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桐一葉
しおりを挟む葉が紅く染まった。秋空に映える鮮やかな紅だ。しかし、それはさらさらと照る太陽が成した所業ではない。赤い雨が降ったのだ。
細く宙を舞う血しぶきと、微かな呻きを残して真一文字に裂けた声。それが己の目に映った時、ついにこうなったかと柔く微笑んだ。
目の前にある雄々しい背中は己の舎人のものだった。彼は汚れた剣を振るいながら足元で痙攣する男を見下ろしている。剣から散った紅が華のように、柔らかな地面に斑を描いた。
それにしても、真っ直ぐに伸びた背筋が美しい。毎朝日が昇る頃に剣を握り、一日たりとも欠かさず鍛えているだけはある。そんな呑気なことを考えて私は彼の名を呼んだ。
「斬ったのかい、赤檮」
人を斬ったことなど聞かずともわかる。しかし私はそう言った。大きな背中が振り返り、血飛沫を纏った顔でこちらを見つめる。その瞳に射抜かれた瞬間私は思わず眦をさげた。
そうか、お前はこれだけの瞳を持っていたのか。随分と滾った瞳じゃないか。まるで山を焼き尽くす炎のような、そんな憎悪にまみれた紅い目だ。しかし彼は何も言わなかった。私の顔を見てその紅い炎を波に揉み消す。ゆらゆらと揺れる瞳は地面に落とされ、竹のように伸びた背筋も萎れてしまった。
まるで子犬のようだと思った。その顔や身体は雄々しい狼にそっくりだというのに······。私に怒られるとでも思ったのだろう。血に染る彼の顔が泥にまみれた子供に見えた。
「いいんだこれで。よくやった。僕を守ってくれたんだろう」
見上げるほどの背丈に手を伸ばす。彼の頭に手をやれば血を吸った髪が肌に触れた。これで一緒だ。私も染った。手のひらに擦れた紅色がもどかしい。
「······私は」
ふと、彼が掠れた声で言葉を零した。思わず撫でていた手をピタリと止める。
「私は貴方様の舎人でございます。貴方様に仇なすものは何人たりとも許しませぬ。この中臣の奴は貴方様を呪詛した。だから斬りました」
子供の言い訳にそっくりだった。それが可笑しくて、ふふ、と小さな笑みがもれる。
「そうかい、ありがとう。それでいいんだ。僕だって死にたくはない」
ありがとう、もう一度そう囁いた。彼の髪から手を離せば、秋の気配を含んだ山風がやけに冷たく手の内に響く。その風に煽られたのか、目の前に一枚の木の葉がひらりと落ちた。紅くなり損ねた半端な色だ。美しくないから落とされたのだろうか。染まりゆく山には似合わぬと、そう神が沙汰を下したから······。
「染まりたくはないねぇ、赤檮。紅にも、黄にも、染まりたくない。でも青いままではダメだそうだ。木の上から落とされてしまう」
腰を曲げてつまみ上げたその葉は手の中でくるりと回った。何故山は全てを染めようとするのか。なぜ染められなければならぬのか。私は緑の輝きで生まれたのだ。その緑がひっそりと隠れて生きていたところで何も問題はあるまいに。
手の中の木の葉が血にへばりつき、緑が全て紅になった。途端に美しさが消えたような気がして秋風の中に木の葉を捨てた。もういいだろう、そのような色は見たくない。
物部の血も蘇我の血もない。私はそんな皇子だった。秋に染まりゆくこの飛鳥で、二つに分かれゆく人々の合間で、唯一染まり損ねた愚かな皇子だ。
対立を深める物部と蘇我は数々の皇子たちを巻き込みいがみ合いを続けている。まさに一触即発、もう戦は避けられないだろう。そんな中、赤檮は物部派の中臣勝海を斬った。ならば自分が蘇我に味方したと捉えられてもおかしくは無い。
しかしここで全ての皇子が戦に参加したのならばどうなる。いくら旗印に過ぎぬとはいえ矢は飛んでくる。戦に使われる雑兵たちは皇子と豪族の判別などつくわけも無い。戦で殺されない保証など誰一人として持ち合わせていないのだ。
だからこそ中立の立場が必要だと思った。物部が勝とうが蘇我が勝とうが、有力な皇子が消えれば国が存続しない。それに勝者とて後に反発する勢力から滅ぼされる可能性がある。ならば勝者にも敗者にもとらわれず、後世の権力者たちに拾ってもらえるような系統を紡がなければならないと思った。それが出来るのは現在中立を保つ己一人なのである。そんな自分を支えられるのは······。
赤檮の存在を確かめるように顔を上げる。彼の姿を確かにみとめると、私は諦めたように眉を下げて笑って見せた。
「蘇我の元へ行きなさい」
赤檮の狼ような目が大きく開かれる。
「蘇我の元へいれば守って貰えるよ。それに君の腕は本物だねぇ。今日はっきりわかったよ。君はこんな山奥で枯れる程度の器じゃない」
「しかし、私は皇子の」
「うん、分かってるよ。僕の舎人さ。だから里へおりなさい。僕を守るために、里へおりなさい」
初めて彼に命令した。赤檮は親を失った子供のような瞳で口を閉ざした。全く、雄々しい図体をしていながら幼げな顔をする。そこがとても好きなのだ。そこがとても好きだったのに······。
私は人と関わるのが苦手だった。距離感を測りかねるのか、言葉が悪いのか、自覚はないがどうも上手くいかない。しかしそんな自分に懐いてくれたのがこの赤檮だった。初めは反抗もしていたが、いつからか後をついてくるようになった。彼は素直すぎるがゆえに私の言葉を率直に受け入れるのだろう。不器用で見放されていた彼は、どこか私と似ているのかもしれない。誰とも関わることなく、赤檮と静かに過ごすのはとても楽しかった。その日々を手放すのは身がひきちぎられるかのような思いがした。
蕭々とした風に木々がざわめく。ああ、どうして秋の風は冷たいのだろう。どうせならあたたかい春に別れたかった。萌える木々と花々に囲まれて、彼の門出を祝いたかった。
「せつないものだねぇ。秋だからかなぁ」
曖昧に笑ってそう言った。色を失った赤檮の瞳がうら寂しい秋風に揺れる。なんて美しいのだろう、何にも染まらぬ彼の瞳は。この瞳に惚れたからこそ、私は彼を傍に置き続けようと心に誓っていた。
しかしそれを認めればしまえばもう二度と手放せなくなる。いっそのこと何もかも季節のせいにしてしまおうと思った。己の境遇へ向けた恨みも、こうすることしかできない自分への怒りも、湧き出ては心を埋めつくす行き場のない寂しさも······。
決して誰も悪くは無い。ただ恨みが、怒りが、寂しさが、荒涼とした山の景色に煽られて滲み出ただけ。そうだ、きっとそうだ。全て秋のせいなのだ。悲しげな鹿の声がこだまする、人恋しいこの季節の······。
それから数日後、山は全て赤く染った。我も我もと舞い落ちる木の葉が赤檮の背を赤の奥に掻き消す。ただ彼の揺るがぬ忠誠だけが、潔く先陣を切った桐の葉のように美しい。
ああ、もう秋も終いだ。ヒュウと木枯らしが駆け抜ける。凄然とした空の下、飛鳥の冬はもうすぐそこだった。
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