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第二章
ワンダーボーイ その③
しおりを挟む先制点に対する第一声があがったのは、なぜともなく静まりかえったグラウンドからではなく見学エリアからであった。
発声者が誰かは言うまでもない。
「やった、やった、先制点よ!」
手ばたきしながらぴょんぴょんと跳びあがった蘭は、ふいにその動きを止めるとちらりと横に視線を流した。
思ったとおり、口を半開きにして沈黙する優子と由美の姿がそこにあった。
「どう、二人とも。驚いた?」
蘭が悦に入った声と表情を向けると、二人はどことなくぼんやりとした態で蘭に向き直り、さながら機械じかけの人形のようにこくりとうなずいた。
「うん、驚いた」と優子。
「ほんと、びっくり」と由美。
期待どおりの返答に、蘭は満足そうに顔をほころばせた。。
「そうでしょう、そうでしょう。まあ、驚くのも無理ないわよね。フフフ」
涼の先制ゴールに本心から驚いている。二人の態度から蘭はそう解釈したのだが、じつは別種の驚きであったことを優子の口から知ることになった。
「うん。だって、あの伊原さんがシュートの目測を誤るなんてびっくり……」
「ちがぁぁーう!!」
突然、大声でいきりたった蘭に優子と由美は仰天し、おもわず目を丸くさせた。
「ど、どうしたの、いきなり……?」
こわごわとした声を由美が向けると、蘭は自らを落ちつかせるようにひと呼吸おき、二人を見すえながらゆっくりと語をつないだ。
「いい? 今のはね、あのおじさんがミスをしたんじゃないの。涼のシュートがいきなり変化したので、取りたくても取れなかったのよ」
「シュートが変化した……?」
蘭の言葉に優子は小首をかしげ、
「変化したって、どんな風に?」
「それは、あのおじさんに訊いてみないとわからないわね。なにしろシュートを打った本人ですら、どう変化するかわからないシュートなんだからね、今のは」
そう言って意味ありげな微笑を蘭が浮かべたとき、優子は脳裏深くにしまいこんでいたひとつの言葉を思いだした。
「もしかして、試合前に言っていた『普通のシュートじゃない』というのは、今のシュートのことなの?」
「ピンポーン! そのとおりよ」
察しがいいじゃないと蘭は笑顔で賞したが、優子にしてみれば褒められたところで疑問が解消されたわけではない。
そのことに蘭も気づいたらしい。表情をあらためて優子の疑問に答えた。
「教えてあげるわ。今のはナックルシュートよ」
「……ナックルシュートですって?」
一瞬の間をおいて発せられた甲高い響きのその声が、優子の驚きぶりを雄弁に物語っていた。
あ然とも呆気ともつかぬ表情で、黙然と蘭の顔を見つめている。
その隣では由美も同様に沈黙していたが、こちらは驚きによるものではなく、たんに蘭と優子のやりとりが理解できなかったからだ。
「知っているの、優子?」
「う、うん。以前、雑誌で読んだことがあるだけなんだけど……」
優子はいったん言葉を切ってから、あらためて語をつないだ。
「野球のピッチャーが投げるナックルボールとかいう変化球のように、予測不可能な変化をすることからナックルシュートと呼ばれる特殊なシュートがあるらしいの。でも、そのシュートを打つにはかなり高度なテクニックが必要で、実戦で使える選手がほとんどいないことから、サッカー界では幻のシュートと呼ばれているとか……」
「へえ、野球のピッチャーの……」
オルビッシュ君に話しかける話題ができたわ、と、由美は内心でつぶやいた。
優子がその内なる声を聞けば「注目するところはそこじゃないでしょう」と呆れたかもしれない。
「涼はね、その幻のシュートの名手なのよ。サンパウロFC時代、フォワードの選手でないにもかかわらず、あのシュートでどれほどゴールを量産したかわからないわ。なにしろうちの涼ときたら……」
まるで自分のことのように誇らしげに喋り続ける蘭であったが、その声はもはや優子の鼓膜には届いていなかった。
それも当然で、今や優子の聴覚や意識といったものは、すべてグラウンドの涼に向けられていたからだ。
プロの選手ですら止めることができない高速のドリブル。
数十メートルの距離を軽々と通すパスセンス。
ロングレンジからゴール枠を的確に狙えるボレーシュートの技術。そして今のナックルシュート……。
誰の目にも高校生のレベルを超えているのはあきらかであった。
否、すでにプロの、それも一流のレベルに達しているかもしれない。自分たちと同じまだ16歳なのに……。
「いけいけ、涼!」
横合いからとどろいてきたその声で、優子の意識は現実に引き戻された。
驚いたように横に向き直ったとき、立ちあがって歓声をあげる蘭の姿がそこにあった。
「ど、どうしたの?」
「見て見て、またまた涼よ!」
「ええっ?」
優子が慌ててグラウンドに視線を転じたとき、そこに見たのは、まるでサバンナを駆ける豹のような軽快な動きでグラウンドを走る涼の姿だった。
俊敏なフェイントと躍動感あふれるドリブルで颯爽と相手を抜きかわし、跳びかわし、影すら踏ませることなく引き離す。
この試合において見慣れた光景が優子の見つめる先で展開していたのだ。
「こいつはたまげた……!」
視線の先の光景に、伊原は本心から驚嘆せざるをえなかった。
それはドリブルの技術が優れているという理由だけではない。
紅白戦とはいえ、れっきとしたプロの試合でまだ16歳の少年がそのゲームの中心にいたからだ。
味方であるAチームの選手は、プレー中、誰もが(一名のぞく)涼の位置を常に意識し、ボールを取れば真っ先にパスを出すようにしている。
対するBチームの選手は、プレー中、誰もが(一名のぞく)涼の動きを常に警戒し、フリーにさせないよう必ず誰かがマークにつくようにしている。
このわずか30分ほどの間に、敵味方問わず誰もが(二名のぞく)そのレベルの高さを認識し、無意識のうちにキープレーヤーとして認めていたのだ。
「これが……これが本場仕込みのサッカーというものなのか……?」
なかば呆然とそんなことを考えていた伊原が、ふと視線を前方に走らせたとき。その両目がぎょっと見開かれた。
まだセンターライン付近を走っていると思っていた涼が、いつのまにか自陣ペナルティーエリアの目前にまで迫っていたのだ。
「もうこんな位置まで……いったい何メートル突破を許しているんだ!?」
伊原の記憶では、最初のドリブルの開始点となったのはたしかAチームのペナルティーエリアのすぐ外からのはず。
そこから計算すると、かれこれ60メートル以上も単独で突破してきたことになる。
仮にもプロの飯を食っていた人間が、そろいもそろって16歳の少年相手に何をしているのかと、伊原は不甲斐ないチームメイトへの怒気に駆られたが、なすすべもなく涼に突破を許し、見るからに浮き足立っている自軍の選手たちを見ると叱りつける気にもなれない。
自らを落ちつかせるように大きく息を吸うと、伊原はするどい声で指示を飛ばした。
「落ちつけ、エリア内マンツーだ。絶対にフリーにさせるな!」
マンツーマン・ディフェンス。相手の選手一人に対して、味方の選手一人を一対一のマークにつかせる防御戦術である。
伊原の声に鞭うたれたBチームの選手たちは、すばやい動きでエリア内のAチームの選手一人一人にぴたりと張りついた。
そんなBチームの動きに気づいたのだろう。
涼はドリブルの速度を弱めると、眼球を左右に慌ただしく動かしてエリア内の様子をうかがった。
(だめだ、園田さんにまでマークがついている。これじゃパスは出せない。かといってドリブルを仕掛けようにもあれだけ人がいては無理だ。どうする……?)
「さあ、どうするかね、涼君?」
涼を眺めやりつつ漏らした伊原の声には、まるで自身が指示したマンツーマン・ディフェンスに対する対応を楽しむかのような響きがあった。
味方の選手全員にマークがついているこの状況では、おいそれとパスは出せない。
かといってドリブル突破を仕掛けるには、エリア内に人数が多すぎてコースがない。
つまり、この状況で残された手段はひとつしかない……。
一瞬、伊原が腰を落として身がまえた。
それまでエリア内の状況をうかがっていた涼が一転、エリアの外からミドルシュートを打ってきたのだ。
「そう、それしかないよな!」
予想どおりの展開に伊原は破顔した。
パスは出せない。ドリブルも無理。となれば、ペナルティーエリア内に両チームの選手が入り乱れ、ゴールキーパーの視界が遮られているこの状況を逆に利用し、エリアの外からミドルシュートを打ってくる。
そう伊原は予測し、まさにその読みどおりに蹴り放たれてきた無回転のシュートボールが、ゆらゆらと揺れながら伊原の守るゴールめがけて宙空を疾走してくる。
伊原の口の奥でギリリという音がわきおこった。
「やはりナックルかっ!」
迫りくる無回転のボールを睨みつけ、伊原はぎりぎりとグローブを握りしめた。
シュートを打った当人ですら、どう変化するかわからないナックルシュートを止める手段はただひとつ。ボールの変化する一瞬を見極め、持てる反射神経と身体能力をその一瞬にぶつけるしかない。
(また下に落ちるのか。それとも上にでも浮きあがるのか!?)
ボールの変化する軌道を脳裏にめぐらしつつ、伊原が上下の歯を噛みしめたとき。それまで一直線に飛んできたボールが突然、横に鋭く曲がり、そのままゴール右隅に向かって飛んでいった。
「横かぁーっ!!」
咆哮にも似た声をあげて伊原が宙空を跳んだ。
その巨体からは想像できないほどの俊敏で軽快な跳躍。勢いそのままにゴール右隅に飛んでいくボールに拳を突きだし、ラインぎりぎりで枠の外へとはじきとばした。
190センチ近い巨体は勢いあまって芝の上を激しく転がり、ほぼ同瞬、見学エリアからは悲鳴にも似た声があがった。
「うっそぉーっ!?」
まさかのセービングに仰天した蘭はおもわずベンチから飛びあがり、
「涼のナックルシュートが止められた!?」
「止めたわ!」
「さすが伊原さんね!」
呆然とした態で立ちつくす蘭の隣で優子と由美は手を合わせて喜んだが、それもごく短時間のことだった。
二人の嬉々とした声にたちまち自己を回復させた蘭が、猛禽類を思わせるするどい目つきで自分たちを睨みつけていることに気づいたのだ。
防御不能のはずのナックルシュートが止められたことへの驚きなのか、それとも二点目を阻止されたことへの怒りなのか。
いずれによるものかは不明であったが、ともかく美麗な顔をひきつらせている蘭に気づいた二人は、たちまち口をつぐむと亀のように首をすくめるのだった。
同時分、グラウンドの中ではまだプレーが続いていた。
シュートを防いだとはいえ、ボールはまだペナルティーエリア内で生きていたのだ。
しかも、こぼれたボールをキープしたのは園田であった。
積極的にボールを取りにいったわけではなく、はじかれたボールがたまたま目の前に転がってきただけなのだが、それでもこの男にかかると次のような解釈になるらしい。
「これこそ、まさに天の配剤! やはりサッカーの神は、俺がゴールすることを望んでいるのだぁーっ!!」
キープと同時に、園田がエリア内を突進していった。
上下の歯と歯ぐきをむきだしにし、両目を血走らせたその表情は興奮した猿を思わせたが、ドリブルでエリア内を疾走するその動きもまさに猿のようだった。
さながら土産物を盗んで店の人間に追われる猿のごとく、右に左に跳んで跳ねてを繰り返しながらBチームの守備陣をかわし続け、あれよあれよという間に伊原の目の前にまで迫ってきたのだ。
「ぬおおーっ! 高校生なんぞに負けてたまるかぁぁーっ!!」
猛り声をあげて迫ってくる園田の姿を見やり、伊原は小さく吐息した。
「本当にまあ、腐っても鯛だよなあ……しかし!」
感嘆の声を漏らすと伊原はゴール前から駆けだし、迫りくる園田めがけてスライディング・タックルを放っていった。
189センチ・89キロの重量タックルをまともにくらっては、168センチ・60キロの園田などひとたまりもない。
ディフェンダーの背後から突如として出現した巨体に仰天したその一瞬後、タックルをまともにくらった園田は突風に舞いあげられた木の葉のように宙空を舞い、ほどなく落下し、したたかに打ちつけた腰を押さえながら芝の上を転げまわった。
「悪いが二点目はやれんのだよ、マイアミのヒーローさん……うん?」
悲鳴をあげてのたうちまわる園田から視線をはずしたとき、今度は伊原がぎょっとした表情を浮かべた。
園田の突破を止めたのも束の間、セカンドボールをキープした涼が園田にかわってエリア内を疾走してきたのだ。
「ええい、一難去ってまた一難か!」
あわてて飛びあがった伊原は「頼むからセカンドボールくらい取ってくれよ」と胸の中でぼやきつつ、視線の先にいるディフェンダーの一人に声を投げつけた。
「佐久間!」
「わかってます!」
力強い声で伊原に応えたのは、佐久間というBチームの選手だった。
テスト選手ではなくラバーズの二軍チームに所属するれっきとしたプロ選手で、今月にもトップ登録が決まっている若手の有望株だ。
その佐久間が伊原の意をうけて、猛然と涼の行く手に立ちはだかる。
ほどなく互いの距離が2メートルにまで迫ったとき、佐久間の視線の先から涼の姿が突如として消えた。
否、跳んだのだ。
佐久間が消えたと錯覚するほどの高速の動きで、ボールごと真横に跳びかわしたのである。
「な、なんだぁ!?」
涼の姿がいきなり視界から消えたことに佐久間は仰天し、おもわず両目と口でゼロを三つ面上に形つくったが、それでも横に跳びかわしたことに気づくと必死の形相でくらいついてくる。
「そ、そのていどのフェイントでっ!」
佐久間が横合いからふたたび迫ってきた。涼がドリブルを急停止させたのはほぼ同時のことだ。
停止と同時にボールをスパイクで踏みつけ、それを軸に身体をくるりと半回転。
たちまち身体の向きを180度転換させた涼は、迫りきた佐久間をまるで猛牛をあしらう闘牛士のような動きでひらりとかわすと、すぐさまドリブルを再始動させてそのまま走り去っていった。
この間、わずか三秒。
何が起きたのかまるで理解できない佐久間には、遠ざかる涼の背中を立ちつくしたまま視線で追うしかなかった。
「マ、マルセイユ・ルーレットだとっ!?」
その瞬間、伊原の声が底知れない驚愕にひびわれた。
マルセイユ・ルーレット。それはドリブルの最中にボールを踏み止め、それを軸に身体を半回転させることで進行方向を変え、相手をかわすフェイントの一種である。
フランス・マルセイユ出身の世界的サッカー選手、ジアディーヌ・ジダンが得意としていたことからこの名がつけられた。
ボールを持った状態で急停止、半回転、再始動という連続した動きをごく短時間のうちにおこなわなければならず、数あるフェイントプレーの中でも難易度がひときわ高い。
実際、伊原もこのフェイントを実戦で使いこなす選手をこれまで見たことがない。
それほど高度なフェイントプレーを高校生が、しかもプロ選手を相手に実戦でやってのけたとあっては、驚きのあまり声を失ったのは無理なからぬことであろう。
だが佐久間とちがって伊原には、いつまでも惚けていることは許されなかった。
佐久間が突破された今、Bチームの選手にあって涼を止めることができるのはもはや伊原一人だけなのだから。
「ほ、本当に高校生なのかっ!?」
目の前三メートルの距離にまで涼が迫ってきたとき、ようやく自己を回復させた伊原はほとんど本能でゴール前から駆けだし、正面から突進してくる涼めがけてボディ・スライディングを放っていった。
横たえる189センチの巨体が芝の上を滑走するその姿は、さながら生ある石壁を思わせた。
これまで何度となく対戦チームのストライカーを封じこめ、チームの、そして日本代表のゴールを死守してきた一撃必殺のディフェンスだ。
だが、その渾身のディフェンスも「有翼人種」の涼には通じなかった。
伊原の猛烈なボディ・スライディングがその足下に炸裂しようとした、まさにその寸前。まるで見えない翼を羽ばたたかせたかのように涼が跳躍したのだ。
軽やかな一瞬のジャンプの前にボディ・スライディングの一撃はいとも簡単にかわされ、頭上をボールごと悠然と舞うその姿を伊原はただ見つめるしかなかった。
それはごく短時間の跳躍であったにもかかわらず、伊原の目にはなぜかスローモーション映像のように長い時間に感じられた。
そんな伊原が芝の上に横たわったまま固まっている間にも、音もなく着地した涼が無人となったゴールにボールを軽く蹴り入れた。
得点を告げるホイッスルが高らかにひびき、直後、見学エリアからはひときわ高い歓声があがった。
「やったわ、二点目よ!」
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