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第1章
殺人鬼が蔓延る世界
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頬を伝う熱に、意識が跳ねた。 汗か、あるいは涙か。濡れた手で顔を拭い、鞍月蒼(くらづき あおい)は荒い呼吸を整えた。
(……また、あの夢だ)
十年前、母が殺されたあの日から。 夢はいつも、陽光が眩しい遊園地の場面から始まる。そして決まって、母の命が奪われる瞬間に幕を下ろす。 呪いのような悪夢。だが、そのおかげで犯人の特徴だけは、脳髄に深く刻み込まれていた。
――右頬に、鳥の足跡のような痣(あざ)がある男。
蒼は人を見る時、まず右頬を確認する。十年間、ただの一度もその痣を持つ男に出会ったことはない。 もし、出会ってしまったら。自分は、そいつの命を奪うのだろうか。
(俺も、あの男と同じ怪物になるのか……?)
最近、夢にはもう一つのパターンが加わっていた。泥濘の中に立ち、血まみれの女を見下ろしている自分。 この狂った世界では、被害者でい続けることさえ、いつか限界が来るのではないか。そんな予感が蒼を蝕んでいた。
重い足取りで洗面所へ向かう。
「父さん、おはよう」
鏡の前で顔を洗っていた父は、視線すら合わせず、一言も発せずに去っていった。 冷たい水で顔を洗う。鏡に映るのは、生気を失った青白い肌と、濁った深緑の瞳。寝癖のついた黒髪を整え、蒼は朝食を作り始めた。 トーストとハムエッグ。この静かな調理の時間だけが、唯一の救いだった。 テーブルに並べても、父は新聞から目を離さない。紙面を埋め尽くすのは、溢れかえる殺人事件のニュースばかり。会話はなくとも、同じ飯を食う。それが父との細い、唯一の繋がりだと信じるしかなかった。
「今日、母さんの墓参りに行くけど……父さんも行く?」 「いいや。夕方にする。お前一人で行け」
無機質な声。それは『お前と同じ空気を吸いたくない』という拒絶に聞こえた。
外に出ると、六月の晴天とは裏腹に、生ぬるい風が全身を舐めていった。
「あら、蒼くん。麻子さんの命日ね」
近所の川田さんが愛犬のテンを連れて声をかけてくれた。テンが尻尾を千切れんばかりに振って懐いてくる。動物の温もりだけが、ささくれ立った心を少しだけ解かしてくれた。
バス停へ向かうと、そこには見覚えのある、目を引くほどの美少女が立っていた。 同級生の柏木朱音(かしわぎ あかね)。 「あれ、二組の柏木だよね」 「そうだけど、あんた誰?」 淑やかな外見に似合わない、棘のある口調。
「一年の時、同じクラスだった鞍月蒼です」
「ああ、あの窓際で頬杖ついてた子! ごめん、不審者かと思っちゃった」
彼女もまた、アジサイ霊園へ向かうという。 揺れるバスの中、彼女が差し出した珈琲飴を口に含みながら、二人は言葉を交わした。
「蒼くんも、家族を亡くしてるんだ」
「……他殺だよ。十年前、俺の目の前で」
「そう……」
彼女の視線が窓の外へ流れる。 「私もだよ。両親と姉を……今は一人。おばさんに引き取られてるけどね」
この町で一番大きなアジサイ霊園。 整然と並ぶ墓石の山。その下にあるのは、病死よりも圧倒的に、他殺による亡骸の方が多い。 法も秩序も、暴力の雨に流されている。蒼は十を超える知人の墓に線香をあげ、最後に母の墓前で手を合わせた。
「もうこんな時間。私、用事があるから先に行くね!」
嵐のように去っていく柏木の背中を見送った後、蒼は一人、バス停のベンチで菓子パンを広げた。
その時だった。 背後から、鉄の爪で掴まれたような衝撃が肩に走った。
「ッ!?」
振り向いた視界に飛び込んできたのは、漆黒の布を全身に纏った異様な人影。 逃げようとしたが、足をもつれさせ倒れ込む。踏みつけられた菓子パンが潰れる嫌な音がした。 男が蒼の胸ぐらを掴み上げ、耳元で低く、不吉な言語を吐く。
「I find you(見つけたぞ)」
首筋に押し付けられたのは、冷たい銃口。
(銃……? なんで……?)
白昼堂々、霊園の入り口で。 このまま自分は、母と同じ場所へ行くのか。痛みはあるのか。死んだら母さんに会えるのか。思考が濁流のように溢れる。
「やめろ……ッ!」
死に物狂いで銃口を逸らそうとするが、男の腕は岩のように動かない。隙を突いて男の腕からすり抜け、走り出した。
――乾いた銃声が一つ。 足先数センチのアスファルトが弾け、火花が散った。
「You cannot escape.」
男がゆっくりと歩み寄る。フードの奥、歪んだ口元が嘲笑を浮かべた。 死の予感に蒼が目を閉じた、その時。
――バサバサッ! と激しい羽音が空を切り裂いた。
「ぎあああああああああッ!?」
突如、数羽の鴉(カラス)が男の顔面に襲いかかった。容赦なく眼球を突き、肉を削ぐ。 地面に飛び散る鮮血。 「チッ!」 男は顔を血に染めながら短く舌打ちすると、逃げるように後退した――直後。
掻き消えるように、男の姿が視界から消え失せた。 まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。
「……夢、じゃない」
震える指先が、空から落ちてきた一枚の「黒い羽」を拾い上げる。 逃げた男の血が付着した、鴉の羽。 秩序が崩壊し、魔法のような不条理さえもが現実を侵食し始めている。 蒼はその羽を握りしめ、逃げるように家へと走り出した。 十年前の復讐、自分のなかの殺人者、そして消えた襲撃者。 世界が、急速に黒く染まり始めていた。
(……また、あの夢だ)
十年前、母が殺されたあの日から。 夢はいつも、陽光が眩しい遊園地の場面から始まる。そして決まって、母の命が奪われる瞬間に幕を下ろす。 呪いのような悪夢。だが、そのおかげで犯人の特徴だけは、脳髄に深く刻み込まれていた。
――右頬に、鳥の足跡のような痣(あざ)がある男。
蒼は人を見る時、まず右頬を確認する。十年間、ただの一度もその痣を持つ男に出会ったことはない。 もし、出会ってしまったら。自分は、そいつの命を奪うのだろうか。
(俺も、あの男と同じ怪物になるのか……?)
最近、夢にはもう一つのパターンが加わっていた。泥濘の中に立ち、血まみれの女を見下ろしている自分。 この狂った世界では、被害者でい続けることさえ、いつか限界が来るのではないか。そんな予感が蒼を蝕んでいた。
重い足取りで洗面所へ向かう。
「父さん、おはよう」
鏡の前で顔を洗っていた父は、視線すら合わせず、一言も発せずに去っていった。 冷たい水で顔を洗う。鏡に映るのは、生気を失った青白い肌と、濁った深緑の瞳。寝癖のついた黒髪を整え、蒼は朝食を作り始めた。 トーストとハムエッグ。この静かな調理の時間だけが、唯一の救いだった。 テーブルに並べても、父は新聞から目を離さない。紙面を埋め尽くすのは、溢れかえる殺人事件のニュースばかり。会話はなくとも、同じ飯を食う。それが父との細い、唯一の繋がりだと信じるしかなかった。
「今日、母さんの墓参りに行くけど……父さんも行く?」 「いいや。夕方にする。お前一人で行け」
無機質な声。それは『お前と同じ空気を吸いたくない』という拒絶に聞こえた。
外に出ると、六月の晴天とは裏腹に、生ぬるい風が全身を舐めていった。
「あら、蒼くん。麻子さんの命日ね」
近所の川田さんが愛犬のテンを連れて声をかけてくれた。テンが尻尾を千切れんばかりに振って懐いてくる。動物の温もりだけが、ささくれ立った心を少しだけ解かしてくれた。
バス停へ向かうと、そこには見覚えのある、目を引くほどの美少女が立っていた。 同級生の柏木朱音(かしわぎ あかね)。 「あれ、二組の柏木だよね」 「そうだけど、あんた誰?」 淑やかな外見に似合わない、棘のある口調。
「一年の時、同じクラスだった鞍月蒼です」
「ああ、あの窓際で頬杖ついてた子! ごめん、不審者かと思っちゃった」
彼女もまた、アジサイ霊園へ向かうという。 揺れるバスの中、彼女が差し出した珈琲飴を口に含みながら、二人は言葉を交わした。
「蒼くんも、家族を亡くしてるんだ」
「……他殺だよ。十年前、俺の目の前で」
「そう……」
彼女の視線が窓の外へ流れる。 「私もだよ。両親と姉を……今は一人。おばさんに引き取られてるけどね」
この町で一番大きなアジサイ霊園。 整然と並ぶ墓石の山。その下にあるのは、病死よりも圧倒的に、他殺による亡骸の方が多い。 法も秩序も、暴力の雨に流されている。蒼は十を超える知人の墓に線香をあげ、最後に母の墓前で手を合わせた。
「もうこんな時間。私、用事があるから先に行くね!」
嵐のように去っていく柏木の背中を見送った後、蒼は一人、バス停のベンチで菓子パンを広げた。
その時だった。 背後から、鉄の爪で掴まれたような衝撃が肩に走った。
「ッ!?」
振り向いた視界に飛び込んできたのは、漆黒の布を全身に纏った異様な人影。 逃げようとしたが、足をもつれさせ倒れ込む。踏みつけられた菓子パンが潰れる嫌な音がした。 男が蒼の胸ぐらを掴み上げ、耳元で低く、不吉な言語を吐く。
「I find you(見つけたぞ)」
首筋に押し付けられたのは、冷たい銃口。
(銃……? なんで……?)
白昼堂々、霊園の入り口で。 このまま自分は、母と同じ場所へ行くのか。痛みはあるのか。死んだら母さんに会えるのか。思考が濁流のように溢れる。
「やめろ……ッ!」
死に物狂いで銃口を逸らそうとするが、男の腕は岩のように動かない。隙を突いて男の腕からすり抜け、走り出した。
――乾いた銃声が一つ。 足先数センチのアスファルトが弾け、火花が散った。
「You cannot escape.」
男がゆっくりと歩み寄る。フードの奥、歪んだ口元が嘲笑を浮かべた。 死の予感に蒼が目を閉じた、その時。
――バサバサッ! と激しい羽音が空を切り裂いた。
「ぎあああああああああッ!?」
突如、数羽の鴉(カラス)が男の顔面に襲いかかった。容赦なく眼球を突き、肉を削ぐ。 地面に飛び散る鮮血。 「チッ!」 男は顔を血に染めながら短く舌打ちすると、逃げるように後退した――直後。
掻き消えるように、男の姿が視界から消え失せた。 まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。
「……夢、じゃない」
震える指先が、空から落ちてきた一枚の「黒い羽」を拾い上げる。 逃げた男の血が付着した、鴉の羽。 秩序が崩壊し、魔法のような不条理さえもが現実を侵食し始めている。 蒼はその羽を握りしめ、逃げるように家へと走り出した。 十年前の復讐、自分のなかの殺人者、そして消えた襲撃者。 世界が、急速に黒く染まり始めていた。
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