悪女と呼ばれた令嬢は、親友の幸せのために婚約者を捨てた

由香

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第5話 悪女の仮面

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 扉を開けた瞬間、夜の冷気とともに、張りつめた空気が流れ込んできた。

「……どうして、ここに」

 リュシエンヌは、わずかに声を震わせながら問いかけた。

 廊下に立っていたのは、カイルだった。
 乱れた呼吸。
 剣も外套も、そのまま。

 今まで見たことのないほど、必死な表情。

「話をさせてくれ」

「今は――」

「逃げないでくれ」

 その一言が、彼女の足を止めた。

 扉を閉めると、二人きりの空間に、沈黙が落ちる。
 蝋燭の火が揺れ、壁に影を映した。

「……理由なら、もう言ったはずよ」

 リュシエンヌは、距離を取るように一歩下がる。

「私の意思。それ以上でも、それ以下でもない」

「違う」

 即座に、カイルは否定した。

「それは、お前が一人で背負うための言葉だ」

 彼は、ゆっくりと息を吸う。

「全部、聞いた」

 心臓が、嫌な音を立てた。

「王太子のこと。伯爵令嬢のこと。……俺を守るために、お前が悪女になったことも」

 言葉を失う。

 最も知られたくなかった真実だった。

「……誰から」

「誰でもいいだろ」

 カイルは、苦しそうに眉を歪めた。

「問題は、俺が何も知らずに、お前を追い詰めたことだ」

 彼女は、唇を噛みしめる。

「それでも……必要だったの」

 声が、かすれる。

「あなたが巻き込まれれば、あなたの大切な人まで壊される」

 その言葉に、カイルは目を見開いた。

「……大切な人?」

 一瞬の沈黙。

 リュシエンヌは、俯いたまま続けた。

「伯爵令嬢でしょう。あなたが、想っている人」

 言ってしまえば、胸が痛んだ。

 カイルが、言葉を失ったまま立ち尽くす。

「……待て」

 やがて、困惑した声が落ちる。

「どうして、そうなる」

 リュシエンヌは、ゆっくりと顔を上げた。

「違うの?」

 王太子が狙った令嬢。
 あなたが、必死に庇っていた女性。

 だから当然だと思っていた。

 カイルは、短く息を吐いた。

「確かに、守ろうとした」

 胸が、ぎゅっと締めつけられる。

「でも、それは――」

 彼は、はっきりと首を振った。

「恋じゃない」

 世界が、一瞬、静止した。

「……え」

 思わず、声が漏れる。

「彼女は、妹みたいな存在だ」

 カイルは、困ったように笑った。

「家同士の繋がりもあって、放っておけなかった。それだけだ」

 リュシエンヌの思考が、追いつかない。

「……では」

「俺に想い人がいるとしたら」

 彼は、一歩、距離を詰めた。

「ずっと、最初から――」

 そこで、言葉が途切れる。

 深く、息を吸って。

「お前だ」

 胸が、強く打たれた。

「……そんなはず、ない」

 震える声で、否定する。

「あなたは、いつも“親友”だと言って」

「逃げていたんだ」

 カイルは、苦しそうに続ける。

「身分の違いも、立場も、全部言い訳にして」

 あの言葉。
 親友。

 それは、彼女だけでなく、彼自身をも守る仮面だった。

「お前が婚約を捨てた夜」

 カイルの声が、低くなる。

「怒りより先に、失う恐怖が来た」

 彼は、拳を握りしめる。

「その感情の名前を、俺は見ないふりをしていた」

 リュシエンヌの目に、涙が滲む。

「……私は」

 声が、途切れた。

「私は、あなたの幸せを守りたかっただけ」

「それが、俺の幸せだと?」

 カイルは、ゆっくりと彼女の前に立つ。

「俺の幸せは、お前が一人で泣くことじゃない」

 リュシエンヌの肩が、わずかに震えた。

 張りつめていた糸が、切れる。

「……ずるいわ」

 初めて、仮面を外した声。

「今さら、そんなことを言われたら」

 涙が、頬を伝う。

「私は、全部捨てる覚悟をしたのに」

 カイルは、迷わず彼女を抱きしめた。

「捨てさせない」

 力強く、しかし優しく。

「俺が取り戻す。名誉も、立場も、そして――」

 そっと、額に触れる。

「お前の笑顔も」

 リュシエンヌは、しばらく動けなかったが、やがて、ゆっくりと彼の胸元を掴んだ。

「……本当に」

 小さな声。

「後悔しない?」

「後悔するのは、もっと早く気づかなかったことだけだ」

 悪女の仮面は、静かに床に落ちた。

 その夜、二人の間にあった距離は、
 ようやく意味を失った。

 翌朝。
 社交界には、新たな噂が流れ始める。

 悪女は、
 誰かを傷つけた女ではなかった。

 ただ、愛する人を守るために、
 すべてを引き受けた令嬢だったのだと。




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