいると確信できた』
電話の相手は、大学時代の友人・佐藤裕二。昔は都内の病院の救命救急センターで働いていたのだが、少し前に辞めて地元へ戻り、今は地方の総合病院の医師だ。
片想いに苦しむ桜井のストレスを何度となく「解消」してくれた相手ではあるが、その仕方はいつもセックスだった。
彼自身は桜井のことが好きらしいのだが、桜井は佐藤に対してナノグラムほどの好意すら持ち合わせていない。
しかも変なところで桜井の世話を焼くので、プライベートエリアを固めたい桜井は、しばしば佐藤のおせっかいに苛立っているのだった。
「で、朝から人を叩き起こして何の御用ですか?」
『学会でこっちに来ている。ホテルの看板に新城の会社の名前があったから、もしやと思ってフロントでおまえが宿泊しているかどうか聞いたら、プライバシーを理由に教えてもらえなかった』
「それなのに、私がここに泊まっているのを確信した理由は?」
『宿泊者がいるときに門前払いされるのは常だし、いまおまえ自身がそれを認めた。泊まっているのを確信した理由を教えろってな』
――しまった。桜井は自身の失言に頭を抱えた。
佐藤は情報を引きずり出す名人だ。佐藤相手に隠し事が成功した試しはあまりない。しかも桜井自身はまだ起き抜けで、頭がよく働いていない。
これ以上、佐藤と喋っていたら、いったいどんな余計な情報を彼に与えることになるか。
――切ろう。電話をさっさと切ってしまおう。きっとそれが最善の策だ。
「私は今日ものすごく忙しいんです。切りますよ」
『ああ、ブリリアント社の新工場か。来るときに看板見たな。落成おめでとうございます、桜井殿』
「それは綾……いや、社長に言って差し上げてください。きっと喜びますよ」
『あの堅物は俺の顔を見たら喜ぶどころか、眉間に皺をよせるだろう。めでたい日に代表取締役社長が苦虫噛んでるのはよくない。やめとくよ』
ほう、佐藤も少しは空気が読めるようだと感心した矢先。
『桜井、式が終わったら帰るのか?』
「え」
本当は今日までここに宿泊予定だ。この落成式のために、ここ1か月、準備で休みがほとんどなかったから、綾樹が「休みをまとめて取ろう」と役員よりも帰京を1日延ばしてくれている。
なので時間はあるにはあるが、それを佐藤に言うと、また呼び出されて疲れるだけだ。
数秒の逡巡のあと、「今日帰ります」と答えると、佐藤は「ふうん」とつまらなさそうに返事をした。
『桜井、おまえ、嘘が下手だね』
「そんな、嘘なんて」
『ツッコミどころは多々あるがまあいい。式が終わったら夕飯を食おう。帰るのはそれからでも間に合うだろ』
「夕食ですか」
『ランチと行きたいが、俺も昼間は小難しい会議でね。終わった後に気分転換したいから付き合えよ。飯を食うぐらいはいいだろ?』
「うーん……」
夕食くらいなら問題ないか。桜井は頭の中で今日のスケジュールを確認する。
綾樹も帰京を1日延ばしてあるはずだから、しれっと綾樹も誘ってしまおう。佐藤は綾樹を嫌っているから、つきあいも早々終わるかもしれない。
「いいでしょう。お付き合いしましょう」
そして、ついでだからこれを言い忘れてはいけない。
「ですが夕食はあなたのおごりで。とびきり高くておいしいものを食べさせてくださいね」
『ちっ、仕方ねえなぁ。薄給の雇われ医師にたかりやがって。まあ恭司の頼みなら仕方ないか』
「私を名前で呼ばないでください。恋人でも何でもないんだから」
『俺にとっては愛しい奴の名前だ』
熱を秘めたような低い声で「愛しい」と言われ、心臓を掴まれたような衝撃が走る。
「な、なに言ってるんですか朝から。まだ眠ってるんですか?」
それを悟られたくなくてごまかすと、佐藤は『本気だぜ?』と返してくる。
『願わくば、振り向いてほしいところだがね』
「振り向くことは永遠にないでしょう。ご期待に沿えなくて申し訳ありませんが」
『振り向かせるさ。必ずな。おっと……もう時間だ。じゃあな恭司。時間になったらメールするから』
佐藤はそれだけ言うと、ぶつっと電話を切る。桜井が「切ります」というと切らせないくせに、自分の用件が終わるとさっさと切ってしまう。相変わらず自分勝手な男だ。
あとに残る無機質なビジートーン。だが桜井の胸はなぜかほんわりとした温かさに包まれていた。
おかしなものだ。どうしてこんなに穏やかな気持ちになるんだろう。
あんなに嫌いな男の言葉ひとつだけで。
「ん……」
瞼に眩しい光とほんのり熱を感じて、桜井恭司は重い瞼をゆるゆる開けた。
うつ伏せに寝返りを打って、ふわふわの枕を抱きしめる。まだ起き上がる気にはなれなくて、そのまま枕の柔らかさに頭を沈めてまどろんでしまう。
今日は出張で地方に来ている。ここは宿泊しているホテルの一室。
桜井が法務の顧問として務める製薬会社「ブリリアントファーマシー」が、新しい工場を建て、その落成式のためだ。
落成式には代表取締役社長である新城綾樹が出席するため、桜井はそれに随行したのだった。
綾樹が桜井のためにいい部屋を取ってくれた。広すぎる2人部屋。大きなベッド、ふかふかの布団。さらには室内には露天風呂もあって、高層階で大きな窓からは海が一望できた。
広いバルコニーに出ると、心地いい海風が吹いていて、空も海も独り占め。自然に抱かれる体験をーーそんなホテルのキャッチフレーズそのままの部屋だ。
お天気のいい日には、陽光きらめく海原が大層美しいのだという。
綾樹と一緒にいたくて「こんな豪華な部屋でなくても、出張なんだからあなたと一緒に安いツインでいい」と綾樹に言ってみたものの、日ごろ頑張ってくれている礼だとして「ゆっくりするといい」と鍵を渡された。
その綾樹自身は、役員連中と共に数ランク下の部屋を取ったようだ。階下の部屋で役員連中と一緒に飲み明かしていたようで、深夜、桜井が飲み物を買いに1階まで下りたときに、フロント横のレストスペースで、ぐったりしている彼を見た。
顔も、浴衣からはだけた男らしい筋肉のついた胸板も、ほんのり桜色に染まっていて、いつもは怜悧な目元が、この日は少し潤んで野獣のような熱を秘めているように見えた。
目が合った瞬間に、その危険な香りを潜ませている男らしさに目を奪われた。
一気に跳ね上がる鼓動。綾樹と毎日顔を突き合わせているのに、恋心がまた大きくなる。
ときめきに震える心を誤魔化すように、桜井は綾樹に水のペットボトルを渡し、「明日寝坊しないでくださいね」とやんわり注意した。
まともに顔を合わせてしまえば、その視線に囚われてしまうから。
彼は「ありがとう。助かる」と言って、桜井の頭をくしゃりと撫で、その水を一気に煽った。
それだけで、桜井の胸が一気にときめいてしまう。
「社長、少し飲み過ぎでは?」
「これくらい大丈夫だよ。それに今日くらい、社長と呼ばなくていいぞ。祝い事で来てるんだから、羽目を外したらいい」
常識の範囲内でな、と綾樹はいたずら好きな子供のようにウインクする。
綾樹の乱れた姿など、めったに見られるものじゃない。写真に収めるべき瞬間なのに、スマホを部屋に置いていたのは失敗だ。桜井は心の中で臍を噛む。
だが次の瞬間、桜井の心は現実に引き戻された。
「……春樹も連れてきてやりたかったな。あいつに、うまいものをたくさん食わせてやりたかった」
綾樹が目を細めてぽつりとつぶやく。春樹とは、彼の弟であり、そして彼の恋人だ。
片想いに胸を焦がす桜井から、綾樹を奪ったひと。その名前が出るたび、嫉妬の針が生まれ、桜井の恋心をチクチク刺激する。
だが、この春樹の存在のおかげで、綾樹自身に心の余裕ができたのは言うまでもない。
今までは表情もなく、ゼロか1かで物事を判断する容赦ないロボットのようだったのに、春樹と付き合い始めてからというもの、彼に対する優しさと同じくらいの思いやりを周囲に持つようになり、会社の雰囲気がガラリと変わった。
ほぼ現場を見ることもなく、トップダウンで機械的に命令を下していたものが、社長も現場に入り込み、しかも現場と密に連携を取りながら業務を回すという、全員一丸手法に切り替えたものだから、社員の気持ちが綾樹に向いた。
おかげで綾樹自身の手間も増えたが、どうも彼も人から頼ったり頼られたりして、楽しく仕事をしているようで、業績も右肩上がりの高水準をキープしている。
とはいえ、社長は社長で忙しく、その辺の線引きはもっぱら桜井が行っている。弁護士兼社長秘書のような立ち位置だ。
桜井にとって大切なのは、綾樹と彼を取り巻くものすべてだ。当たり前だがその中には会社も入っている。桜井が自分の恋を犠牲にした結果は、業績として如実に顕れているのだった。
だがそんな若手のやり手社長と名高い彼も、こと酒に関しては、綾樹より年上の役員連中にはかなわないようだった。
綾樹から仏頂面の仮面と生真面目さを取り払い、あんなふうに男の色香漂う、ルーズな姿を引きずり出してしまうのだから、酒とは恐ろしい。
社員らと宴会の席で和気あいあいと飲むなんて、以前の彼では絶対になかった。しかも多少の失言も笑って済ませる器のでかさも身に着けたようで、宴会の席では社員と社長の距離を急速に縮めている。
これも綾樹の恋人がもたらした「僥倖」だろう。
さて、綾樹はといえば、いい感じに酔いがまわっているようだ。
「いいお酒を楽しまれたようですね。綾樹がそんなに呑み助とは知りませんでした。明日ちゃんと起きられますか?」
「寝坊したらおまえが起こしてくれるだろ、桜井」
桜井がいるから、私は安心して寝坊ができると、綾樹はご機嫌だ。
綾樹と桜井は立場上、常にいくつかの案件を抱えていて、それが日々進行している。綾樹はワンマンというわけではないが、決定権・執行権を持っている人間なので、お祝い事とはいえ、何かと気の休まることはない。
とはいえ、この出張は綾樹にとってもつかの間の気分転換にはなったようだ。
ーーそんな昨夜のやり取りが、ぼんやりと微睡む記憶にふわっと蘇る。
落成式は午前11時からだ。時計を見ればまだ時間は7時過ぎ。
(もう少し眠れる……。あとで綾樹を起こさないと)
その綾樹は、業務においては正確性と完璧さを求めるが、朝は少し寝坊する癖がある。めったなことで遅刻はしないものの、毎朝綾樹のケータイにモーニングコールをするのが桜井の日課だ。
綾樹は桜井の上司であり、また気のおけない友人であり、ーー長年胸を焦がす片想いの相手だ。
先日、その恋は派手に砕けたものの、桜井自身はまだ綾樹のことを諦められない。
今はじっと胸の中で燃え狂う恋情を抑え込んでいる。
いつか、綾樹と結ばれる日が来るかも知れない。
「いつか」――それが「いつ」かはわからないし、その日なんて来ないかもしれなくても、明るい希望を待つこと自体は悪いことじゃない。
でもささやかな幸せは欲しい。
綾樹と一緒に仕事をして、彼のサポートをすることが、今の桜井にとって何より幸せなことなのだ。会社を守る法務部の弁護士として。
朝の二度寝、桜井が微睡の夢映画を見ようとした瞬間、不意にスマートフォンが着信を知らせ、桜井の幸せな時間を強制的に終了させた。
「まったく……」
重い身体を引きずるようにうーんとベッドサイドに腕を伸ばすが、着ているパジャマが身体の重みで押さえられて動きを制限する。手が届かないので、仕方なく起き上がってサイドテーブルの上にあるスマホと眼鏡を取る。
「こんな朝早くから……」
役員連中からだろうか。しかしそれなら電話ではなく、直接部屋に来ればいい。部屋番号は教えてあるのだから。
相手をろくに確認もせず、眼鏡をかけつつディスプレイを操作し、そのままスマホを耳につける。
「もしもし、桜井です」
夢うつつの極上時間を奪った罪は重い。声に機嫌の悪さをたっぷりと乗せて応答する。
が。
『よぉ恭司、もう朝だぞ。ほら早く起きな』
瞬間桜井は反射的にスマホを耳から離した。
桜井のことを「恭司」なんて気軽に名前で呼ぶ人間は綾樹以外には一人だけだ。
電話の相手は、桜井にモーニングコールよろしくサプライズをぶちかましてきた。微睡は一気に醒め、朝だというのに全身にずっしりと疲労を感じる。
これは、桜井にとって面倒な相手だ。
「なぜ私がここにいるのがわかったんです?」
『あ? フロントで聞いた』
「よく教えてもらえましたね?」
『正確には、教えてもらえなかったが、そのおかげでおまえがそこにいると確信できた』
電話の相手は、大学時代の友人・佐藤裕二。昔は都内の病院の救命救急センターで働いていたのだが、少し前に辞めて地元へ戻り、今は地方の総合病院の医師だ。
片想いに苦しむ桜井のストレスを何度となく「解消」してくれた相手ではあるが、その仕方はいつもセックスだった。
彼自身は桜井のことが好きらしいのだが、桜井は佐藤に対してナノグラムほどの好意すら持ち合わせていない。
しかも変なところで桜井の世話を焼くので、プライベートエリアを固めたい桜井は、しばしば佐藤のおせっかいに苛立っているのだった。
「で、朝から人を叩き起こして何の御用ですか?」
『学会でこっちに来ている。ホテルの看板に新城の会社の名前があったから、もしやと思ってフロントでおまえが宿泊しているかどうか聞いたら、プライバシーを理由に教えてもらえなかった』
「それなのに、私がここに泊まっているのを確信した理由は?」
『宿泊者がいるときに門前払いされるのは常だし、いまおまえ自身がそれを認めた。泊まっているのを確信した理由を教えろってな』
――しまった。桜井は自身の失言に頭を抱えた。
佐藤は情報を引きずり出す名人だ。佐藤相手に隠し事が成功した試しはあまりない。しかも桜井自身はまだ起き抜けで、頭がよく働いていない。
これ以上、佐藤と喋っていたら、いったいどんな余計な情報を彼に与えることになるか。
――切ろう。電話をさっさと切ってしまおう。きっとそれが最善の策だ。
「私は今日ものすごく忙しいんです。切りますよ」
『ああ、ブリリアント社の新工場か。来るときに看板見たな。落成おめでとうございます、桜井殿』
「それは綾……いや、社長に言って差し上げてください。きっと喜びますよ」
『あの堅物は俺の顔を見たら喜ぶどころか、眉間に皺をよせるだろう。めでたい日に代表取締役社長が苦虫噛んでるのはよくない。やめとくよ』
ほう、佐藤も少しは空気が読めるようだと感心した矢先。
『桜井、式が終わったら帰るのか?』
「え」
本当は今日までここに宿泊予定だ。この落成式のために、ここ1か月、準備で休みがほとんどなかったから、綾樹が「休みをまとめて取ろう」と役員よりも帰京を1日延ばしてくれている。
なので時間はあるにはあるが、それを佐藤に言うと、また呼び出されて疲れるだけだ。
数秒の逡巡のあと、「今日帰ります」と答えると、佐藤は「ふうん」とつまらなさそうに返事をした。
『桜井、おまえ、嘘が下手だね』
「そんな、嘘なんて」
『ツッコミどころは多々あるがまあいい。式が終わったら夕飯を食おう。帰るのはそれからでも間に合うだろ』
「夕食ですか」
『ランチと行きたいが、俺も昼間は小難しい会議でね。終わった後に気分転換したいから付き合えよ。飯を食うぐらいはいいだろ?』
「うーん……」
夕食くらいなら問題ないか。桜井は頭の中で今日のスケジュールを確認する。
綾樹も帰京を1日延ばしてあるはずだから、しれっと綾樹も誘ってしまおう。佐藤は綾樹を嫌っているから、つきあいも早々終わるかもしれない。
「いいでしょう。お付き合いしましょう」
そして、ついでだからこれを言い忘れてはいけない。
「ですが夕食はあなたのおごりで。とびきり高くておいしいものを食べさせてくださいね」
『ちっ、仕方ねえなぁ。薄給の雇われ医師にたかりやがって。まあ恭司の頼みなら仕方ないか』
「私を名前で呼ばないでください。恋人でも何でもないんだから」
『俺にとっては愛しい奴の名前だ』
熱を秘めたような低い声で「愛しい」と言われ、心臓を掴まれたような衝撃が走る。
「な、なに言ってるんですか朝から。まだ眠ってるんですか?」
それを悟られたくなくてごまかすと、佐藤は『本気だぜ?』と返してくる。
『願わくば、振り向いてほしいところだがね』
「振り向くことは永遠にないでしょう。ご期待に沿えなくて申し訳ありませんが」
『振り向かせるさ。必ずな。おっと……もう時間だ。じゃあな恭司。時間になったらメールするから』
佐藤はそれだけ言うと、ぶつっと電話を切る。桜井が「切ります」というと切らせないくせに、自分の用件が終わるとさっさと切ってしまう。相変わらず自分勝手な男だ。
あとに残る無機質なビジートーン。だが桜井の胸はなぜかほんわりとした温かさに包まれていた。
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