浄罪師【現代編】

弓月下弦

文字の大きさ
3 / 6
第1章

殺人鬼が蔓延る世界

しおりを挟む
頬を伝う熱に、意識が跳ねた。  汗か、あるいは涙か。濡れた手で顔を拭い、鞍月蒼(くらづき あおい)は荒い呼吸を整えた。

(……また、あの夢だ)

 十年前、母が殺されたあの日から。  夢はいつも、陽光が眩しい遊園地の場面から始まる。そして決まって、母の命が奪われる瞬間に幕を下ろす。  呪いのような悪夢。だが、そのおかげで犯人の特徴だけは、脳髄に深く刻み込まれていた。

 ――右頬に、鳥の足跡のような痣(あざ)がある男。

 蒼は人を見る時、まず右頬を確認する。十年間、ただの一度もその痣を持つ男に出会ったことはない。 もし、出会ってしまったら。自分は、そいつの命を奪うのだろうか。

(俺も、あの男と同じ怪物になるのか……?)

 最近、夢にはもう一つのパターンが加わっていた。泥濘の中に立ち、血まみれの女を見下ろしている自分。 この狂った世界では、被害者でい続けることさえ、いつか限界が来るのではないか。そんな予感が蒼を蝕んでいた。

 重い足取りで洗面所へ向かう。

 「父さん、おはよう」  

鏡の前で顔を洗っていた父は、視線すら合わせず、一言も発せずに去っていった。  冷たい水で顔を洗う。鏡に映るのは、生気を失った青白い肌と、濁った深緑の瞳。寝癖のついた黒髪を整え、蒼は朝食を作り始めた。    トーストとハムエッグ。この静かな調理の時間だけが、唯一の救いだった。  テーブルに並べても、父は新聞から目を離さない。紙面を埋め尽くすのは、溢れかえる殺人事件のニュースばかり。会話はなくとも、同じ飯を食う。それが父との細い、唯一の繋がりだと信じるしかなかった。

「今日、母さんの墓参りに行くけど……父さんも行く?」 「いいや。夕方にする。お前一人で行け」

 無機質な声。それは『お前と同じ空気を吸いたくない』という拒絶に聞こえた。

 外に出ると、六月の晴天とは裏腹に、生ぬるい風が全身を舐めていった。

「あら、蒼くん。麻子さんの命日ね」  

近所の川田さんが愛犬のテンを連れて声をかけてくれた。テンが尻尾を千切れんばかりに振って懐いてくる。動物の温もりだけが、ささくれ立った心を少しだけ解かしてくれた。

 バス停へ向かうと、そこには見覚えのある、目を引くほどの美少女が立っていた。  同級生の柏木朱音(かしわぎ あかね)。 「あれ、二組の柏木だよね」 「そうだけど、あんた誰?」  淑やかな外見に似合わない、棘のある口調。 

「一年の時、同じクラスだった鞍月蒼です」

 「ああ、あの窓際で頬杖ついてた子! ごめん、不審者かと思っちゃった」

 彼女もまた、アジサイ霊園へ向かうという。  揺れるバスの中、彼女が差し出した珈琲飴を口に含みながら、二人は言葉を交わした。

「蒼くんも、家族を亡くしてるんだ」 

「……他殺だよ。十年前、俺の目の前で」 

「そう……」  

彼女の視線が窓の外へ流れる。 「私もだよ。両親と姉を……今は一人。おばさんに引き取られてるけどね」

 この町で一番大きなアジサイ霊園。 整然と並ぶ墓石の山。その下にあるのは、病死よりも圧倒的に、他殺による亡骸の方が多い。 法も秩序も、暴力の雨に流されている。蒼は十を超える知人の墓に線香をあげ、最後に母の墓前で手を合わせた。

「もうこんな時間。私、用事があるから先に行くね!」  

嵐のように去っていく柏木の背中を見送った後、蒼は一人、バス停のベンチで菓子パンを広げた。

 その時だった。 背後から、鉄の爪で掴まれたような衝撃が肩に走った。

「ッ!?」  

振り向いた視界に飛び込んできたのは、漆黒の布を全身に纏った異様な人影。  逃げようとしたが、足をもつれさせ倒れ込む。踏みつけられた菓子パンが潰れる嫌な音がした。  男が蒼の胸ぐらを掴み上げ、耳元で低く、不吉な言語を吐く。

「I find you(見つけたぞ)」

 首筋に押し付けられたのは、冷たい銃口。

 (銃……? なんで……?)  

白昼堂々、霊園の入り口で。 このまま自分は、母と同じ場所へ行くのか。痛みはあるのか。死んだら母さんに会えるのか。思考が濁流のように溢れる。

「やめろ……ッ!」 

死に物狂いで銃口を逸らそうとするが、男の腕は岩のように動かない。隙を突いて男の腕からすり抜け、走り出した。

 ――乾いた銃声が一つ。 足先数センチのアスファルトが弾け、火花が散った。 

「You cannot escape.」

 男がゆっくりと歩み寄る。フードの奥、歪んだ口元が嘲笑を浮かべた。 死の予感に蒼が目を閉じた、その時。

 ――バサバサッ! と激しい羽音が空を切り裂いた。

「ぎあああああああああッ!?」

 突如、数羽の鴉(カラス)が男の顔面に襲いかかった。容赦なく眼球を突き、肉を削ぐ。 地面に飛び散る鮮血。 「チッ!」  男は顔を血に染めながら短く舌打ちすると、逃げるように後退した――直後。

 掻き消えるように、男の姿が視界から消え失せた。 まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。

「……夢、じゃない」

 震える指先が、空から落ちてきた一枚の「黒い羽」を拾い上げる。 逃げた男の血が付着した、鴉の羽。 秩序が崩壊し、魔法のような不条理さえもが現実を侵食し始めている。    蒼はその羽を握りしめ、逃げるように家へと走り出した。  十年前の復讐、自分のなかの殺人者、そして消えた襲撃者。  世界が、急速に黒く染まり始めていた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ドマゾネスの掟 ~ドMな褐色少女は僕に責められたがっている~

ファンタジー
探検家の主人公は伝説の部族ドマゾネスを探すために密林の奥へ進むが道に迷ってしまう。 そんな彼をドマゾネスの少女カリナが発見してドマゾネスの村に連れていく。 そして、目覚めた彼はドマゾネスたちから歓迎され、子種を求められるのだった。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

悪意のパーティー《完結》

アーエル
ファンタジー
私が目を覚ましたのは王城で行われたパーティーで毒を盛られてから1年になろうかという時期でした。 ある意味でダークな内容です ‪☆他社でも公開

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

構造理解で始めるゼロからの文明開拓

TEKTO
ファンタジー
ブラック企業勤めのサラリーマン・シュウが転生したのは、人間も街も存在しない「完全未開の大陸」だった。 ​適当な神から与えられたのは、戦闘力ゼロ、魔法適性ゼロのゴミスキル《構造理解》。 だが、物の仕組みを「作れるレベル」で把握できるその力は、現代知識を持つ俺にとっては、最強の「文明構築ツール」だった――! ​――これは、ゴミと呼ばれたスキルとガラクタと呼ばれた石で、世界を切り拓く男の物語。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

処理中です...