蜜柑色の希望

蠍原 蠍

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蜜柑色の彼と色褪せた世界

居場所は此処では無い ※修正済み

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 教室の一番後ろの窓際から二つ目、そこが僕の席だ。硬い木の椅子。教室に響くクラスメイトの友人同士で賑わう声。教室内の人だかりの匂い。その全てが馴染みが無い物ばかりで僕は机に額を擦り付けるように顔を突っ伏した。そうすると、木だかニスだか、様々な物が混ざった匂いが鼻腔内に広がる。
 
 やはり、馴染みがない。今、現在、五感に感じる全ての感覚に馴染みがなくて、此処は自分の居場所ではない気持ちが膨らんでくる。そんな感情を落ち着けるように、深く息を吐いて、何となしに顔を左側に傾けると、机の上に放り出してあった自分自身の手が目に映る。
 親や僕を指導してくれた先生に手入れを怠るなと散々言われてきた、その自身の指に一つささくれを見つけた。
 傷や怪我をしないように細心の注意をして、ハンドクリームなどもつけてきたその指にささくれがあるのはとても珍しい事であった。一瞬、積年の癖で激しい焦燥に駆られて、身体がピクリと身じろいだが、直ぐに身体から力が抜けて上半身を机に預けた。
 僕は馬鹿だ、焦る事なんて無かったのに、と失笑のような息が漏れる。
 
 薄く目を開いた。特に何か理由があった訳ではない。自分の手の向こう側、僕の席の左隣の人物と目があう。
 
 蜜柑色の髪が印象的だった。
 柑橘類の粒が光を受けて輝くように煌めいている髪、それが清潔に短く切り揃えられている。
 その髪なら、視線を下げその顔を見ると、そこには目鼻立ちが大きく整っていて、顎などは程よく頑健なのに対し目元は垂れているのが厳つさを和らげている、好青年とはこういう人物を指すのだと体現したかのような印象を持たせる青年がそこにいた。
 でも、顔見知りではなく名前は、知らない。
 
「……何?」
「…いや、具合悪りぃのかなって」
 
 いきなり不躾にジロジロと見られて良い気分はしない為、何か用なのか問う。
 すると少し目を丸くして、机に頬杖をついて話しかけてきた彼が、いきなり立ち上がり僕の横へと立つ。聳え立つ木のような圧迫感だ。座っていたから分からなかったがとても身長が高く側にきた彼を見上げると首が痛くなりそうだった。
 しかし、それよりも僕の目を引いたのが野球のグローブを彷彿とさせるような、手の大きさだ。
 
「…手、大きいね」
「手……?ああ、よく言われる…俺、バスケやってんだけど、メンバー達もそういってくるな」
「…そう」
 
 ふしくれだっていて、指がしなやかで長い。良い指をしている。僕はつい、人の顔より指を見てしまう。幼い頃からの癖だった。
 バスケか、僕はあまりスポーツをする事も見る事もないから馴染みは無い。だからあまりよく分からないけれど、手の大きさが大事な要素だというのは、然程詳しくなくとも何となく理解できた。
 でも僕は、それが何かすごく勿体無い気がしてしまう。だって、これだけ大きい手ならそれだけ広く鍵盤を抑えることができる。それだけ曲に対して出来る事が広がって、その曲に対してしてあげれる事が多くなる。曲に対してのアプローチや選択肢が広がれば、それだけその曲を表現する方法は増える。
 
「…………」
「そういう黒瀬は綺麗な手をしてんだな、指、細くて長くてなんか、すげぇ」
「…それはどうも」
 
 彼の大きく垂れた人好きのする目が僕の手に視線を移したのが分かった。その視線から逃げるように僕は手を机の下へと隠すと彼の視線が僕の手を追っていた為、話を逸らしたくて、先ほどの発言で僕は疑問に思った事を口にした。
 
「僕の名前、よく知ってるね」
「あぁ、お前の事知ってる」
「………そう、なの?」
「あぁ、お前、黒瀬光だろ?」
 
 天才ピアニストの、とそこまで言われた瞬間、僕は勢いよく立ち上がる。ガタン、と椅子が弾かれたひどい音が教室内に響き渡った。
 
 そんな事を、僕は気にする余裕は無かった。そんな話されたく無かったし、したく無かったのだ。僕は、目を見開く彼の顔から勢いよく顔を背け、大股で教室の外に向かう。
 すると、周りのクラスメイトの一部が顔を上げて此方に注目したが、僕は気にせずに教室のドアへと向かう。
 
「えー、芦家どしたん」
「亮介、大丈夫?」
「なしたのー?」
 
 教室から出ていく時に耳にしたのは、男女問わない声色だった。
 入学当初だというのに、彼を気遣う幾多の声は、僕には馴染みのない誰一人としてよく知らない人達の声だった。当たり前だ、僕は最近まで、この地域どころか日本国内に住んでいた訳でも無かったのだから。荒れた心はそんな当然の事実にささくれ立つかのようであった。
 
「大丈夫大丈夫!何でもないよ」
 
 優しげに答える声が、背後に聞こえてきて僕はその声から逃れるように、長い廊下を一直線に歩く。直後、視界が滲むのを堪えながら、程なくしてあったトイレの中に勢いよく入った瞬間、ポロポロと涙が流れる。一瞬こんな姿を誰かに見られたらと焦燥に駆られたが、幸いな事にそのトイレには誰も人が居らず、人がいなかった事に安堵をして、手の甲で目元を擦る。
 
 どうして、こんな事になってしまったのだろう。小さな声が確かに心の内でそう訴えていて、僕はもう一度、涙を拭う。
 
 マイク、ダニエル、アメリー…、ジネット先生…。共に切磋琢磨してきた音楽院の仲間達とずっと幼い頃から指導してくれた先生の事を脳裏に思い浮かべると目の奥が、更に熱くなる。
 どうして、ここは僕の居場所じゃないのにここに居るのだろうと、彼等と共にピアノを練習した時の事を思い出して、腕をギュッと、キツく握りしめた。
 質素な洗面台に映った僕の手が血の気が無くなる程真っ白になっている様子を見て、手を痛めないようにしなければ、と根付いてる癖に逆らうように僕は更に力を込めた。
 もう指を大事にする意味なんて無いのだからと、一瞬痙攣を起こす程強く握ったその手の感覚に唇を噛み締め、漏れる嗚咽を飲み込んだ。
 しかし、それでも尚、耐えきれず涙が流れるのが嫌だった。
 少し前…、二年前までこんな事が起こるなんて思ってもみなかった。
 毎日毎日、眠る時以外はピアノを触って弾いてこの身を任せるように、音楽に触れていた。僕の目の前にあったのは、ずっと音楽だったのに。今、この場にあるのは嗅ぎ慣れないニスの匂い。そして僕が日本人だからと言って音楽院のクラスメイトが見せてきた日本のアニメーションに出てくるような、今まで話をしたことも無いような人間ばかりだ。
 
 その事実に、感情が憤怒とも哀傷とも辛酸とも悔恨とも言い切れない感情が昂るのを抑えるように手をキツく握りしめていたけど、それに呼応するように、ピクリピクリと痙攣の波が腕に襲ってくるのから、感情のままに叫び出したくなった。
 しかし、流石にそんな事は出来なくて僕は、深く息を吐く。
 落ち着けと、目の前の鏡に映る自分に小声で言い聞かせる。
 これから、僕は此処で生きていかなければいけないんだからと、そう思うと目の前に膜が張ったかのように、自分自身の顔が霞んで見えた。
 でもその事により少しだけ、叫び出したい程の感情はなりを潜めたので、もう一度息を吐いて、洗面器に腕をついて俯く。
 
 その時、何故か、先程の蜜柑色の頭髪を持つ彼を思い出した。
 別に、彼が何か悪い事をした訳では無かったのは分かっていた。彼は特別悪いことなどしていない。けれど、勝手にもう彼とは話したく無いな、と思ってしまった。
 昔、これがジャパニーズせいしゅんなんだよ?なんて言われながら、音楽院ほクラスメイトに見せられたアニメに出てくる主人公に何処か似ている彼に苦手意識を持ってしまった。
 あまり、自分から関わるのは止そうと思いながら、僕は顔を上げると鏡に写った僕は目を見開かれる。
 その僕の後ろに、先程の美柑色の頭髪の彼が居たからだ。僕は咄嗟に振り返った。
 すると、目を瞬かせた彼と目が合った。
 
「何で…泣いてんの?」
「……何で此処に」
「具合悪そうだったし、大丈夫かなと思って…」
「…そう」
「…泣いてたのって俺のせい?」
 
「それならごめん」と、そう言われた瞬間、なりを潜めていた激情が全身を駆け巡り、このままでは本当に叫び出してしまいそうな激情に支配されそうで、僕は彼を押し退けてトイレの外に出ようとしたが、それは叶わずに身体がつまづいた。それは、彼の大きな掌で腕を掴まれたせいだ。
 
「指、そんなに握りしめない方がいいぞ」
「…ッ」
「折角、綺麗な指なのに」
 
 大事にしてるんだろと、そう言われた瞬間、僕は身長が高い彼を眉を顰めて睨みつける。一体全体なんだというんだ。何も知らない癖に、ヅケヅケと好きな事を言ってきて、腹が立った。ゾワリと髪の毛が逆立つ。

「関係ないだろ!」
「…確かに、関係はないけど」
「じゃあ僕にもう二度と!関わらないでくれ!!君には関係ない!!」
 
 声を張り上げると、それに驚いたかのように目を瞬かせている彼を尻目にそのトイレから勢いよく飛び出して教室へと向かう。
 入学早々、最悪なスタートを切り出した、日本での初めての学生生活。
 夢も希望も絶たれた先のこの場所で僕は肩を落として引きずるように歩き出し、目にする全てが色褪せて見えたが、それはもうどうでもいいからこの一日が早く終わってくれと、そう思った。
 
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