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放送事故です、これ。
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川田れぞの朝は早い。時刻は午前三時半。川田、起床。
起床と言っても目を開けることは無い。何故ならもう開いているからだ。この男には、目を開けたまま寝るという変な癖がある。
時計の針がピッタリ三時半に合わさった時、目覚まし時計の音とともにゆっくりと腹筋の力のみで上体を起こす。
この時、彼の目から涙が零れる。朝が来てしまったことを憂いているとかそんな殊勝な理由ではなく、一晩中瞬きもせずに目を開けていたの
でドライアイだからだ。
そこそこ容姿が整っているので、ここに朝日でも差し込んでいたら一枚の絵画のようになったかもしれない。が、現在時刻は午前の三時半。暗がりで目を血走らせ、無言で涙を零す絵面となっている。大の大人だってチビって逃げ出すホラー映像だ。
兎にも角にも薄暗い部屋にて起き上がった彼は涙を拭う事もせずゆらりと立ち上がり部屋を出た。
川田家の朝は早い。時刻は午前四時。リビング。
共働きの父と母、息子のれぞが一堂に会する唯一の時間だ。朝日はまだ出ていない。
母、父、息子の順で部屋に入る。最初にリビングに入ってきた母が旦那と息子におはようのキスをする。毎朝の恒例だからだ。旦那とキスする時はもちろん唇へ。何を隠そう、川田家の両親はとんでもないバカップルであり、母はかなりの少女漫画思考の自称お姫様である。
143cmしかない身長と童顔が相まって、似合っているから誰も突っ込まない。年齢は非公開だ。
父と息子でもおはようのキスをする。もちろん頬に。昔は口にしてたらしいが、さすがに息子が反抗期を迎えて拒んだ。
「パパ。いや、これは違う。流石に高校生にもなって父親とマウスtoマウスは恥ずかしい。知恵の実を食べたアダムとイヴの気持ち。さながら遺憾の意であるが今後やめていただきたい。」
と、言われた。
因みに川田家の父は、妻と息子のガチオタをしているので、ショックでその日会社を休む羽目になったという。そして、息子は母とのキスは拒んでないらしい。
それから暫く、家族団欒を過ごす。因みに川田家では徹底的な節電対策をしている。具体的には、基本電気は付けず自然光で過ごす、とか。よって、まだ朝日が昇っていない今、家族の中心には一本のキャンドルが灯されているのみ。微かな火の灯りでぼんやりと照らされる顔が三つ浮かんでいる状態、まるで百物語でもしてるかのような雰囲気で談笑している。朝日を待つ為にカーテンは開けっ放しなので、時々早朝の可哀想な目撃者からの悲鳴が後を絶たない。
さて、朝食を済ませれば各々が席を立つ。今日の朝食は牛丼。育ち盛りの男子高校生がいるのだから仕方ない。どんぶりに漫画みたいに米を盛ってペロリと平らげた。吸引力の変わらない育ち盛りの胃袋。
早々に着替えて軽く身支度をすれば、玄関に向かう。この時、「いってきます。」などと声をかけてはいけない。別に深い意味はない。父親が寂しがって泣きながら抱きついてくるのがうざいだけだった。
そんなこんなで川田れぞは学校へ向かった。午前五時のことである。
「おはようございます。先生。あれ、顔んとこどうされましたか?あぁ昨日の雨。はは、傘くらい差しとけば良かったなぁ、そう思いますよね。いやはや気が利かんで申し訳、ない。だがしかしね、しかして先生?雨だからってはしゃいじゃあいけません。すべって転ぶなんて末代の恥じゃあありません?先生ともあろうお人が。俺ならあれです。穴があったらなんとやら。あぁ、そういえば先生、
──────もうお亡くなりでしたっけ。」
学校の初代校長の像へのセリフである。
この像は夜になると動き出すなんて噂があるらしい。実際に見てみたいところだが、夜中にはしゃいでるところを生徒に見られるのは恥ずかしいだろうという彼なりの優しさにより、毎朝挨拶をして交流を深める所からはじめたのだという。
細かい気遣いができる男なのだ。知らんけど。
川田れぞの一日はまだ続く。初代校長の像への挨拶を終えると、彼は真剣な表情で校庭へと向かった。いや、真剣というか、どこか使命感に燃えていると言った方が正しいかもしれない。
川田れぞには毎朝欠かさない“儀式”がある。そう、校庭にミステリーサークルを作ることだ。校庭の端、体育館裏の誰も近づかない一角が、彼にとっての「交信の聖地」である。これまでの作品数は数知れず。教師たちは最初こそ怒ったものの、れぞの「交信目的」という妙な説得に根負けし、黙認するに至った。誰も触れない、いや、触れられない謎の領域である。
時計はまだ午前六時を回ったばかり。霜が降りた地面が冷たい白をまとっている中、れぞはポケットから愛用の木製スティックを取り出す。自作だ。「この形が一番、宇宙人に通じる」と彼が信じている道具だ。だが、正直どの辺が宇宙人に通じるかは謎だ。本人すら答えを持ち合わせていない。
彼はしゃがみ込み、慎重にスティックを地面に押し付けた。そして、ゆっくりと大きな円を描き始める。円の中にさらに小さな円、その周囲に謎の模様を付け足し、無心で線を引いていく。
「これだ、これが交信の鍵。いやいや、鍵というか、扉?いや違う、扉じゃなくて窓かもしれないな。窓ですね。えぇ、窓なんですよねぇ。つまり、これが宇宙との架け橋ってわけですよ。」
れぞは一人で何かを確信したように頷きながら、線を引き続ける。周囲には誰もいないが、それでも彼は楽しそうだ。いや、寂しいわけではない。むしろ、れぞにとってはこれが「最高の交信の瞬間」なのだ。
その頃、校舎の窓からたまたま通りかかった先生がこの光景を目撃していた。先生はため息をつきながら「またやってるよ…」と呟き、無言でカーテンを閉めた。見てはいけないものを見た人間の典型的なリアクションである。だが、れぞはそんな視線に一切気づかない。いや、気づいていても、きっと気にしないだろう。
完成したミステリーサークルを眺めながら、れぞはふぅ、と深く息をついた。
「いやぁ…完璧ですね。完璧、なんですよねぇ。これで宇宙人が来てくれるなら、僕はもう何も言うことない。いや、あるか。歓迎スピーチがいるなぁ。」
そんなことを呟きつつ、手に付いた土を払う。朝日がようやく校庭を照らし始めた頃、彼の“交信活動”は一旦終了した。
れぞは校庭を後にし、誰もいない廊下を歩きながらぽつりと呟く。
「さて、次は音楽室ですかね。噂の幽霊ピアニストにご挨拶ってところですか。」
彼の足音が静まり返った廊下に響く。次の冒険が待っている。
川田れぞの足は迷いなく音楽室へ向かう。いや、迷っていないようで迷っているかもしれない。廊下を歩く彼の足取りは、まるで道を知り尽くした案内人のようだが、その実、ちょっとした階段の影や窓の隙間にも目をやりながら進んでいる。幽霊がいるかもしれない、という希望に満ちた動きだ。
「音楽室の幽霊ピアニスト…。いや、これってすごいですよね。だって、ピアノが弾ける幽霊なんて、きっと品がいい。いやいや、むしろ幽霊だからこそ奏でられる音があるんじゃないかって。そういうのが聞けたら感動的ですよねぇ。いやぁ、これは期待が高まるなぁ。」
誰に話しかけているわけでもない。れぞの言葉は、静かな廊下にこだまするばかりだ。
音楽室の前に立つと、彼はふと息を飲んだ。ドアの向こう側から、微かに聞こえる気がする。いや、聞こえるような気がするだけかもしれない。いや、やっぱり聞こえているのか?
「これは…いよいよですねぇ。いや、でも待ってください。ここで焦ってはいけない。幽霊さんもきっと人見知りでしょうし、いや、霊見知りというべきですか?とにかく、まずはこちらの誠意を見せるべきでしょうねぇ。」
れぞは軽く喉を鳴らし、慎重にドアを開けた。静かに、まるで誰かに気づかれないように。いや、相手が幽霊なら気づかれないようにする意味があるのかどうかは怪しいが、それでも慎重だった。
中に入ると、部屋は薄暗い。カーテンは閉じられ、外からの光がほとんど差し込んでいない。その代わり、ピアノの鍵盤が月明かりでほんのり照らされている。
「おやおや…。これはいい雰囲気じゃないですか。いやぁねぇ、これはもう、幽霊さんが現れる気満々なんですよねぇ。」
れぞはそう言いながらピアノに近づく。鍵盤を見つめ、そっと手を伸ばした。その瞬間――
鍵盤がひとりでに動き始めた。いや、動いているように見えた。微かな音が確かに鳴っている。
「これは…いや、もしかして、本当にいらっしゃる?いや、でも待ってください。これは風が吹き込んで鍵盤が揺れているとか、いやいや、地震とかで勝手に動いているとか、いや、でもいや、これは…あぁ、分からない。でも素晴らしい!」
興奮のあまり、れぞは意味不明な独り言を連発した。だが、ピアノの上に目を向けた瞬間、何かに気づいた。鍵盤のすぐ上、天井近くに設置された換気扇が、ガタガタと古びた音を立てて動いている。そこから漏れる強い風が、ピアノのフタを僅かに押し上げていた。
「あれ…。いや、これは…ちょっと待ってくださいね?風?いやいや、待って。そうとも言い切れませんよね。換気扇の風がこんなふうに鍵盤を叩くなんて…いや、これはきっと幽霊さんが『風』を操ってメッセージを送っているんですよ。そうですよねぇ。」
れぞは独りで納得し、換気扇を見上げながら軽く頭を下げた。だがその視線の先、ピアノの内部に差し込んだ微かな光の中に、妙なものが見えた。
小さなネズミが、一匹、ピアノの弦の間を駆け抜けていたのだ。
「あれ。いや、いやいや、待ってくださいよ。ネズミ?いや、これは…。いやいやいやいや、もしかしてこのネズミさんが幽霊さんの使い…いやいや、むしろこの子が幽霊そのもの?いや、そんなわけ…いや、でもあり得ますよねぇ。」
彼はネズミの姿を見ながら、ひとりで複雑な思考を巡らせていた。そして最終的に、ぽつりと呟く。
「幽霊さん、動物好きなんですねぇ。いやぁ、素晴らしいですね、素晴らしい。」
そう言って深々と頭を下げるれぞ。その背後では、ネズミが素早くピアノの中から走り去り、換気扇のガタついた音が静まり返る中、ピアノは再び沈黙を取り戻した。
れぞは満足そうにピアノを振り返り、そっと部屋を後にした。
「いやぁ、素晴らしかったですね。幽霊さんのメッセージがこんな形で見られるなんて。いや、見られるっていうか、感じられるっていうか。いやいや、感じられるというよりは、見せてもらった、ですねぇ。」
そんなことを呟きながら、廊下を歩くれぞ。時間はまだ早朝の七時前。生徒たちがちらほら登校してくる中、彼は相変わらずの独特なペースを崩さない。
廊下を抜けて階段を降りると、れぞは足を止めた。視線の先には、掲示板に張られた紙が一枚。そこには「忘れ物一覧」と書かれた文字と、やけに長いリストが並んでいる。
「忘れ物、ですか。いやぁね、これって不思議ですよね。人間って、何かを持っているつもりで実は持っていなかったりするんですよ。いや、逆に持っていないと思っていたものが実は手元にあったりもする。忘れるというのはつまり…あぁ、これって深いですねぇ。」
彼は独り言をつぶやきつつ、掲示板を眺める。ふとその中に、ひときわ奇妙な一文を見つけた。
「音楽室にて発見された未登録の譜面:現在保管中」
「未登録の譜面…。いや、ちょっと待ってくださいよ。これは、つまり、幽霊さんが残したメッセージという可能性が…。いやいやいや、でも、待てよ。いや、やっぱり、これは…確認が必要ですねぇ。」
れぞの目は輝きを帯び、再び音楽室へ向かおうとしたその時、背後から低く響く声がした。
「川田ァ!こんな朝早くから何をやってるんだ!」
振り返ると、そこには彼が苦手とする体育教師・田所が立っていた。短髪で筋肉質、見るからに体育教師という風貌だが、早朝からトレーニングウェア姿で額に汗を浮かべている。体育館で自主トレーニングをしてきた帰りなのだろう。
「いやぁねぇ、田所先生。これには深い理由がありまして…。いや、深いっていうか、むしろ広いっていうか、えぇ、とにかく壮大な理由があるんです。」
「また訳の分からんことを言っているな!お前、何をやっていたか素直に言え!」
田所の鋭い視線に、れぞは一瞬だけ固まった。しかし、すぐにいつもの調子を取り戻し、微かに肩をすくめながら答えた。
「何を、とはですねぇ。いやぁ、先生、僕はただ幽霊さんと交流を図っていただけでして…。これも教育活動の一環ですよねぇ?いや、教育活動と言うと少し語弊があるかもですが。」
「幽霊!?またそんなことを…。校庭に変な模様を描くのもお前だろう?教師として言わせてもらうが、あれを見て『学校に異常が発生した』って保護者から問い合わせが来ているんだ!」
「あぁ、そうでしたか。それは光栄ですねぇ。いやいや、異常と言うか、むしろ注目ですよ。注目されるということは…」
「注目じゃない!お前は校庭に何を描いているんだ!」
田所の怒鳴り声が廊下に響いた。だがれぞは、まるで動じないどころか、微笑みを浮かべている。
「いやぁ、先生。それはですね、宇宙人さんと我々人類の架け橋を作っているんですよ。いやいや、架け橋というよりは、メッセージですね。いや、メッセージと言うより…。」
「いいから黙れ!お前、今すぐその音楽室とやらもやめて、職員室に来い!」
れぞは田所の怒声に一瞬たじろいだが、すぐにスッと後ろに一歩下がり、軽く頭を下げた。
「いやぁ、先生。そのお気持ち、ありがたいです。いや、ありがたいというか、むしろ痛み入ります。でも、僕にはまだやらねばならないことが…。いやいや、やらないと、ですよねぇ。」
「待て!逃げるな、川田!」
その言葉を聞くや否や、れぞは廊下をスタスタと歩き出した。走りもしない、しかし田所に追いつかれる隙も与えない絶妙なペースで、彼は校舎の出口へと向かう。
「いやぁ、音楽室はまた次の機会ですね。幽霊さん、申し訳ない!」
彼はそう呟きながら、振り返ることなく校舎を後にした。田所が遠くから怒鳴る声が背中に届いたが、れぞはその声を、まるで風の音のように軽く受け流した。
校庭の片隅で、れぞはふと空を見上げた。朝の澄んだ空には雲がほとんどなく、冷たい風が頬を撫でる。彼の頭の中には、さまざまな「試してみたいこと」が常に巡っている。そして今日はその中の一つ、「心霊写真撮影計画」を実行する日だ。
「いやぁ、今日はですね、幽霊さんにお願いしたいんですよ。いや、お願いというか、ちょっと協力していただきたいというか…。いやいや、むしろ一緒に作品を作り上げる感じですかねぇ。」
そう呟きながら、れぞはポケットから古びたフィルムカメラを取り出した。このカメラは、彼が近所のリサイクルショップで見つけた年代物で、シャッターを切ると「何かが映る」という噂付きの一品だ。彼にとっては、まさに宝物だった。
れぞは学校内で撮影スポットを探し始めた。階段の踊り場、錆びついたロッカー、古びた掲示板…。どれも幽霊が出そうな場所に思える。だが、れぞは首を傾げると呟いた。
「いやぁ、どれもいいんですけどねぇ。いいんですけど、なんかこう…決定打がないんですよねぇ。いやいや、むしろ普通すぎるんですよ。」
しばらく迷った末、れぞは校舎裏の倉庫へと足を向けた。そこは普段、ほとんど誰も近づかない薄暗い場所で、古い教材や壊れた椅子などが雑然と置かれている。
「おぉ、ここはいいですねぇ。いや、いいというか、むしろ完璧ですねぇ。」
倉庫の中に入ると、彼は慎重にカメラを構えた。そして、何もない空間に向かってシャッターを切る。カシャリ、という音が静寂を裂いた。
「さて、これで何かが映ってくれれば…。いやいや、映るというより、むしろ現れていただきたいですねぇ。」
彼はそう言いながらカメラを覗き込み、再びシャッターを切る。その時、背後で微かな物音がした。
れぞは一瞬だけ動きを止めたが、すぐに笑みを浮かべた。
「おぉ、これは…。いやぁ、幽霊さん、さっそくご協力いただけるんですねぇ。いやいや、ありがとうございます。感謝、感謝です。」
振り返ると、そこには古びた窓枠が微かに揺れていた。どうやら風が吹き込んだだけのようだ。だが、れぞにとっては違った。
「いやぁ、いいですねぇ。こういうさりげない演出が幽霊さんのセンスを感じさせるんですよねぇ。いや、さすがです。」
カメラを手にしたまま満足そうに頷くれぞ。彼はさらに倉庫の奥へと足を進め、またシャッターを切り始めた。
倉庫の奥に進みながら、れぞは次々とシャッターを切った。薄暗い空間に、カメラのカシャリという音が静かに響く。
「いやぁ、これだけ撮ればきっと何か映るはずですよねぇ。いや、映るというか、むしろ幽霊さんが写ってくださると言いますか…。いやいや、お願いしてますよ、本当に。」
最後に、倉庫の隅に置かれた古い椅子を狙ってシャッターを切る。カシャリ。彼は一度息を吐き、カメラをしまった。
「さて、あとは現像してみてのお楽しみですねぇ。いやぁ、どんな作品になっていることやら。」
れぞはそう呟きながら倉庫を出た。足元には木の葉がカサリと音を立てる。空を見上げると、いつの間にか朝日が校舎の影を越え、明るい光が差し込み始めていた。
彼はポケットに手を突っ込みながら、ゆっくりと校庭を歩く。そして再び独り言をつぶやいた。
「いやぁ、幽霊さんもきっと喜んでくれてますよねぇ。いや、むしろ僕より楽しんでくださってるんじゃないかって。いやいや、そうだと嬉しいですねぇ。」
そんな彼の背後、倉庫の窓から誰かがこちらをじっと見つめているような気配があった――が、れぞは振り返ることなくそのまま歩き去った。
放課後、れぞは撮影した写真の現像を終えた。机の上には数枚の写真が並べられている。どれも薄暗い倉庫の中を写したものだが、その中の一枚、古い椅子を写した写真に何かが映り込んでいた。
そこには、椅子の背もたれに白い手の形をしたものが、くっきりと浮かび上がっていた。
しかし――肝心のれぞは、その写真をじっと見つめながら首を傾げている。
「いやぁ、やっぱり椅子の質感がいいですよねぇ。この木目の具合とか、なんというか、歴史を感じさせるというか…。いやいや、これは本当に素晴らしい椅子ですよねぇ。」
彼はその写真を「椅子の美しさを収めた一枚」として感動しながら棚に飾った。そこに何が映っているのかには、まるで気づいていなかった。
放課後の校舎は静かだった。部活動に励む生徒たちの声がどこか遠くから微かに聞こえるが、れぞはそれを耳にしながらゆっくりと廊下を歩いていた。
「いやぁ、学校というのは昼間と夜ではまるで別物ですよねぇ。いや、別物というか、むしろ生き物みたいですよね。昼間は喧騒の中で目を覚まし、放課後になると静かに息を潜める。いやいや、素晴らしいですよねぇ。」
そんなことを呟きながら、れぞは校舎裏へと向かっていた。彼の今日の目的地は、学校の裏手にある古びた井戸。
この井戸は、生徒たちの間で「絶対に覗いてはいけない」と噂されている場所だった。理由は誰も知らない。ただ、噂によれば、井戸の中を覗くと「誰かに引き込まれる」とか「覗いた翌日に不幸が訪れる」とか、そんな話が飛び交っている。
「いやぁ、そういう話って面白いですよねぇ。いや、面白いというか、むしろ美しいですよね。いやいや、誰がこんな話を思いつくのか、それ自体がミステリーですよ。」
れぞは井戸の前に立ち、古びた石の枠をじっと見つめた。苔が生え、長い年月を感じさせるその姿は、確かに「何か」がありそうな雰囲気を醸し出している。
「いやぁ、これを覗くなと言われたら、むしろ覗いてくれと言われてるようなもんですよねぇ。いやいや、そうじゃなくても気になりますよ、これは。」
れぞは井戸の縁に手をかけ、中をじっと覗き込んだ。井戸の中は暗く深い。ただ、水の音ひとつ聞こえない静寂が広がっている。
「……なるほど、これはなかなか雰囲気がありますねぇ。」
彼はしばらく井戸の中を観察していたが、特にこれといった変化はない。ただ、風が吹き抜けるたび、井戸の中から微かに音が返ってくるだけだった。
「残念ですが、今日は収穫なしということでしょうか。」
れぞは少し肩をすくめ、井戸から顔を離した。ふと周囲を見回すが、特に何も異変はない。ただ古びた井戸が静かに佇んでいるだけだ。
「まぁ、幽霊さんにも都合があるんでしょう。今日はこれくらいにしておきますか。」
彼は軽く頭を下げると、その場を後にした。井戸の周囲は再び静寂に包まれ、風だけが草木を揺らしていた。
帰り道、れぞは何事もなかったかのように鼻歌を口ずさみながら歩いていた。周囲には夕焼けが広がり、通りには学校帰りの生徒や仕事帰りの人々がちらほら行き交っている。
しかし、道行く人々の視線が、なぜか彼の首元に集まっていた。
すれ違いざまに目を見開く人、振り返りながら友人と何か話す人。ちらちらと向けられる視線に気づくようで気づかないれぞは、相変わらずのマイペースだ。
やがて、家に着くと玄関先で母親が迎えた。エプロン姿の彼女は、れぞを見て一拍間を置くと、溜め息混じりに口を開いた。
「あらまぁ、れぞちゃん。またそんな首して帰ってきたのねぇ。」
彼女はれぞに向かって小さく笑いながら、ひらひらと手を振る。「子供が泥だらけで帰ってきた」とでも言わんばかりの、肩の力の抜けた反応だ。
「ねぇれぞちゃん、首に手形つけて帰ってくるのはね、もういい加減やめない?ママ、何度か警察呼ばれそうになったことがあるのよ?そういうの、意外とご近所で騒がれるんだから。」
「手形ですか?」
れぞは首を傾げたが、母親のその言葉にはまるで気が入っていない。言ってはいるが、心底慣れきっているのが一目で分かる。
「はいはい、とにかく洗面所で確認してきなさいな。あ、それともママが鏡を持ってきてあげましょうか?『鏡よ鏡』のごっこもいいわよねぇ。」
「自分で行きます。」
れぞは静かに答えると靴を脱ぎ、洗面所へ向かった。
洗面所の鏡の前に立ち、何気なく首筋を覗き込む。そして、そこにくっきりと残る赤い手形を見た瞬間、彼の目がかすかに輝いた。
「……これは……!」
れぞは鏡越しに手形を凝視する。言葉にはしないが、内心は興奮でいっぱいだ。まるで宝物を見つけた子供のように、じっくりと手形を観察した。
「……なるほど、これはかなり見事ですね。」
彼は小さく呟くと、そっと首筋を指で撫でた。微かに残る冷たさが、手形の主を感じさせるようで、彼の心は熱く高鳴る。
「幽霊さん、こういう形でメッセージをいただけるとは。ありがたい限りです。」
後ろから母親の声が飛んできた。
「れぞちゃん、それはいいけど、ママとしてはね、そろそろ普通の高校生っぽい趣味とかも始めてほしいのよ。なんなら一緒にケーキでも作る?」
「いえ、満足です。」
れぞはそう返事しながら、鏡をじっと見つめ続けていた。しばらくして満足そうに頷くと、手形を見たまま小さく頭を下げた。
「次回もよろしくお願いします。」
その声に応える者は誰もいなかったが、れぞの中では確かに何かが返事をしたように感じていた。
夜が更け、川田家は静まり返っていた。リビングのキャンドルも消え、家全体が闇に包まれる中、れぞの部屋だけは微かな明かりが漏れている。
れぞはベッドの上に腰掛け、今日現像した写真をじっくりと眺めていた。机には数枚の写真が並べられ、どれも倉庫で撮影したものだ。
「いやぁ、どれもいい雰囲気ですよねぇ。」
れぞは一枚一枚、指で触れるように丁寧に写真を確認する。中でも、首に手形を付けた張本人と思しき椅子の写真に目を留めると、小さく頷いた。
「これが一番、幽霊さんらしい。いや、らしいというか、むしろ芸術的ですよねぇ。」
そう言いながら、写真を棚に飾ると、ふと窓の外を見やった。真っ暗な夜空にぽつりと浮かぶ月が、窓ガラスをぼんやりと照らしている。
れぞは立ち上がり、窓の鍵をゆっくりと回した。冷たい夜風が部屋に流れ込み、彼の髪をそっと揺らす。
「夜というのは不思議ですよねぇ。昼間は気づけないものが、夜になると見えるようになる。それが幽霊さんなのか、ただの影なのか…いやぁ、そこが面白いんですよね。」
独り言を呟きながら、彼は窓を閉め、部屋の明かりを消した。
ベッドに横たわり、目を閉じる。いや、正確には目を閉じる「つもり」だが、れぞは目を開けたまま眠る癖がある。月明かりが窓から差し込み、彼の顔を白く照らしていた。
「明日も何か素晴らしいことがありますように。」
ぽつりと呟き、そのまま静かに息を整える。部屋の中は風の音と時計の針の音だけが響いている。
だが、彼が眠りにつくと同時に、机の上に飾られた写真が、ふっと揺れたように見えた。まるで何者かがそっと触れたかのように。
れぞはその気配には気づくはずもない。ただ、目を開けたまま、規則正しい寝息を立てているだけだった。
そして静まり返った部屋の中、棚に飾られた写真が月明かりを浴び、ほんの一瞬、椅子の背もたれの手形が鮮明に浮かび上がるように輝いた。
れぞの穏やかな寝顔の横で、何かがそっと動いたように見えたが――それもまた、彼が気づくことはないまま夜が更けていくのだった。
起床と言っても目を開けることは無い。何故ならもう開いているからだ。この男には、目を開けたまま寝るという変な癖がある。
時計の針がピッタリ三時半に合わさった時、目覚まし時計の音とともにゆっくりと腹筋の力のみで上体を起こす。
この時、彼の目から涙が零れる。朝が来てしまったことを憂いているとかそんな殊勝な理由ではなく、一晩中瞬きもせずに目を開けていたの
でドライアイだからだ。
そこそこ容姿が整っているので、ここに朝日でも差し込んでいたら一枚の絵画のようになったかもしれない。が、現在時刻は午前の三時半。暗がりで目を血走らせ、無言で涙を零す絵面となっている。大の大人だってチビって逃げ出すホラー映像だ。
兎にも角にも薄暗い部屋にて起き上がった彼は涙を拭う事もせずゆらりと立ち上がり部屋を出た。
川田家の朝は早い。時刻は午前四時。リビング。
共働きの父と母、息子のれぞが一堂に会する唯一の時間だ。朝日はまだ出ていない。
母、父、息子の順で部屋に入る。最初にリビングに入ってきた母が旦那と息子におはようのキスをする。毎朝の恒例だからだ。旦那とキスする時はもちろん唇へ。何を隠そう、川田家の両親はとんでもないバカップルであり、母はかなりの少女漫画思考の自称お姫様である。
143cmしかない身長と童顔が相まって、似合っているから誰も突っ込まない。年齢は非公開だ。
父と息子でもおはようのキスをする。もちろん頬に。昔は口にしてたらしいが、さすがに息子が反抗期を迎えて拒んだ。
「パパ。いや、これは違う。流石に高校生にもなって父親とマウスtoマウスは恥ずかしい。知恵の実を食べたアダムとイヴの気持ち。さながら遺憾の意であるが今後やめていただきたい。」
と、言われた。
因みに川田家の父は、妻と息子のガチオタをしているので、ショックでその日会社を休む羽目になったという。そして、息子は母とのキスは拒んでないらしい。
それから暫く、家族団欒を過ごす。因みに川田家では徹底的な節電対策をしている。具体的には、基本電気は付けず自然光で過ごす、とか。よって、まだ朝日が昇っていない今、家族の中心には一本のキャンドルが灯されているのみ。微かな火の灯りでぼんやりと照らされる顔が三つ浮かんでいる状態、まるで百物語でもしてるかのような雰囲気で談笑している。朝日を待つ為にカーテンは開けっ放しなので、時々早朝の可哀想な目撃者からの悲鳴が後を絶たない。
さて、朝食を済ませれば各々が席を立つ。今日の朝食は牛丼。育ち盛りの男子高校生がいるのだから仕方ない。どんぶりに漫画みたいに米を盛ってペロリと平らげた。吸引力の変わらない育ち盛りの胃袋。
早々に着替えて軽く身支度をすれば、玄関に向かう。この時、「いってきます。」などと声をかけてはいけない。別に深い意味はない。父親が寂しがって泣きながら抱きついてくるのがうざいだけだった。
そんなこんなで川田れぞは学校へ向かった。午前五時のことである。
「おはようございます。先生。あれ、顔んとこどうされましたか?あぁ昨日の雨。はは、傘くらい差しとけば良かったなぁ、そう思いますよね。いやはや気が利かんで申し訳、ない。だがしかしね、しかして先生?雨だからってはしゃいじゃあいけません。すべって転ぶなんて末代の恥じゃあありません?先生ともあろうお人が。俺ならあれです。穴があったらなんとやら。あぁ、そういえば先生、
──────もうお亡くなりでしたっけ。」
学校の初代校長の像へのセリフである。
この像は夜になると動き出すなんて噂があるらしい。実際に見てみたいところだが、夜中にはしゃいでるところを生徒に見られるのは恥ずかしいだろうという彼なりの優しさにより、毎朝挨拶をして交流を深める所からはじめたのだという。
細かい気遣いができる男なのだ。知らんけど。
川田れぞの一日はまだ続く。初代校長の像への挨拶を終えると、彼は真剣な表情で校庭へと向かった。いや、真剣というか、どこか使命感に燃えていると言った方が正しいかもしれない。
川田れぞには毎朝欠かさない“儀式”がある。そう、校庭にミステリーサークルを作ることだ。校庭の端、体育館裏の誰も近づかない一角が、彼にとっての「交信の聖地」である。これまでの作品数は数知れず。教師たちは最初こそ怒ったものの、れぞの「交信目的」という妙な説得に根負けし、黙認するに至った。誰も触れない、いや、触れられない謎の領域である。
時計はまだ午前六時を回ったばかり。霜が降りた地面が冷たい白をまとっている中、れぞはポケットから愛用の木製スティックを取り出す。自作だ。「この形が一番、宇宙人に通じる」と彼が信じている道具だ。だが、正直どの辺が宇宙人に通じるかは謎だ。本人すら答えを持ち合わせていない。
彼はしゃがみ込み、慎重にスティックを地面に押し付けた。そして、ゆっくりと大きな円を描き始める。円の中にさらに小さな円、その周囲に謎の模様を付け足し、無心で線を引いていく。
「これだ、これが交信の鍵。いやいや、鍵というか、扉?いや違う、扉じゃなくて窓かもしれないな。窓ですね。えぇ、窓なんですよねぇ。つまり、これが宇宙との架け橋ってわけですよ。」
れぞは一人で何かを確信したように頷きながら、線を引き続ける。周囲には誰もいないが、それでも彼は楽しそうだ。いや、寂しいわけではない。むしろ、れぞにとってはこれが「最高の交信の瞬間」なのだ。
その頃、校舎の窓からたまたま通りかかった先生がこの光景を目撃していた。先生はため息をつきながら「またやってるよ…」と呟き、無言でカーテンを閉めた。見てはいけないものを見た人間の典型的なリアクションである。だが、れぞはそんな視線に一切気づかない。いや、気づいていても、きっと気にしないだろう。
完成したミステリーサークルを眺めながら、れぞはふぅ、と深く息をついた。
「いやぁ…完璧ですね。完璧、なんですよねぇ。これで宇宙人が来てくれるなら、僕はもう何も言うことない。いや、あるか。歓迎スピーチがいるなぁ。」
そんなことを呟きつつ、手に付いた土を払う。朝日がようやく校庭を照らし始めた頃、彼の“交信活動”は一旦終了した。
れぞは校庭を後にし、誰もいない廊下を歩きながらぽつりと呟く。
「さて、次は音楽室ですかね。噂の幽霊ピアニストにご挨拶ってところですか。」
彼の足音が静まり返った廊下に響く。次の冒険が待っている。
川田れぞの足は迷いなく音楽室へ向かう。いや、迷っていないようで迷っているかもしれない。廊下を歩く彼の足取りは、まるで道を知り尽くした案内人のようだが、その実、ちょっとした階段の影や窓の隙間にも目をやりながら進んでいる。幽霊がいるかもしれない、という希望に満ちた動きだ。
「音楽室の幽霊ピアニスト…。いや、これってすごいですよね。だって、ピアノが弾ける幽霊なんて、きっと品がいい。いやいや、むしろ幽霊だからこそ奏でられる音があるんじゃないかって。そういうのが聞けたら感動的ですよねぇ。いやぁ、これは期待が高まるなぁ。」
誰に話しかけているわけでもない。れぞの言葉は、静かな廊下にこだまするばかりだ。
音楽室の前に立つと、彼はふと息を飲んだ。ドアの向こう側から、微かに聞こえる気がする。いや、聞こえるような気がするだけかもしれない。いや、やっぱり聞こえているのか?
「これは…いよいよですねぇ。いや、でも待ってください。ここで焦ってはいけない。幽霊さんもきっと人見知りでしょうし、いや、霊見知りというべきですか?とにかく、まずはこちらの誠意を見せるべきでしょうねぇ。」
れぞは軽く喉を鳴らし、慎重にドアを開けた。静かに、まるで誰かに気づかれないように。いや、相手が幽霊なら気づかれないようにする意味があるのかどうかは怪しいが、それでも慎重だった。
中に入ると、部屋は薄暗い。カーテンは閉じられ、外からの光がほとんど差し込んでいない。その代わり、ピアノの鍵盤が月明かりでほんのり照らされている。
「おやおや…。これはいい雰囲気じゃないですか。いやぁねぇ、これはもう、幽霊さんが現れる気満々なんですよねぇ。」
れぞはそう言いながらピアノに近づく。鍵盤を見つめ、そっと手を伸ばした。その瞬間――
鍵盤がひとりでに動き始めた。いや、動いているように見えた。微かな音が確かに鳴っている。
「これは…いや、もしかして、本当にいらっしゃる?いや、でも待ってください。これは風が吹き込んで鍵盤が揺れているとか、いやいや、地震とかで勝手に動いているとか、いや、でもいや、これは…あぁ、分からない。でも素晴らしい!」
興奮のあまり、れぞは意味不明な独り言を連発した。だが、ピアノの上に目を向けた瞬間、何かに気づいた。鍵盤のすぐ上、天井近くに設置された換気扇が、ガタガタと古びた音を立てて動いている。そこから漏れる強い風が、ピアノのフタを僅かに押し上げていた。
「あれ…。いや、これは…ちょっと待ってくださいね?風?いやいや、待って。そうとも言い切れませんよね。換気扇の風がこんなふうに鍵盤を叩くなんて…いや、これはきっと幽霊さんが『風』を操ってメッセージを送っているんですよ。そうですよねぇ。」
れぞは独りで納得し、換気扇を見上げながら軽く頭を下げた。だがその視線の先、ピアノの内部に差し込んだ微かな光の中に、妙なものが見えた。
小さなネズミが、一匹、ピアノの弦の間を駆け抜けていたのだ。
「あれ。いや、いやいや、待ってくださいよ。ネズミ?いや、これは…。いやいやいやいや、もしかしてこのネズミさんが幽霊さんの使い…いやいや、むしろこの子が幽霊そのもの?いや、そんなわけ…いや、でもあり得ますよねぇ。」
彼はネズミの姿を見ながら、ひとりで複雑な思考を巡らせていた。そして最終的に、ぽつりと呟く。
「幽霊さん、動物好きなんですねぇ。いやぁ、素晴らしいですね、素晴らしい。」
そう言って深々と頭を下げるれぞ。その背後では、ネズミが素早くピアノの中から走り去り、換気扇のガタついた音が静まり返る中、ピアノは再び沈黙を取り戻した。
れぞは満足そうにピアノを振り返り、そっと部屋を後にした。
「いやぁ、素晴らしかったですね。幽霊さんのメッセージがこんな形で見られるなんて。いや、見られるっていうか、感じられるっていうか。いやいや、感じられるというよりは、見せてもらった、ですねぇ。」
そんなことを呟きながら、廊下を歩くれぞ。時間はまだ早朝の七時前。生徒たちがちらほら登校してくる中、彼は相変わらずの独特なペースを崩さない。
廊下を抜けて階段を降りると、れぞは足を止めた。視線の先には、掲示板に張られた紙が一枚。そこには「忘れ物一覧」と書かれた文字と、やけに長いリストが並んでいる。
「忘れ物、ですか。いやぁね、これって不思議ですよね。人間って、何かを持っているつもりで実は持っていなかったりするんですよ。いや、逆に持っていないと思っていたものが実は手元にあったりもする。忘れるというのはつまり…あぁ、これって深いですねぇ。」
彼は独り言をつぶやきつつ、掲示板を眺める。ふとその中に、ひときわ奇妙な一文を見つけた。
「音楽室にて発見された未登録の譜面:現在保管中」
「未登録の譜面…。いや、ちょっと待ってくださいよ。これは、つまり、幽霊さんが残したメッセージという可能性が…。いやいやいや、でも、待てよ。いや、やっぱり、これは…確認が必要ですねぇ。」
れぞの目は輝きを帯び、再び音楽室へ向かおうとしたその時、背後から低く響く声がした。
「川田ァ!こんな朝早くから何をやってるんだ!」
振り返ると、そこには彼が苦手とする体育教師・田所が立っていた。短髪で筋肉質、見るからに体育教師という風貌だが、早朝からトレーニングウェア姿で額に汗を浮かべている。体育館で自主トレーニングをしてきた帰りなのだろう。
「いやぁねぇ、田所先生。これには深い理由がありまして…。いや、深いっていうか、むしろ広いっていうか、えぇ、とにかく壮大な理由があるんです。」
「また訳の分からんことを言っているな!お前、何をやっていたか素直に言え!」
田所の鋭い視線に、れぞは一瞬だけ固まった。しかし、すぐにいつもの調子を取り戻し、微かに肩をすくめながら答えた。
「何を、とはですねぇ。いやぁ、先生、僕はただ幽霊さんと交流を図っていただけでして…。これも教育活動の一環ですよねぇ?いや、教育活動と言うと少し語弊があるかもですが。」
「幽霊!?またそんなことを…。校庭に変な模様を描くのもお前だろう?教師として言わせてもらうが、あれを見て『学校に異常が発生した』って保護者から問い合わせが来ているんだ!」
「あぁ、そうでしたか。それは光栄ですねぇ。いやいや、異常と言うか、むしろ注目ですよ。注目されるということは…」
「注目じゃない!お前は校庭に何を描いているんだ!」
田所の怒鳴り声が廊下に響いた。だがれぞは、まるで動じないどころか、微笑みを浮かべている。
「いやぁ、先生。それはですね、宇宙人さんと我々人類の架け橋を作っているんですよ。いやいや、架け橋というよりは、メッセージですね。いや、メッセージと言うより…。」
「いいから黙れ!お前、今すぐその音楽室とやらもやめて、職員室に来い!」
れぞは田所の怒声に一瞬たじろいだが、すぐにスッと後ろに一歩下がり、軽く頭を下げた。
「いやぁ、先生。そのお気持ち、ありがたいです。いや、ありがたいというか、むしろ痛み入ります。でも、僕にはまだやらねばならないことが…。いやいや、やらないと、ですよねぇ。」
「待て!逃げるな、川田!」
その言葉を聞くや否や、れぞは廊下をスタスタと歩き出した。走りもしない、しかし田所に追いつかれる隙も与えない絶妙なペースで、彼は校舎の出口へと向かう。
「いやぁ、音楽室はまた次の機会ですね。幽霊さん、申し訳ない!」
彼はそう呟きながら、振り返ることなく校舎を後にした。田所が遠くから怒鳴る声が背中に届いたが、れぞはその声を、まるで風の音のように軽く受け流した。
校庭の片隅で、れぞはふと空を見上げた。朝の澄んだ空には雲がほとんどなく、冷たい風が頬を撫でる。彼の頭の中には、さまざまな「試してみたいこと」が常に巡っている。そして今日はその中の一つ、「心霊写真撮影計画」を実行する日だ。
「いやぁ、今日はですね、幽霊さんにお願いしたいんですよ。いや、お願いというか、ちょっと協力していただきたいというか…。いやいや、むしろ一緒に作品を作り上げる感じですかねぇ。」
そう呟きながら、れぞはポケットから古びたフィルムカメラを取り出した。このカメラは、彼が近所のリサイクルショップで見つけた年代物で、シャッターを切ると「何かが映る」という噂付きの一品だ。彼にとっては、まさに宝物だった。
れぞは学校内で撮影スポットを探し始めた。階段の踊り場、錆びついたロッカー、古びた掲示板…。どれも幽霊が出そうな場所に思える。だが、れぞは首を傾げると呟いた。
「いやぁ、どれもいいんですけどねぇ。いいんですけど、なんかこう…決定打がないんですよねぇ。いやいや、むしろ普通すぎるんですよ。」
しばらく迷った末、れぞは校舎裏の倉庫へと足を向けた。そこは普段、ほとんど誰も近づかない薄暗い場所で、古い教材や壊れた椅子などが雑然と置かれている。
「おぉ、ここはいいですねぇ。いや、いいというか、むしろ完璧ですねぇ。」
倉庫の中に入ると、彼は慎重にカメラを構えた。そして、何もない空間に向かってシャッターを切る。カシャリ、という音が静寂を裂いた。
「さて、これで何かが映ってくれれば…。いやいや、映るというより、むしろ現れていただきたいですねぇ。」
彼はそう言いながらカメラを覗き込み、再びシャッターを切る。その時、背後で微かな物音がした。
れぞは一瞬だけ動きを止めたが、すぐに笑みを浮かべた。
「おぉ、これは…。いやぁ、幽霊さん、さっそくご協力いただけるんですねぇ。いやいや、ありがとうございます。感謝、感謝です。」
振り返ると、そこには古びた窓枠が微かに揺れていた。どうやら風が吹き込んだだけのようだ。だが、れぞにとっては違った。
「いやぁ、いいですねぇ。こういうさりげない演出が幽霊さんのセンスを感じさせるんですよねぇ。いや、さすがです。」
カメラを手にしたまま満足そうに頷くれぞ。彼はさらに倉庫の奥へと足を進め、またシャッターを切り始めた。
倉庫の奥に進みながら、れぞは次々とシャッターを切った。薄暗い空間に、カメラのカシャリという音が静かに響く。
「いやぁ、これだけ撮ればきっと何か映るはずですよねぇ。いや、映るというか、むしろ幽霊さんが写ってくださると言いますか…。いやいや、お願いしてますよ、本当に。」
最後に、倉庫の隅に置かれた古い椅子を狙ってシャッターを切る。カシャリ。彼は一度息を吐き、カメラをしまった。
「さて、あとは現像してみてのお楽しみですねぇ。いやぁ、どんな作品になっていることやら。」
れぞはそう呟きながら倉庫を出た。足元には木の葉がカサリと音を立てる。空を見上げると、いつの間にか朝日が校舎の影を越え、明るい光が差し込み始めていた。
彼はポケットに手を突っ込みながら、ゆっくりと校庭を歩く。そして再び独り言をつぶやいた。
「いやぁ、幽霊さんもきっと喜んでくれてますよねぇ。いや、むしろ僕より楽しんでくださってるんじゃないかって。いやいや、そうだと嬉しいですねぇ。」
そんな彼の背後、倉庫の窓から誰かがこちらをじっと見つめているような気配があった――が、れぞは振り返ることなくそのまま歩き去った。
放課後、れぞは撮影した写真の現像を終えた。机の上には数枚の写真が並べられている。どれも薄暗い倉庫の中を写したものだが、その中の一枚、古い椅子を写した写真に何かが映り込んでいた。
そこには、椅子の背もたれに白い手の形をしたものが、くっきりと浮かび上がっていた。
しかし――肝心のれぞは、その写真をじっと見つめながら首を傾げている。
「いやぁ、やっぱり椅子の質感がいいですよねぇ。この木目の具合とか、なんというか、歴史を感じさせるというか…。いやいや、これは本当に素晴らしい椅子ですよねぇ。」
彼はその写真を「椅子の美しさを収めた一枚」として感動しながら棚に飾った。そこに何が映っているのかには、まるで気づいていなかった。
放課後の校舎は静かだった。部活動に励む生徒たちの声がどこか遠くから微かに聞こえるが、れぞはそれを耳にしながらゆっくりと廊下を歩いていた。
「いやぁ、学校というのは昼間と夜ではまるで別物ですよねぇ。いや、別物というか、むしろ生き物みたいですよね。昼間は喧騒の中で目を覚まし、放課後になると静かに息を潜める。いやいや、素晴らしいですよねぇ。」
そんなことを呟きながら、れぞは校舎裏へと向かっていた。彼の今日の目的地は、学校の裏手にある古びた井戸。
この井戸は、生徒たちの間で「絶対に覗いてはいけない」と噂されている場所だった。理由は誰も知らない。ただ、噂によれば、井戸の中を覗くと「誰かに引き込まれる」とか「覗いた翌日に不幸が訪れる」とか、そんな話が飛び交っている。
「いやぁ、そういう話って面白いですよねぇ。いや、面白いというか、むしろ美しいですよね。いやいや、誰がこんな話を思いつくのか、それ自体がミステリーですよ。」
れぞは井戸の前に立ち、古びた石の枠をじっと見つめた。苔が生え、長い年月を感じさせるその姿は、確かに「何か」がありそうな雰囲気を醸し出している。
「いやぁ、これを覗くなと言われたら、むしろ覗いてくれと言われてるようなもんですよねぇ。いやいや、そうじゃなくても気になりますよ、これは。」
れぞは井戸の縁に手をかけ、中をじっと覗き込んだ。井戸の中は暗く深い。ただ、水の音ひとつ聞こえない静寂が広がっている。
「……なるほど、これはなかなか雰囲気がありますねぇ。」
彼はしばらく井戸の中を観察していたが、特にこれといった変化はない。ただ、風が吹き抜けるたび、井戸の中から微かに音が返ってくるだけだった。
「残念ですが、今日は収穫なしということでしょうか。」
れぞは少し肩をすくめ、井戸から顔を離した。ふと周囲を見回すが、特に何も異変はない。ただ古びた井戸が静かに佇んでいるだけだ。
「まぁ、幽霊さんにも都合があるんでしょう。今日はこれくらいにしておきますか。」
彼は軽く頭を下げると、その場を後にした。井戸の周囲は再び静寂に包まれ、風だけが草木を揺らしていた。
帰り道、れぞは何事もなかったかのように鼻歌を口ずさみながら歩いていた。周囲には夕焼けが広がり、通りには学校帰りの生徒や仕事帰りの人々がちらほら行き交っている。
しかし、道行く人々の視線が、なぜか彼の首元に集まっていた。
すれ違いざまに目を見開く人、振り返りながら友人と何か話す人。ちらちらと向けられる視線に気づくようで気づかないれぞは、相変わらずのマイペースだ。
やがて、家に着くと玄関先で母親が迎えた。エプロン姿の彼女は、れぞを見て一拍間を置くと、溜め息混じりに口を開いた。
「あらまぁ、れぞちゃん。またそんな首して帰ってきたのねぇ。」
彼女はれぞに向かって小さく笑いながら、ひらひらと手を振る。「子供が泥だらけで帰ってきた」とでも言わんばかりの、肩の力の抜けた反応だ。
「ねぇれぞちゃん、首に手形つけて帰ってくるのはね、もういい加減やめない?ママ、何度か警察呼ばれそうになったことがあるのよ?そういうの、意外とご近所で騒がれるんだから。」
「手形ですか?」
れぞは首を傾げたが、母親のその言葉にはまるで気が入っていない。言ってはいるが、心底慣れきっているのが一目で分かる。
「はいはい、とにかく洗面所で確認してきなさいな。あ、それともママが鏡を持ってきてあげましょうか?『鏡よ鏡』のごっこもいいわよねぇ。」
「自分で行きます。」
れぞは静かに答えると靴を脱ぎ、洗面所へ向かった。
洗面所の鏡の前に立ち、何気なく首筋を覗き込む。そして、そこにくっきりと残る赤い手形を見た瞬間、彼の目がかすかに輝いた。
「……これは……!」
れぞは鏡越しに手形を凝視する。言葉にはしないが、内心は興奮でいっぱいだ。まるで宝物を見つけた子供のように、じっくりと手形を観察した。
「……なるほど、これはかなり見事ですね。」
彼は小さく呟くと、そっと首筋を指で撫でた。微かに残る冷たさが、手形の主を感じさせるようで、彼の心は熱く高鳴る。
「幽霊さん、こういう形でメッセージをいただけるとは。ありがたい限りです。」
後ろから母親の声が飛んできた。
「れぞちゃん、それはいいけど、ママとしてはね、そろそろ普通の高校生っぽい趣味とかも始めてほしいのよ。なんなら一緒にケーキでも作る?」
「いえ、満足です。」
れぞはそう返事しながら、鏡をじっと見つめ続けていた。しばらくして満足そうに頷くと、手形を見たまま小さく頭を下げた。
「次回もよろしくお願いします。」
その声に応える者は誰もいなかったが、れぞの中では確かに何かが返事をしたように感じていた。
夜が更け、川田家は静まり返っていた。リビングのキャンドルも消え、家全体が闇に包まれる中、れぞの部屋だけは微かな明かりが漏れている。
れぞはベッドの上に腰掛け、今日現像した写真をじっくりと眺めていた。机には数枚の写真が並べられ、どれも倉庫で撮影したものだ。
「いやぁ、どれもいい雰囲気ですよねぇ。」
れぞは一枚一枚、指で触れるように丁寧に写真を確認する。中でも、首に手形を付けた張本人と思しき椅子の写真に目を留めると、小さく頷いた。
「これが一番、幽霊さんらしい。いや、らしいというか、むしろ芸術的ですよねぇ。」
そう言いながら、写真を棚に飾ると、ふと窓の外を見やった。真っ暗な夜空にぽつりと浮かぶ月が、窓ガラスをぼんやりと照らしている。
れぞは立ち上がり、窓の鍵をゆっくりと回した。冷たい夜風が部屋に流れ込み、彼の髪をそっと揺らす。
「夜というのは不思議ですよねぇ。昼間は気づけないものが、夜になると見えるようになる。それが幽霊さんなのか、ただの影なのか…いやぁ、そこが面白いんですよね。」
独り言を呟きながら、彼は窓を閉め、部屋の明かりを消した。
ベッドに横たわり、目を閉じる。いや、正確には目を閉じる「つもり」だが、れぞは目を開けたまま眠る癖がある。月明かりが窓から差し込み、彼の顔を白く照らしていた。
「明日も何か素晴らしいことがありますように。」
ぽつりと呟き、そのまま静かに息を整える。部屋の中は風の音と時計の針の音だけが響いている。
だが、彼が眠りにつくと同時に、机の上に飾られた写真が、ふっと揺れたように見えた。まるで何者かがそっと触れたかのように。
れぞはその気配には気づくはずもない。ただ、目を開けたまま、規則正しい寝息を立てているだけだった。
そして静まり返った部屋の中、棚に飾られた写真が月明かりを浴び、ほんの一瞬、椅子の背もたれの手形が鮮明に浮かび上がるように輝いた。
れぞの穏やかな寝顔の横で、何かがそっと動いたように見えたが――それもまた、彼が気づくことはないまま夜が更けていくのだった。
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