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第1話 契約妻として、狐王の城へ
しおりを挟む狐族の王は、人間を嫌う。
それはこの国では子どもでも知っている常識だった。
だからこそ、紗夜は自分の名が呼ばれた瞬間、すべてを悟った。
「……紗夜。おまえに、狐族への婚姻を命じる」
村長の声は震えていた。集会所に集められた村人たちは、誰一人として紗夜の目を見ようとしない。
あやかしとの盟約――とりわけ狐族との均衡は、この辺境の村が存続するための“命綱”だった。
そして今、狐族の王が「形式上の妻」を求めている。
それが、紗夜だった。
「……承知しました」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
恐怖がなかったわけではない。ただ、拒めば誰が代わりになるのか、考えるまでもなかったから。
そうして数日後。
紗夜は、狐族の城へと連れられた。
山奥に佇むその城は、白と金を基調とした荘厳な造りで、人の住処というより“神域”に近い。足を踏み入れた瞬間、空気が変わったのがわかった。
――見られている。
視線ではない。もっと、根源的な何か。
心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえた。
「人間か」
低く、澄んだ声。
玉座に座っていたのは、噂に違わぬ狐王だった。
長い白銀の髪、頭上にはふさりとした狐耳。金色の瞳が、感情を削ぎ落としたような冷たさで紗夜を映す。
「紗夜と申します。……本日より、契約妻として参りました」
深く頭を下げると、しばし沈黙が落ちた。
「契約内容は理解しているな」
「はい。形式上の婚姻であり、感情的な関与は不要。期限が来れば、離縁される……と」
「その通りだ」
狐王は立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってくる。
距離が縮まるにつれ、紗夜は息を詰めた。
――近い。
それだけで、何かをされるわけでもないのに、肌が熱を持つ。
狐王は紗夜の前で足を止め、ふっと鼻先をわずかに動かした。
一瞬。
金の瞳が、ほんの僅かに揺れた気がした。
「……妙だな」
「え……?」
「いや」
狐王はそれ以上何も言わず、視線を逸らす。
「感情など不要だ。互いに役目を果たすだけでいい」
淡々と告げられた言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
それでも紗夜は、頷く。
「はい。ご迷惑はおかけしません」
「そうであることを願う」
その夜、用意された部屋は驚くほど立派だった。
柔らかな寝具、温かい食事、侍女たちの丁寧な態度。
――契約妻。
それだけの存在なのに。
戸惑いながらも床に就こうとした、その時。
控えめなノック音が響いた。
「……入れ」
扉の向こうから聞こえたのは、あの低い声だった。
狐王は部屋に入ると、無言で近づいてくる。
そして、紗夜の手首を取った。
「っ……!」
強くはない。ただ、逃げられない距離。
「動くな」
耳元で囁かれ、背筋がぞくりとする。
狐王は再び、鼻先を寄せ――深く息を吸った。
「……やはり、妙だ」
「お、王……?」
問うても、答えはない。
代わりに、彼の尾が、ふわりと紗夜の腰に触れた。
温かく、柔らかく――絡め取るように。
「今日は、それだけだ」
そう言って、狐王はすぐに手を離した。
「忘れるな。これは契約だ」
扉が閉まる。
一人残された紗夜は、しばらく動けずにいた。
胸が、早鐘のように鳴っている。
そして不思議なことに――恐怖よりも、別の感情が残っていた。
(……本当に、契約だけなの?)
その夜。
狐王は自室で、己の手を見つめていた。
――人間の匂いなど、不快なはずだった。
なのに、あの少女の気配が、まだ鼻に残って離れない。
「……厄介だ」
呟いた声は、誰にも届かない。
契約結婚。
そのはずだった。
だがこの時すでに、狐王は気づいていなかった。
“番”の匂いを、逃してしまったことに。
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