悪女と呼ばれた令嬢は、親友の幸せのために婚約者を捨てた

由香

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番外編② 悪女の素顔

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 夜は、正直だ。

 光が消え、音が遠ざかると、
 昼間には押し殺していた感情が、容赦なく浮かび上がってくる。

 リュシエンヌは、一人で部屋に座っていた。
 蝋燭の火は落とさない。
 暗闇に沈む勇気は、まだなかった。

(私は、悪女)

 そう思うことで、ようやく息が整う。

 そうでなければ、
 自分の選択が、ただの臆病だったと認めてしまいそうだから。

 婚約を捨てた日のことを、何度も思い返す。
 王太子の表情。
 社交界のざわめき。
 そして、柱の影に立っていた、あの人。

 カイル。

 彼の目が、驚きと怒りと、
 わずかな――傷ついた色を帯びていたことを、
 私は見てしまった。

(見なければよかった)

 でも、見てしまったから、
 私は最後まで悪女でいられた。

 王太子は、恐ろしい人だ。
 剣を振るわなくても、人を壊せる。

 伯爵令嬢の名を聞いた時、
 私はすべてを理解した。

 彼女は、カイルが守ろうとしていた人。
 そして、王太子の気まぐれの対象。

 拒めば、家が潰される。
 従えば、人生が壊れる。

 そんな選択肢しかない世界で、
 守る方法は一つしかなかった。

(私が、嫌われること)

 王太子にとって価値のない女になればいい。
 社交界から切り捨てられればいい。
 そうすれば、誰も巻き込まれない。

 簡単な理屈だった。

 だから私は、迷わなかった。

 ……いいえ。

 本当は、迷った。

 何度も、何度も。

 だって、
 私は、彼の隣に立ちたかった。

 親友としてでもいい。
 遠くからでもいい。
 彼が笑っている世界に、
 私は存在していたかった。

 それでも。

(あなたが泣くくらいなら、私が悪女になる方が、ずっといい)

 そう決めた。

 だから、冷たくした。
 だから、突き放した。
 だから、「親友」という言葉を、自分の喉に押し込んだ。

 あの回廊での会話が、胸を刺す。

 ――それ以上でも、それ以下でもない。

 言った瞬間、心のどこかが、はっきりと折れた音がした。

 彼がどんな顔をしていたか、
 ちゃんと見ていなかったふりをした。

(見たら、戻れなくなる)

 悪女は、後悔してはいけない。
 そうでなければ、意味がない。

 私は、私を嫌いにならなければならなかった。

 孤独は、想像していたよりも静かだった。

 誰も近づかない。
 誰も話しかけない。
 視線はあるけれど、言葉はない。

 それでも、夜になると、
 どうしても思い出してしまう。

 剣を振るう背中。
 不器用な優しさ。
 私が弱音を吐いた時、
 何も言わず隣にいてくれたこと。

「……好きよ」

 誰もいない部屋で、初めて声に出した。

 それは、許されない言葉だった。
 だから、夜にしか言えなかった。

 彼に想い人がいると思っていた。
 そう思い込むことで、
 私は自分を納得させていた。

(私じゃない誰かなら、いい)

 そう思う一方で、
 胸の奥が、ひどく痛んだ。

 矛盾している。
 自分でも分かっている。

 でも、愛情は、理屈で片づけられない。

 悪女の仮面は、重かった。

 それでも外さなかったのは、
 それを外した瞬間、
 彼の前で泣いてしまうと分かっていたから。

 泣いてしまえば、守れなくなる。

 だから私は、笑った。
 冷たく。
 完璧に。

 ――それでいい。

 そう信じていた。

 あの夜、扉が叩かれるまでは。

 彼の声が聞こえた瞬間、
 胸の奥で、何かが崩れた。

(来ないで)

(でも……来て)

 相反する願いが、同時に溢れ出す。

 悪女でいなければならない私と、
 ただの一人の女としての私。

 そのどちらも、確かに私だった。

 もし、すべてが終わったあと、
 この仮面を外していい日が来るなら。

 その時は、
 少しだけ、泣いてもいいだろうか。

 誰にも見せなかった弱さを、
 たった一人にだけ、
 見せてもいいだろうか。

 蝋燭の火が、静かに揺れる。

 夜は、まだ終わらない。

 けれど、悪女の心は、
 もう、朝を待っていた。




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