3 / 9
第3話 壊れた距離
しおりを挟む噂というものは、意思を持たないくせに、やけに執拗だ。
廊下を歩けば、視線が集まる。
声を潜めた囁きが、背中に絡みつく。
――悪女。
――王太子を手玉に取った女。
――冷酷で、情のない公爵令嬢。
リュシエンヌ・アルヴェールは、歩調を乱さず進んでいた。
その表情は穏やかで、凛としている。
まるで、すべてを想定済みだと言わんばかりに。
(平気)
そう言い聞かせるのは、もはや癖だった。
痛みを感じないわけではない。
ただ、立ち止まらないと決めただけだ。
王城の奥、人気の少ない回廊。
そこで彼女は、不意に呼び止められた。
「……リュシエンヌ」
聞き慣れた声に、胸がわずかに揺れる。
それでも振り向いた時、浮かべたのは社交用の微笑だった。
「何か?」
カイルは、少しだけ痩せたように見えた。
剣を握る手には、無意識の力がこもっている。
「話がある」
「公の場で?」
「……二人きりで」
一瞬の沈黙。
リュシエンヌは、周囲を見回し、小さく息を吐いた。
「短くしてちょうだい」
距離を取ったまま、彼女は足を止める。
「どうして、誰にも理由を言わない」
開口一番、カイルはそう切り出した。
「私には、言う義務がないからよ」
「俺は――」
言葉が詰まる。
彼は一度、拳を握りしめてから続けた。
「俺は、親友だろ」
その一言が、胸を強く打った。
親友。
守るために選んだ言葉。
そして、最も距離を取れる言葉。
「……そうね」
肯定したのは、ほんの一瞬の躊躇の後だった。
「だからこそ、踏み込まないで」
「それは逃げだ」
低い声だった。
「俺が納得できないのは、お前が悪女だと思えないからだ」
リュシエンヌの瞳が、わずかに揺れる。
「皆はそう言っているわ」
「皆じゃない。俺が、だ」
言い切る声。
真っ直ぐすぎて、彼女は目を逸らした。
「あなたは優しすぎるの」
「違う」
即座に否定され、彼女は驚いたように彼を見る。
「俺は、お前のことを知っている」
その言葉は、嬉しくもあり、恐ろしくもあった。
(それ以上、知ってはいけない)
彼が踏み込めば、守ってきたものが崩れる。
「知ったつもりでいないで」
リュシエンヌの声は、意図的に冷たくなった。
「私は、自分の意思で婚約を捨てた。それだけよ」
「……誰かのためじゃないのか」
一瞬、時間が止まったように感じた。
彼は、核心に触れようとしている。
「仮にそうだとしても」
彼女は、静かに微笑んだ。
「あなたには関係ないわ」
その言葉が、刃となってカイルの表情を歪めた。
「……そうか」
一歩、彼が距離を詰める。
「なら聞く」
声が震えている。
「俺は、お前にとって何なんだ」
空気が張りつめる。
答えは、最初から決まっていた。
決めていたはずだった。
「親友よ」
はっきりと、そう言った。
「それ以上でも、それ以下でもない」
沈黙。
カイルの視線が、ゆっくりと伏せられる。
「……分かった」
その声は、驚くほど静かだった。
「もう、聞かない」
彼は一歩下がり、距離を取る。
「これ以上、お前が望まないなら」
背を向ける前に、ほんの一瞬だけ振り返った。
「……でもな」
その瞳に宿っていたのは、怒りでも悲しみでもない。
諦めだった。
「その言葉、いつか後悔するかもしれないぞ」
そう言い残し、彼は去っていった。
その背中が、やけに遠く感じられる。
リュシエンヌは、しばらくその場から動けなかった。
胸が痛い。
息が浅い。
(これでいい)
何度も、何度も自分に言い聞かせる。
距離ができたなら、守れる。
嫌われたなら、彼は自由になれる。
それが、彼女の選んだ答えだった。
その夜、リュシエンヌは一人、部屋で蝋燭を消した。
暗闇の中で、初めて微笑を捨てる。
「……ごめんなさい」
誰にも届かない声。
同じ頃、カイルは剣を壁に立てかけ、天井を見つめていた。
親友という言葉が、胸に重く沈んでいる。
(壊れたのは、いつからだ)
分からない。
けれど確かなのは、もう以前の距離には戻れないということ。
そしてその原因が、彼女の冷たさではなく、
自分の未熟さにある気がしてならなかった。
二人の間に横たわる距離は、
言葉よりも、沈黙によって決定的なものとなっていた。
113
あなたにおすすめの小説
真実の愛には敵いませんもの
あんど もあ
ファンタジー
縁談の相手に「自分には真実の愛の相手がいる」と言われて破談になってしまった私。友人達に聞いてもらって笑い飛ばしてもらいましょう!、と思ったのですが、話は予想外に広まってしまい……。
私は愛する人と結婚できなくなったのに、あなたが結婚できると思うの?
あんど もあ
ファンタジー
妹の画策で、第一王子との婚約を解消することになったレイア。
理由は姉への嫌がらせだとしても、妹は王子の結婚を妨害したのだ。
レイアは妹への処罰を伝える。
「あなたも婚約解消しなさい」
婚約者の心変わり? 〜愛する人ができて幸せになれると思っていました〜
冬野月子
恋愛
侯爵令嬢ルイーズは、婚約者であるジュノー大公国の太子アレクサンドが最近とある子爵令嬢と親しくしていることに悩んでいた。
そんなある時、ルイーズの乗った馬車が襲われてしまう。
死を覚悟した前に現れたのは婚約者とよく似た男で、彼に拐われたルイーズは……
妹の初恋は私の婚約者
あんど もあ
ファンタジー
卒業パーティーで、第一王子から婚約破棄を宣言されたカミーユ。王子が選んだのは、カミーユの妹ジョフロアだった。だが、ジョフロアには王子との婚約が許されない秘密があった。
あなたの幸せを祈ってる
あんど もあ
ファンタジー
ルイーゼは、双子の妹ローゼリアが病弱に生まれたために、「お前は丈夫だから」と15年間あらゆる事を我慢させられて来た。……のだが、本人は我慢させられていると言う自覚が全く無い。とうとう我慢のしすぎで命の危機となってしまい、意図せぬざまぁを招くのだった。
ドアマットだと自覚してないドアマット令嬢のお話。
『お前を愛する事はない』なんて言ってないでしょうね?
あんど もあ
ファンタジー
政略結婚で妻を娶った息子に、母親は穏やかに、だが厳しく訊ねる。
「『お前を愛する事は無い』なんて言ってないでしょうね?」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる