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落成式は滞りなく終わった。
新工場の通称は「マーメイドラボ」という。この新工場は、昨今活躍目覚ましい女性技術職が働きやすいようにと配慮されて作られた。
工場の通称については、女性の研究員が多く働いているから、おとぎ話のプリンセスの名前を拝借したとのことだった。
おとぎ話の人魚姫は、海難に遭った王子を助け、その王子に恋をするが恋は実らず、彼女は海の泡になり消えた。
そんな切ない運命の姫の名前を誰がつけたのかと桜井は綾樹に聞いたが、彼は「さあ」と言葉を濁した。
あとで綾樹の執務室から童話の文庫を見つけたとき、桜井はラボの名付け親が綾樹だと確信した。
そこには人魚姫の話が収録されており、几帳面な綾樹らしく付箋が貼られていた。
犠牲を払ってでも好きな人のそばにいたかった人魚姫の恋への一途さを、綾樹は女性研究員たちの仕事に対する一途な姿勢に重ねたのだろう。
しかしそれは、どことなく桜井がなくした恋のようにも思えた。
新工場は、当たり前だが大変に清潔で、ところどころに女性に対する配慮も設けられていた。
パウダールームやシャワー、ホテル並みの宿泊室なども備え、夜勤の職員にも対応、フィットネスジムなど健康面での福利厚生や、工場内に認可保育所と診療所を設けたことで、育児をしながら働く母親の応援も行っている。
むろん、工場の近くには社員寮も完備だ。街の文教エリアに近く、家族がいる者、また将来的に家族が増える予定の社員たちへのサポートも行った。
この案を出したのは桜井だった。優秀な技術者、技能者が結婚や育児で辞めていくのは、せっかく会社が育てた財産が流出するのと同じことだ。失くした分を新しく入れても、育つまでには時間とお金がまたかかる。業界の経験者を入れたところで、人材に「即戦力」などないので、何度も教育で同じことを繰り返す古参の社員にはたまらない苦しみだ。
そう訴えたところ、綾樹自身も桜井と同じことを考えていたようで、女性技術職の流出ストップに乗り出した。
その結果が、この新工場だ。
新社屋の中も見学し、いろいろと説明も聞いた。前もって施設の概要は頭に入れていたものの、やはり聞くと見るとのでは違う。これなら綾樹がずっと温めていた新薬の研究もはかどるだろうし、女性職員らが長く働ける環境になったのではないか。それなりの手ごたえが桜井にはあった。
もちろん、まだ改善すべき余地はあるのだが。
テレビカメラも数台入っており、どうやら情報番組で放送されるようだ。
だが彼らの目的は、最新鋭の設備をそろえた新工場ではなく、新城社長のネタだ。
囲み取材では、以前の綾樹が刺された傷害事件のことをまだ蒸し返す記者がいて閉口してしまうが、桜井は笑顔の仮面を張り付け、関係のない質問は徹底的にスルーした。
一通り行事も終了して、綾樹のもとに向かう。彼も今日は慣れないマスコミ対応で疲れているようだ。時折俯いて眉間のあたりを押さえているのを見て、桜井はポケットを探る。
互いに業務に忙殺されると、しばしば頭痛に襲われる。それで桜井は常に鎮痛剤をもって歩いている。
綾樹は頭が痛いときによく眉間を押さえるので、兆候を見たらすぐに鎮痛剤を渡している。
「社長」
「ああ、桜井か……」
綾樹が力なく笑っている。
「頭が痛いんですか?」
「うん……取材陣の中にムスクを大量に振っているのがいて、それで……」
タバコを吸わない綾樹は香りに弱い。好みでない香りは、どんな高級ブランドの香水であろうが、彼にとっては悪臭だ。
瞬時に頭痛スイッチが入ってしまったのだろう。
桜井は綾樹の背中を優しく撫でる。
「報道陣も帰りましたし、我々もホテルに撤収しましょう。薬を飲んで早めに横になるといいですよ」
「いや、私は今日東京に戻る。飛行機の時間まで間がないから、薬だけもらえるか」
「えっ?」
どういうことだ。
綾樹は、もう東京に戻る?
休みが取れなかったからと、帰京を1日延期して、ホテルでのんびりするのではなかったのか。ここに桜井一人が置いていかれるなんて聞いてない。
「綾樹、予定が違うのでは?」
帰京は明日ではと問うと、綾樹は桜井の頭をくしゃりと撫でた。
「おまえは明日帰りなさい。そのためにいい部屋を取ったんだ。これはおまえへのプレゼントだよ。いつも頑張ってくれているから、たまには温泉でもつかってのんびりするといい」
「私一人でここに残れと?」
「誰かがいると落ち着けないだろう。それが社長ならなおさらだ。ひとりのほうがのんびりできていいだろう?」
「上司がお帰りになるなら、私が遊んでいるわけにはいきません。綾樹、私も一緒に戻ります」
部屋ならキャンセルすればいい。自腹でキャンセル料も払うと綾樹に食い下がったが、綾樹は「だめだ」と目線を桜井に合わせ、子供を叱るように首を横に振る。
「業務から完全に離れてリフレッシュしなさい。なんでも好きなものを飲み食いして、心の栄養を満タンにしてから戻りなさい。しばらくは新工場の件でばたばたするだろう。また休みが取れなくなるぞ」
同級生なのに、まるで親のように心配される。
大きな手が優しく桜井の頭をなでる。あったかいその大きな手でずっと触れていてほしい。
綾樹のそばにいられるなら、正直休みなどどうでもいい。
むしろ「仕事」は、綾樹の恋人の春樹が絶対に入り込めない領域だ。業務の間だけは綾樹を独占できる。その時間、綾樹は桜井のものだ。
だから、たった一人の休暇なんていらないのに。
下唇をわずかに噛んで俯くと、「不満なのか?」と綾樹が桜井の顔を覗き込む。
「不満ではありませんが……」
「なら、思い切り遊んできなさい」
「私一人だけが遊んでいるのもなんだか……」
「では言葉を変えよう。桜井、これは社長命令だ」
「綾樹……」
会社員として、上司の、しかも社長の命令なら逆らえない。
綾樹はずるい。桜井の恋心には気づかないくせに、桜井のことをとても大切にしてくれる。
それがどんなに残酷か、知りもしないで。
「社長の命令は絶対だぞ?」
綾樹がいたずらっ子のように笑う。
これは人の厚意だ。しかも綾樹なりの思いやりなら仕方ないし、あまり駄々を捏ねても大人げない。
「わかりました。ではお言葉に甘えて」
「ああ。なんなら携帯の電源を切っておいても構わない。1日くらい、おまえが完全に業務から離れても大丈夫だ。その間は私がやる。なに1日だ。平和に終わるだろう」
「ならいいのですが……あ」
不意にポケットの中で何かが震えた。桜井のスマホだ。取り出してディスプレイを見ると、そこには「佐藤裕二」との名前。
そういえば、佐藤と夕食の約束をしていたのを思い出す。
「そうだ綾樹、あの人が、佐藤君が夕食を一緒にどうかと。彼もこっちにいるみたいなんですが」
「佐藤? ああ、あいつか……」
綾樹の眉間に皺が寄る。佐藤と綾樹は性格が真逆だ。
しかも佐藤にはデリカシーがない。思ったことを遠慮もなく、さらに言葉も場所も選ばずズバズバ言う。
綾樹が嫌う要素をすべて詰め込んだ人間――それが佐藤だ。
「私が行くと、せっかくシェフが腕を振るってうまいものを出しても、食事の空気も味も悪くなる。どうせあいつが誘ったのは私ではなくておまえだろ、桜井?」
綾樹の方もそれを心得ている。
「せっかく誘われたのなら、旧交を温めてくるといい。だが、ほどほどにしなさい。あいつはどういうことか、人を困らせて喜ぶからな。無理難題を突き付けてきたら、ちゃんと断るんだぞ。あいつは強引だから」
「それなら「行くな」って、言ってくれないんですか?」
「ん?」
思わず本音をぶつけてしまい、桜井は思わず口を押さえる。しかし、綾樹の耳はそれを正確にとらえたようで、見る見る間に綾樹が困惑する。
「プライベートのことで、私は桜井を束縛できない」
「でも私はあなたの部下ですよ、綾樹」
「業務上ではな」
「社長命令として、行くなって言ってくれてもいいんですよ?」
少し意地悪をする。綾樹は小さなため息をついて、目を伏せた。
たぶん綾樹は、桜井の言葉の意味がわかっている。
そうでなければ、困る理由がない。
目を伏せることで、彼は桜井から逃げようとしているのだ。
綾樹には恋人がいる。恋人ではない桜井を束縛なんてできないのだ。
でもそれをはっきり言うと、桜井を傷つけてしまうかもしれない。今、彼はどう伝えれば、桜井を傷つけずに済むか、それを考えているはずだ。
「桜井、私は」
「冗談ですよ。本当にいちいち真面目に取らないでください」
桜井が笑うと、綾樹もほっとしたように口元を緩ませた。
「綾樹のご厚意に甘えて、しっかり遊んでまいります。それでは私はこれで。綾樹も帰り道は気をつけて」
一礼して、踵を返す。後ろで綾樹が何かを言っていたが、それはわざと無視した。
胸に愛しさが込み上げて、それを淋しさが覆いつくしていく。
好きなのに、こんなに好きなのに。
この恋は絶対に実らない。でも綾樹のそばにいたい。
胸の中でぐるぐる渦巻く綾樹への恋情。それは嫉妬という鋭い刃を潜ませて、桜井の感情をずたずたに切り裂いていく。
彼が予定通り帰京をするのは、彼を待つ人のため。
自分は、素顔の綾樹と一緒にいられない。桜井が自由にできるのは、業務という枷で繋がれた綾樹だけ。
それは「本当の」綾樹じゃない。
「綾樹……」
綾樹がいないなら、この世界は灰色の世界。桜井にとっては廃墟にも等しい。
視界が滲む。スーツの袖でぐいっと涙をぬぐい、桜井は足早に自分の部屋へと戻った。
新工場の通称は「マーメイドラボ」という。この新工場は、昨今活躍目覚ましい女性技術職が働きやすいようにと配慮されて作られた。
工場の通称については、女性の研究員が多く働いているから、おとぎ話のプリンセスの名前を拝借したとのことだった。
おとぎ話の人魚姫は、海難に遭った王子を助け、その王子に恋をするが恋は実らず、彼女は海の泡になり消えた。
そんな切ない運命の姫の名前を誰がつけたのかと桜井は綾樹に聞いたが、彼は「さあ」と言葉を濁した。
あとで綾樹の執務室から童話の文庫を見つけたとき、桜井はラボの名付け親が綾樹だと確信した。
そこには人魚姫の話が収録されており、几帳面な綾樹らしく付箋が貼られていた。
犠牲を払ってでも好きな人のそばにいたかった人魚姫の恋への一途さを、綾樹は女性研究員たちの仕事に対する一途な姿勢に重ねたのだろう。
しかしそれは、どことなく桜井がなくした恋のようにも思えた。
新工場は、当たり前だが大変に清潔で、ところどころに女性に対する配慮も設けられていた。
パウダールームやシャワー、ホテル並みの宿泊室なども備え、夜勤の職員にも対応、フィットネスジムなど健康面での福利厚生や、工場内に認可保育所と診療所を設けたことで、育児をしながら働く母親の応援も行っている。
むろん、工場の近くには社員寮も完備だ。街の文教エリアに近く、家族がいる者、また将来的に家族が増える予定の社員たちへのサポートも行った。
この案を出したのは桜井だった。優秀な技術者、技能者が結婚や育児で辞めていくのは、せっかく会社が育てた財産が流出するのと同じことだ。失くした分を新しく入れても、育つまでには時間とお金がまたかかる。業界の経験者を入れたところで、人材に「即戦力」などないので、何度も教育で同じことを繰り返す古参の社員にはたまらない苦しみだ。
そう訴えたところ、綾樹自身も桜井と同じことを考えていたようで、女性技術職の流出ストップに乗り出した。
その結果が、この新工場だ。
新社屋の中も見学し、いろいろと説明も聞いた。前もって施設の概要は頭に入れていたものの、やはり聞くと見るとのでは違う。これなら綾樹がずっと温めていた新薬の研究もはかどるだろうし、女性職員らが長く働ける環境になったのではないか。それなりの手ごたえが桜井にはあった。
もちろん、まだ改善すべき余地はあるのだが。
テレビカメラも数台入っており、どうやら情報番組で放送されるようだ。
だが彼らの目的は、最新鋭の設備をそろえた新工場ではなく、新城社長のネタだ。
囲み取材では、以前の綾樹が刺された傷害事件のことをまだ蒸し返す記者がいて閉口してしまうが、桜井は笑顔の仮面を張り付け、関係のない質問は徹底的にスルーした。
一通り行事も終了して、綾樹のもとに向かう。彼も今日は慣れないマスコミ対応で疲れているようだ。時折俯いて眉間のあたりを押さえているのを見て、桜井はポケットを探る。
互いに業務に忙殺されると、しばしば頭痛に襲われる。それで桜井は常に鎮痛剤をもって歩いている。
綾樹は頭が痛いときによく眉間を押さえるので、兆候を見たらすぐに鎮痛剤を渡している。
「社長」
「ああ、桜井か……」
綾樹が力なく笑っている。
「頭が痛いんですか?」
「うん……取材陣の中にムスクを大量に振っているのがいて、それで……」
タバコを吸わない綾樹は香りに弱い。好みでない香りは、どんな高級ブランドの香水であろうが、彼にとっては悪臭だ。
瞬時に頭痛スイッチが入ってしまったのだろう。
桜井は綾樹の背中を優しく撫でる。
「報道陣も帰りましたし、我々もホテルに撤収しましょう。薬を飲んで早めに横になるといいですよ」
「いや、私は今日東京に戻る。飛行機の時間まで間がないから、薬だけもらえるか」
「えっ?」
どういうことだ。
綾樹は、もう東京に戻る?
休みが取れなかったからと、帰京を1日延期して、ホテルでのんびりするのではなかったのか。ここに桜井一人が置いていかれるなんて聞いてない。
「綾樹、予定が違うのでは?」
帰京は明日ではと問うと、綾樹は桜井の頭をくしゃりと撫でた。
「おまえは明日帰りなさい。そのためにいい部屋を取ったんだ。これはおまえへのプレゼントだよ。いつも頑張ってくれているから、たまには温泉でもつかってのんびりするといい」
「私一人でここに残れと?」
「誰かがいると落ち着けないだろう。それが社長ならなおさらだ。ひとりのほうがのんびりできていいだろう?」
「上司がお帰りになるなら、私が遊んでいるわけにはいきません。綾樹、私も一緒に戻ります」
部屋ならキャンセルすればいい。自腹でキャンセル料も払うと綾樹に食い下がったが、綾樹は「だめだ」と目線を桜井に合わせ、子供を叱るように首を横に振る。
「業務から完全に離れてリフレッシュしなさい。なんでも好きなものを飲み食いして、心の栄養を満タンにしてから戻りなさい。しばらくは新工場の件でばたばたするだろう。また休みが取れなくなるぞ」
同級生なのに、まるで親のように心配される。
大きな手が優しく桜井の頭をなでる。あったかいその大きな手でずっと触れていてほしい。
綾樹のそばにいられるなら、正直休みなどどうでもいい。
むしろ「仕事」は、綾樹の恋人の春樹が絶対に入り込めない領域だ。業務の間だけは綾樹を独占できる。その時間、綾樹は桜井のものだ。
だから、たった一人の休暇なんていらないのに。
下唇をわずかに噛んで俯くと、「不満なのか?」と綾樹が桜井の顔を覗き込む。
「不満ではありませんが……」
「なら、思い切り遊んできなさい」
「私一人だけが遊んでいるのもなんだか……」
「では言葉を変えよう。桜井、これは社長命令だ」
「綾樹……」
会社員として、上司の、しかも社長の命令なら逆らえない。
綾樹はずるい。桜井の恋心には気づかないくせに、桜井のことをとても大切にしてくれる。
それがどんなに残酷か、知りもしないで。
「社長の命令は絶対だぞ?」
綾樹がいたずらっ子のように笑う。
これは人の厚意だ。しかも綾樹なりの思いやりなら仕方ないし、あまり駄々を捏ねても大人げない。
「わかりました。ではお言葉に甘えて」
「ああ。なんなら携帯の電源を切っておいても構わない。1日くらい、おまえが完全に業務から離れても大丈夫だ。その間は私がやる。なに1日だ。平和に終わるだろう」
「ならいいのですが……あ」
不意にポケットの中で何かが震えた。桜井のスマホだ。取り出してディスプレイを見ると、そこには「佐藤裕二」との名前。
そういえば、佐藤と夕食の約束をしていたのを思い出す。
「そうだ綾樹、あの人が、佐藤君が夕食を一緒にどうかと。彼もこっちにいるみたいなんですが」
「佐藤? ああ、あいつか……」
綾樹の眉間に皺が寄る。佐藤と綾樹は性格が真逆だ。
しかも佐藤にはデリカシーがない。思ったことを遠慮もなく、さらに言葉も場所も選ばずズバズバ言う。
綾樹が嫌う要素をすべて詰め込んだ人間――それが佐藤だ。
「私が行くと、せっかくシェフが腕を振るってうまいものを出しても、食事の空気も味も悪くなる。どうせあいつが誘ったのは私ではなくておまえだろ、桜井?」
綾樹の方もそれを心得ている。
「せっかく誘われたのなら、旧交を温めてくるといい。だが、ほどほどにしなさい。あいつはどういうことか、人を困らせて喜ぶからな。無理難題を突き付けてきたら、ちゃんと断るんだぞ。あいつは強引だから」
「それなら「行くな」って、言ってくれないんですか?」
「ん?」
思わず本音をぶつけてしまい、桜井は思わず口を押さえる。しかし、綾樹の耳はそれを正確にとらえたようで、見る見る間に綾樹が困惑する。
「プライベートのことで、私は桜井を束縛できない」
「でも私はあなたの部下ですよ、綾樹」
「業務上ではな」
「社長命令として、行くなって言ってくれてもいいんですよ?」
少し意地悪をする。綾樹は小さなため息をついて、目を伏せた。
たぶん綾樹は、桜井の言葉の意味がわかっている。
そうでなければ、困る理由がない。
目を伏せることで、彼は桜井から逃げようとしているのだ。
綾樹には恋人がいる。恋人ではない桜井を束縛なんてできないのだ。
でもそれをはっきり言うと、桜井を傷つけてしまうかもしれない。今、彼はどう伝えれば、桜井を傷つけずに済むか、それを考えているはずだ。
「桜井、私は」
「冗談ですよ。本当にいちいち真面目に取らないでください」
桜井が笑うと、綾樹もほっとしたように口元を緩ませた。
「綾樹のご厚意に甘えて、しっかり遊んでまいります。それでは私はこれで。綾樹も帰り道は気をつけて」
一礼して、踵を返す。後ろで綾樹が何かを言っていたが、それはわざと無視した。
胸に愛しさが込み上げて、それを淋しさが覆いつくしていく。
好きなのに、こんなに好きなのに。
この恋は絶対に実らない。でも綾樹のそばにいたい。
胸の中でぐるぐる渦巻く綾樹への恋情。それは嫉妬という鋭い刃を潜ませて、桜井の感情をずたずたに切り裂いていく。
彼が予定通り帰京をするのは、彼を待つ人のため。
自分は、素顔の綾樹と一緒にいられない。桜井が自由にできるのは、業務という枷で繋がれた綾樹だけ。
それは「本当の」綾樹じゃない。
「綾樹……」
綾樹がいないなら、この世界は灰色の世界。桜井にとっては廃墟にも等しい。
視界が滲む。スーツの袖でぐいっと涙をぬぐい、桜井は足早に自分の部屋へと戻った。
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