執事に命を狙われています

遠海 流

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執事に命を狙われています

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 深夜のコンビニは好きだ。 
 
 賞味期限の近い商品が値引きされるし、不景気な世の中に生きる松本沙良にとって強い味方である。
 この時間帯の店員はとにかくやる気がない。隙を見てすぐにバックヤードに引っ込もうとするので、会計のために呼び止めるのが少し心苦しい。
 
 「すいませーん、お会計お願いします」
 
 30%引きとなった大盛のペペロンチーノをレジに置くと、まさに裏に下がろうとしていた男性店員が、舌打ちをする。わざと松本に聞こえるようにだ。
 
 「温め、どうします?」 
 
 面倒なので断れと目線で訴えてくる。なので松本は言った。
 
 「お願いします。普通よりちょっと長めに」
 
 2度目の舌打ち。接客業に従事していい人間ではないが、いちいち腹を立てていてはキリがない。
 
 それにこの男の接客態度がどれだけ悪かろうが、どうでもいい。
 
 どうせ殺すのだから。
 
 
 業務用の電子レンジが、チンという音を立てて温めの終了を告げた。
 
 熱いのでお気を付けください、の一言ももちろんない。むしろ松本が火傷すればいいとでも思っていそうだ。乱暴にレジに置かれたペペロンチーノを受け取り、袋の中を見るとフォークがないことに気付いた。
 
 「あの、フォーク…」
 
 袋から顔を上げると、もうそこに男の姿は無かった。
 
 「まったく、せっかちだなあ」
 
 松本は誰もいなくなった店内でひとりごちた。
 
 十分に熱されたペペロンチーノの入った袋を持ち、コンビニを出る。イートインスペースは2年前に撤去されて生活雑貨のコーナーになったので、コンビニ前の駐車場に腰を下ろした。
 
 季節は11月。先月の下旬までクーラーを入れるほど暑かったのに、あっという間に冬のような気温だ。日本に四季があるというのは、もはや過去の話なのかもしれない。
 
 プラスチックのふたを開けると、湯気と香ばしいにんにくの香りが立ち昇ってきた。フォークをつけてもらえなかったので、昼休みに食べた弁当の箱から、汚れた箸を取り出して、麺をすする。
 
 コンビニのペペロンチーノはどうしてこうも脂っこいのだろう。容器を傾けると、底にたまった油がちゃぷちゃぷと揺れた。
 
 3分の一ほど食べたところで、松本は容器を逆さにした。麺が駐車場のアスファルトにぶちまけられ、油も一緒に流れていった。
 
 これはエサである。殺しの道具をおびき寄せるための、エサだ。
 
 数十秒すると、にゃあにゃあという野良猫の声が聞こえてきた。毛並みはぼさぼさで、鋭い眼光。先日行った猫カフェにいた看板猫とは大違いだ。顔面偏差値40の素人女性のすっぴんと、人気女優のメイク顔くらいの差がある。
 
 「ほーら、食べな。ジャンキーな食べ物、好きでしょう?」
 
 深夜のコンビニの光りは、虫と貧乏社会人の他に、ノラ猫も引き寄せる力がある。地面に放り出されたペペロンチーノに、数匹のノラ猫が卑しくかぶりついている。
 
 松本はそのうちの一匹で、最も体格のしっかりした猫を頭を掴んだ。猫は本来警戒心が強く、俊敏な生き物だが、空腹を満たしている最中は隙だらけだ。
 
 ふにゃっ、という情けない声を出して、手足をばたつかせるノラ猫。しかしこちとら人間だ。猫がいくら抵抗しようと、人間の握力には敵わない。
 
 松本はもう片方の手で、ポケットから金槌を取り出して、猫の頭に振り下ろした。
 
 手ごたえあり。猫は抵抗を辞め、四肢を投げ出した。
 
 割れた頭から、脳みそと何かの汁があふれ出る。猫の脳みそはくるみほどの大きさで、人間の2歳児程度の知能はあるという。まあ潰れてしまえばサイズなど分からないのだが。
 
 仲間がいきなり殺されたのを見て、他のノラ猫たちは悲鳴のような声を上げた。果たしてそれが恐怖の悲鳴だったのか、何なのかは分からない。
 
 松本は金槌をポケットに仕舞い、逆のポケットから今度はハサミを取り出した。段ボールや木の枝も易々と切れる、結構な切れ味のものだ。
 
 刃を猫の首にあてがい、ぐっと力を入れる。首の骨ごと猫の頭が切断され、頭部が地面に落ちた。いよいよ仲間たちは悲鳴を上げ、散り散りに逃げていく。
 
 これが殺しに必要だったのだ。
 
 あの接客態度最悪の店員は、今回のターゲット。名前を大澤という。
 
 殺し屋である松本は、依頼主から大澤の殺害を頼まれていた。
 
 松本はヒットマンでもなければ、ナイフで相手を切りつけて殺すようなやり方もしない。
 
 松本が使うのは魔術。いわゆる黒魔術というやつだ。
 
 
 犬神の呪いという黒魔術を知っているだろうか。
 
 飢餓状態の犬の首を切り落とし、それを地面に埋める。人々は知らぬ間に、犬の首が埋まった地面の上を往来する。そしてまんまと呪いが降りかかるというわけだ。
 
 これは犬神という動物の霊を使役する目的で行われる魔術であり、あまりに危険すぎるため、お上から呪術に対する禁止令が出たほどだ。それだけ効果のある、少なくとも当時は効果があったとされている。
 
 松本は黒魔術を使って人殺しを行っているが、そのやり方は様々だ。中でも動物の霊を使う方法は、コスパがいいので気に入っている。必要なのは動物と、その動物を呪術の道具に変えるための武器だけ。
 
 犬神と違い、コンビニ前にたむろしているノラ猫に果たしてどれだけの力があるかは定かではない。これまで何度も同じ方法を使ってきたが、とても強力な個体もいれば、呪いの力が弱かった個体もいた。
 
 かつて行われていた犬神の呪いでは、切り落とした首を埋めると言う手順があるが、まさかアスファルトを削って埋葬するわけにもいくまい。現代の魔術はコスパとタイパ重視だ。まずは頭部をビニール袋に入れて、上から金槌で叩く。原型が無くなるまで叩き続ける。
 
 これをしばらく続けると、毛や眼球など色々混ざったペースト状のものが出来上がるので、中身を容器に移し替える。
 
 あとはそれを飲ませるだけだ。もともとの呪術とは完全に別のやり方になってしまっているが、これも時代というもの。人体に直接流し込んだほうが呪いの効果が大きいと、どこかの誰かが、いつかのタイミングで思いついたのだろう。効率化を図った黒魔術がいたことに感謝だ。
 
 問題はどう飲ませるかである。
 
 松本は持参した水筒に、液状になった猫の頭を入れて、コンビニへと戻った。
 
 自動ドアが開いて入店を告げる音が鳴っても、大澤は出てこない。そこまでは予測していたので、レジの上にあるベルを押した。ご用の方は押してください、と書かれた札が置いてある。
 
 ぴんぽーん、とバックヤードから呼び出し音が聞こえてきた。しかし大澤は聞こえていないのか、それともあえて無視しているのか、どちらにしても接客をする気はなさそうだ。これでは万引きし放題ではないか。いくら監視カメラが作動しているとはいえ、顔を完全に隠してしまえば犯人の特定は困難だ。
 
 松本の目的は万引きではないので、もう一度だけベルを押したが、やはり返答はない。 「これは大変。もしかしたら店員さんが中で倒れているかも。というわけで、ちょっとお邪魔しますね」
 
 誰にともなく言い訳をしながら、松本は勝手にバックヤードへと侵入した。 
 
 
 バックヤードのテーブルでは、大澤が突っ伏した体勢で眠りこけていた。まるでつまらない授業を受けている学生のようだ。自分も授業中に居眠りするときはあったけど、ばれないように教科書で顔を隠していたな、などと思い出に耽る。
 
 寝ている人間に液体を飲ませるのはそう難しいことではない。口に無理やり含ませて、あとは鼻を摘まめばいい。口呼吸しか出来なくしてしまえば、酸素を吸うためにまずは口の中の液体を嚥下する必要がある。一度飲んでしまえば、あとから吐き出したとしてもいくらかは体に吸収される。呪いの液体は、一滴でも飲ませられればそれでいいのだ。飲ませる量によって呪術の威力が変わるかは知らないが、とにかく効果が出れば人は死ぬ。
 
 「大澤君?おーい、大澤君?」 
 
 依頼人からは出来るだけ苦しませて殺してほしいと頼まれていた。
 
 寝ぼけた状態でぽっくりと逝かれては、きっと依頼人も満足しないだろうと思い、あえて起こしてみることにした。殺しの難易度は少しだけ上がるが、さしたる問題ではない。
 
 大澤の眠りは浅かったようで、松本の呼びかけに目を覚ました。腫れぼったい瞼をぱちぱちとさせている。
 
 「な、なんだお前!どっから入った!」
 
 寝起きにしてはリアクションが派手だ。どっからと言われても、店内からバックヤードに入るルートは一つしかないのだが。
 
 先ほど猫の頭をかち割るのに使った金槌をポケットから取り出して、起き抜けの大澤の頭に振るう。
 
 「あぐっ!」
 
 さすがに猫のように、一発で割れることはない。というか、それでは打撲による殺害になってしまうので、金槌で仕留める気など最初からなかった。これはあくまで弱らせるため。
 
 殴られた側頭部を押さえてのたうち回る大澤に、松本は馬乗りになった。
 
 体を仰向けにさせて、大澤の喉を締め上げる。
 
 「はい、お口あーんして」
 
 空気を求めて喘ぐ大澤は、松本の指示に従ったわけではないが、結果的に大口を開けることになった。
 そこへペースト状になった猫を流し込む。
 
 大澤はしっかりとそれを飲み下した。
 
 そして絶命するまでにかかった時間は、およそ2分ほど。
 
 陸に打ち上げられた魚のように跳ねていたのが嘘のように、2分後には動かぬ遺体となった。
 
 松本はその場でスマホを出し、依頼人に大澤の死亡を知らせるテキストメッセージを送った。
 
  
 
 「ふう、一仕事終わった後の一服は格別に美味いね。600円で出来る最大の娯楽ってやつだよ。あっ、でもまた値上がりするんだろうな。一箱700円。いや、800円になったら辞める。うん、絶対にそうする」
 
 松本は殺害現場であるコンビニ前の喫煙所でタバコを吸う。たばこ税が近々また上がるとか上がらないとかニュースで見たが、何円になろうがどうせ禁煙はしないだろう。殺しの後に接種するニコチンとは、どうしてこうも美味なのだろうか。全てのストレスや疲れが吹き飛ばされる、まるで魔法のアイテムだ。 
 
 大澤の遺体は、契約している専門の回収業者に処理を任せている。彼らの仕事は迅速かつ丁寧で、店員が一人殺された形跡などまるで無かったかのように、全てを綺麗さっぱり消してくれる。その分契約金額も高いのだが、依頼主から支払われる報酬にはその分の代金も含まれているので、松本の財布にダメージはない。
 
 野良猫を殺した際に飛び散った血しぶきや、なにかどろっとした液体もついでに掃除してもらった。
 
 タバコはいつも、短くなるまでちまちまと吸うようにしている。けち臭いと言われても構わない。一箱600円、1本あたりが30円と計算すると、まだ半分残っているのにもみ消すような贅沢な吸い方は出来ないものだ。
 
 別に金がないわけではない。
 
 松本の本職は殺し屋であるが、副業として会社勤めをしている。稼働時間でいえば、一日8時間を会社員として働いていると考えると、むしろ殺し屋が副業の気もするが。
 
 大澤の殺害を依頼してきたのは、東大阪にある町工場の社長だ。
 
 社長には大学生になる娘がおり、その子は大澤と一時期交際していたらしい。しかし大澤は娘から金をせびり、その金は酒やギャンブルに消えていった。娘が居酒屋のバイトで稼いだバイト代を、当たり前のような顔で搾取していく大澤。そんな日々が4ヶ月ほど続いたある日、ついに娘の貯金が底を尽きた。
 
 もう金はないという娘に対して、大澤は殴る蹴るの暴力を振るった。まるで打ち出の小槌を振るえば小判が出てくるとでもいうように、大澤は拳を娘に振るい続けた。
 
 隣人の通報を受けて警察が到着したころには、娘は頭から血を流して意識不明の状態だった。かろうじて一命はとりとめたものの、脳に障害が残ってしまい、精神的ショックのせいで、普通の生活に戻れなくなったと言う。
 
 事件から1年が経った今、本来であれば就活の時期を迎える頃であるが、娘はリクルートスーツに腕を通すことも、履歴書の作成すらも出来ないほど、自分の殻に閉じこもっている。
 
 社長が父親として激しい怒りを覚えるのは当然であり、それは怒りなんてものではなく、憎悪、いや大澤への殺意へと変わっていった。
 
 しかし社長という立場上、自らの手で制裁を加えて逮捕されてしまえば、会社がつぶれることにもなりかねない。社員の生活を守る責任もあるので、どれだけ憎くても自分の手を汚すわけにはいかない。
 
 そこで知り合いの伝手をたどり、松本という殺し屋にたどり着いたわけだ。
 
 東大阪は治安がいいほうではない。殺し屋を過去に利用した顧客の数も決して少なくないし、裏の世界に通じている人間の数も、他のエリアに比べて多い。
 
 松本は依頼を基本的には断らないスタンスだ。もちろん金額などの条件は譲らないが、依頼人は殺害対象へ強い憎悪を抱いているので、抹殺できるのであれば金に糸目はつけないことがほとんどだ。実際、こちらが提示した金額について依頼人と揉めた経験は一度もない。むしろ羽振りのいい客が多く、チップとして1000万程度を弾んでくれることもあるので、とても稼ぎやすい商売だ。
  だから松本は金に困っていない。むしろ会社員の同僚は年収300万から400万、管理職でも600万ちょっとという給与水準から考えると、かなり高給取りだ。あんなに毎日必死に働いてその程度の給与しかもらえないのは割に合わないと松本は考える。みんな殺し屋やって稼げばいいのに。
 
 松本が昼間は会社員として働いているのは、社会的信用を得るためだけの理由だ。殺し屋になりたての頃はこれ一本で食べていこうとしていたが、賃貸契約の際に審査が通らなかったのだ。まさか職業欄に殺し屋と書くわけにもいかず、最初は個人事業主として申請したが、どこの物件のオーナーからも却下されてしまった。
 
 正社員でないと安定的な給与がない、というのは古い考えだ。フルタイムで勤務している正社員の何倍も稼いでいる個人事業主だっているというのに。
 
 そんなわけで松本は、ネットで見つけた適当な会社の求人に応募した。事務職として採用され、今は上司から言われるままに資料の作成や事務処理を任されている。正直言って仕事内容は楽だ。楽過ぎてやりがいがない。
 
 松本にとっての楽しみは、夜の仕事だ。
 
 一度、同僚にこう聞かれたことがある。「松本さんって、仕事終わったあとはなにしてるの?」
 
 そこで松本は答えた。「夜のお仕事です」
 
 言葉選びを間違えたと気づいたのは、翌週のことだった。
 
 自分が風俗店で働いているという、根も葉もない噂が社内で広まり始めたのだ。いや、葉くらいは自分が撒いたかもしれないが、夜の仕事と聞いた風俗と結びつけるのは、いささか思考が単純すぎる。
 
 だがまさか、風俗ではなく殺し屋ですと訂正するわけにもいかず、それから松本は風俗嬢の事務職員ということで社会では通っている。男性社員の自分を見る目が卑しくなったのも、ちょうどそのころからだ。
 
 
 3本目のタバコを吸い終わった頃、現場の清掃作業も終わった。店内に店員がいないことを覗けば、すべてが殺人前に逆戻り。大澤がのたうち回った際に散らかしたバックヤードの小物たちも、綺麗にもとあった場所に戻されている。
 
 お疲れ様です、と業者に挨拶をして、松本は家に帰った。
 
 社会的信用を得たおかげで契約することのできたアパートは、築5年の1LDK。駅からのアクセスの良さや、近所に大きなスーパーがあることが決め手だった。オートロックもついており、セキュリティも万全。職業柄、寝ている間にこちらも命を狙われることがあるので、気休め程度かもしれないが、オートロックは嬉しかった。
 
 ロビーに設置されているポストを確認する。どうせ興味のない広告や、地元の情報誌みたいなものしか入ってないだろうが、しばらくチェックしていないだけでポストはすぐに満杯になってしまう。既に1週間確認を怠っていたので、結構な量が貯まっている。
 
 「チラシの投函はお断りって張り紙、だしとこうかな。どうせ読まずに捨てられるんだから、紙資源の無駄だよまったく。ペーパーレスの時代だっていうのにさあ」
 
 深夜の誰もいないロビーで、ぶつぶつとつぶやきながらポストの中身を両手に抱えて部屋に戻った。
 
 もしかしたら必要なものが混ざっているかもしれないので、それらを一応テーブルの上に置き、捨てていいものとそうでないものにより分けていく。
 
 「これはいらない。これもいらない。ああ、ピザ屋のチラシかあ。こういうの見ると、久々にピザ頼みたくなるなあ」
 
 次々にゴミ箱へ広告類を突っ込んでいき、最後の一枚を手に取った。
 
 「なにこれ、手紙?」
 
 手触りのザラザラした便せん。差出人は『久世詩織』と書いてある。
 
 その名前に心当たりはなかった。間違いで送られてきたのだろうかとも思ったが、宛先は確かに松本の住所になっており、宛名も松本 沙良様とある。
 
 手紙の中身は食事会への招待状だった。
 
 日時と場所以外は、何も書かれていない。参加か不参加に〇をつけるところもない。
 
 手紙に記された住所をネットで検索して、松本は驚いた。
 
 「うわ、めちゃくちゃ豪邸じゃん。こんなのドラマでしか見たことないんだけど。食事会ってまさかここで?なんで私が招待されてんのか分かんない」
 
 パソコン画面に表示されたのは、まるで西洋の貴族が住んでいるような瀟洒な屋敷だった。まず年収1000万程度では手に入らない物件だ。いや、一億でも無理だろう。よほどの資産家か財閥の生き残りか。はたまた裏家業などの危ない仕事で稼いでいるタイプか。
 
 殺し屋という職業上、人の恨みを買うことも多い。もしやこれは罠ではないかと勘繰ったが、罠にしてはあまりにお粗末だ。松本をおびき寄せたいなら、もう少しましな手を使うだろう。豪邸での食事会に誘われてホイホイついていくわけがない。松本は別にグルメでもないし、高級な肉よりも牛丼チェーンのペラペラの肉のほうが舌に合っている。
 
 行くべきか、無視すべきか、松本は悩んだ。
 
 11月15日。招待状に書かれていた日付になった。
 
 松本はどこにいるのかというと…。
 
 「お待ちしておりました。松本様」
 
 黒髪を後ろに撫でつけた若い執事に導かれ、屋敷へと案内された。
 
 久世詩織からの招待状を握ったまま、自分の住むアパート10個分はありそうな屋敷の中へ、足を踏み入れた。

 
 松本の契約している1LDKのアパートは、変形地に建てられたせいで、随分と縦長の構造になっている。専有面積自体は普通のアパートよりも少々広い程度だが、その構造のせいで、部屋間の移動距離が無駄に長い。夜中に喉が渇いて台所に水を飲みに行こうとしても、起き上がって冷蔵庫までたどり着くまでに必要な距離を考えると、やっぱりいいや、と目を閉じてしまう。
 
 自分ならばここには絶対に住めないな。松本は屋敷の廊下を歩きながら、そう思った。
 
 部屋間の移動距離が何メートルあるのか分からない。寝室から台所まで、もしかしたら徒歩5分はかかるのではないだろうか。大げさではなく、そう感じるほどに案内された屋敷は広大だった。
 
 まず玄関の門から屋敷の入口まで、両脇を植え込みと彫像に囲まれた道を歩かされたのだが、優に50メートルはあった気がする。中学校時代は足が速いほうだったので、8秒もあれば完走できた距離だろう。しかし大人になってから改めて歩いてみると、案外50メートルというのは長く感じた。
 
 執事の後ろをついて屋敷の中に入った後も、その内装に圧倒された。
 
 長い廊下の先には大きな窓があり、そこからは屋敷の奥の庭の様子が見て取れた。きっちりと整えられた生垣と、色とりどりの花たち。きっと専属の庭師が、毎日丁寧に面倒を見ているのだろう。
 
 松本は生き物を育てるのが苦手だ。比較的簡単に育てられると聞き、去年の夏に栽培セットを購入したサニーレタスは、知らない間に枯らしてしまっていた。増えすぎたからという理由で友人から譲り受けたハムスターも、ある朝突然冷たくなっていた。寿命が短いとは聞いていたが、飼い始めて2か月くらいだったので、おそらく寿命は関係ないだろう。
 
 自分には庭の手入れなんて無理だなと、窓越しに見える庭を眺めながら思う。
 
 洋館というと、中に入って最初に巨大な階段が出迎えてくれるイメージだったが、この屋敷の階段は控えめなサイズだった。映画などで見るたびに思っていた。あれほど無駄なスペースの使い方もないだろうと。まあ一般的なアパートなどと違い、機能性よりもデザイン性を重視した造りなので、その無駄もまた美しさなのかもしれないが。
 
 大理石の廊下に、カツカツという自分の足音が響く。
 
 殺しの時は動きやすいスニーカー。会社員の時はオフィススーツに合わせた安物のパンプスを履いているが、履物は今日のために新調しておいた。友人の結婚式くらいまでなら、ギリギリいつものパンプスで行ったかもしれない。しかし久世詩織からの招待状に書かれた住所をネットで検索し、屋敷の外観を見たときに、すぐに服も靴も新調しないといけないと感じた。
 
 近所のショッピングモールに入っている店ではいけない。モールの中で一番高級なアパレルショップの、最も値段が高い商品でも、せいぜい会社員としての月給の四分の一程度だ。安物だと見抜かれては、久世詩織からなんと思われるか分かったものではない。
 
 あれから久世詩織についてもネットで調べた。いわゆる資産家の家庭らしい。
 
 資産家という言葉は必ずしも富豪を指すわけではなく、要するに資産を賢く運用していることが資産家の条件らしいのだが、久世詩織の家系はまぎれもなく富豪のタイプの資産家だった。
 
 久世詩織は齢二十七の、うら若きご令嬢といったところだが、久世家の当主であるらしい。莫大な資産を築いた先代が亡くなったのか、存命しているが娘に当主の座を譲ったのかは、ネットに確かな情報が無かった。一般的な相続よりも複雑な仕組みが存在してそうだし、誰が当主であろうと富豪であることには変わりが無いので、松本はそれ以上調べるのをやめた。
 
 ネットには久世詩織の写真も、数枚ではあるがアップされていた。SNSに自撮りを上げているわけではなく、何かの式典やパーティーの際に撮影されたものらしい。翡翠色のドレスがよく似合う女性で、二十七とは思えない大人びた優雅な雰囲気を纏っていた。
 
 松本は今年二十八になるので、久世詩織は一つ下になる。だが年下には到底思えないような風貌に、パソコン画面越しでさえ圧倒された。
 
 富豪の娘といえば勝手に美人をイメージしてしまうが、やはり現実もそうらしい。それはそうかと松本は考えた。きらびやかな世界にはきらびやかな人間しか似合わない。だって想像したら笑えるだろう。シャンデリアの光に照らされながら、平均以下の容姿の女性が恭しい態度で出てくるなど。
 
 美しい世界に住む人間は、幼いころから身分に相応しい容姿になるように育てられるのだろう。
 
 
 松本の前を歩く執事の足が止まった。
 
 「こちらが食堂でございます」
 
 板チョコのような色と凹凸のついた扉を、執事はゆっくりと開けた。
 
 純白のテーブルクロスが敷かれた長机には、左右に二つずつ、合計四人分の椅子が並べられていた。テーブルの上には燭台が置かれており、ゆらゆらと黄金色の炎が揺れている。
 
 壁にかけられた絵画は、おそらく著名な画家によるものなのだろう。ネットで見た久世詩織のように、鮮やかな翡翠色のドレスに身を包んだ女性が、鍔の長いハットを片手で押さえながら、明後日の方向を向いている。パステル調のパリッとした色彩は、見方を変えれば2000年代初頭の3Dポリゴンみたいな質感にも思えた。
 
 「こちらへどうぞ、松本様」
 
 執事が手前右側の椅子を引いた。随分と背もたれの高い椅子だ。
 
 「あっ、どうもすいません」
 
 腰を下ろしてみると、見た目より座り心地は悪くなかった。座面の部分がビロード生地になっており、肌にフィットするような感触だ。
 
 まだテーブルには、松本の他に誰も着いていなかった。どうやら気合を入れて早く来すぎたらしい。暖炉の上に掛けられた時計は、午前十一時四十分を指している。約束の時間は正午だ。
 
 これが取引先への訪問なら、早すぎると先方に怒られるかもしれない。昼の仕事は事務職なので、客先に伺うような業務はないが、来客対応は松本の仕事だ。約束の時間の五分前に来る人が多く、それは五分前行動を義務付けられている社会人として当たり前なのだが、たまに三十分以上前に来る者もいる。こちらの予定が狂うので勘弁願いたいと、常日頃から思っていたが、今それと同じことをしてしまっている。二十分前だろうが三十分前だろうが大差などない。五分前以外は迷惑なのだ。
 
 きっと執事も上品な笑みを浮かべているが、内心では松本を毒づいていることだろう。
 
 そう考えると居たたまれない気分になり、早く他の招待客が到着しないかと、意味もなく食堂を見回して過ごした。
 
 
 二人目が到着したのは、午前十一時五十分のことだった。
 
 「いやはや、ご立派な屋敷ですな。生まれてこの方、こんな家に招待されたのは初めてですよ!コートはどちらにかければよろしいかな?」
 
 白髪交じりのくせ毛に銀縁の眼鏡。初老っぽい男性だが、その割には声があまりに明るく、快活な雰囲気だ。背筋も綺麗に伸びており、ストライプ柄のスーツを着こなしている。ただネクタイのセンスだけは頂けない。なんだあの眩しいほどの金色は。スーツとも合っていないし、首元だけ下手な合成のように見える。
 
 男は松本の対面に座った。
 
 「どうもどうも、お嬢さん。僕は岩井と申します。名刺をちょうど切らしてて申し訳ないんですが、まあ仕事は見ての通りのことをやっとりますよ」
 
 「バーテンダー、とかですか?」 
 
 「ええっ、そんな格好いい職業に見えましたか!これは嬉しいな。でも違うんですよ。僕は高校の教師をしてましてね」
 
 どこが見ての通りなんだろう。
 
 岩井のマシンガントークが始まりそうになった瞬間、再び扉が開いて三人目が入ってきた。
 
 昭和の刑事ドラマに出てきそうな、圧の強い顔立ちだ。眉毛は親指くらい太く、中学生の頃に初めて眉毛を描こうとして失敗したことを思い出させた。
 
 歳は松本よりは上だが、岩井よりは下といったところだろう。
 
 執事が引いた椅子に男が腰をおろすと、ぎいっと椅子が軋んだ。隣に座られて気付いたが、かなり筋骨隆々の肉体をしている。盛り上がった肩の筋肉は、スーツでも隠しきれていない。
 
 男は唸り声のような低い声で言った。
 
 「北村と、申します」
 
 なんて短い自己紹介なんだ。クラス替えの当日に、全員が自己紹介をするというイベントがあったが、これくらいコンパクトにまとめる人はさすがにいなかった。名前だけでなく、せめて一つくらい情報を付け加えてほしいものだ。
 
 「ええと、北村さんはお仕事はなにを?」
 
 「ボディーガードをしております」
 
 道理でガタイがいいわけだ。
 
 「それって、SPっていうやつですか?」
 
 「いいえ。SPは公務員ですが、私は民間の警備会社に所属するボディーガードです」
 
 SPとボディーガードに違いがあるとは知らなかった。
 
 聞けば北村は、芸能人や政治家など、様々な相手のボディーガードを務めているらしい。
 
 「北村さん、ボディーガードなんですか!こりゃすごい。総理大臣の警護とか、そんなのも任されちゃったり?」
 
 岩井が身を乗り出して尋ねる。
 
 岩井にとっては、相手が誰であろうと興味の対象なのだろう。仏頂面で話しにくい雰囲気の北村相手でも、ぐいぐいと話しかけている。
 
 ちょうど時刻が正午になった。午後の訪れを告げる鐘が、屋敷のどこかで鳴らされた。
 
 「皆様、お集まりいただきありがとうございます」
 
 入口は一つだと思っていたが、どうやら奥側にも扉があったらしい。そこから現れたのは、ネットで見たあのご令嬢。
 
 久世詩織その人だった。

 
 
 久世詩織の登場に息をのんだのは、男性陣だけではなかった。同性の松本から見ても、彼女の容姿は目を見張るほど美しく、とてもじゃないが自分と同じアラサー女性とは思えなかった。
 
 久世が動くたびにハーフアップにした黒髪がふわりと膨らみ、3メートル以上離れているのに、ここまでフローラルな香りが漂ってきそうだ。一輪の花や高嶺の花など、美しい女性は花に例えられることが多いが、久世はまさに花そのものだった。
 
 夜の仕事で血がこびりついた松本の髪は、いくら洗っても取れない汚れが残っている。どれだけ高級なシャンプーとトリートメントを使っても、完璧に綺麗な状態にはならない。表面上の汚れは取れているのかもしれないが、もっと根深い部分に、殺した相手の怨念やら何やらが、しつこい油汚れのように付着している気がする。
 
 久世が花なら、松本は草。それも汚い川辺に生えている、誰も名前を知らないような雑草程度だ。
 
 女としてのレベルの違いを痛感し、顔が真っ赤になる。
 
 「こりゃあたまげた!お写真は拝見しておりましたが、実物はとんでもなく別嬪さんですな。いやあ、眼福眼福」
 
 真っ先に席を立ったのは岩井だった。松本に接してきた時と同じテンションで、当主である久世にも遠慮なく手を差し出した。
 
 「おほめに預かり光栄でございます。岩井教授」
 
 久世は自分よりも一回りほど大きく、加齢によってしわが寄った岩井の手を握り返した。若い女性から合法的に手を触れられる機会がそうそう無いのだろう。岩井はだらしなく口元を緩めている。
 
 「そんな、教授だなんて。僕はしがない高校教師ですよ。確かに昔は大学で教鞭をとっていた時期もありましたが、そんなのは遠い過去の話。今はろくでもない生徒ども相手に、誰でもわかるような内容を教える日々ですよ。偏差値の低い高校ではあるんですがね。バカな子ってのは、ああも憎めないというか、なかなかどうして愛しく感じるもんですなあ!」
 
 過去の経歴から現在の就業状況と仕事に対するやりがいを、一息で喋り切る人間に松本は初めて出会った。
 
 なかなか握った手を放そうとしない岩井に、久世はにこりと微笑んで、さりげなく握手を解いた。岩井が名残惜しそうな顔をする。
 
 松本は挨拶をしようと腰を浮かせたが、北村に一歩先を越されてしまった。
 
 「北村と申します」
 
 またその短い自己紹介だ。招待した側は名前は分かっているのだから、岩井ほどではないにせよ、何か気の利いた一言でも付け加えればいいのに。
 
 「北村さんのご活躍は耳に入っております。陰で日本の安全を守っていらっしゃるなんて、まるで現代の忍者のようですね」
 
 総理大臣レベルまで行かなくても、政治関係の要人の警護もしているらしく、そうであれば確かに日本を守っているとも解釈できる。久世の口ぶちから察するに、それがお世辞でなければ、北村はSPとして優秀な人物なのだろう。
 
 順番が最後になってしまった松本は、絵画のように華々しく、文句のつけどころのない久世の顔を目の前にして、及び腰になりながら挨拶を交わした。
 
 「ど、どうも。松本と申します。えっと、仕事は事務職をやってます。コピー取ったり、お茶くんだり…」
 
 事務職の仕事内容になど久世は絶対に興味がないだろうが、優しく頷いて微笑みかけてくれた。なんだか申し訳ない気分だ。
 
 「改めまして、本日はお忙しい中ご足労いただき感謝いたします。久世家当主、久世詩織と申します」
 
 お辞儀一つとってもやはり優雅だ。社内にビジネスマナーにうるさいお局がおり、松本の客に対する作法がなってないと口うるさく言われた事がある。あのお局は、自分の立ち居振る舞いには相当な自信があるようで、お辞儀の角度が一度ずれているだけでも指摘してくる。
 
 あいつに久世のお辞儀を見せてやりたい。これこそが上流階級の世界で磨き抜かれた、本物だ。
 久世を含めた四人が着席した。久世は主催者らしく、テーブル奥の上座に座っている。いわゆるお誕生日席というやつだ。
 
 来客用に設置された椅子は四つ。松本、岩井、北村。あと一つ余っている。
 
 「まだ誰か来るんですかね?空席がありますが」
 
 岩井が自分の隣を指さして尋ねる。
 
 「ええ、最後の一名が遅れているようですね。お食事の準備は出来ておりますが、せっかくなら皆さん揃ってから頂きたいですし、もう少し待ちましょうか」
 
 岩井のほぼ一人喋りを聞きながら十五分が経過した時、執事に連れられて四人目が到着した。
 
 「ごーめんごめん、遅れちゃった!タクシーの運転手がカーナビの扱い下手くそでさあ。アタシが言った目的地と全然違うところ連れていきやがんの。ありえなくない?」
  
 遅刻の謝罪と言い訳を同時にしながら現れた女は、どこか平成に取り残された感じのあるギャルだった。松本よりは若く見えるが、メイクとファッションのせいでけばけばしい雰囲気になっている。OL、教師、SPの中に混ざるにしては、かなり浮いているように感じる。
 
 「あっ、詩織ちゃんじゃん!うわー、本物を生で見るの初めてだけど、マジでえぐいわ。どうやったらそんな可愛くなれんの?アタシにもメイク教えてよ!」
 
 詩織ちゃん、と名前で呼びかけたので知り合いかと思ったが、どうやら初対面らしい。距離の詰め方がうまいギャルもいるが、こいつは下手くそな部類かもしれない。あまりに積極的に相手のプライベートゾーンに踏み込むと、不快感を与えてしまいかねないのだ。
 
 あろうことかギャルは、詩織の頬を両手で包んで、パン生地をこねるように触った。
 
 「肌もモッチモチじゃん!スキンケアってついサボっちゃってさあ。アタシも頑張ればこうなれるのかな?」
 
 
 銃声が響いた。
 
 眉間に穴を開けたギャルが仰向けに倒れる。もう何も喋らない。数秒前まで食堂に響いていた不愉快なキンキン声はもう聞こえない。
 
 松本は隣に座る北村を見たが、彼の手には拳銃は握られていないし、動いた素振りもない。対面の岩井は、自分じゃないというアピールで、両手を上にあげておどけたポーズを取っている。
 
 では犯人は…。
 
 しかし久世もまた、両手を膝の上に置いたままの姿勢だ。銃弾を放った様子はまるでない。
 
 「失礼、お騒がせ致しました。こちらの客人は、私が処理してまいります」 
 
 松本たちをここへ案内した執事が、煙を吹く銃口を下げて、ギャルの頭をわしづかみにした。そのまま片手で軽々と持ち上げ、お姫様抱っこのような形になり、奥の扉から消えていった。
 
 招待客の三人は互いに顔を見合わせた。
 
 
 何が起きた?
 
 仕事柄、人が死ぬ場面には慣れているし、目の前でギャルが眉間を撃ち抜かれたところで何も驚きはしない。岩井と北村の2人も同じく、困惑の表情こそ浮かべているものの、悲鳴を上げたり狼狽える素振りは見せていない。彼らもまた、教師やSPといったのは表の仕事で、裏では殺しに関わる仕事をしているのだろうと推測できる。
 
 松本が困惑したのはそこではなかった。
 
 殺された事実ではなく、なぜ殺されたかである。
 
 名前を名乗る前に退場させられたので、あのギャルの名前は知らないが、死に値するような事をしただろうか。せいぜい屋敷の当主である久世に対して、あまりにフランクすぎる態度を取ったくらいではないか。顔をこねくり回すのは流石に失礼だとは思うが、その報復が弾丸では、あまりにつり合いが取れていない。
 
 それにギャルは松本たちと同じ、招待客という立場だった。人を呼んでおいて撃ち抜くなど、これではまるで罠にかかった獲物ではないか。久世はもしや自分たちも同じ目に合わせるつもりだろうか。
 
 いつでも戦えるようにテーブルの下に手を入れ、この日のために新調したドレスの裾を捲った。ベタではあるが、太ももに銃をホルダーごと巻きつけてある。スパイ映画などでよく見る常套手段だ。使い古された手というのは、意外と誰にも気付かれないもので、何度もこの方法で拳銃を忍ばせてきた。ドレスは体のラインが隠れるので、足元が不自然に盛り上がる心配もない。強いて言うなら、風でドレスの裾が舞い上がって、隠している拳銃が露見してしまうケースが想定された。もちろん対策は打ってある。ドレスの裾の先に小さい錘をつけて、そよ風程度では舞い上がらないようにしてあった。暴風が吹けば流石に生地も捲れてしまうだろうが、今日の天気は快晴で風もない。
 
 怪しまれないように目線は久世を見据えたまま、落としたものを拾うふりをしてグリップに触れる。
 
 「皆さん、私の執事がお騒がせして申し訳ございません。ですがもうひと騒ぎ起きますので、耳をおふさぎ下さい」
 
 「耳を?」
 
 唐突に久世から出された指示に、岩井が訊き返した。
 
 「両手を封じて無防備な状態にする、なんて狙いはありませんかね?」
 
 北村が毛虫のような眉毛を吊り上げて、疑念をそのまま口にする。
 
 確かに、と松本は思う。言われるがままに両手で耳をふさげば、武器も何も使えない無防備な状態となる。そこを3人まとめて始末するつもりではないか。そもそも始末される理由も分からないのだが。
 
 無礼にも当主に向けられた北村の発言も、もう久世には届いていなかった。
 
 なぜなら、久世は真っ先に両手を自分の耳に当てていたからだ。力こぶなどまったくない枝のような腕を上げて、なぜか目まで閉じている。聴覚だけでなく、視覚にも影響のある攻撃でも行われるのか。
 
 怖くなってきた松本は、久世と同じポーズを取った。日々の筋トレで鍛えられた二の腕の筋肉がぽっこりと隆起しており、華奢な久世との対比に少し恥ずかしくなった。
 
 薄目を開けた久世が、まだ指示に従っていない岩井と北村に、目線で「早く」と合図を送る。
 
 2人も渋々といった様子で耳をふさいだ、その瞬間。
 
 ブウウウウンという音が、執事が消えていった奥の部屋から響いてきた。モーターの駆動音?いや、それよりももっと嫌な響きだ。
 
 最近見たホラー映画を思い出した。顔面を覆うマスクを被った男がチェーンソーを振り回して暴れるシーンが、映画のラストを飾る作品。男から逃げ切った主人公の女性が、遠ざかる殺人鬼を尻目に、高笑いしている場面が印象に残っている。その映画で何度も聞いた音だ。
 
 チェーンソー。
 
 間違いない。奥の部屋から響いているのは、チェーンソーの刃が回転する音だ。
 
 それを裏付けるように、刃が何か固いものを切断する音が聞こえてきた。
 
 回収されたギャルの死体。フル回転するチェーンソー。切断される固いもの。
 
 死体を解体している。
 
 それからしばらくの間、ブウウウウンとバキバキという2種類の音がわりとリズミカルに続いた。解体しているのはあの執事だろう。無駄のないリズムを刻む解体のオーディオからは、随分と手慣れた様子を想像させる。松本がスーパーで買った鶏肉をぶつ切りにするときのような感覚なのかもしれない。
 
 耳をふさげと言われたのは、これが原因だ。
 
 久世は客人である松本たちに不快な音を聞かせたくなかったのだろう。そして自分も聞きくなかったので、我先にと耳をふさいでいたわけだ。目を閉じていたのはおそらく何の意味もないはず。不愉快なものから目を背けたいという一心で、つい反射的に瞑ってしまったのだろう。そんな久世もまた、可愛く絵になっているので、同じ女性として妬ましい。
 
 解体ショーは5分程度で終わった。どのみち耳をふさいでいてもある程度は聞こえてきたが、もしも指示に従わなかったら、今頃鼓膜が破れかけていたかもしれない。忠告してくれて助かった。
 


 「お食事の準備が整いました。どうぞ、お召し上がりください」

  解体ショーが終わってからまもなく、給仕係の女性三人を従えて戻ってきた。松本たちの目の前に、食前酒と前菜が供される。
 
 執事の燕尾服には、血の飛び散った跡は見受けられない。チェーンソーを振るっていたのが執事だとして、仮に解体ショーの時だけ着替えていても、血の臭いはそう簡単に消せないはず。しかし松本の後ろから料理を差し出す執事の体からは、何の臭いも漂ってこなかった。
 
 久世が乾杯の音頭を取る。とはいっても飲み会のようなテンションではなく、お上品にグラスを目の高さで傾けるだけだ。席から身を乗り出さなくてもいいので、全ての飲み会の乾杯は今後この方式を取ってほしいと思った。
 
 口に含んだ瞬間に高級だと分かるシャンパンに、松本は思わず「美味しい!」と声に出した。酒は嫌いなほうではないが、プライベートであまり飲むことはない。本来なら会社終わりに一杯引っかけたり、バーでカクテルでもしゃれこみたいものだが、あいにく夜の仕事がある。ほろ酔いの状態でこなせるほど楽な仕事ではないのだ。
 
 庶民らしい素直な感想をこぼした松本に、久世はふわりと笑いかけた。グラスの脚を持つ彼女の指は細長く、爪は綺麗な桃色をしている。
 
 「松本さんの言う通り、こりゃあいい酒ですな!こんなこと聞くのは野暮ってもんですがね。おいくらくらいするんです?」
 
 出された酒の値段を聞くなど無作法にもほどがある。あのギャルのように、岩井も撃たれるのではないか。
 
 「ごめんなさい。私はお酒の値段は把握しておりませんの。食事の世話は全て、給仕係に任せておりますから」
 
 うまいかわし方だ。仮に値段を知っていたとしても、これ以上追及されないように予防線を張っている。
 
 岩井も実際の値段を知りたかったわけではないらしく、久世の返答に「はあ、そうですか」と軽く相槌を打ったあと、また一人で喋り始めた。
 
 「僕の職場でもこの前ね、40年勤めあげた大ベテランの先生が退職されたんですよ。その時にお祝いを渡そうって話になったんですが、その人は大の酒好きだったんですよ。特にワイン。ワインには目がないし、飲みに行ったらワインのうんちくを語るような、まあちょっと面倒くさい部分もあったんです。で、せっかくだから高級ワインでも贈ろうかってんで、ネットで調べたんですけどね。なんと一本で三百万近くするじゃあないですか!
車が買えますよ。なんなら軽自動車ならおつりが来ますね。ワインの世界ってのはどうも分からない。僕なら三百万は出せないなあ」
 
 目の前のシャンパンが三百万を超えている可能性など微塵も考慮せず、まるで水のようにすいすいと飲み進める岩井。そんな話を聞かされては、口をつけるのすら恐れ多くなってしまう。松本はいったんグラスを置いた。
 
 後日に殺害対象の銀座のホステスから、殺す数時間前に聞かされた話では、歴史的価値のついたシャンパンは億を超えることもあるそうだ。車どころか家を買ってもお釣りがくる。
 
 「久世さん、一つお聞きしたいのですが」 
 
 カプレーゼをフォークで突いていた北村がそう切り出した。
 
 「なんでしょう?」
 
 「先ほどのけばけばしい女性は一体何者だったんですか?まるで何事もなかったかのように食事会が始まりましたが、さすがに気になって食事も喉を通りません」
 
 そのわりにはカプレーゼが既に半分以上食べられているが。
 
 その点については松本も気になっていた。というか、説明してくれないと困る。
 
 「そうですね。私からご説明差し上げませんと」
 
 久世がシャンパンで口を湿らせる。
 
 「本日お集まり頂いた皆様には共通点がございます。もうお分かりかとは思いますが、ここにいる皆様は殺しのプロの方々でいらっしゃいます」
 
 松本の予想は的中した。殺し屋は自分だけではなかったのだ。
 
 剽軽者でマシンガントークが止まらない高校教師の岩井も、仏頂面のSPの北村も、2人とも殺し屋を生業としている人間らしい。いや、社会保険料を天引きされているのは昼の仕事のほうだし、どちらかといえば副業か。とにかく、表社会だけで生きているわけではないということだ。
 
 「そんな気はしてたんですよ!特に北村さんなんかね、ほらこのブイシネに出てきそうな顔!これで殺し屋じゃないならなんだって言うんですか。ははは」
 
 ブイシネに出てきそうという、遠回しにヤクザみたいな顔だと言われた北村だが、気分を害した様子はない。きっと言われ慣れているのだろう。
 
 「しかし松本さん。あなたみたいな若くて綺麗な女性も同業者だとはね。世の中捨てたもんじゃありませんな。この業界なんて、むさくるしい男連中ばっかりだと思ってましたよ」
 
 久世を前にしていくら容姿を褒められても、嫌味にしか受け取れない。今日はめかしこんでいるので多少マシに見えるだろうが、普段の松本はいかにも平均的と言った容姿だ。素材は悪くないので化粧映えはするタイプだが、殺し屋が目立っていいことは一つもない。地味であればあるほど景色に溶け込める。
 
 「それで久世さん。あのギャルは?」
 
 話を脱線させた岩井が責任をもって、北村の放った問いを引き継いだ。
 
 「彼女も殺し屋です。名前は…。ああ、それはもういいでしょう。どうせ死んでますから。仮にAとしましょう。Aは銃火器のエキスパートだったんです。特にスナイパーとしての実力を買われて、アメリカでの要人の暗殺や、紛争地帯でも活躍していたと聞いています」
 
 あの鬱陶しいハイテンションは、海外のノリも入っていたせいだろうか。
 
 「銃の扱いに長けた人物が、ああも簡単に銃殺されるとは考えにくいのですが」
 
 北村の指摘はもっともだ。松本の専門は黒魔術であるが、今も脚に銃を忍ばせているとおり、心得くらいはある。サバゲー程度の遊びで銃を扱えるつもりになっている素人に比べると、習熟度は高い。だからこそ北村の言う通り、自身が銃で狙われたときの事も想定して動けるはずなのだ。それが銃のエキスパートとくればなおさら。
 
 「なぜAが容易く撃ち殺されたか?それを説明するのは簡単です」
 
 久世が首を斜め後ろに傾けて、奥の部屋を示した。
 
 給仕を終えた執事が帰っていった部屋で、解体ショーの現場でもある。
 
 「あの執事が最強の殺し屋だからです」
 
 
 
 只者ではないオーラは、一目見た瞬間から確かに感じていた。ただそれは執事の洗練された所作や、人に仕える立場でありながら、こちらが平身低頭したくなるような凄みからくるものだった。決して殺し屋としての脅威を感じていたわけではなかったのだが、久世が言うには、彼は最強の殺し屋であるらしい。
 
 「そんなにすごい人なら名前も顔も知ってるはずですけどねえ。失礼ですけど僕、あの人のこと初めて見ましたよ」
 
 「業界の方がご存じないのは当然です。執事はもう長らく、仕事としての殺しはしていませんから。今は久世家専属の従者として働いています」
 
 「なるほど、裏社会の表舞台に出てきてないってことですか」
 
 裏か表かややこしい。
 
 前菜の皿が下げられ、スープが運ばれてきた。
 
 普段スープといえばコーンポタージュかミネストローネくらいしか飲まないのだが、出されたのは深緑色の、見たことないスープだった。
 
 「さっきの女の子、えっとAさんのことですけど、殺されちゃったのはあの失礼な態度のせいですか?」
 
 彼女の眉間に穴が開いた心当たりといえばそれしかない。
 
 「おそらくそうだと思います」
 
 「おそらく?」
 
 「私から執事には事前にこう指示してありました。招いた客人の振舞いが食事会に相応しくないと判断した場合、執事の独断で処分せよ、と」
 
 松本の体温が下がった。なんて指示を出していたのだ、このご令嬢は。
 
 「しかしまさかあの程度で射殺とは、私も予想外でした」
 
 「結構顔をもみくちゃにされてましたよね。だいぶ失礼だとは思うんですけど」
 
 「過保護なんです。あの男は」
 
 
 スープを飲み終えると、過保護な執事がメイン料理を運んできた。
 
 スライスされた赤身の肉が、白い皿の上に丁寧に並べられている。昨晩の松本のご飯は、スーパーで3割引きになっていた豚肉だった。同じ肉というジャンルにあると思えないくらい、皿に盛りつけられたものは美しい。
 
 グラスに赤ワインが注がれる。
 
 「こりゃ何の肉ですか。まさかさっきの女の子の…、なんてことはありませんよね!いやそれでも美味しけりゃいいんですよ?切ったばかりで新鮮でしょうし」
 
 食欲を削ぐジョークは勘弁してもらいたい。実は松本も一瞬同じことを考えたのだから。解体ショーの音が耳に蘇ってくる。
 
 食事会は滞りなく進み、デザートを全員が食べ終えたところで久世が切り出した。
 
 「そろそろ本題をお話しましょう。私が皆様をここへお招きした理由を」
 
 「やっぱり殺し屋ばかりを集めたのには理由があるんですね?気まぐれでごちそうを振舞ってくれるだけだとは端から思ってませんでしたが、まあ聞きましょう、久世さん。一体どんなワケで僕たちは集められたんです?」
 
 久世は、ふうと息を吐いた。先ほどまでの優雅な雰囲気からは感じられなかった、わずかな緊張感が彼女から伝わってくる。
 
 「私の執事を、殺してほしいのです」
 
 
 執事を殺す。その意味をすぐには理解できなかった。
 
 執事にとって久世は仕える相手であり、身をささげて守るべき存在だ。先ほども久世の指示とはいえ、主人に無礼を働いたAを容赦なく射殺したではないか。
 
 「先ほども申し上げました通り、あの男の殺し屋としてのスキルは別格です。これまで何十人、いえ何百人かもしれません。途方もない数の相手を冥土へと送ってきたのです」
 
 「それは久世さんを守るためではないんですか?」
 
 松本の問いに、岩井も頷く。
 
 「殺しちゃったらダメでしょ。言うなれば最強のボディーガードみたいなもんですよ?久世さんみたいな富豪は、資産目当てのやつらに安全を脅かされることもあるでしょうに。執事がいないと危なくなるのは久世さんご自身では?」
 
 「ダメです。殺してほしいんです」
 
 久世は聞き分けの悪い子供のように、ドレスの裾を掴んで上目遣いになる。こうして岩井と並んでみると、まるで父親に怒られている娘みたいだ。
 
 「だからなんでなのか、その理由をですね…」
 
 岩井が困ったというふうに頭を掻くと、久世がテーブルを叩いて立ち上がった。
 
 「殺してくれるのか、殺してくれないのか、どっちなんですか⁉」
 
 まだテーブルに残っていたワイングラスが床に落ち、赤い小さな水たまりができた。
 
 食事会が始まる前の、凛とした雰囲気を纏った久世はどこかへ消えていた。感情に支配され、すっかり取り乱している。なにが彼女をそこまで刺激したというのか。
 
 「落ち着いてくださいって!ああほら、お召し物が汚れちゃってますよ。綺麗なグリーンのドレスにワインのシミが」
 
 岩井がポケットから取り出したハンカチで久世の体を拭こうとした。怒りのボルテージが上がっている人相手に、どさくさ紛れにセクハラを試みるとは、この男もなかなかだ。
 
 久世がテーブルクロスを引き裂く。いきなり何をするのかと、松本は彼女の奇行に目が離せなくなった。
 
 破かれたテーブルクロスの下には、ナイフが忍ばせてあった。まったく気がつかなかったが、そこの一部分だけナイフの体積の分盛り上がっていたのだろうか。
 
 久世はナイフの柄を素早く握り、岩井の腹部に突き立てた。
 
  
 
 ナイフは岩井の腹部に刺さった。確かに松本の角度からはそう見えた。
 
 現に岩井は体を折って、左手で刺された部分を押さえている。しかし刺されたにしては、うめき声もなにも彼の口から漏れていない。声もあげられないほどの痛みなのだろうか。松本は立ち上がり、突然の暴行に及んだ久世との距離を取り、そこで気が付いた。
 
 岩井は刺されていなかった。ナイフの切っ先が腹部に届く寸前に、岩井の左手は久世の手首を掴んでいた。
 
 「いやあ、危ない危ない。ちょうど腎臓あたりをずぶっとやられるところでしたよ。健康診断で異常が出ないように普段の食生活には気を付けてるんですから、僕の健康な体を傷つけるのはやめてくださいな」
 
 ナイフを持っていないほうの手で久世が岩井を押しのけようとしたが、びくともしない。二人の歳の差は約三十で、岩井の歳なら普通は体力も衰えているころだ。娘ほどの若い女性相手では、いくら男女の力の差があろうとも分が悪いはずだが…。
 
 「そう暴れなさんなって。まずはその物騒なモノをこちらへ」
 
 岩井が久世の手首を捻る。
 
 「ううっ!」
 
 久世が苦痛に顔を歪め、ナイフを取り落とした。
 
 靴の先でナイフを手繰り寄せて、岩井はそれを踏みつける。刃と柄の部分が分離し、ナイフは使い物にならなくなった。
 
 武器を失った久世だが、まだ抵抗の意思は消えていない。ヒールの踵で岩井のつま先を踏もうと足を振り上げては床に叩きつけている。岩井はそれを最小限の動きでかわしており、それが妙にリズミカルなせいで二人が社交ダンスを踊っているように見えてきた。
 
 「これ、私たちが止めたほうがいいんですかね?」
 
 突然の出来事にも眉一つ動かさず、事態を静観していた北村に問う。
 
 「久世さんはどうも混乱されているようです。今は何を言っても無駄。ここは岩井さんにお任せしましょう」
 
 「じゃあそうしますか。下手に手を出して事をややこしくするのも嫌ですし」
 
 松本と北村は安全圏から見守ることにした。
 
 「放して!放せ!」
 
 久世の言葉遣いはもはやお嬢様のそれではなくなっている。額に浮き出た青筋が、陶器のように白い肌のせいで余計に際立って見えた。
 
 「埒があきませんな。こうなったらしょうがない。ちょいと失礼しますよっと」
 
 岩井が柔道技の容量で足をかけて久世を転ばせた。
 
 「ひっ!」
 
 久世は後頭部から大理石の床へ落ちていく。片腕を岩井に捉えられているので受け身も取れない。打ちどころが悪ければ大けがだ。
 
 「あらよっと!」
 
 岩井が手首ごと久世の腕を引っ張り上げたおかげで体勢が変わり、大惨事は避けられた。久世は床に尻もちをつく形になり、ぺたんと床に座る姿はまるでお人形さんだ。先ほどまで荒ぶっていた人間とは思えない。
 
 完全に主導権を握られたことで、久世はいくらか落ち着きを取り戻した様子だ。しばらく肩で息をしていたが、徐々に口呼吸へ、そして鼻呼吸へと戻っていった。
 
 北村のいう通り、岩井に任せて正解だった。久世に危害を加えることなく、スマートに事を収めてくれた。初老の高校教師の動きではなく、彼もまた殺しの世界に身を置いているということが松本にも分かった。
 
 
 「落ち着きましたか、久世さん」
 
 椅子に座らされた久世は、給仕係の女性に持ってこさせた水を飲んでこくりと頷いた。先ほどの出来事を執事は関知していないようで助かった。場合によっては、主人にセクハラと軽い暴行を働いた岩井が粛清される可能性もあったからだ。
 
 「しかし驚きましたな。どうして急に僕を刺そうとしたんです?」
 
 「セクハラしたせいじゃないですか」
 
 松本が口を挟むと、岩井は誤魔化すように笑った。その件についてはこれでおしまい、と言いたげだ。
 
 「いきなり触られそうになって気持ち悪かったのは認めます」
 
 「えっ」岩井が固まる。
 
 「でも岩井さんを殺そうとしたのは、それが理由じゃありません。でもひどいのは岩井さんじゃないですか」
 
 「なにを言うんですか。セクハラのほうじゃないなら、一体なにが原因だと」
 
 「だって…、だって…」
 
 久世が上目遣いで岩井を睨む。
 
 「殺してくれないんでしょう?私の執事を!」
 
 またボルテージが上がりそうなので、松本が間に入ってなだめる。
 
 「そのお話、もう少し詳しく聞かせてくれませんか。執事を殺すって結局どういうことなんです?」
 
 こういう時は同じ女性が寄り添ったほうが効果的だ。ひとまず岩井には退いてもらおうと、目線で下がれと合図を送った。岩井はぺろりと舌を出しておどけた表情を作り、大人しく自分の席に着いた。
 
 「私が殺し屋の皆さんを集めたのは、あの執事に対抗できる唯一の勢力だと思ったからです。お三方、いえ、一人消えたのも含めると四名ですが、皆さんの経歴を拝見しました。確かな殺しの実績をお持ちの方だけを集めたんです。みんなでかかれば、あの執事を殺すことが出来る。そう考えたんですよ」
 
 「問題はなぜ殺す必要があるか、なんです。私は殺し屋ですから、頼まれれば人を殺します。よっぽど条件が悪くない限り、基本的にお仕事は断りません。ですが不可解なのは、久世さんに仕えるはずの執事を殺害するという、その動機ですよ」
 
 岩井が「うんうん」と頷く。
 
 久世がうるんだ瞳で、まっすぐに松本を見つめてくる。思わず吸い込まれそうになる美しさだが、吸い込まれている場合ではない。
 
 「なぜです?なぜ私たちに殺させようとするんですか」
 
 松本の問いに、久世はこう答えた。
 
 「あの男は、私の父を殺したんです」
 
 久世はぽつぽつと語り始めた。
 
 静まり返った食堂に、久世の過去が渦巻き始めた。
 
 
 久世の家庭には母がいない、いわゆる父子家庭というやつだ。
 
 だが最初から父と娘の二人三脚で生きていたわけではない。母は久世が九歳の時に死んだ。死んだというか、殺された。
 
 久世家の当主である父が、民間の保険会社に勤めていた母と出会ったのは、三十五歳の時だった。
 父は先祖の代から受け継いだ邸宅と資産のおかげで、遊び相手に困ることはなく、常に周りには女がいた。
 しかし金の臭いに釣られてやってくる女というのは得てして欲深く、男に好かれるためだけに自己研鑽を積んでいる。メイクもファッションも、媚びた態度も、全ては男のため。女たちは皆二十代と若く、年下好きの父は、相手が資産目当てで十歳近く年上の自分に言い寄ってきていることを理解しながらも、ハーレムを楽しんでいた。
 
 そんな日々に終わりを告げたのが、母との出会いだった。
 
 当時二十三歳だった母は、新卒の保険営業としてノルマに追われる日々を送っていた。保険営業といっても飛び込みではなく、代理店型のインバウンドセールスだったので、自分で顧客を獲得しにいくのが難しい仕事だ。店の前を通る人に声をかけて、保険商品への加入へとそれとなく誘導する。多くの人は素通りするか、迷惑そうな顔をしてくるものだが、五十人に一人くらいは立ち止まって話を聞いてくれる。その一人が保険に加入するかどうかはまた話が別で、実際に成約に至る確率は極めて低かった。
 
 代理店の店長はどういう手法を使っているのか、毎月膨大な数の契約を上げている。その一方で新卒の母はまったく成績が振るわず、同僚からも出来ないやつとして白い目で見られるようになっていた。
 
 父が代理店の前を通ったのは偶然だった。
 
 普段は通らないルートなのだが、工事で通りの一部が封鎖されていたため、ぐるりと迂回するルートを通った。待たせていた車に乗り込もうと駅前の送迎用スペースに向かう途中、その代理店の前を通りかかった。
 
 時刻は夜の八時。もう店じまいの時間が迫っていた。店内では母が一人で店番を任されており、パソコン画面を死んだような目で見つめている。父はそのうら若き保険営業員を一目見た瞬間に、雷に打たれたような衝撃に襲われた。
 
 白磁のごとき肌に、薄く塗られた桃色のリップ。とても派手とはいえない化粧で、ナチュラルメイクというにはあまりに質素。それでも目を引く美しさは、天然ものだ。父にすり寄ってくる金目当ての女たちはメイクこそ上手だが、それだけだ。メイクを取れば平均的な容姿か、微妙にそれ以下の者もいる。
 
 父は思わず店の扉を開けた。閉店間際の時間に来客があるとは思わなかったようで、母ははじかれた様に椅子から立ち上がって父を出迎えた。もちろん保険に入るつもりはないし、死亡保険や相続対策の保険ならばとうに加入している。最近はがんや心筋梗塞での死亡リスクも高いと聞いたので、医療保険も契約済みだ。金は有り余るほどあるから保険に頼る必要もないのだが、旧知の友人から紹介されたので、付き合いで入ったものだった。
 
 「えっと、どんな保険をお探しですか?」
 
 この聞きかたでは成績も上がらないだろうと、父は初対面で母の仕事の出来なさを見抜いた。オドオドとしながらも、必死に商品のパンフレットを並べて説明する母。客の話もろくに聞かず、とにかく契約に持っていこうとする姿を、父は愛おしいと感じたそうだ。
 
 それから事はとんとん拍子に進んだ。
 
 他に誰もいない店内で父に口説かれた母は、翌月には退職届を提出。入社から一年以内の寿退社に、同僚の女性からはひんしゅくを買った。特に富豪の資産家と結ばれたという点が、周りが最も気に入らなかった点だ。
 
 資産目当てのハーレムは綺麗さっぱり解消し、幸せな結婚生活を送り始めた父。父も顔は整っているほうだったので、天然ものの美人である母との間に生まれる子供は、どう転んでも容姿に恵まれるだろうと期待されていた。
 
 そうして生まれたのが久世詩織。
 
 周囲の期待通り、いやそれ以上に美しい容姿を持って生まれた久世は、幼いころからちやほやされて育ってきた。屋敷にやってきた客人や家政婦も久世を目の前にすると、とろけた表情になる。五歳になるころには、久世も自分の魅力を自覚し始めていた。
 
 自分が笑いかければ、大人たちは破顔する。少し甘えてやれば、なんでもホイホイと言うことを聞いてくれる。母のDNAが色濃く受け継がれたおかげで、久世の肌は真珠と形容されるほどに透き通った白さを持っていた。
 
 母が殺されたのは、それから四年後だ。
 
 一発だった。一発で見事に心臓を撃ち抜かれ、苦しむ暇もなく絶命した。
 
 母を殺害したのは、元警察官の男だった。正義に人生を捧げた男が、なぜ警察を辞職したあとに犯罪に手を染めようとしたのかは分からないが、本来の目的は久世の誘拐だったらしい。久世を拉致して、身代金を要求するという手筈だったようだ。
 
 屋敷に侵入してきた男から久世を守るため、母は犠牲となった。銃弾から久世を守る盾となり、運悪くも心臓で弾を受けてしまったのだ。当たり所がずれていれば、助かったかもしれない。犯人は逃走したが、その後警察にによって逮捕された。元同僚を捕まえたときの警察は、果たしてどんな顔をしていたのだろうか。
 
 資産目当ての犯罪に巻き込まれるのは、これが初めての出来事だった。
 
 父が変わり始めたのは、それからだ。

 
 
 温室育ちだった久世は、いきなり常温の現実世界へ放り出された。
 
 勉学の成績は悪いほうではなかったが、学年で一番というほど頭抜けているわけでもなかった久世。上位には食い込んでいるので良いだろうと高をくくっていたのは事実で、仮に点数が振るわなくても自分には優れた容姿がある。
 
 にこりと笑うだけで全てがうまくいく。そんな自負があった。
 
 だが久世を甘やかして育ててきた父が、母の死をきっかけに豹変した。
 
 朝の目覚ましで起きられなければ、乱暴に叩き起こしてくるようになり、家の中での服装にもいちいち文句をつけてくるようになった。久世家の娘としての品格を持て、と耳にタコができるほどに言われた。
 
 学校の成績に関しても、上位に入るだけでは不満どころか、一位を取らないと父の雷が落ちるようになった。二位でもダメ。必ず一位を取ること。それが久世家として当たり前のことだ。父にそう言われるたび、久世はプレッシャーに押しつぶされそうになった。
 
 眠い目を擦りながら机に向かう毎日。それでも成績は思うように伸びないどころか、内容が難しくなるに伴って成績は落ちていく一方。父の怒りも日に日に増していった。
 
 久世はある日、精神的に限界を迎えた。
 
 久世が取った行動は、父への犯行でも自殺でもない。家出だった。
 
 家と学校と、かつて家族で行った場所以外はろくに知らない久世にとって、近所を歩くのも大冒険だ。お金は持っていないので、電車には乗れない。大きなショッピングモールに行き、フードコートから漂う匂いに腹の虫が鳴る。
 
 初めて見る庶民向けのアパレルショップでは、箸にも棒にも掛からぬ面白味のないデザインの服が並んでいた。壁に貼られたポスターではスタイルのいい外国人モデルが着こなしているのでマシに見えるが、ショッピングモールにいる大半の人間が着たところで同じにはなれないだろう。
 
 久世の冒険は約三時間続いた。
 
 父が警察に通報し、監視カメラの映像などを辿って久世の居場所が特定されたのだ。
 
 パトカーに乗って帰ってきた久世は、父に怒られるとは思わなかった。よく帰ってきたと抱きしめられるかと思ったが、殴られた。それも頬を思いっきり。
 
 頬を打たれて五秒後、じわりと涙が溢れてきた。赤くなった場所が熱い。そこだけ熱湯をかけられたような感覚だ。
 
 「お前には監視役が必要だ。もう勝手な行動は許さん」
 
 父がそう言って翌週に連れてきたのが、執事の森山という男だった。
 
 
 執事といって世間が抱くイメージは、主に二種類だ。
 
 ドラマなどで見る、若くてイケメンの執事。人気アイドルが演じており、ドSだったりと、濃いキャラ付けがされている事が多い。
 
 もう一つは、白髪で初老のベテラン執事。丸眼鏡をかけた、燕尾服の似合う紳士。
 
 大体イメージとしてはこのどちらかだろう。
 
 しかし森山はどちらでもなかった。年のころは三十代。容姿は平凡で、執事というよりもサラリーマンが似合う。それも営業などではなく、事務職っぽい見た目だ。つまりはきわめて地味というわけである。
 
 せっかくなら、イケメンかベテランのどちらかが良かったと久世は思った。自分と釣り合う容姿レベルでないと、人前で堂々と紹介できないではないか。
 
 森山を連れてきた父に対して、控え目にそう伝えたこともある。
 
 父は言った。
 
 「執事に求めるのは容姿の端麗さではなく、いかに忠実に仕事をこなすかだ。森山はお前を守ってくれる。いついかなる時も、最も近くにいてサポートしてくれるんだ。彼の仕事ぶりは確かなものだと、以前の雇い主からも聞いている」
 
 こうして久世は、森山という冴えない執事をお目付け役として押し付けられた。
 
 「よろしくお願い致します。お嬢様」

 
 森山が執事に就任してから三週間。これが父の言う通り、仕事の出来る男だったと判明した。久世の要望を事前に察知し、紅茶が飲みたいと思えば、それにあうスイーツと共に供されるし、その日の気分に合わせたベストな服装も提案してくれる。
 
 いつしか久世は森山に心を許すようになり、森山もまた、久世への忠誠心を確かなものにしていた。久世の通うお嬢様学校には、本当にドラマのようなイケメン執事を連れている生徒もいたが、別に羨ましくはない。森山を自分の執事だと、堂々と人に言えるくらいの信頼関係は構築されていた。
 
 問題は学業成績のほうだ。いくら勉強しようとも上がらない成績。上がらないどころか落ちていく一方。もちろん父の怒りは日に日に増していく。いくら勉強を頑張っている姿勢を見せたところで、結果が出なくては意味が無いのだ。
 
 ある晩、勉強机に向かっていた久世のところへ父がノックもなしにやってきた。
 
 そして、思い切り頬をぶった。
 
 「どうしてお前は勉強が出来ないんだ!親の血か?俺が悪いのか?いや違うな。俺は頭が良いし成績だってトップだった。じゃあなんだ。母親か。そういえばあいつは頭のいいほうじゃなかった。だからろくに名前も通っていない保険代理店なんかに務める羽目になったんだ。ああそうだ、全部あいつが悪いんだ!」
 
 母を侮辱するな、と声をあげかけた久世を、父はまた殴った。今度は腹部を思いきり。
胃の中身が逆流し、自室の床が吐しゃ物まみれになる。
 
 騒ぎを聞きつけた森山が、拳を振り上げる父を羽交い締めにした。
 
 「放せ!俺はお前の雇い主だぞ。俺がこいつをどうしようと勝手だ!」
 
 「おやめください、久世様。お嬢様に手を上げるなど、あってはなりません」
 
 森山は燕尾服で隠れているが、肉体はかなり筋肉質なほうだ。五十代になった父が抵抗できる相手ではなかった。
 
 「いいの、森山。殴られたのは私がバカだから。お父さんは悪くない」
 
 「しかしお嬢様…」
 
 「お父さんを放してあげて。あと悪いけど、床を掃除してもらえるかしら?」
 
 久世は晩御飯に食べたシチューやらサラダが、まだ消化されずに残っている吐しゃ物を指さして、悲し気に笑った。

 
 父に初めて過激な暴力を振るわれた日から、三年の月日が流れた。中学生になり、第二次性徴を迎えた久世は、元より人並み外れた容姿にさらに磨きがかかっていた。ますます母親に似てきた、と父は言う。その言葉は、腹を殴られた日以前であれば嬉しかっただろう。
 
 久世自身も、生前の母の姿を美しいと感じていた。殺害された時は既に三十歳を超えていたが、世の同年代の女性が本格的にアンチエイジングに躍起になるころ、母は少女のような若々しさを保っていた。年の離れた姉と言われて勘違いしてもおかしくない。
 
 そんな母に似ていると言われて嬉しくないはずはないが、あの日父は久世の前で、故人となった母を罵った。久世の頭の出来が悪いのは、母親譲りだと、そう言ったのだ。
 
 結局父が気に入っていたのは、母の容姿だけ。所詮はアクセサリー程度としか思っておらず、中身まで愛してはいなかったのだと、あの時はっきりと分かった。
 
 「行ってらっしゃいませ、お嬢様。お気を付けて」
 
 森山は毎日学校まで送り迎えをしてくれた。学校の廊下を歩いているだけで、自身に注目が集まることにも、もう慣れていた。小中高一貫のお嬢様学校なので男子生徒はいないが、もし共学であれば、さぞかし久世は引く手あまただっただろう。同姓でさえも気軽に近づきがたい、そんなオーラを纏っていた。
 
 女子校といえど、教師陣には男性もいる。彼らのうちの多くが、久世を性的な目で見ていることには気がついていた。久世と話すとき、目線を胸元から外さない体育教師や、やたらと軽々しくボディタッチをしてくる古典教師など、中学生相手に欲情する変態で溢れていた。教師が聖職と言われていたのは遠い昔の話で、むしろ教師による性犯罪のニュースはここ数年で急激に増えている。自分もその餌食にならないよう、久世は男性教師から適度な距離を取る術を自然に身に着けていた。
 
 学校が終わると、森山が正門に車を着けて待っている。後部座席に乗り込み、革張りのシートに体を横たえる。家までは二十分程度だが、車窓からの景色はもう見飽きたし、森山に学校での愚痴を聞かせるのも気の毒だ。だから久世は、帰路につく間はいつも目を閉じて、浅い眠りにつくことにしていた。
 
 
 悪夢は再びやってきた。
 
 まるで三年前のあの日の再現のように、勉強机に向かっていた久世のところへ、いきなり父が怒鳴りこんできたのだ。激怒の理由もあの時と同じ、学業成績についてだ。
 
 中学に入ってからの久世の成績は、常に学年三位をキープしていた。偏差値の高い学校なのでこれでも十分にすごいほうなのだが、いかんせん上位二人の学力が桁違いすぎた。全ての教科において満点に近い数字を叩き出しており、教師が意地悪で作った、教科書には載っていないような奇をてらった難問も、二人は見事に正答していた。久世は教科書の内容を丸暗記する努力はしたが、応用問題に対応する能力が欠けていた。そこで二人との差が付き、毎度三位という順位に落ち着いていた。
 
 父はそれが許せなかったらしい。また殴られる。
 
 抵抗の意思は無かった。目を閉じて、嵐が過ぎるのを待とう。
 
 右の頬に平手打ち、ついで左にも一撃。あの日よりも三歳歳を取っているはずなのに、父の力は強くなっている気がした。先月に生え変わったばかりの歯が、ぐらりと揺れた。永久歯だったのに、とぼんやりとした頭で考える。
 
 「どうして、どうしてお前はそうなんだ!久世家の恥さらしめ!」
 
 手だけでなく、今度は足も出た。父のつま先が鳩尾に食い込む。あの時のように胃の内容物が逆流こそしなかったが、口から酸っぱい胃液のようなものが漏れた。体を九の字に折ってうずくまる久世の頭を掴み、壁に叩きつける。全身から力が抜け、久世は仰向けに倒れた。壁にぶつけた衝撃で軽い脳震盪を起こし、後頭部からは血が出ている。
 
 いつ終わるんだろう。父はいつ満足してくれるんだろう。
 
 手首を踏みつけられたが、意識が朦朧としており、痛みをあまり感じない。ただ骨の砕けるくらいの強い力が加わっていることは、なんとなく頭の片隅で理解できた。
 
 意識が戻れば激痛に襲われるだろうが、痛みは我慢していればそのうち引いていく。今は父が去るのを待つしかない。
 
 十分が経った。まだ父はそこにいる。
 
 二十分が経った。まだ父はそこにいる。
 
 不意に足元が冷たくなった。地肌が床に触れている。
 
 倒れた状態で父を見上げると、その手には久世のナイトウェアのパンツが握られていた。顎を引いて自分の下半身を見ると、そこにあったのは下着の一枚だけ。父に脱がされたのだと頭がようやく理解した。
 
 生前の母に似てきた、という父の言葉が思い出された。父が好きだったのは、母の中身ではなく見た目だ。その母に似てきたということは、父は今、久世を娘ではなく、性欲のはけ口として見ていると考えて間違いないだろう。
 
 男としての本能が抑えきれないのを裏付けるように、父の目は獣のそれになっていた。肩で激しく息をして、久世に覆いかぶさる。
 
 こうやって母のことも虐待していたのだろうか。久世の知らないところで、家庭内暴力が行われていたのだろうか。
 
 父が自らもチノパンを脱ぎ、トランクス姿になる。父のそれは屹立しており、五十代の精力とは思えない角度でそり立っていた。精力剤でも服用したのだろうか。そうでないなら、よほど背徳的な興奮を覚えているのだろう。
 
 部屋の天井を見つめていた久世の視界が、醜い男に覆われた。
 
 女として自分は殺される。母のように命を奪われなくても、これはある意味での死だ。
 
 すべてを諦めて全身から力を抜き、父に足を開かされたその時。
 
 久世の顔に何かの液体が飛び散った。父の口から垂れた唾液かと思ったが、違う。
 
 それは真っ赤で、妙に粘り気のある、血だった。
 
 父の胸の間から、刀身の長い刺身包丁が突き出ている。
 
 「ぐぼっ!」父の口から血が噴き出し、久世の顔にスプレーのようにかかった。
 
 父の体が崩れ去り、久世にかぶさる様にして倒れた。
 
 「森山…、あなたがやったの?」
 
 デスクライトに照らされた森山が、刀身が真っ赤に染まった包丁を持って震えていた。


 
 久世が水の入ったグラスを置いた。話している途中に何度かちびちび飲んでいたものが、ちょうど空になった。
 
 森山がどうして久世家の執事として雇われたのか。そして、いかに久世に忠誠を誓っていたか。それは、彼女を襲う父親を刺殺したことからも伺えた。雇い主は久世の父であるので、立場上は父に危害を加えるなど言語道断。しかしお目付け役として久世と関係性を築いていくにあたり、雇い主よりも久世への情が溢れてしまったのかもしれない。雇い主を刺身包丁で刺したのは、森山の正直な気持ちの現れなのだろう。 
 
 「ふーむ、話は分かりました。いや分かりましたが、大事な事がまだはっきりしとりませんな」
 
 岩井が口をへの字に曲げて顎を撫でる。
 
 「執事の方、森山さんでしたかな。彼は久世さんを父親から助けるために殺したんですよね。あなたの父がやったことは近親相姦未遂ですよ。あと一歩森山さんが刺すのが遅れていれば、未遂じゃ済まされないところです」
 
 近親者同士が性的行為をすることは、法律で禁じられている。父が娘に性的暴行を加えるなどもってのほかだ。森山が殺していなければ、久世の父は逮捕されていただろう。余罪は他にもありそうだ。
 
 「ええ、確かにあの時の森山は、私を助けたいという一心だったと思います。父から私を救ってくれたことには感謝しています。あのまま貞操権が侵害されていたかと思うと、今思い出しても鳥肌が立ちますよ」
 
 久世が両手で体を抱く。本当に寒気がしているようだ。
 
 「ではなぜ森山さんを我々に殺してほしいと?」
 
 話を黙って聞いていた北村が、眉根を寄せる。
 
 「父を殺してからの森山は、すっかり別人になってしまったんです。もう私の知る彼ではなくなった。あなたたちも見たでしょう?あの得も言われぬ威圧感といい、なんというかその、やばいやつって感じのオーラ」
 
 言葉を選ぼうとしたが諦めたらしく、やばいやつ、などとお嬢様らしからぬ砕けた表現が飛び出した。
 
 「確かにやばいオーラは出てましたね」
 
 松本もそれには同調した。
 
 「話に聞いた感じだと、出会ったときの森山さんは素朴というか地味な感じだったんですよね。今と随分雰囲気が違いますけど」
 
 「父を刺すまでの森山は、本当にどこにでもいるような男だったんです。実直に仕事をこなして、私の身の回りの世話も完璧にしてくれる。まさに理想の執事だったんですが」
 
 久世は森山に聞かれていないことを確認するように、奥の扉に目をやった。久世曰く、給仕が済めばしばらくは出てこないとのことだが、Aの件があった後なので、側で待機している可能性もある。
 
 安全を確認したのちに久世は続けた。
 
 「彼が変わったのを最初に感じたのは、事件から翌週の学校でのことでした。その日、いつものように登校した時に違和感を感じたんです。教室中がざわめいていたので、私はクラスメイトに尋ねました。なにがあったのって」
 
 久世は消費期限の切れた牛乳を誤って口にしてしまった時のように、顔を歪めた。
 
 「男性教師が一気に複数人、行方不明になったんです。お話したとおり、私のことを性的な目で見てくる男性教師がいたのですが、彼らがピンポイントで消えていたんですよ」
 
 「やたらとボディタッチをしてくる古典教師とかその辺の人ですか。女からしたら、そういうのってマジでキモイですよね」
 
 「他にもいたんです。両手で数えられるギリギリの数、私を性の対象として見てくる変態が」
 
 どれだけ久世の通っていた学校にはロリコンが多いのだ。
 
 慢性的な教員不足により就職のハードルが下がったせいで、性的欲求を満たす目的で教師になる人が増えたとは聞くが、まさかこれほどまでとは。
 
 「彼らが一斉に消えたということで校内はパニックでした。表向きはいい先生という面をしてましたから、ショックを受ける生徒も少なくありませんでしたね。しかも全員何の連絡もなしに行方をくらましたものですから、学校側も困惑してましたよ」
 
 「そりゃあそうでしょうな。何かの事件に巻き込まれたって可能性があるにしても、複数の教師が同時に同じ事件に、ってのは考えにくい。かといって個々で別件の事件に巻き込まれて、タイミングよく一斉に行方不明ってのも、あまりに不自然な話でしょう」
 
 「前日に同僚で集まって飲み会に行っていて、帰りのタクシーで交通事故に遭った、ということは?」 
 
 不可解な現象を説明するのに、最も現実的な可能性を北村が提示した。
 
 「いいえ、そうじゃありませんでした。真実はその日の放課後に分かったんです。放課後の夕暮れ時、いつものように森山が迎えに来ないから、所在をなくした私は辺りをウロウロしていたんです。生徒はみんな正門を使って帰りますから、無駄に目立つ私がそこにいては邪魔になると思い、ほとんど誰も使わない裏門のほうへ行ったんです。そして見つけてしまいました」
 
 久世が自分の首元に手を当てた。
 
 「裏門の塀の上に、並べられていたんです。私をいやらしい目で見ていた、教師たちの生首が」
 
 「な、生首ぃ⁉」
 
 岩井が椅子ごと転げそうになった。
 
 アメリカのホームコメディみたいなリアクションだが、これが彼の素なのだろう。
 
 
 
 塀の上に並べられた教師の生首の数は、全部で九つ。夕暮れ時の学校というシチュエーションも相まって、子供の頃に読んだホラー漫画のワンシーンを思い出した。久世の口から語られただけなので実物は見ていないが、さぞかしグロテスクな光景だろう。
 
 「私を標的にしていた男性教師だけがピンポイントで、斬首されていたんです。とにかく走りました。その場から逃げ出したくて、どこに向かうでもなく必死に走りましたよ。そしたらちょうど、いつもの時間より珍しく遅れてきた森山が、車で私の前に現れたんです」
 
 久世は固唾をのんだ。当時のことを思い返しながら話しているが、次に口にするシーンが久世にとってショッキングだったことが既に分かる。
 
 「いつもは後部座席で家に着くまで寝ているので、その日も後ろのドアを開けようとしたんです。けど森山に止められました。今日は助手席に乗るようにと言われたんです。助手席は寝心地が悪いので嫌だったのですが、後部座席には荷物があるからと。仕方なく助手席に乗り込んで、せめてリクライニングしようとシートを倒したんですが、なにかに引っかかって倒れませんでした」
 
 「大きな荷物でも乗せてたんですか?」
 
 松本もホームセンターで大きな買い物をした時は、後部座席いっぱいを使って荷物を置くようにしている。そうした時は座席を倒そうにも倒れない。
 
 「そこにあったのは、麻袋でした。中はパンパンです。何が入っているかは見当がつきましたよ。だって、白いはずの麻袋の生地が真っ赤になってるんですから」
 
 「ちょいと待ってくださいよ。僕の予想が間違っていなければ、麻袋の中身ってのは先生方の余りじゃあないですか?」
 
 余り。つまりは首から下の胴体のことか。
 
 「お察しの通りです。斬首された九人の教師の首無し死体が、麻袋にぎゅうぎゅうに詰め込まれていたんですよ」
 
 「九人分もよく乗りましたね。さすが久世家。よほど大きい車なんでしょうな」
 
 「いやそこじゃくて。森山さんがやったってことですよね。その、先生の殺害を」
 
 あまりに状況証拠が揃いすぎていて逆に犯人じゃないのではないかと疑いたくなるほどだが、久世は森山が犯人だと認めた。
 
 「森山は私を迎えに来た時、顔色一つ変えていませんでした。父を刺した時はあんなにも震えていた彼がですよ?七〇年代のアメリカンホラーもびっくりの殺戮ショーを遂行しておいて、何のリアクションもないなんて、狂ってるとか思えません」
 
 確かにその異様な光景は、低予算の昔のホラー映画みたいだ。ハリウッドの特殊メイクもまだ発展途上だった頃なので、今見るとかなりチープではあるのだが、生首などの手作り感が、逆にある種の不気味さを醸し出している。
 
 「その遺体たちをどうしたんですか。まさかどこかへ遺棄したとか?」
 
 北村に死体の行方を尋ねられた久世は、人差し指でテーブルをコンコンと叩いた。
 
 「ここです。この屋敷に持ち帰ってきました」
 
 「そのあとは?」
 
 「詳しくは知りませんが、おそらく森山が焼却するなりして処分したのでしょう。この家には大きな窯もあります。まあ料理用に使うものなんですが」
 
 「まさか今日頂いた料理も…」
 
 久世が中学生の時の出来事だとはいえ、もしそうなら気分が悪いなんてものじゃない。松本がその先を言い淀むと、久世があとを引き継いだ。
 
 「一部のメニューの調理には窯を使用しています」
 
 死体を焼いたのと同じ窯で作られた料理を客に食べさせるとは、なんて食事会だ。口直しに、回収されずに残っていたワインを一口飲む。もはやこれも血液に見えてきた。
 
 「それから森山はエスカレートしていきました。私が父に襲われたのが、よほど精神的にショックだったんでしょうね。私に害をなす存在を片っ端から消していくようになったんです。相手に危害を加える意思がなくて、不慮の事故でもお構いなし」
 
 久世によると、道端で久世に吠えてきた犬さえも森山は一瞬で絞め殺したという。その犬は飼い犬で、飼い主とトラブルになったので、飼い主も殺したらしい。まったく見境のない殺人鬼である。
 
 「そんなの警察に突き出したらいいでしょう!本来なら父親殺しの時点で文句なしの有罪ですが、まあ情所酌量の余地はありましたよ。あくまで主人である久世さんを守るためなんですから。けどそれ以降のは完全にただの人殺しですよ」
 
 殺し屋が何を言っているのかとも思ったが、松本たち殺し屋はあくまでビジネスとしてやっている。先日の東大阪の社長はどうだか知らないが、依頼主の多くは警察とも癒着しており、松本が殺した相手のことは闇に葬り去られるように取計ってくれている。
 
 だが森山の行いは無差別に近い殺人だ。依頼人もいないので、それによって警察が利益を得ることもない。露見すればまず刑務所行きは免れないし、死刑の求刑もあり得るだろう。
 
 「バレてませんよ。うーん、ちょっと違いますね。正確には何度か警察や通行人に目撃されたことはあります。けど、その場で消してしまうので。ちょうどこんなふうに
 
 久世がスマホを取り出し、画面を三人へ向けた。
 
 松本にとって消すという言葉は、依頼人から頼まれた相手を殺害し、後処理まで完遂することを指す。だから消すと聞いたときは、同じようなことを想像していた。
 
 画面に映った映像では、警察が森山に何かを尋ねている。任意の職質というわけではないことが、警察官の態度から伺える。最初からかなり高圧的で、森山が殺人事件に関わっていることを既にかぎつけているようだ。
 
 森山ははじめのうちは大人しく警察の言うことに耳を傾けていたが、唐突に相手の頭を掴みあげると、アルミ缶でも潰すかのようにメキメキと音をさせて警察の頭部を粉砕した。脳みそや眼球が辺りに飛び散り、そして体は動かなくなった。
 
 「え…、なんですかこれ。僕が見てるの、これAIの映像ですよね」
 
 「残念ですが本物です」
 
 「いやこんなのおかしいじゃないですか!どこの世界に、片手で人間の頭を粉砕できる人がいるんです?」
 
 「森山は、もう人間じゃないんですよ。きっと」
 
 「人間じゃない?」
 
 北村がオウム返しをすると、久世が頷いた。
 
 「昔に本で読んだことがあるんです。インドネシアに伝わる悪魔召喚の儀式というものがありまして、悪魔に魂を売り渡すことで暴力的で、絶対的な力が手に入ると」
 
 なんだそのファンタジーじみた話は、と普通の人間なら一笑に付すところだろう。
 
 だが松本は黒魔術の専門家であり、科学では説明のつかない現象を起こしてきた側の人間だ。インドネシアの悪魔召喚がどんなものかは知らないが、存在を否定できるだけの根拠がない。
 
 「偶然にも森山の部屋で、それに関する書物を見つけてしまったのです。森山の元来真面目な性格らしく、必要な素材や召喚条件など、丁寧に赤線を引いて学習していましたよ」
 
 まるでテスト前の学生だ。悪魔召喚という響きと、赤ペンでマークしているという森山の行動が妙にミスマッチで笑える。
 
 「しかしその話が本当なら、我々で対処できる問題でしょうか。いくら私がSPとして鍛錬を積んでいるといえど、片手で頭部を握りつぶす化け物相手では分が悪いかと」 
 
 「僕もしがない教師ですしねえ。あっ、いや待てよ?」 
 
 岩井がいたずらっぽい笑みを浮かべて、松本を見た。
 
 「ここにいるじゃあないですか!その道の専門家が!」
 
 「えっ、待って私?悪魔と戦えって?無理無理無理!」
 
 
 
 
 屋敷に入ったときに、ガラス越しに奥に見えた庭へと案内された。美しく刈り込まれた生垣やバラで彩られた道を進んでいくと、その先に噴水が現れた。
 
 「どうして金持ちってのは噴水とか動物の生首とか、お決まりのもんを置きたがる
んでしょうなあ」
 
 「生首って言い方やめてください。さっきあんな話聞いたばっかりなのに。岩井さんが言ってるのってあれでしょ、鹿の顔の剥製とかが壁から突き出てるやつ」
 
 「そうそう、それそれ!薄気味が悪くてしょうがないんだから」
 
 岩井は噴水の造形を観察するように、腕を後ろに組んで歩き回っている。
 
 松本の目的は噴水ではなく、その奥にある一本の木だった。
 
 「では松本さん、お願いいたします。言われた材料はこちらに用意してありますので」
 
 木の下まで行くと、久世がボストンバッグを差し出してきた。
 
 バッグを開くと、中から出てきたのは藁人形。五寸釘。そして森山の写真だった。
 
 いきなり悪魔に憑りつかれた森山を倒せと言われた松本は、自分に出来るわけがないと断固拒否したのだが、黒魔術を扱う松本が悪魔と戦うなら適任だと岩井に推されてしまい、今に至る。
 
 久世もそれに「いいですね、そうしましょう!」と賛同するものだから困る。
 
 北村は賛成こそしていないが、特に反対もしていない。沈黙は肯定と捉えられるのだと、声を大にして言ってやりたい。
 
 話の流れで決まってしまったものはしょうがないので、久世に道具を用意するように伝えた。ひとまず簡易的なもので試してみるとしよう。
 
 「僕、藁人形って初めて見ますよ。なかなか生で見ると気持ち悪いですなあ。人型をしてるってだけで、なんかこう生々しく見えてくるというか」
 
 「お人形さんには魂が宿ると言いますからね。せめてこうやって顔を描いてあげれば、可愛くなるんじゃないですか?」
 
 久世がマジックペンで藁人形に目と口をつけた。やりづらくなるのでやめていただきたい。
 
 「じゃあ始めますよ。けど期待しないでくださいね。こんな古典的で、しかも出来合いの材料で作った藁人形なんて、悪魔に効くか分からないんですから」
 
 効果が無かった時のために予防線を張っておく。入念に準備をする時間があれば、松本だってもっと凝った黒魔術を用意できる。それこそ犬神の呪いだったり、さらに強烈でグロテスクな呪術だって使えるのだが。
 
 「藁人形って丑の刻に打ち付けるものだと記憶してるんですが、こんな真っ昼間でも効果があるんしょうか」
 
 藁人形を木に磔にして、森山の写真を頭部に貼っていたところで、北村が尋ねてきた。
 
 「それも不安なんですよね。私も太陽の出てる時間帯に藁人形を使ったことなんてありませんから。まあ、出来るだけやってみますよ」
 
 久世がペンで顔を付けた部分に上から写真を貼り、準備は完了だ。
 
 五寸釘を心臓の部分に突き立て、金槌を振るう。
 
 カツーン、という金属音が響いた。噴水の近くの木を選んだのは、水の音がいくらか金属音をかき消してくれると期待したからだ。森山に感づかれる可能性を、少しでも減らしておきたかった。悪魔は地獄耳を持っているかもしれないが。
 
 二度、三度と釘を打つ。もし効果が現れているなら、今頃森山は心臓に強烈な痛みを感じているはずだ。普通の人間なら、耐えられてあと数発。妙にバランスの悪い状態で五寸釘を打つという行為は、結構体に来る。松本の額に汗が浮き出始めた。
 
 「もういいですかね。疲れたんですけど」
 
 「ダメです!」
 
 また出た。久世の妙に子供っぽい頑固な態度だ。
 
 「もっと打ってください。相手は悪魔ですよ」
 
 まだ悪魔と決まったわけではないし、断じるには証拠不十分だ。頭部を片手で粉砕することだって、フィジカルを極限まで鍛えれば可能かもしれないではないか。
 
 久世が止めさせてくれないので、言われるがままに五発、六発と打ち続けた。
 
 「もう満足ですか?」 
 
 「もう一声!」
 
 結局念には念を入れてという久世の要望により、実に一五回も釘を打つことになった。終わった頃には、松本の体がすっかり疲弊していた。黒魔術というものは、見た目よりも体力を使う行為なのだ。
 
 「お疲れ様でした。これで森山が死んでるといいんですけど」
 
 
 屋敷の内部に戻り、談話室へと四人は移動した。いかにも高級そうなソファに腰を下ろすと、まるで風呂に浸かっているかのように体がずぶずぶと沈んでいく。柔らかすぎるのも、かえって座り心地が悪いかもしれない。
 
 「お茶を用意させましょう。ベルを鳴らすと森山が来てくれるんです。いつもならね」
 
 久世が卓上に置かれたベルを、ちりんと一度だけ鳴らした。松本がもしベルを渡されたら、福引で一等賞が出たときのようにガラガラと鳴らしていただろう。
 
 たった一回のベルの音を聞きつけて、森山はやってきた。まだ久世は何も指示をしていないのに、森山が押しているカートには、ティーセットとクッキーが乗せられている。
 
 全員で紅茶をすすりながら、一礼して去っていく森山の後ろ姿を横目で見た。
 
 「死んでないじゃないですか!」 
 
 久世が顔を手で覆いながら絶叫した。
 

 
 藁人形の呪いは効果が無かったと証明された。ダメもとでやっただけなので、松本自身は対して期待していなかったが、久世の失望は大きかったらしい。
 
 「藁人形がダメなんじゃないですか?もっと大きな人形なら効果があるかもしれません」などと、人形のサイズに原因を見出そうとしている。
 
 メソポタミア文明では、等身大の人形を用意して、藁人形と同じ要領で心臓部分に針を刺すという呪いが存在したらしい。だがこれも試してみる価値はないだろう。
 
 岩井がハッ、と何かを思いついた顔になる。
 
 「心臓を狙うのがそもそもの間違いなんじゃないですかね。だって相手は悪魔ですよ?もしかしたら森山さん、悪魔と契約するときに心臓を捧げてるってことはないですか。ほら、よく言うでしょ。等価交換で眼球やら臓器の一部を悪魔に渡す、みたいなやつ」
 
 「心臓がないのに活動できているとは、なかなか考えにくいですが」
 
 「北村さん、もっと柔軟に考えないと。あんなバカげたパワーを持ってる人に、人間の常識が通じると思います?心臓なんて全身に血液を送るポンプに過ぎません。悪魔だったら、そんな人体のメカニズムとは無縁って考えるのがよろしいかと」
 
 岩井の理論はあながち間違いでもないかもしれない。常識で考えてはダメだ。それならば、他の方法を試さなくては。
 
 「久世さん、青いグラスと箒を用意できますか?」
 
 
 青いグラスの呪い。これは西洋に伝わる黒魔術のなかでも、特に効果が高いとされている。
 やり方は簡単だ。十字路の真ん中で青いグラスを落として割り、相手の名前と、死亡宣告をする。そして破片を箒で道の端に寄せておく。たったこれだけ。
 
 問題は十字路というロケーションだが、これまた幸いに、屋敷の庭に小さな十字路があった。
 
 「もともと西洋では、新月の夜にやらないといけないっていう呪いなんですが、黒魔術の世界も年々変わってきてましてね。さすがに月の満ち欠けを待つのは効率が悪いってことで、先人たちが常時いつでも発動できるように黒魔術をアップデートしてくれたみたいです」
 
 「どこの業界も効率重視なんですなあ」
 
 果たして青いグラスの呪いは…。
 
 
 「お待たせ致しました。ローズヒップティーでございます」
 
 二度目となるティータイム。誰もハーブティーが飲みたかったわけではない。呪いのあと、効果が出ているかを確認するために森山を呼びつけたのだ。
 
 「…やっぱり生きてますね」
 
 松本は肩を落とした。
 
 「贄を用意できればもっと強力な黒魔術も使えるんですが」
 
 「魔術では悪魔は殺せませんか…」
 
 久世は落胆を隠そうとしない。期待に応えられなくて申し訳ないと、謝ろうとしたとき、ふと一つのアイデアが浮かんだ。
 
 「ちょっと待ってください。これなら行けるかも!」
 
 「おっ、なんかいい方法を思いつきましたか?僕にも聞かせてくださいよ」
 
 「魔術で直接呪うのが難しいなら、悪魔に対抗できる生き物を作り出しましょう」
 
 久世が驚きに目を見開いた。
 
 「そんな事が可能なんですか?」
 
 「ゼロから生成するわけじゃないですよ。それこそ悪魔召喚みたいなふうにはいきません。だけど、黒魔術の力で人間を悪魔に対抗しうる生物に変えることは出来るんです」
 
 「なんだかスケールのでかい話になってきましたな。悪魔と戦える生き物というと?」
 
 「人狼ですよ」
 
 映画に出てくるような、満月を見ると変身する狼男は、平時は人間として活動しており、特定の条件下で獣に姿を変えてしまう。
 
 しかし黒魔術で生み出される人狼は、もっと狂暴で理性など端からない。脳を占めるのは、食欲と暴力だけ。だからその分、とても強い。悪魔であろうと、本能だけに支配された人狼には勝てる保証がない。
 
 「問題は、誰かが人狼に変身しないといけないということです」
 
 「えっ、なんで僕を見るんですか。嫌ですよ!こんな老い先短い初老の男に、余生を与えずに怪物になれっていうんですか。この悪魔!」
 
 ちょっと目があっただけなのに、岩井は全力で松本を拒んできた。
 
 むしろ松本が目を付けたのは、北村のほうだ。
 
 「北村さんはSPですから、身体的能力もこの中で一番高いですよね。人狼になると、体にかなりの負荷がかかります。私としては北村さんが適任かと思いますが、いかがです?」
 
 北村は腕を組んで、うーんと唸った。ずっと仏頂面なので表情の変化が分かりづらいが、眉毛の角度が今までで一番鋭くなっている気がする。それだけ悩んでいるということだろうか。
 
 「分かりました。やりましょう。私でお役に立てるのであれば、この身を捧げることに異存はありません。どうせ私もそう長く生きないでしょうしね」
 
 決まりだ。
 
 
 松本は先ほど藁人形の時に久世に用意させた黒魔術セットの入ったボストンバッグから、黒いローブを引っ張り出した。頭からすっぽりとそれを被ると、見た目は完全に黒ミサの参加者だ。黒ミサとはカトリック教会のミサとは正反対の、悪魔崇拝の儀式であるので、これから悪魔と戦うという状況には不似合いかもしれないが、こういうのは雰囲気だ。
 
 黒魔術師たるもの、やっぱり本気の魔術を唱えるときは見た目から入りたいものである。
 
 簡易的な魔法陣を描き、中心に北村を据える。松本が呪文を唱えると、北村が呻き苦しみ出した。
 
 「頑張れ北村さん!もうちょっとだから!」
 
 岩井が激励の声をかけているが、なにがもうちょっとなのだろう。あと十分は変身の儀式は続くというのに。 
 
 北村の筋肉質な腕に、獣の毛が生え始める。次いで牙が生え、眼球から白目が消え失せた。ゆっくりと変身していく間、北村はずっと苦痛の声を上げ続けた。
 
 
 北村という人格は、もうこの世にいない。そこに立っているのは、理性を失い、凶暴性だけが残った人狼だ。
 
 口からは涎が垂れており、牙をむき出しにして獰猛な唸り声を上げている。今にも久世に向かってとびかかりそうな勢いだ。
 
 ただ一つだけ、松本は細工をしておいた。変身の魔術をかける際に、悪魔、もとい森山のみを獲物として認識するように、理性に働きかけておいた。これで松本たちが襲われる心配はない。
 
 人狼は鼻をひくつかせ、森山の匂いを探る。解体ショーの直後でも森山の体からは匂いがしなかったので、特殊な消臭剤でも使っているのかもしれない。人狼も匂いを辿るのに少し苦労したようだが、さすがに獣の鼻は誤魔化せない。大きな声を上げて、屋敷の内部へと人狼は突撃していった。松本たちもそのあとを追う。
 
 
 人狼は四本の脚を激しく動かし、廊下を駆け抜けていく。人間の要素が残っているので、二本足でも走れるはずのだが、どうやら野性的な動きのほうがスピードが出るらしい。おかげで追いかけるのも一苦労だ。
 
 早くも松本は息が上がっており、心臓が信じられない速度で動いている。中学校で持久走を走り切った時以来だ。心臓がこんなにも働いているのは。
 
 「…っ、ま、待って。もう、無理…」 
 
 「なんですか、若いのに体力がない!初老のおじさんはまだピンピンしとりますぞ」
 
 岩井はスーツに革靴というスタイルのくせに、三人の中で一番足が速く、持久力も高かった。
 
 「これでもサッカー部の顧問をしとりましてね。若いもんにはまだまだ負けられませんよ」
 
 森山の心臓を狙ってかけた呪いが自分に帰ってきたかと思うほどに、胸が痛い。息も絶え絶えの松本の横で、久世もそこそこ疲れ切っていた。
 
 「はぁ…はぁ…、うっ…、マジ吐きそう」
 
 久世の言葉から上品さが失われるときは、感情が昂っているか、ピンチのどちらかだ。この場合はピンチのほうだろう。
 
 「ほらほら、二人ともぐったりしてないで、行きますよ!」
 
 岩井に肩を叩かれたが、これ以上走ると何かが口から出そうだ。家の中を動き回るだけでここまで体力を消耗するとは、改めて久世家の広大さを思い知った。
 
 談話室のほうから、ガラスが割れる音がした。それに続き、人狼が威嚇するように吠える。
 
 「始まりましたな。さあ、私たちも急ぎましょう。人狼VS悪魔の世紀の大決戦が見られますよ。これは見逃すわけにはいきません。高校サッカー決勝よりも見ごたえがありますよ!」
 
 
 談話室に到着した三人を出迎えたのは、世にも恐ろしい光景だった。
 
 人狼が森山に馬乗りになり、腕を食いちぎっている。肩から下が無くなった森山は、血だまりの中に組み伏せられていた。腕がないなら抵抗のしようもない。仮に腕が残っていたとしても、出血多量でまともに動くことも出来ないだろう。
 
 命の灯がまさに消えようとしている執事を前にして、久世は安らかな表情を浮かべている。それは安堵とも取れるが、どこか寂しそうな、複雑な感情がないまぜになった顔だった。殺してほしいとは言っているものの、自分に尽くしてくれた森山への情は残っているのだろう。人狼がとどめを刺した後、しっかり弔ってやればいい。
 
 人狼が森山の腹に爪を突き立て、クリスマスプレゼントを開ける子供のような勢いで開腹する。腸を引きずり出し、床に放り投げつけ、森山の体に開いた穴に顔をうずめた。血液を吸い出しでもするつもりだろうか。自分で生み出しておいてなんだが、人狼の味の好みはよく分からない、と松本は思った。
 
 「北村さん、もういいんじゃないですかね?やりすぎというか、あんまりにもグロテスクですよこりゃ」
 
 岩井の声は人狼には届かない。
 
 「あれはもう北村さんじゃないですよ。理性のタガが外れた、ただの獣です」
 
 「でも戻れるんでしょう?松本さん、変身って言ってましたよね。僕は仮面ライダー世代なんでその言葉はよく聞いたものですけど、変身ってのは戻れる前提なんですよ。変わるに、身と書いて変身。女性のお化粧と同じで、好きなタイミングで戻れるものだと、僕はそう解釈してるんですけど」
 
 「えーと…」
 
 罰が悪そうに頭を掻く松本に、岩井が「えっ?」と怪訝な声を出す。
 
 「まさかとは思いますけども、あれって戻らない?」
 
 こくりと無言で頷く。 
 
 「マジで?」
 
 久世もさすがに驚いた様子だ。
 
 「久世さん、こりゃ大変ですよ。本物の悪魔はここにおりました。人を一生化け物に変える呪いをかけた方こそ、こちらの松本さんですよ」
 
 「いや違うんです」
 
 何も違わないので、それ以上言葉は継げなかった。
 
 「まあいいじゃないですか。久世さんの願いは達成されたわけですし、見事に森山さんは死にました。見てください、原型ないでしょ。もうただの肉塊ですよ。ああほら、また人狼が食った!微妙に残ってた足まで!」
 
 三人が話している間に、談話室は血の海と化していた。
 
 「片付けが大変そうですねえ。メイドさんたちに特別手当を出してあげてもいいんじゃないですか?」
 
 岩井が久世家の待遇改善を提案したのとほぼ同時に、人狼が吠えた。
 
 いや、吠えたのではない。今にして思えば、あれは悲鳴だったのかもしれない。
 
 その一声を最後に、人狼は動かなくなった。天を仰いだ姿勢のまま硬直し、後ろ向きに倒れた。口からは涎が相変わらず垂れていたが、変身直後の獲物を求める食欲全開の涎ではなく、だらしなく漏れ出たそれは、人狼にもう意識がないことを示していた。
 
 森山がむくりと起き上がる。
 
 食いちぎられたはずの腕はすっかり再生しており、手には人狼から引っ張り出した臓物が握られていた。
 
 
 森山がかつての北村、もとい人狼の頭を踏みつけた。北村だった頃の面影は眉毛くらいしか残っていなかった人狼の顔が、ぐちゃりと音を立てて潰れた。人間としての北村。そして怪物としての人狼も、こうしてあっけない最後を迎えた。悪魔と人狼の戦いは、プロ野球と草野球以上に実力差があったと見える。
 
 森山は臓物を投げ捨て、久世にゆっくりと目線を合わせた。
 
 「お嬢様、お怪我はありませんか?」
 
 先ほどまで四肢を食いちぎられていた森山は、自分の体よりも主人の安否を確認する。既に森山の体は再生していたが、腕と足は生えても燕尾服までは再生できないらしく、半袖半パンの執事という奇妙な恰好になっていた。
 
 「なんだあの斬新なファッションは」と岩井がつぶやくので、思わず松本は笑いそうになったが、笑っている場合ではない。人狼をけしかけたのは松本だ。つまり今この状況で、森山が最も敵視しているのは松本に違いない。
 
 松本の知る限り、黒魔術で変身させられる怪物の中で最も強い生き物を選んだはず。それなのにこうもあっさり返り討ちにあってしまっては、もう手の施しようがない。万策尽きた。
 
「え、ええ、私は大丈夫よ。森山こそ、その、平気?いや平気じゃないわよね」

「私はこの通り、何も問題はございません。ああ、服を仕立て直す必要がありますね。すぐに手配いたしましょう」
 
 てっきり森山は自分の服のことを言っているかと思った。だが久世の足元に跪いて、ドレスの裾についた血を指でなぞりながらそう言っているのを見て、燕尾服ではなく主人のドレスのことだと遅れて理解した。
 
 「平気よこれくらい。ドレスの替えはいくらでもあるんだから。それよりも部屋の掃除をお願いできるかしら」
 
 「かしこまりました」
 
 森山が掃除用具を取りに引っ込んだ途端に、久世はこちらを振り向いた。
 
 「あいつやばいって!早く逃げましょう!」

 
 また走る羽目になるとは。
 
 せっかく乾き始めていた汗がまた噴き出す。ドレスがこんなに汗まみれになることなんてあるのだろうか。
 
 ヒールで走るのは限界なので、松本はせっかく新調した靴を、そのあたりに乱雑に脱ぎ捨てた。
 
 ストッキング越しにも、大理石の床の冷たさが伝わってくる。少しは走りやすくなったが、持久力の無さは変わらない。殺し屋だからといって、身体能力の全ステータスが高いわけではないのだ。松本の場合は特に、肉弾戦や近接戦闘よりも黒魔術が主な武器なので、相手を殺害するのに平均以上の身体能力は求められない。学生時代の体力テストの結果なんて、常に平均より少し下だったくらいだ。
 
 お嬢様のプライドからか、頑なにヒールを脱がない久世のほうが、今度は力尽きるのが早かった。がくりと膝から崩れ落ち、ぜえぜえと喘いでいる。
 
 先ほどとは状況が違い、自分が標的にされていると感づいた森山が追ってくる可能性がある。出来るだけ距離を取らないといけないが、久世がどうにも足手まといだ。
 
 岩井と松本が駆け寄ると、久世が片手を伸ばしてきた。この手を掴んで立ち上がる手伝いをしろという意味だろう。しかし立ち上がったところでどうせ動けまい。
 
 岩井はその手を掴もうとしなかった。

 「冷たいことを言うようですがね、久世さん。こういう時は『私を置いて先に行って』なんてセリフを言ってもいいもんじゃないですか。そっちのほうがカッコイイですよ。自己犠牲も時には大切ってもんです」
 
 「置いてかないでよ!」
 
 久世に叫ぶだけの体力はまだ残っていた。
 
 「じゃあおんぶでもしろって言うんですか。いやだなあ、そうしたらまたセクハラだなんだって言うんでしょ。この歳でお縄にかけられるのはごめんですよ。せっかく法律ギリギリの生き方をしてきたっていうのに」
 
 岩井はもう久世を見捨てる方向で意思を固めているらしい。さすが殺し屋。情よりも合理的な判断を優先する生き物だ。
 
 「じゃあそういうことで!」
 
 久世に背中を向けて立ち去る岩井。全力で森山から逃げるつもりらしく、クラウチングスタートの体勢になる。
 
 「無理無理無理!ほんと無理だから!」
 
 久世にはもう、プライドも品格もへったくれもない。情けなく涙を流して、岩井に伸ばした手が震えている。
 
 「さすがに可哀そうじゃないですか。久世さんも連れて行ってあげましょうよ」
 
 「じゃあ松本さんがおんぶします?」
 
 「それは無理ですよ。久世さんのほうがちょっと身長高いですし」
 
 クラウチングスタートの姿勢のまま、顔だけを捻って会話する岩井。危機的状況なのに、まるで緊張感が感じられない。
 
 「分かった。分かりました。分かりましたよ岩井さん。おんぶしてもいいです」
 
 「してもいい?」
 
 「今回ばかりは状況が状況ですから、セクハラとして訴えるようなことはしません。だから私をおぶって逃げてください」 
 
 「嫌だな、久世さん。頼み方ってもんがあるでしょう。おんぶして欲しいなら、それなりの態度で示してくれませんと」
 
 久世が唇を噛む。さぞかし屈辱的な気分だろう。自分に尻を向けた姿勢の男性に、上から目線で懇願するように指示されているのだから。
 
 「…お願いします。私をおぶって逃げてください」
 
 「よし来た、乗りなさい!」
 
 岩井がそのままの姿勢で尻を振る。ちょうど乗りやすい体勢だった。
 
 
 ヒールを脱いでスピードアップした松本と、久世を背負った岩井は屋敷の外へと出ようとした。しかし扉は固く閉ざされていた。
 
 「な、なんで閉まってるんですか?」
 
 松本は扉を押したり引いたりしたが、びくともしない。まるで外側から閂がかけられているかのようだ。
 
 「あいつの仕業ですね」
 
 もう自分の執事のことを、名前ではなくあいつ呼ばわりし始めている。
 
 「悪魔は遠隔操作で扉をロックすることも出来るんですか。まるで車の電子キーみたいだ。こりゃ厄介ですな」
 
 「松本さん、黒魔術でなんとか開けられませんか?」
 
 「黒魔術は魔法じゃないんですよ。万能だと思わないでください。それより他の出口は?」
 
 「裏口があるにはありますけど、正面玄関を閉めたということは、相手が裏口で待ち伏せしてる可能性が高いです」
 
 「ふむ、八方塞がりですな」
 
 三人の間に沈黙が落ちた。
 
 「いや待って、一つ逃げ場があるかも!」
 
 沈黙は一瞬で久世によって破られた。
 
 「この屋敷には地下室があるんです。地下から外へ通じる抜け穴があって、そこに森山は立ち入ったことがないはず。祖父の代に作られた抜け穴だそうですが、父も祖父も使用人を地下へ入れることはしなかったんです。もちろん私も、使用人は誰一人として入れていません。あそこなら!」
 
 
 
 地下室へと続く階段は埃に塗れていた。相当長い年月の間、使われていなかったのだろう。クモの巣があちこちに張り巡らされており、地下室の扉にたどり着くまでに何度も顔に不快な感触があった。クモの食べ残しのコバエが口に入ってきて、松本はぺっ、と地面に唾を吐く。
 
 「ここが地下室ですか。すごい匂いがしますな」
 
 「使わなくなった物は全部ここに詰め込んでますから、よく分からない薬品とかも混じってるみたいです。私もどこに何があるかまでは把握してません」
 
 もう慌てて逃げる必要はないのだが、自分の足で歩くよりも楽な移動手段を覚えた久世は、岩井の背中から降りようとしない。
 
 「それで外への抜け道っていうのはどこのことですか?」
 
 松本が積まれた段ボールをよけながら、それらしき場所を探す。
 
 「確かその奥です。そうそう、そこの木の扉があるでしょう。鍵はかかっていないはず」
 
 久世の言う通り、扉は軽く押しただけで開いた。抜け穴は天井が低く、姿勢を低くしないと通れないサイズだ。
 
 「とっとと逃げましょう。いつ森山さんに感づかれるかも分かりませんからな」 
 
 さすがにおんぶした状態では通れないので、岩井は久世を地面に降ろした。
 
 先頭が岩井、間に久世、後ろが松本の順番で抜け穴を通ることにした。
 
 岩井が一歩踏み出した瞬間だった。
 
 カツカツ、という足音が近づいてきた。あの埃っぽい階段を降りてくる人物がいる。
 
 「まずい、もう気付かれた!」

 久世は慌てふためき、早く行けと先頭の岩井の背中を押す。
 
 「そう急かさんで下さいよ。この歳になると、走るよりも中腰の姿勢で動くほうがきついんですから」
 
 四つん這いのほうが早く移動できると判断し、三人は間抜けなムカデ競争のような体勢で外を目指して進んでいく。
 
 外界と地下道を隔てているのは、金属製の上げ蓋だった。外部から屋敷への侵入を防ぐために、あえて分かりにくくカモフラージュしているのだろう。
 
 「よいしょっと。あれ、動きませんが」
 
 「そんなわけないでしょ。もっと力いれてくださいよ」
 
 久世はもう口だけで何もしない厄介者と化していた。
 
 「いやこれ重たいですよ。もしかしてまたロックされたんじゃないですか?」
 
 「そもそも鍵なんてついてませんから、ロックのしようもないはずなんです」
 
 「じゃあ経年劣化で錆びついて、動かなくなってるとか」
 
 松本が後方からそう言うと、久世がゆっくりと顔だけ振り向いた。
 
 「そんな事ってあるんですか」
 
 「金属って錆びついたら、まあ、そうなることもありますよ」
 
 
 足音が先ほどよりも大きくなった。まもなく森山が地下室に到達するはずだ。
 
 「いったん戻りましょう!ここでもたもたしてて追いつめられたら、袋のネズミですよ」
 
 岩井の合図で、四つん這いの姿勢のまま三人は後退した。
 
 幸いにして、地下室にはまだ森山は到着していなかった。
 
 とりあえず扉の前に木の箱やら段ボールやらを置いて、バリケードを作る。
 
 「さあて、どうしたもんですかな」
 
 「岩井さん、なんとかしてください!」
 
 久世が岩井の胸倉を掴んで揺さぶる。
 
 「なんとかって言われましても…」
 
 「あなた教授の経験もおありでしょ?その頭脳を使ってなにか出来ないんですか!」
 
 「勉学で悪魔は倒せませんよ。世の中そんな甘くはない」 
 
 「ていうかあなた殺し屋でしょ。どうやって普段殺してるんですか!」
 
 「やり方は色々ですな。例えば毒殺だったり」 
 
 「毒殺?」 
 
 「毒って案外簡単に作れるもんですよ。人体は皆さんが考えるよりも脆い。ちょいと細胞どもを混乱させてやれば、一気に瓦解してコロリと逝きますよ」
 
 松本は背後にある段ボールから漂う異臭に鼻を摘まんだ。
 
 「なんかこの箱の中からえぐい臭いがするんですけど、これ使って毒薬とか作れません?」
 
 岩井が段ボールの中身を検める。
 
 「ふーむ、いいものを見つけましたな。悪魔にきく毒薬があるかは知りませんが、試してみる価値はありそうです」
 
 
 かくして岩井特製の毒薬が完成した。
 
 毒といえば紫だったり緑のイメージだったが、出来上がったそれは透明だった。
 
 岩井は持参していた注射器を、毒薬で満たす。
 
 「こいつを首筋にブスリとやれば、普通の人間ならイチコロです」
 
 問題はどうやって森山に注射するかだ。人狼でさえ容易く返り討ちにしてしまう森山の動きを、どう封じればいいのだ。
 
 「それなら私に任せてください」
 
 役立たずと化していた久世が、久々に威厳に満ちた顔に戻った。
 
 森山が地下室の扉を開けて、中に入ってきた。松本と岩井は森山の背後を取れるように、段ボールの山に身を隠している。
 
 「お嬢様、ここにいらしたのですね」
 
 「地下室には入っちゃダメって言ったのに。まあいいわ。それより森山、あなたどうして…」
 
 久世は一拍置いてから言った。
 
 「どうして、悪魔に魂を売り渡してしまったの?」
 
 森山は主人からの問いに適切な答えを探そうと、顎に手を当ててしばらく黙り込んだ。
 
 「簡単な話です。お嬢様に害をなす全ての獣どもから、お守りするためですよ。もうあんな悲劇を二度と繰り返さないために」
 
 悲劇というのは、父に性的暴行を加えられそうになった時のことだろう。
 
 やはり森山は、久世への忠誠心のために人間ではない存在になることを自ら選んだのだ。久世を守るためには、並大抵の人間の力では不十分。どんな危険が彼女の身に迫るのか分かったものではない。北村のような優秀なSPを何人雇おうとも、プロの殺し屋相手では歯が立たない。
 
 久世が偶然見てしまったと言う、インドネシアの悪魔召喚の儀式を記した本。森山はその非現実的な力に頼るしかないほど、追い詰められていたのだろう。
 
 そうして誕生したのが、この悪魔なわけだ。
 
 「森山、もういいの。私、あなたに守ってもらわなくても大丈夫。だってもう大人よ。自分の身くらい自分で守れるわ」
 
 久世は森山に駆け寄り、ボロボロになった燕尾服を纏うその体を抱いた。
 
 「お嬢様…」
 
 森山は久世の細い体を抱き返す。その手つきは、歴史的価値のある芸術品に触れるみたく、恐る恐るといったふうに震えている。まるで触れれば壊してしまう、とでも思っているように。
 
 主人と執事の感動の抱擁は、約十秒続いた。
 
 そして久世の一言で、感動ムードはぶち壊された。
 
 「今だ!」
 
 それを合図に岩井が段ボールの陰から飛び出し、森山の首筋に注射器を突き刺した。
 
 

 注射器の中身はみるみる減っていった。透明の毒薬が、森山の血管に確かに注入されていく。
 
 「なにを…」
 
 言いかけて森山の膝が、ガクリと崩れた。
  
 「効いてますよ!悪魔にだって毒は有効なんだ!こりゃ世紀の大発見ですな!」 
 
 空になった注射器を高らかに掲げ、岩井は小躍りする。
 
 森山の額に青筋が浮かんだ。玉のような汗が噴き出す。
 
 「とっととずらかりましょう。これは即効性の毒ですが、もしかしたらすぐに回復されてしまうかもしれない。なんせ相手は悪魔ですからな。一瞬で免疫をつけるって可能性も否定できません」
 
 「森山、ごめんなさい。ごめんなさい」
 
 床にくずおれた森山を覗き込み、久世が涙を流しながらそう口にした。
 
 毒の回りは相当に速いらしく、森山はせき込んで体を折っている。
 
 逃げるなら今しかない。
 
 「逃げますよ、久世さん!」
 
 松本は久世の腕を引っ張る。
 
 うん、と小さく返事した久世は、子供みたいにしゃくりあげている。悪魔を屋敷から追放するためとはいえ、幼少期から連れ添った執事が死ぬのを、その目で見届けるのは残酷なことだ。
 
 「さようなら、森山。生まれ変わったら、今度は人間として生きてね」 
 
 久世はのたうち回る森山の頭にそっと手を置いた。
 
 それが過ちだった。
 
 森山の顎が下方向に割れて、ワニのように大きな口が開いた。
 
 「え…」
 
 久世の手首は、一瞬にして森山の口の中に収まった。食いちぎられたのだ。
 
 白磁のような久世の肌から、対照的に真っ赤な血が噴き出す。
 
 「ああああああああぁ!」
 
 久世の絶叫が地下室に響いた。
 
 「久世さん!」
 
 久世を助けようと駆け寄る松本の肩を、岩井が掴んだ。
 
 「あれと戦うつもりですか⁉どう見ても化け物ですよ!主人を食うなんて、もう手がつけられない!逃げるしかないんですよ!」
 
 数秒後、久世の絶叫が止まった。
 
 痛みが引いたのではない。頭ごと食われたのだ。
 
 誰もが目を奪われる美しい顔は、悪魔の腹の中に収まった。
 
 
 松本と岩井は必死に階段を駆け上がった。どうせ上に戻ったところで扉は動かないので逃げようがないのだが、あのまま地下室にいては久世と同じ運命を辿るだけだ。
 
 食事会の最初に案内された食堂へとひとまず戻り、席に腰を落ち着ける。体力には自信がある岩井でさえも、さすがに息が上がっていた。
 
 「ついに僕たち二人だけになりましたな」
 
 「岩井さんがいうと、なんだか嫌らしく聞こえます」
 
 「本当なら若い女の子と二人きりなんて最高のシチュエーションなんですが、残念なことに、この屋敷にはまだやつがおります」
 
 「あの悪魔、久世さんを食べるだなんて」
 
 「さっきの感動的な抱擁は一体なんだったんですかね。ドラマからいい感じの音楽が流れるタイミングでしたよ」
 
 「ぶち壊したのは岩井さんじゃないですか」
 
 「指示したのは久世さんです」
 
 「まあ毒は効いてたみたいですけども…」
 
 「いやあれ効いてるっていうんしょうか。久世さんを食べたときは随分と元気そうでしたが」
 
 「もしかして岩井さんの言う通り、すぐに回復したパターンじゃ?」 
 
 「だったらもう手の打ちようはありません。終わりです終わり。あと少しで年金もらえたのに、これまで収めてきた年金保険料がパーですよ。こんなことなら払わなければ良かった」
 
 自分が定年退職する頃には、年金の受給年齢がさらに引上げられているのではないか、と松本は考える。そもそも年金制度自体が崩壊しているかも。いや、それまで残り三十年と少し、生きているかも分からない。というか今日、このあとすぐ死ぬかもしれない。
 
 カツカツ。またあの足音だ。
 
 「来ましたな」
 
 「来ましたね」
 
 「どうするんです」
 
 「もう逃げ場もないですよ」
 
 「黒魔術でなんとかは…、ああ、ならないんでしたね」 
 
 「残念ですが」
 
 食堂の扉が開いた。そこにいたのは、森山であって森山では無かった。
 毒のせいか、眼球が片方抜け落ちている。整髪料できっちりと撫でつけていた頭髪は禿げあがり、ほとんどスキンヘッドだ。加齢による抜け毛への最後の抵抗を見せる六十代男性のように、わずかな髪の毛だけが残っている。
 
 その手には、久世の片足が握られていた。あれだけ無残に食い殺しておきながら、忠誠心の残滓でもあるのだろうか。最後まで久世が脱がなかったヒールが、その足にはまだ履かされていた。
 
 「辞世の句でも詠みますか」
 
 「五七五でしたっけ」 
 
 「辞世の句っていえば大抵は五七五七七でしょうよ。知らないんですか松本さん。秀吉やら石川五右衛門やらの辞世の句を」
 
 「知りません。俳句のほうが簡単じゃないですか」 
 
 「これだから最近の若い人は。僕の高校の生徒もまったく学がなくて困る」
 
 森山が一歩。また一歩と近づいてくる。
 
 死を覚悟して目を閉じた松本の脳裏に、昔読んだ黒魔術の書物が蘇ってきた。
 
 「あ、生贄捧げればなんとかなるかも」
 
 「はい?」
 
 「悪魔を召喚しちゃったら基本的にもう終わりなんですけど、人間一人を生贄に捧げれば、倒すことは出来なくてもあちらの世界に送り返すことは可能だと、本で読みました」
 
 「そうですか。ならば松本さんに犠牲になってもらうしかありませんな」
 
 岩井が松本に飛び掛かり、首を締め上げようとする。
 
 松本はドレスの裾をめくり、足に巻きつけてあったホルダーから銃を抜き、岩井の脇腹に銃口を押しあてた。
 
 「急所は外しますから、一発で死なないで下さいね」 
 
 引き金を引く。岩井の脇腹から、あまり綺麗とは言えない色の血液が流れ出した。
 
 
 
 脇腹に穴を開けられた岩井は、口から吐き出しながら松本を睨んだ。初老の割に、やはりタフだ。最初に会ったときにセンスがおかしいと感じた金色のネクタイの先に血が滲み、余計に変なカラーリングになっている。
 
 「な、なんで撃った。なんで!」
 
 「話聞いてなかったんですか?悪魔を送り返すには人間の生贄が必要だって言ったでしょ」
 
 「だから僕はあんたを半殺しにして生贄に捧げようと…」
 
 「私の首を絞めようとしましたよね。さすがにおじさんの動きくらい読めますって。身体能力には自信があるようでしたけど、所詮はサッカー部の顧問程度。球追っかけて蹴ってるだけじゃ、体は鍛えられませんよ」
 
 岩井がえずくたびに、床に広がる血の面積が広がっていく。このまま放置していては出血多量で死んでしまう。早いところ生贄に捧げる準備をしないと。
 
 悪魔召喚の時には魔法陣のようなものを地面に描くらしいが、帰ってもらう時にそれは必要ないと本で読んだ。必要なのは生贄だけ。活きがいいほうがいいらしいが、半分死にかけの初老の男性でも、まあ問題はないだろう。
 
 岩井の頭を掴んで、テーブルの上に仰向けに寝かせる。
 
 手順としては、生贄の四肢を釘がなにかで留めた状態で、呪文を唱えることで悪魔にお帰り頂けると記憶している。あいにく釘は持参していなかったが、藁人形の呪いを試した時に久世に用意してもらったものがある。一本でいいと伝えたが、久世が念には念を入れて予備の釘を五本入れてくれていたので、助かった。呪いが失敗した時点で無用の長物だったが、武器に使えるかもと持ってきて良かった。
 
 松本は釘を一本、まずは岩井の右手首に打ち付けた。
 
 「ぎゃああああああぁ!」
 
 岩井の絶叫がこだまする。年寄りでもこんな大声が出せるとは、大した肺活量だ。
 
 年相応に皮膚はたるんでおり、釘の先端は簡単に刺さった。これが久世だったり、筋肉質な北村だったらもっと苦労しただろう。最後に生き残ったのが岩井でラッキーだった。
 
 「ちょっとチクっとしますよ。我慢してくださいね」 
 
 二本目がずぶりと刺さる。
 
 「ぐぎいいいいいいぃ!」
 
 「若い子と最後にナースプレイが出来て良かったじゃないですか。はい、大好きなお注射ですよ」
 
 これまでの人生で最も痛かった注射は、仕事で海外に行った際に、現地の薄汚い病院で受けた予防接種だ。あの時の針は、冗談かと思うほどに太かった。血管何本分あるのかと、刺されるのがものすごく怖かった記憶がある。実際に看護師の腕も悪く、刺しては戻し、刺しては戻し、なかなか刺すべき場所が見つからないと、ヘラヘラ笑っていた。下手な看護師に注射器を扱わせるのは、全世界の法律で禁止にしてほしい。
 
 今の岩井はそれくらい痛いのだろうか。いや、血管とか関係なく刺しているので、痛いどころの騒ぎではないかもしれない。しかしこれでも気絶しないのが岩井のすごいところだ。普通なら痛みで気を失っていてもおかしくないのに、憎悪のこもった目で松本を睨みつけている。
 
 「このクソ女!悪魔!お前だけは許さん!」
 
 「悪魔を祓うために頑張ってるんでしょう。岩井さんはその材料なんですから、大人しくしててください。あんまり暴れると血がいっぱい出て、ほんとに死んじゃいますよ。そしたら困るの私じゃないですか。もうこの屋敷に生贄に出来そうな人間なんて…。ああ、まだメイドさんたちがいましたっけ。でもここまで来たんだし、もう岩井さんでいいです」
 
 三本目を右のふとももに打ち付ける。
 
 声にならない悲鳴が岩井の口から漏れた。
 
 打ち付けてみてちょっと緩いと感じたので、刺さった釘をぐいぐいと動かすとさらなる激痛が岩井を襲う。
 
 「手首よりも面積が広いので刺さりやすいと思ったんですけど、なんか足のほうが難しいですね。藁人形と同じ感覚ではダメか。ちょっと岩井さん、動かないでいてもらえます?ちゃんと固定しないと悪魔のほうも納得しないかもしれないんで」
 
 しつこく釘を打ち込み、ようやく三本目が固定された。
 
 ラストだ。四本目を残ったもう片方の太ももに打ち込んだ。
 
 岩井はまだ動いている。動いているが、それは意思を持って動いているというよりは、陸に打ち上げられた魚が、酸素を求めて跳ねているのに近い、本能的な動作だった。口を金魚のようにパクパクさせているのも、より魚っぽさが際立っている。よく見ると岩井の顔は、魚に似ているかもしれない。スーパーの鮮魚コーナーにいくたび、これから何度も思い出すことになりそうだ。ちょっと食欲が減退してしまう。
 
 最後の釘を打ち終えてもなお、岩井は生きていた。
 
 良かった。死なずにいてくれた。彼の生命力に感謝だ。
 
 もし岩井ではなく久世を生贄に使っていれば、四本の釘を打ち終えるまでに絶命していた可能性がある。しかし見た目としては久世のほうが生贄に相応しい。料理は見た目がまず大事だというし、いくら味がよくてもビジュアルが汚ければ、人間の脳はまずいと錯覚してしまうものだ。松本もタイに行ったとき、訳の分からない風貌の、虫かも肉かも不明な料理を食わされた。目を閉じて咀嚼すると、確かに味は悪くなかったのだが、どうにも見た目のせいで総合評価はマイナスだった。二度と食べたくない。
 
 ようやくこれで生贄が完成した。
 
 岩井の目は、もはや松本を見てはいない。白目を向いてしまっている。口からは泡を吹き、唇は小刻みに振動している。何かを伝えようとしているのか、たまに言葉を発しているような動きになるが、誰になにを伝えようと言うのだ。警察に通報することも無理だし、岩井に愛する家族がいたところで、もう彼を待っているのは生贄として捧げられる運命のみ。家族がこの姿を見たらさぞかし悲しむだろう。それとも、もはや人としての尊厳を奪われた姿に幻滅してしまうかもしれない。もしも松本に彼氏がいたとして、こんな姿で発見されたら、もう愛する自信はない。人は結局見た目だ。久世だってあんなに美しかったのに、今や片足しか残っておらず、生前の彼女の価値はもうどこにも存在しない。
 
 完成した生贄を前にして、テーブルに置かれたままのワインを飲む。結局これいくらだったんだろう。シャンパンの値段も分からずじまいだったが、あの食事会のメニューだけで会社員の給料が少なくとも三年分は飛びそうだ。
 
 松本が生贄を作る間、森山は大人しく待っていてくれた。自分のために調理をしているというのを理解していたのだろう。
 
 「お待たせしました。こちらお食事の、えーと、小汚いおっさんでございます」
 
 執事として働いてた時の森山がそうしていたみたいに、胸に片手を当てて慇懃な態度で出来上がった生贄を示した。
 
 森山はテーブルに近づく。手にはまだ久世の片足を持っている。まるで玩具を与えられた子供みたいに、それを肌身離さずずっと持っているつもりだろうか。
 
 生贄を食らう森山の所作は、とても美しいとは言えないものだった。獣のように顔を岩井の腹に突っ込み、人狼を食べたときみたいにガツガツと、そしてべちゃべちゃと汚い咀嚼音を立てている。ご飯を食べるときに咀嚼音が漏れる人は大嫌いだ。本人はそれに気づいていないことが多く、仮に注意されても止めないのが余計に質が悪い。
 
 そういえば夫の食事マナーが不快すぎるというだけの理由で、殺しの依頼をされたこともあった。離婚で済む話だと思ったが、どうも殺さなければ気が済まなかったらしい。夫婦関係というのは、いとも容易く崩れてしまうものだ。これだから独り身が一番なんだ。
 
 森山の食事シーンを後ろから眺めている間に、残りのワインを飲み干した。さすがにこれだけ飲むと、頭がクラクラする。だが仕事はもう終わったのだし、早めの打ち上げだと思えばそれでいい。
 
 岩井の原型がなくなったのは、それから約三十分後だった。案外ゆっくりと食事を楽しむタイプらしい。早食いは体に毒だというから、そのほうが健全だ。
 
 久世を食らったときに割れた顎はそのまま、相変わらずワニのようなサイズの口が開いたままだ。喉の奥までしっかり見えている。
 
 ごちそうさま、も何も言わずに森山は食堂を去った。
 
 
 松本はお手洗いを借りて血を洗い流したあと、玄関へと向かった。先ほどは押しても引いてもびくともしなかった扉は、いとも簡単に開いた。外の空気を吸うのは久しぶりな気がする。実際には三時間くらいしか経っていないと、空を見上げて分かった。まだ明るい。夕暮れ時ですらない。ドレスには不似合いだと思って腕時計はつけてこなかったが、まだおやつの時間くらいだと思われる。今日はおやつを食べ過ぎた。森山の生存を確認するために、無駄に二回ものティータイムを挟んだうえに、食事会の最後にもデザートが出てきたので、正直お腹いっぱいだ。コース料理というのはどうしてちょっとづつ出してくるのだろう。食事は庶民派の松本からすれば、最初から一気に出してほしい。好きなものを好きなタイミングでつまめるほうがいい。三角食べをしなさいと幼少の頃から教わってきたのに、コース料理では三角食べが出来ないではないか。
 
 「今日の晩御飯、どうしようかなあ」
 
 
 昼間は食べ過ぎたと思ったが、夜になれば案外お腹は空いてくるものだ。
 
 駅前の牛丼チェーンに入り、タブレットでメニューを見る。季節限定の商品がでかでかとオススメされているが、どうにも惹かれない。やっぱりスタンダードなものが一番だ。結局グランドメニューの中でも、最も王道の牛丼を注文した。並盛をタッチしかけたが、思い直して大盛にした。
 
 隣に座ってきた客は、若いサラリーマン風の男だった。上司から電話がかかってきたらしく、箸を止めて電話に出る。電話口で相手が怒鳴っているのが、松本の耳にまで聞こえてきた。
 
 通話を終えると、男は大きな溜息をついた。牛丼がほかほかと湯気を立てているのに、まったく箸をつけようとしない。早くしないと冷めてしまうではないか、と他人の牛丼の心配をする。
 
 「殺したい」
 
 男がそう言った。
 
 「あのクソ上司、殺してやりたい」
 
 はっきりと殺意を口にした。
 
 これも春先によく増える依頼だ。新卒で入った会社や転職先の上司が気に食わず、殺してやりたいと憎む。立場では自分が下なので強く言い返せないが、心の中にはどす黒い感情がうすまずいている。そういう人からの依頼が増える季節が、大体三月から四月。五月は五月で、いわゆる五月病というやつの患者が増える。鬱になると普通はふさぎこむものだが、なぜか殺人衝動に駆られる人も一定数存在する。なので五月も結構稼ぎ時だ。六月から九月にかけては閑散期と言える。常に誰かに恨みを持っている人間は世の中に溢れているので、多少暇になるくらいなものだが。
 
 十二月なんてそりゃもうすごい。彼氏に振られた。むかつくから殺してほしい。彼女に送ったプレゼントをフリマアプリに出品された。殺してほしいなど、愛憎渦巻く季節にも依頼は増える傾向にある。今年も年末にかけて忙しくなるだろう。今は十一月。繁忙期まであと残り一カ月か。
 
 そんな事を考えなが牛丼を摘まんでいると、隣の男性がまた言った。
 
 「殺したい!殺したい!死ね!」
 
 これは顧客獲得のチャンスかもしれない。会計を終えて機械から出てきたレシートの裏に、連絡先を書いて、男性の前に置いた。あいにく名刺は切らしていたので、手書きで申し訳ない。
 
 「これは?」
 
 「お兄さん随分お悩みみたいだから。私でよければ相談に乗るよ」 
 
 性的な商売の誘いだと勘違いしたのか、男性が警戒して身を引く。だとしたらもっと喜ぶべきではないのか。アラサー独身女からの誘いなんて、新卒サラリーマンからしたら垂涎ものだろう。女は三十を超えると一気に色っぽくなるというし、まもなく松本もその域に達そうとしてる。これが久世なら、サラリーマンは一瞬で落ちたのだろうか。
 
 「ああ、そんな怖がらないで。さっき殺したいって聞こえたからさ。これ私の連絡先。良ければ殺しの仕事、受けるから」
 
 食事のついでに営業をかけ、牛丼屋を出た。
 
 サラリーマンが松本の後を追って店から出てきた。
 
 「ほんとに殺してくれるんですか?」 
 
 「うんいいよ。今月はちょうど暇だったんだ」
 
 
 季節は十二月。十一月の間に受けた仕事は、例のサラリーマンの一件と、あと小さい仕事が三件の合計四つだった。
 
 サラリーマンの上司の殺害はとても簡単だった。なんなら黒魔術を使うまでもないレベルだったが、証拠を無駄に残すのも嫌なので、簡単な黒魔術で殺しておいた。久世家で使った青いグラスの呪いみたいな、誰でも出来る簡易的なものだ。黒魔術は本当にコスパのいい殺し方だとつくづく思う。
 
 岩井の普段の殺し方は最後までよく分からなかったが、あの時みたいに毒薬を注入するやり方も使っているのだろう。あんなの時間と手間がかかってしょうがない。あの時は久世と松本の協力があったからよかったものの、単独行動ならさらに面倒くさそうだ。
 
 そういえば教師がいきなり消えた岩井の勤務先では、どのような騒ぎになっているのだろう。ニュースを調べてみても、高校教師が失踪したという事件は報じられていない。もしや生贄として捧げたからだろうか。黒魔術で死んだ人の行方を警察が追えないのと同じで、悪魔に生贄として捧げられた人間の消息も、闇の中なのかもしれない。
 
 もちろん久世詩織の失踪は大体的に報じられていた。こういう時に美人は得だと思う。もし久世が不細工なお嬢様なら、世間はあまり注目しなかっただろう。ニュースで取り上げるにしても、見た目はいいほうがネタになる。ネットニュースの見出しにも、生前の久世の写真が使われていた。コメント欄には『こんな綺麗な人が死ぬなんて』『ご冥福をお祈りします』などの文章が溢れかえっている。
 
 関連記事にアイドルの死亡記事が出ていたが、そこに載っている顔写真は、お世辞にもかわいいとは言えないものだった。『これでアイドルとかマジ?』といった、死者への冒涜のコメントが多い。久世の記事とは大違いではないか。やっぱり世の中顔だな、と松本は思った。
 
 
 十二月は想像以上に忙しかった。

 例年のようにカップルの片割れを殺したり、大企業の会長殺しも依頼された。

 昼間の会社のほうも多忙で、松本は息をつく暇もない一カ月を過ごした。

 大晦日くらいはゆっくりしたいと、依頼を断ってこたつに入る。

 みかんを向いて、白い筋ごと食べた。ここが一番栄養があるとネットで見たことがある。
久世のニュースは十二月に入ると、あまり聞かなくなった。世間の興味というのは、すぐに移り変わるものだ。
 
 森山は無事にあっちの世界に帰ったのだろうか。最後まで久世の足を大事そうに持っていた森山。彼の忠誠心が本物であることは確かだった。好きだから。大事だからこそ食べてしまい、自分の一部にしたい。そんな気持ちが暴走したのかもしれないが、とんだカニバリズムだ。とても感動できるものではない。
 
 「あ、お酒なくなった。買いに行かないと」
 
 年越しには酒がなくてはいけない。パジャマから私服に着替えるのも面倒なので、上からコートを羽織っただらしない恰好でコンビニまで出かけた。
 
 東大阪の町工場の社長からの依頼で、ここで働く大澤を殺してから、スタッフの質は随分よくなった。大澤の接客態度は最低レベルで、とても接客と呼べるものではなかったが、今日の夜勤担当は明るい雰囲気の女の子だ。冷蔵ケースから缶チューハイ二本と、向かいのコーナーにあったおつまみ数種類を見繕ってレジに置く。
 
 「袋はご入用ですか?」と聞いてくる声もかわいらしい。
 
 「あ、お願いします」 
 
 チューハイ二本を両手に持って帰り道を歩くのは恥ずかしい。年末に出没したダメ人間みたいに思われてしまう。
 
 コンビニで会計を終え、かつて猫を殺した駐車場に腰を下ろした。なんだか夜空が見たい気分になったのだ。とはいっても、都会じゃあまり星は見えない。というか全然見えない。冬の大三角なんてものを小学校で習った気がするが、夏の大三角のほうが有名すぎて、どうしても脇役感が否めない。デネブ、アルタイル、ベガの存在感に比べて、冬の大三角を諳んじることの出来る人の少なさ。別に何の星座が冬の大三角なのか調べる気も起きず、そのまま何もない夜空を見上げた。
 
 「寒っ。もう帰ろ」
 
 尻についた土埃を払って立ち上がった時、誰かに腕を引っ張られた。
 
 見ると、そこには四歳くらいの小さな女の子がいた。お人形のようなかわいらしい見た目をしている。
 
 「どうしたのお嬢ちゃん、迷子?」
 
 目線を合わせて優しく声をかけると、女の子はこくりと頷いた。
 
 「お家はどこ?この近くなの?」
 
 「分かんない」
 
 女の子はそれだけ言った。大晦日に迷子とは、この子もとんだ災難だ。
 
 「お嬢ちゃん、お名前は?」
 
 「みお」
 
 どんな漢字を書くの、と聞きかけて、目の前の子が漢字など分かるわけないと思い直した。
 
 「みおちゃん、お母さんとお父さんは?いつから一人なの?」
 
 「お母さんもお父さんもいないの」
 
 ますます複雑な状況になってきた。家出かとも思ったが、両親がいないということは孤児か。近くに孤児院があって、そこから脱出してきたのかとスマホで近所の孤児院を検索したが、一件もヒットしない。最寄りでも十駅離れている。孤児院なんてそうそうある施設でもないか。スマホの電源を落とし、みおの手を引く。
 
 「それじゃあお巡りさんのところ行こうか。きっとお家に帰してくれるよ」
 
 「いや!」
 
 みおが首をぶんぶんと振った。
 
 聞き分けのない子供のように首を振る久世のことが思い出された。みおは本当に子供なので、これが自然なことであるが。
 
 「うーん、困ったな。どうしようか」
 
 「お姉ちゃんのお家、行く」
 
 「えっ、私の?これって女児誘拐にならないかな」
 
 本人の同意があったと説明しても、警察は納得しないだろう。殺しの仕事では警察と依頼主が癒着しているのでそれなりに取り計らってもらえるが、個人的に犯した犯罪については警察も容赦しない。普通に刑事罰として問われるのが松本の立場だ。
 
 しかし極寒の大晦日の夜に、みおを一人で放置して帰るわけにもいかないし、警察には行かないと頑固だ。しかたなくいったん自宅に連れ帰ることにした。
 
 こたつに入ったみおは、先ほどまでの緊張感に溢れる表情を解き、ふにゃりとした笑顔になった。こうして笑うと、本当に作り物みたいに愛らしい。
 
 みかんを剥いてあげると、白い部分を取り除き始めたので、そこも栄養があるんだから食べないと、と注意した。みおは少し不満げだったが、大人しく白い筋ごと口に入れた。もし自分に娘がいればこんなふうだったのかと、決して実現しえない未来を想像してしまった。
 
 
 みおと過ごした年越しは、大人になってから初めて楽しいと思えた日になった。一緒にカウントダウンをして、ハッピーニューイヤーと祝う。初詣に出かけておみくじを引き、松本だけが大吉でみおが凶だったので、おみくじを交換したあげた。果たして交換して意味があるのか不明だが、神様もその辺は考慮してくれるだろう。
 
 凶のおみくじには、ろくなことが書いていなかった。待ち人は来ないし、仕事運もない。金運も上がらなければ、健康面でもなにか悪いことが起きると言う。これまで散々人を殺してきた報いだと受け入れればそれまでだが、どうにも新年のスタートがいい気分で切れない。
 
 みおと一緒に屋台を回り、りんご飴や綿菓子を買い与えた。祭りで食べるお菓子はどれも美味しいと思えないのだが、みおは喜んで食べているのでよしとしよう。
 
 ヨーヨー釣りや金魚すくいにもチャレンジした。松本が全神経を集中させて本気でやれば、おそらくすべてのヨーヨーや金魚を取りつくしてしまうので、遠慮して三匹くらいにしてやった。
 
 しかし射的屋では本能が勝ってしまい、全ての的を倒して屋台の親父から怒鳴り散らされた。
 
 「おじさん怒ってたね」
 
 「ね、なんでだろうね」
 
 
 みおとの生活が続き、春になるころには、彼女が所在のない子供だということを忘れかけていた。
 
 もうこの子はウチの子にしていいんじゃないか、とさえ思ったが、きっとどこかにみおの帰りを待っている人がいる。だが警察に行こうとすると、「いや!」と言うので困る。
 
 みおを養うために、高額の依頼を積極的に受けるようになった。殺しの難易度は確かに上がったが、黒魔術を使えばそう難しい話でもない。黒魔術に耐性を持っている人間などいないので、材料さえ揃えばあとは呪いをかけるだけ。本人の毛髪や爪が必要な時が少し骨が折れるくらいだ。
 
 「さらは、お仕事なにしてるの?」
 
 あまり聞かれたくなかった質問が、ついにやってきた。まさか殺し屋というわけにはいかないので、昼間に務めている会社のホームページを見せて、ここで働いてるんだよ、とだけ言っておいた。嘘は言っていない。社会保険だってここで入っているし。
 
 「みおは将来、なにになりたいの?」 
 
 「うーん、お嫁さん!」
 
 子供らしいかわいい答えだ。松本は幼少期にそんな夢を抱いた事はなかったが、お嫁さんになるというのは女の子の憧れなのだろう。ウェディングドレスを着た将来のみおは、さぞかし美しいに違いない。その頃は自分はもう五十代かと考えると、一気に嫌な気分になった。
 
 松本はあの事件以来、久世の件について続報がないかを頻繁に調べていた。
 
 警察の捜査が進んだと言う話は聞かない。悪魔に食われたお嬢様の行方は、誰も分からないのか。
 
 松本のスマホ画面を覗き込んでいたみおが、久世の写真を指さして言った。
 
 「おかあさん!」
 
 「えっ?」
 
 「おかあさん」
 
 「おかあさんって、この人が?」
 
 「うん、この人がみおのおかあさん」 
 
 母親はいないと言っていたはずだ。それに久世が母というのは、何かの間違いだろう。
 
 「きっと似てるだけの別人じゃいかな?この人は、そう、みおのお母さんじゃないよ」
 
 「ううん、おかあさん」 
 
 何を言ってもみおは譲らない。
 
 仕方がないので、話を合わせておくことにした。
 
 
 みおは成長して六歳になった。やはり美人の家系に生まれた子のようで、みるみる綺麗になっていく。
 
 久世に似ている。松本はみおの顔を見るたびにそう思った。
 
 あの時みおが、久世のことをお母さんと呼んだことが、ずっと気にかかっていた。
 
 まさか久世に子供が?食事会の時は妊娠している様子は無かったし、仮に子供を宿していたとしても、悪魔に食われたではないか。みおがこの世に生を受けるはずがない。 
 
 あるいは食事会以前にすでに生まれていたとか。
 
 どちらにしても、血縁関係がないと断定できないほどに、みおと久世の顔は似ていた。
 
 だとすれば、父親は誰なんだ?松本は考えた。 
 
 久世は中学生のときに、父親から性的暴行を受けかけた。だがそれは未遂に終わったはずだ。森山が助けたのだから。
 
 だがもし森山が父を殺す以前に、すでに久世と父が交わっていたとすれば…。 
 
 みおは近親相姦で生まれた子ということになる。
 
 久世の父の姿は見たことがないが、彼女の話では見た目はそこそこ悪くなかったらしい。だとすれば美人の遺伝子と美男の遺伝子が、遺伝子のエラーを起こしやすい近親相姦の壁を超えて、みおという可憐な少女を誕生させた可能性もある。
 
 考えれば考えるほどに吐き気がしてきた。人形のように見えていたみおの顔も、気持ち悪く感じてくる。これまで三年間を一緒に過ごしてきたみおにそんな感情を抱くのは間違っているのは分かっている。
 
 なんとか考えないようにして、疑念を心の中に押し込めた。
 
 
 みおは七歳の誕生日を迎えた。一年前と比べて、やはり久世に似てきている。長い睫毛も、小さな口も。そして教えてもいないのに、優雅な所作になってきている。まるで久世の魂が乗り移っているかのようだ。お嬢様として育てたはずもないのに、どこでそんな所作を身に着けてきたのだろうか。
 
 そしてたまに感情を昂らせて、激高するのもそっくりだ。苦手な野菜を食べさせようとすると、「いい加減にして!」と机を叩いて部屋を出ていく。岩井に執事殺しを断られかけた時と似ている。
 
 小学校でもみおは男子生徒から大変にもてるらしく、毎日のように贈り物やラブレターをもらって帰ってくる。今時ラブレターなんて古風な、と思ったが、そこに認められた文章は、小学生が書いたとは思えない情熱が込められていた。最近の子供もなかなかやるな、と感心する。
 
 休日になると、みおがどこかへ遊びに行きたいと言い出した。
 
 「どこに行きたいの?」
 
 「ショッピングモール!」
 
 みおはなぜかショッピングモールによく行きたがる。別に遠くも無いので、二人で歩いてモールに行くと、フードコートやアパレルショップで目を輝かせてはしゃでいる。家出をした久世も、あの時こんな気分で楽しんでいたのだろうか。
 
 どうしてみおの行動一つ一つに久世の姿を重ね合わせてしまう自分がいた。
 
 もう帰ろうかという時、みおが「猫カフェに行きたい」と言い出した。
 
 前に二人でネット動画を見ていて、偶然猫カフェの公式アカウントが上げている動画を見つけた。スタッフとじゃれあう猫の姿に、みおは大興奮していた。
 
 「いいよ、近くにあるみたいだし、行こうか」
 
 予約不要と書いてあったので、そのまま徒歩で店に向かう。
 
 店内には十匹の猫がおり、看板猫は大変な人気だった。客がこぞって動画を撮っている。松本のところには猫が全然寄ってこない。仲間を殺した女だと思われているのだろうか。あれはノラ猫じゃないか。お前たちの仲間じゃない、と、空しくねこじゃらしを一人で振る。
 
 一方でみおの元へは、たくさんの猫がにゃあにゃあ言いながら寄って行った。体にマタタビでもつけているのか、と疑いたくなる。猫じゃらしには目もくれず、みおの膝に、我先にと猫たちが乗っていく。
 
 「いいなあ、みおのほうばっかり」
 
 「さらは猫ちゃんに嫌われてるね」
 
 ストレートに言われると傷つく。
 
 たまに猫が目の前を素通りしていくので、そのタイミングを狙って背中を撫でるのだが、まるで無視だ。触られた事実などないかのように、涼し気な顔でスルーされる。
 
 「そろそろ帰ろうか」
 
 猫とじゃれているみおに声をかけると、「嫌!」といつもの駄々っ子が発動する。
 
 「もう、わがまま言わない。ここ二時間制なんだから」
 
 みおの腕を掴んで立たせた瞬間、彼女の顎先が割れた。下方向に、ぱっくりと割れた。
 
 「え」
 
 そしてワニのような大きな口で、抱いていた看板ネコの頭をがぶり。
 
 もうそこには愛らしい看板ネコの姿は無かった。
 
 
 悪魔。
 
 あの時見た森山と同じだ。
 
 松本は確信した。みおは久世と父親の子じゃない。久世と森山の子だ。
 
 食事会の日、森山は久世を食らった。体内に取り込んだ。
 
 あれで久世は死んだかと思ったが、違ったのだ。
 
 悪魔の中で、久世と森山は合体した。一緒になった。交配したのだ。
 
 そうして新たな命が生み落とされた。
 
 それがみおだ。
 
 お母さん、と久世を呼んでいた意味が今分かった。あれは嘘でも妄想でもない。久世はみおの母親だ。
 
 悪魔と人間の間に生まれた子。それがみお。
 
 みおは他の猫も次々に食っていった。猫カフェの店員も食われた。頭からがぶりと食いちぎられた店員もいれば、下半身だけ無くした店員もいる。
 
 悪魔をこの世界から追放するには、生贄しかない。食事会で岩井を生贄として捧げたシーンが脳裏に蘇る。
 
 誰か、誰か生贄を。
 
 店内を見回したが、生きている人間は一人もいなかった。見事に全員、食らいつくされていた。
 松本は足元にふわりとした感触を覚えた。みおの攻撃から生き残った最後の一匹の猫が、恐怖に震えながら松本にすり寄っている。さっきは愛想がなかったくせに、都合のいい猫だ。
 
 松本は猫の頭を撫でて、そして掴んだ。力いっぱい掴んだ。
 
 ふぎゃあ、と猫が悲鳴を上げる。
 
 釘は持っていない。だが刺さればなんでもいい。
 
 店員の死体のエプロンから、ボールペンを抜き出した。赤に黒、青と三色ある。あと一本足りない。
 
 そこで松本は、ジーンズの尻ポケットにペンが一本入っているのを思い出した。
 
 先日みおが学校でもらったというボールペンを、一本くれたのだ。ジーンズはあまり洗濯しないので、その時に尻ポケットに突っ込んだまま、今日までずっと履いていた。
 
 四本のボールペンを、猫の四肢に刺す。生贄の完成だ。
 
 このレベル生贄で満足してくれるのか分からない。
 
 松本は恐怖で目を閉じ、数秒待った。なにも音がしない。
 
 薄く目を開けると、猫は死んでいた。
 
 生贄ではなくなっていた。
 
 顔を上げると、みおが大口を開けていた。
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