BLオメガバース短編集

由香

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『番になりたかったのはあなたじゃなかった』

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「番契約を……破棄したいです」

 フィンは、震える声でそう告げた。
 白い指はぎゅっと胸元の布を握りしめている。

 その横顔には、かつてレイが知っていた“従順なオメガ”の影はもうない。

「……は?」

 皇太子レイは思わず聞き返した。
 彼の周囲に満ちるアルファ特有の圧がわずかに揺れる。

「契約を……終わらせてほしいんです。あなたの番でいるのは、もう耐えられません」

 静かな玉座の間に、フィンの息が響いた。

 彼は生まれた時からレイの番候補として育てられ、十八で正式な番契約を結んだ。

 だがその一年後、こうして離縁を申し出ることになるとは、誰が想像できただろう。

 レイは眉をひそめた。

「理由を聞こうか、フィン?」

「……理由。必要ですか?」

 フィンは淡く笑った。その笑みは、ひどく痛々しかった。

「だって、あなたは私を――“いないもの”として扱ってきたじゃないですか」

 レイの手がぴたりと止まった。

 彼は普段から、自分の感情に揺さぶられることのない男だ。

 だがこの時ばかりは胸の奥がちり……と焦げつくように痛むのを感じた。

「……いないもの、など」

「夜会にも連れていかれない。発情が不安定な私を“手間だ”と言った。あなたに触れられたことは、一度もありませんでした」

 フィンの声は淡々としている。
 責めるでも恨むでもなく、ただ事実を述べる声。

 痛みよりも、虚しさと疲労がにじんでいた。

「あなたは、私を番にしたかったのではないでしょう?“皇室に必要だから”選んだだけだ」

 レイは言葉を失った。
 否定できなかった。

 たしかに、フィンとの番は政治的に最善だった。
 彼は気弱で繊細で、政治の場に出るのは向いていない。
 だからこそ、レイの負担にならず、従順で、扱いやすい。

 ……そんな評価を、どこかでしていた。

 だが胸の奥では常に、“あの優しい目を曇らせたくない”そんな曖昧な想いも存在していたのだ。

 しかしそれを意識することなく、彼はフィンを放置し続けた。

「フィン……」

 手を伸ばしたレイに、フィンは一歩だけ下がった。

「ごめんなさい。番になりたかったのは、あなたじゃなかった」

 小さな声で、決定的な言葉を落とす。

 その瞬間、レイの心臓がずしんと沈んだ。
 理由はわからない。
 けれど“何か大切なものを失った”と本能が警報を鳴らしていた。

「……わかった。お前が望むなら、破棄を認めよう」

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが壊れたように痛んだ。

 フィンは深く頭を下げた。

「ありがとうございました。どうか……お元気で」

 その背中は、もうレイの番ではなかった。



 番契約の破棄は王宮に驚きをもって受け止められたが、誰もが「仕方ない」と思っていた。

 フィンは弱く、権力にも向かない。
 皇太子の妻としては荷が重い――そう考えられていたからだ。

 だが、事態は翌日ひっくり返る。

「報告します! フィン殿下が――“特級オメガ”であることが判明しました!」

 王宮中が騒然となった。

 特級オメガ。
 古代の王族に連なる血筋のみが持つ、国に祝福をもたらす存在。
 香りが国土を浄化し、子を産めば強いアルファが生まれ、他国からも守り神として扱われる。

 ただの「弱いオメガ」と思われていた青年が、実は国の宝そのものだったのだ。

 レイは衝撃で視界が揺れた。

 ――フィンが、そんな存在だった?

 彼の微かな甘い香りは、いつもレイを落ち着かせた。
 発情が不安定なのは、特級であるゆえの力の制御ができていなかっただけだった。

 “あの細い肩に、どれだけの重さを背負っていたんだ”

 胸が、締め付けられた。

 だがその瞬間、さらに追い打ちがかかる。

「こ、これを……!」

 宰相が震える手で差し出した報告書。
 それには――

『隣国の宰相候補セラ・ヴェイルより、フィン殿へ求婚書』

 ――求婚、だと?

 レイは息を呑む。

「ば、番を……レイ殿下との契約破棄を待っていたと……」

「セラ宰相候補は“必ず幸せにする”と明言しているようです」

 頭の中が真っ白になる。

 “フィンは……もう誰かの元へ行ってしまうのか?”

 まだ、笑った顔が目に焼きついている。
 自分を見るたび怯えるように揺れていた瞳。
 けれど、一度だけ嬉しそうに笑ったことがあった。小さな、優しい笑み。

 “あの笑顔を、俺は守れなかった”

 胸が焼ける。
 燃え盛るように痛む。

 これが――追妻火葬場の始まりだった。



 レイは馬を走らせ、フィンのもとへ向かった。
 離宮に残った荷物を取りに来ると聞いたからだ。

 扉の向こうで、小柄な影が荷物をまとめている。
 陽の光を受け、淡い銀髪が揺れた。

「フィン!」

 振り返った彼の瞳は、ひどく静かだった。

「……レイ殿下。どうされました?」

 “殿下”と呼ばれたことが胸に刺さる。
 いつもは“レイ様”だったのに。

「戻ってこい。番契約は――」

「もう終わったはずです」

 冷ややかに遮られる。

 レイは苦しげに息を吸った。

「俺は……お前の価値を、分かっていなかった。お前が特級オメガだと知った。俺は――」

「価値?」

 フィンは微かに笑った。その笑みは哀しみよりも、もう諦めに近い。

「結局、あなたが見ているのは“皇室の役に立つかどうか”なんですね」

「違う!俺は……!」

 言葉が続かない。
 自分が何に縋ろうとしているのか、レイ自身もわからなくなっていた。

「レイ殿下。あなたは、私のことを“手間”と呼んだ日、忘れましたか?」

 レイの喉がつまる。

「私は……あなたの番になりたくて、ずっと努力してきました。でも、あなたが見ていたのは義務だけ。私は、あなたの隣に立つ資格がないんだと思っていました」

 フィンの手が、ぎゅっと荷物の取っ手を握る。

「でも今は違います。私の価値を、人として見てくれる人が現れました。セラ様は、弱い私でも守ると言ってくれた。“あなたの香りは美しい”と、初めて言ってくれた」

 レイの胸が、真っ二つになったように痛む。

 自分は、一度も言ったことがない。

「……フィン。戻ってきてくれ。お前がいないと、俺は……」

「あなたの番では、もうありません」

 フィンはレイの手をそっと払いのけた。
 指先すら触れさせない、その拒絶。
 それがどれほど決定的なものか、レイは本能で理解した。

「番になりたかったのは、あなたじゃなかった」

 ゆっくりと、確実に――
 その言葉がレイを焼き尽くす。

 フィンは離宮を出た。
 追いかけようとしても、足が動かない。
 立っていることすら辛いほど胸が痛む。

 “何をしてるんだ、俺は……?”

 気づいた時には、もう遅すぎた。



 レイが離宮の外へ出た時、
 セラ・ヴェイルが迎えの馬車から降りてきた。

「お迎えに上がりました、フィン殿」

 柔らかな笑みを浮かべるアルファ。
 彼はフィンの手を取り、優しく手袋をはめてやる。

 フィンは安心したように微笑んだ。
 その笑みは、レイには一度も向けられなかったもの。

 セラはレイに一礼する。

「ご安心ください、殿下。フィン殿の幸せは、私が必ず守ります」

 その言葉が、刃となって刺さる。

 フィンは一度だけレイを見た。

 だがその瞳は――もう決して、自分を映すものではなかった。

 馬車が走り去る。
 遠ざかっていく背中を、レイは一歩も動けず見つめることしかできなかった。

 胸の奥に残ったのは、焦げつくような痛みだけ。

 “番を失う痛みが、これほどまでとは……”

 初めて知る苦しみだった。

 だが、もう二度と取り戻せない。

 フィンの未来から、レイは完全に消えたのだ。



 その後、王宮では混乱が続いた。
 特級オメガを手放した皇太子への批判は大きかった。
 レイは全責任を負い、政治の場から一時的に退く。

 それでも彼は、夜になると必ずフィンのいた部屋を見上げてしまう。

 触れることも、言葉を交わすこともできないのに。
 ただ、かつての後悔の中に立ち尽くすだけ。

 “俺は……何を望んでいたんだろう”

 フィンの香りを思い出すたび、胸が焼ける。
 もう二度と触れられない現実が、息を詰まらせる。

 そして誰も知らない場所で、レイはうつむきながら呟いた。

「番になりたかったのは……お前だったんだ、フィン」

 だがその想いは、もう誰の心にも届くことはなかった。

 追妻火葬場――

 それはレイにとって、これから延々と続く罰となった。

 そして物語は、閉じていく。




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