悪女と呼ばれた令嬢は、親友の幸せのために婚約者を捨てた

由香

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番外編① 親友だった頃の距離

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 それは、まだ世界が穏やかだった頃の話。

 王城の裏庭には、午後の陽光がやわらかく差し込んでいた。
 噴水の水音と、鳥の羽ばたき。
 貴族の子女が集う場所としては珍しく、ここは静かで、人目も少ない。

「また、ここに逃げてきたの?」

 そう言って笑ったのは、リュシエンヌだった。

 淡い色のドレスを揺らしながら、彼女は石造りのベンチに腰を下ろす。
 その隣には、すでにカイルが剣を外して座っていた。

「逃げたんじゃない」

「では?」

「避難だ」

「同じ意味よ」

 くすりと笑う声に、カイルは肩をすくめた。

 社交の場は、彼にとってどうにも落ち着かない。
 視線、言葉、立ち位置。
 すべてが計算されている世界は、剣を振るうよりも疲れる。

「今日は婚約者候補の顔合わせでしょう?」

 リュシエンヌは、何でもないことのように言った。

「……よく知ってるな」

「噂になる前から、分かるわ」

 彼女は膝の上で手を組み、空を見上げる。

「王太子殿下は、あなたの剣を高く評価している。あなたがそばにいれば、私にも声がかかる」

 冗談めかした口調。
 けれど、カイルは知っている。

 彼女がこういう時、冗談の裏に現実を隠すことを。

「嫌か?」

 問いかけると、リュシエンヌは一瞬だけ視線を逸らした。

「……嫌、というより」

 言葉を選ぶ間。
 その沈黙が、なぜか胸に引っかかる。

「決められた道を歩くのは、少し息苦しいわ」

「貴族だな」

「あなたは違うの?」

 そう返され、カイルは言葉に詰まる。

 騎士という立場もまた、選択肢の少ない道だ。
 それでも剣を選んだのは、自分自身だった。

「俺は……」

 言いかけて、止める。

 ふと、彼女の横顔に見入ってしまった。

 陽光に照らされた金色の髪。
 長い睫毛。
 静かな微笑。

(綺麗だ)

 そう思った瞬間、胸がざわついた。

「何?」

 視線に気づかれ、リュシエンヌがこちらを見る。

「いや、何でもない」

 慌てて目を逸らす。

「変なの」

 彼女はそう言いながらも、追及しなかった。

 それが、ありがたくもあり、少し寂しくもある。

 しばらく、二人で黙って噴水を眺めていた。

「ねえ、カイル」

「ん?」

「もし」

 彼女の声が、少しだけ真剣になる。

「もし、私が社交界で孤立したら、あなたはどうする?」

 突然の問い。

「……どういう意味だ」

「仮定よ」

 リュシエンヌは微笑む。

「悪女扱いされたり、誰も味方がいなくなったり」

 胸が、ひやりとする。

「そんなこと、させない」

 即答だった。

 彼女は、少し驚いたように目を瞬かせる。

「即答なのね」

「当たり前だろ」

 カイルは、彼女を見る。

「お前がそんな目に遭う理由がない」

 リュシエンヌは、ゆっくりと目を伏せた。

「……ありがとう」

 小さな声。

 それが、なぜか胸に残った。

「でも」

 彼女は続ける。

「もし私が、誰かを守るために、そうならなければならなかったら?」

 カイルは、眉をひそめた。

「意味が分からない」

「分からなくていいわ」

 リュシエンヌは、柔らかく笑った。

「これは、私の話だもの」

 その距離感が、もどかしい。

「俺は、お前の親友だろ」

 だから、踏み込めない。
 だから、それ以上を望んではいけない。

「そうね」

 彼女は、穏やかに頷いた。

「親友」

 その言葉が、二人の間に落ちる。

 安心と、違和感と、
 そして、微かな痛みを伴って。

 やがて、日が傾き始める。

「戻らないと」

 リュシエンヌが立ち上がる。

「また、こうして逃げてきていい?」

「避難だ」

「そうだったわね」

 笑い合う。

 けれど、別れ際。
 彼女は、ほんの一瞬だけ振り返った。

「……カイル」

「どうした」

「あなたが幸せなら、それでいいの」

 それは、あまりにも自然で、
 あまりにも優しい言葉だった。

 カイルは、その意味を深く考えなかった。

 この時はまだ。

 その言葉が、
 やがて彼女自身を縛る誓いになることを、
 知らなかったから。

 親友だった頃の距離は、
 近くて、遠くて、
 何よりも安全だった。

 ――だからこそ、失った時の痛みは、
 これほどまでに大きかったのだ。




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