2 / 30
翡翠という少女
しおりを挟む
それから翡翠をケージごとセダンの助手席に乗せ、シートベルトを掛けて自国の北部国まで帰って来た。着いた頃にはとっぷり陽も傾き、北国の気候も相まって吐く息も凍えて白くなる程冷え込んでいた。おまけに雪までシンシンと降り、俺は後部座席に掛けていたジャケットをすっぽりとケージに掛け、両手でそれを車外へ出す。広大な駐車場から近代建築の『城』まで100メートル程だったが、寒さはすぐに俺の芯まで冷やし、肩をいからせた。足早に裏口の鉄扉まで走っていると、突然、右手に鋭い痛みが走った。
「っ!!」
噛まれた!
俺は咄嗟にケージを放してしまい、翡翠は停めてあった車にゲージごと派手に激突する。ケージは上の部分がひしゃげ、雪には、噛まれた俺の右手から滴る血で殺人現場の様。指がもげなかっただけでもラッキーくらいの傷と痛みだった。
こいつ、本気で噛みやがった。
今になって、奴隷商人の注意事項その1『ケージは絶対に上の取っ手部分を持つ事』を思い出す。考えてみれば、害獣駆除の業者も絶対に獣の牙が届くような捕獲かごの持ち方はしない。1つ勉強した。俺はジャケットに付いた雪を払い、それを着ると今度はケージの取っ手を持って城へと入る。
献上品に風邪をひかれては困ると思ったが、要らぬ事をしたようだ。
鉄扉から雪に埋もれた広い中庭を抜け、またしても裏口の鉄扉をくぐり、そこから薄暗くて無機質な白壁の長い廊下を進み、エレベーターで一気に19階まで上がり、カードキーで自室に入る。ちなみにこの城の最上階には王のパーソナルスペースがある。
「ふぅ」
広くて、ベッド以外これと言って何も無い部屋だが、入り口のチェストに鍵を置くと、どっと1日の疲れが肩にのしかかり、俺はすぐにタイを緩め、長めの髪をかき上げた。
そして奴隷商人の注意事項その2『革手袋を装着の上、首輪と鞭を使用する事』を守りつつ、注意事項その3『必ず施錠した室内でかごを開ける事』を実践する。
ドアはオートロックで、特別にチャイルドロックまで取り付けてあるので問題ない。あとはチェストの1番下の引き出しから革手袋、首輪、鞭を取り出す。
こんな子供相手に仰々しい事だ、と思ったが、噛まれた右手が疼き、きっちりと革手袋を装着して鞭と首輪を用意した。
さて、準備は万端。完全防備だ。何故か猛獣を相手にしている感は否めないが、最初はこんなものだろう。
俺は奴隷商人から貰った鍵でケージの扉を解錠し、扉を開けようとすると、ケージの奥で丸くなっていた翡翠が突然電光石火の速さで中から扉を押さえつけ、それを阻止した。
「……」
……開けられないじゃあないか。
しかも年齢よりずっと体が小さいのに翡翠はとんでもなく馬鹿力だった。
火事場の何とかか。
しかしそこはさすがに女で、子供、俺が容赦なく思い切り扉をこじ開けると弾みで扉自体が何処かへ飛んでいく。
少しむきになったが、ここが俺の最大の短所であり、大人気ないところ。
「出ろ」
ぶっきらぼうに命令したが、逆に翡翠は怖がってケージの端で丸くなった。
面倒だな。
「お前はアルマジロか何かか?さっさと出ろ」
そう言うと俺は、ケージをむんずと掴み、逆さまにしてそれを強引に振るう。翡翠は振るい落とされぬようケージに指を引っかけて必死に食いつく。
「くぅっ」
ここで初めて翡翠の声を耳にする。
意外と高い声で鳴くんだな……子供だから、それもそうか。
何故か妙に感心しながらも、俺は鬼の如くケージを振り回したが、子供ながらに頑固な翡翠の粘り勝ちというか、俺の腕が悲鳴をあげているというか、つまり俺はこの強情っぱりに根負けして遂にケージを投げ出した。
フローリングの床は、翡翠の体から落ちた砂でザリザリと散らかり、俺は思わず眉をひそめる。
床が……何だ、こいつ、とんでもない頑固者じゃあないか。床……床!
余談だが、人を部屋にあげるのが憚られるうえに、人に任せられないたちの俺は、いつも自分で部屋を隅々まで綺麗に掃除している。だからと言ってせっかくピカピカに磨き上げたフローリングが砂でザリザリになったくらいで怒るような器の小さい人間ではない。ただ少しだけ、猛烈に、かつ控え目に苛つきはしている。
あぁ、煙草が吸いたい。
とりあえず落ち着こう。床が何だ。床の事はもういい。床の事などどうでもいい。ん?窓から射す月明かりで床に傷が見えるな。これはさっきケージを放った時の傷か。傷は駄目だ。砂はいい。いっそ今は傷が気になって仕方がない……傷……で、何の話だ?
──しばしのシンキングタイム。俺は昔飼っていた『犬』の事を思い出す。
瑪瑙(メノウ)も最初ここに来た時は怯えてケージから出て来なかった。優しく呼び掛けて、手を出したら、翡翠みたいに噛みついてきたものだ。あれも最初は噛み癖が酷くて手を焼いた。動物は環境の変化に敏感だから、最初は何もせず、そっと様子を窺うくらいが丁度良いんだったな。
そうと解れば話は早い。俺はベッドのヘリに腰掛け、首輪と鞭を握ったまま翡翠がケージから出て来るその時を待つ。
翡翠は相変わらずケージの奥で縮こまっているが、不躾に観察している俺の目が気になってか、薄暗い室内の中、青い眼を光らせてこちらを盗み見ていた。
やっぱり綺麗な眼だ。それ自体が光り輝いている様で、僅かに見る角度が違える度にうるうると煌めき、涙目になっているみたいだ。いっそこの手でその円らなホープダイヤから穢れない雫を流させてみたい。
──そんな風に思ったところで俺は、翡翠とよく似た瞳を持っていた瑪瑙を思い出していた。
ああ、そうか。成る程。どうしてこんなに青い瞳に惹かれるのか解った。
さて、ところで翡翠がケージから出て来たかと言うと、答えは『ノー』だ。互いにずっとにらめっこをしたまま膠着状態だ。
「……」
「……」
俺はいい加減煙草が吸いたくなってイライラし始める。色々と落ち着いたら寝る前に一服しようと思っていたのが、ついぞ尻ポケットでグシャグシャになった煙草に手をかけると、床に散らばった砂で名案を思い付く。
そうだ。こいつ、喉が渇いているに違いない。水をやろう。
そうと決まれば俺はベッドサイドに備え付けられた冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを2本取り出し、1本を開栓して3分の1程これ見よがしにごくごくと喉を鳴らして飲んで見せると、物欲しそうに見上げてくる翡翠の鼻先にそれを突き出した。
「ほら、毒は入っていないから」
俺は妙案の為に柄にもなく優しげな声音を翡翠にかける。
本当に、毒が無くて残念だ。痺れ薬くらい用意しておくんだった。回りくどい。
「ほら、喉が渇いているんだろう?」
怯えながらも迷っている翡翠を誘惑し、俺は彼女の目の前にボトルを置く。
「ハァッハァッ」
俺の手がボトルから離れるのが先か、翡翠がそれを引ったくるのが先か、彼女は慌ててボトルの飲み口を裾で拭うと、食らい付く様に水を飲んだ。そして空になったボトルがベコッと凹んだタイミングで2本目のボトルを置くと、翡翠はそれも流し込む様にあっという間に空にした。
気のせいか、飲み口拭いた?
細かいことはさておき、俺は隣の部屋のキッチンへ行き、インスタントのコーンポタージュスープを用意する。
「お前にはこの国は寒いだろ?これで体を温めるといい。腹も減っているだろうし」
俺の用意したスープなど警戒するだろうと、俺は先刻と同じようにスプーンで一口味見してからそれを翡翠に差し出す。
「ほら、毒は入っていないだろ?」
俺がひきつった慣れない笑顔でそう言うと、デジャヴか、翡翠はまたしてもスプーンを裾で拭ってスープを飲んだ。
拭……
今度は気のせいじゃあなかった。
「……」
ちょっとイラッとはしたが、ここで短気を起こせば元も子もない。俺は努めて平静を装いつ、翡翠が飲み干した皿を片付け、それからまたベッドのヘリに座ってその時を待つ。
──しかし煙草が旨いな。
あれから俺は4本目の煙草に火を着けた。こうして翡翠を観察していると、自分で連れて来ておいて、これが王の献上品にまで成長出来るか心配になる。
この大陸を4分するうちの1つ、南部国の王の末娘という血筋と肩書きは申し分ないが、器量が伴わないうえにこの怯えようじゃあ、献上品として王の相手を果たせるのか?俺相手だったから事なきを得たが、王に噛みついてみろ、その場で調教師の俺が責任をもって首をはねなければならなくなる。見た目はなるようにしかならないが、せめて寝所のお務めで王を満足させられるよう調教しなければ。まずは少しでも見られるように身なりを整えるところから。あとは、元がどうかは顔面の腫れがひかない事には何とも言えないが、愛嬌があれば王に可愛がってもらえるだろう。それと努力次第、どれだけ従順に奉仕出来るか……あと5、6年でどれだけ成長出来るか……モヤモヤクドクド……
はてさて、俺があれやこれやとこれからの展望を見据えていると、ようやく『その時』がきた。翡翠が顔を赤くして歯を食いしばり始める。
「どうした?」
俺は白々しく尋ねた。
「くぅ……」
翡翠は恨めしそうに俺を見上げ、内股で膝を抱える。
「あれだけ水を飲めば出したくもなるさ。そこのキッチンの入って左の奥がトイレだ。行っておいで」
体も冷えていただろうし、この部屋もさして暖かくはないし、外は雪から雨に変わり、湿度まで上がってはトイレが近くなっても仕方がない。それも、子供なら尚更。
俺は天井に向けて煙の輪を吐き出す。
──そう。全ては計算通り。翡翠に水分を多量に摂らせて、自分からケージを出るよう仕向けたのだ。遠回しなやり方に思えるかもしれないが、水や餌で釣ってケージからおびき寄せたところでいつ出て来るとも知れないので、確実な方法を選択した。それに、大事なのは自分の足でケージを出る事だ。これは『北風と太陽』に学んだ……やり方は鬼畜だが。子供と言ってもそろそろ10になる頃合いだ、しかも王家のプライドもあるだろう、羞恥心は持ち合わせているはず。まさかここでお漏らしするような恥態はさらすまい。というか、そうあってほしい。床が……
「どうした?トイレに行きたいんだろ?行っておいで」
よもや翡翠がここまで頑固だとは思わなかった。
翡翠が催してから30分は経った。かなり辛い筈なのに、翡翠は両手を握りしめて健闘している。顔なんか真っ青だ。
──言ってしまうと、こっちの方が焦っている。
まさか俺の目の前でお漏らしするとかないよな?それはそれでショッキングというか、俺の良心の呵責が苛まれるだろう。
「俺の見てる前でお漏らしする気か?別にそこから出ても何もしないから、我慢していないで早く行け」
と言うのに、翡翠は石みたいに頑なにそれを拒む。
子供らしくないというか、可愛げがないというか……
「うっく……ハ、ハァ……ハァ……」
冷や汗でびちょびちょの翡翠が限界を突破して足の指をギュッと握りしめ、俺は見兼ねてケージごと翡翠をトイレに連れて行った。
「本当に仕方がない奴だな」
トイレの入り口に向けてケージを置くと、おずおずと翡翠が出てきて、俺はそのままトイレのドアを閉めるとケージをリビングの窓から投げ捨てる。
「本っ当に手のかかる奴だ」
俺は床に散らばった砂を前に、腰に手を当ててため息を吐くと、クローゼットのコードレス掃除機を手にした。
俺が掃除機をかけている間に、翡翠が用をたしてリビングに戻ってきて絶望的な顔をする。
巣(ケージ)がないっ!?
と思った事だろう。それを確認すると翡翠はまたトイレに戻ろうとして踵を返すが、そうはいかない。俺は掃除機を投げ出して彼女の腕を捕まえた。ちなみにトイレに籠城されるのを防ぐ為、鍵は事前に取っ払ってある。
「観念しろ。いつまでもケージに閉じ籠ってても仕方がないだろ?別に悪いようにはしないから、大人しくしろ」
「ぁぅっ!」
「危なっ!」
翡翠が自慢の犬歯で俺の手に噛みつこうとして、俺はつい本気で彼女の腕を後ろ手に締め上げ、床にうつ伏せで組敷く。
「ぁっ!」
翡翠は短く声をあげた。
いかに翡翠が馬鹿力でも、大人で、男の俺に敵う筈もなく、体重をかけた俺の下で力無く足掻いている。
見るのと触れるのとでは全然違うな。思った以上に華奢な体をしている。ガリガリだけど軟らかくて壊れそうだ。成長してもこのままだと、王に壊されてしまうぞ。
俺が翡翠の体を調べていると、彼女は酷く怯えて、そして初めて喋った。
「止めて下さい止めて下さい止めて下さい」
それはまるで、追い詰められた小鳥が高く美しい声で許しを乞うている様で、俺は一瞬聞き入ってしまう。
鳴かせ甲斐のある声だ。
きっと王も気に入る。
「止めて下さい止めて下さい。私は子供です。まだ6歳なんです。大人の相手は出来ません」
翡翠は見え透いた嘘をついたが、子供ながらに俺に乱暴されると勘違いしたのだろう、誤解されても仕方がないが、ずっとそう思っていたのかと思うと少し可哀想に思えた。
「お前はもうすぐ10になるだろう?分別のつく歳だ。噛みつかないと約束するなら放してやろう」
「何もしないと約束するなら噛みつきません」
「何もしないさ。俺はね」
するのは『王』だ。
「私を売るんですか?」
翡翠の体が俺の下で戦いたのがわかった。
翡翠が、奴隷市でどんな思いで俺に買われたのか想像にかたくない。
「せっかく遠出して買ってきたのに、売り飛ばす訳がないだろう?」
いや、結局のところ翡翠を一人前にまで調教したら王のオモチャとして献上するんだ、それに近い事にはなるか。
「じゃあ、私はどうなるんですか?」
王族で、歳が10くらいにしてはしっかりとした言葉遣いだが、翡翠の声は不安で震えていた。
俺はかねがねサディストでサイコパスと名高かったが、翡翠の怯えようと、この小さい子供を押さえつけている罪悪感から少しだけ彼女を不憫に思う。考えてみれば、翡翠は王族と言っても、自国は戦争に負け、家族を殺され、自分は奴隷として闇市で売られ、今はこうして得体の知れない男に蹂躙されている、その恐怖と言ったらないだろう。俺だって優しくしてやりたいとは思うが、立場上そうもいかない。俺は翡翠を王へと献上するその日まで、彼女の調教師(ブリーダー)なのだから。
「翡翠、話をしよう。お前に言っておかなければならない事がある。手を放すけど、暴れたり、噛みついたり、逃げようとしない事」
『わかったか?』と俺が聞くと、翡翠は素直に頷き、俺は安心して彼女を解放した。
するとどうだろう、翡翠は待ってましたとばかりに玄関へ一目散に走り出し、俺はやれやれと大股でその後を追う。
とんだタヌキだ。もう騙されないぞ。
「翡翠、ここからは逃げられないぞ。この部屋から逃れたって、ここは北部国なんだ、誰も味方なんかいない。捕らえられて、またここに連れ戻される。城の外に出られたとしても、内部事情漏洩防止の為に撃たれる。最悪、俺がお前を処断しなければならなくなる。お前に逃げ場はない」
帰る場所だって、ないじゃあないか。
「ほら、手を焼かせるな」
出口のドアノブに飛び付いた翡翠を、俺は後ろからヒョイと持ち上げ、そのまま肩に担いだ。翡翠は漫画みたいに手足をばたつかせ、前と後ろから俺を攻撃してくる。
痛いじゃあないか。
「こら、暴れるな。往生際が悪いな、諦めろ。お前は王への献上品として俺に買われたんだ。献上品として王に奉仕し、お慰めする以外、お前に選択肢はない。あるとしたら、それは死だ」
俺は活きのいい翡翠の裏腿を押さえつけ、軽く尻を叩いた。
──こんな時になんだけど、こんなに腰が細くて貧弱で、将来、王を受け入れられるんだろうか?不安でしかない。
「放して下さい、私はまだ6歳の子供なんです」
この期に及んでまだいたいけな幼女のふりをするのか、食えない奴だ。しかしもう騙されないぞ。タヌキめ。
こうして歩いている間も、翡翠は俺から逃れようと俺の背中に爪をたててくる。なまじ力が強いだけに、当然凄く痛い。それはそれはとても。
少しくらい容赦しろよ。
「イテテテテ、大人しくしろ。6歳だからって、嫌がる幼女を無理やり犯すのが好きな変態だっているんだ、そんなでたらめ通用しないからな」
王がそうとは言わないが、俺はとにかく翡翠の引っ掻きが痛くてそんな出任せを言うと、彼女は硬直した様に体を強張らせた。
所詮子供か。
俺は翡翠を背負ったままベッドまで行き、くるりと反転させてそこに下ろすと、すぐに逃げようとする翡翠の肩を捕まえて瞬時に革の首輪を装置した。首輪にはリードが付いていて、それをしっかりと引くと、くんと翡翠が顎を上げる。こちらを見上げた翡翠は反抗的な眼をしていた。
少し手荒だが、そっちがその気なら、こっちはこうするまでだ。
「何が6歳の子供だ。ただの獣じゃあないか」
引っ掻かれた背中がヒリヒリと痛む。きっと血が出ているに違いない。
俺はこれ以上翡翠が暴れぬよう、しっかりと手綱を握り、片手で彼女の肩を掴んだ。
「痛っ」
「あ、ごめん」
翡翠が痛みで顔をしかめ、俺は力を弱める。暗がりの中目を凝らすと、彼女のはだけた肩が赤くなっていた。
この程度で痛がるのか、いや、元々日焼けで肌が炎症していたのもあるか。本当に弱いな。
「嫌がる……幼女を……無理やり……犯す……変……態……」
翡翠は震えて腰を抜かした。とんだ誤解をしているようだ。
俺はロリコンじゃあない。
「聞け。俺はその変態じゃあない。お前の調教師、教育係だ。お前はこれから沢山勉強をして王の側室や妾として王に誠心誠意奉仕し、お慰めするんだ。もし運良く子を孕む事が出来ればここでの権利は約束される。生涯食うに困らないし、お前がうまくやれば俺も出世して一国の王になれる。悪い話じゃあないだろう?要はビジネスさ。俺とお前の取引だ。俺達は助け合って自分らの権利を勝ち取るんだ。居場所を失ったのならここで居場所を勝ち取れ。俺はお前の国を滅ぼした北部国の人間だが、お前の唯一の味方だ。お前が献上されるその日まで、俺はお前を全力で守る」
『わかったな?』と尋ねると、翡翠は少し落ち着いた様に肩の力を抜いて頷いた。
「じゃあ、今、使用人を呼ぶから、風呂に入れてもらえ。使用人は女だから、別に抵抗はないだろう?南部国でも使用人に身の回りの世話をしてもらってたんだろ?お前は側室候補だから、ここでもそういう事は全て使用人にやってもらえ」
『わかったか?』と再度尋ねると、やはり翡翠は僅かに頷く。
意外と素直だな。歳のわりに聞き分けがいい。無口だが、一般的な子供みたいにギャンギャンうるさいより全然ましだ。
俺はポンと翡翠の頭を撫で、尻ポケットから出したスマホで使用人を呼ぼうとすると、翡翠は俺のシャツの裾を軽く引き、戸惑いながら尋ねる。
「王は何故泣いているんですか?」
「は?」
俺は翡翠が何を言っているのか解らず当惑した。
「奉仕して、お慰めしろと……」
「あぁ……」
それな……
相手は子供。解っているようで、解っていない。
どこを、何て説明したら……俺が翡翠くらいの時には全て知っていた。翡翠はどこまで知っている?雄しべがどうとか、雌しべがどうとか、コウノトリがどうとか、そのレベルか?いや、困ったな。
「泣いてはいないよ。多分……」
そんな澄んだ瞳で見られと、自分がどれだけ穢れているかまざまざと見せつけられているようだ。
そんな眩しいくらいあどけない瞳に見つめられ、俺は、夜のお務めの事はまだいいかと飲み込む。
「お前はまだ何も知らなくていいよ。少しずつ、ゆっくり教えてあげるから、お前はただ、ゆっくり大人になれ」
翡翠はまだまだ子供だ。献上品のお務めの事などまだ早い。今はまだ、無垢な子供のままでいい。
手で翡翠の髪をすいてやると、彼女は黙ってそれを受け入れた。あんなに暴れていたのが嘘の様。
「そうそう、俺はお前の調教師のセキレイだ」
俺は思い出した様にそう言って手を差し出したが、翡翠はその手を取らなかった。
……噛まれないだけましか。
それからすぐスマホで使用人を呼び、翡翠の手綱と革手袋を預けた。それを見た若い使用人はドン引きした眼で俺を見た。
変態ロリコン調教師とでも思われたか。
『相手は女性なんだから、絶対に噛むなよ?絶っ対に噛むなよ?わかったか?約束出来るな?』
俺が強く念押しすると、翡翠はうつむき加減に頷き、使用人に手綱を握られ連れて行かれた。その後ろ姿は、さながら保健所に連れて行かれる野良犬。しょぼんとこうべを垂れ、悲壮感さえ漂っている。
若い女性相手でもあの調子か、元々人見知りなのだろう。あれで王相手に奉仕だなんて破廉恥な事、どだい無理そうだ。モノを見ただけで怯えるか、最悪噛み千切るぞ。どう調理したものか、先が思いやられる。
そこからまた暫くして、とっくに夜も更けた時分にインターホンが鳴り、俺は早々にシャワーを切り上げ、腰にタオルを巻いて玄関に立つ。当然、使用人が翡翠を洗って戻って来たものだと思っていた。だが、ドアを開けると、そこにいたのは同じ調教師で、隣の部屋に住む翠(ミドリ)だった。
翠は俺と変わらない年頃で、爽やかな見た目と性格で、まるで体操のお兄さんの様な人物だ。髪も瞳も栗色で、くっきりとした二重に愛嬌があり、口角が上がっているせいか見る人に好印象を与える。しかし実際は、俺に対しては口煩い小姑だ。
「なんだ、翠か」
俺が早々にドアを閉めようとすると、すかさず翠がその隙間に手を差し込んできたので寧ろ思い切り閉めてやる。
「いだだだだだだだだだだだだだっ!セキレイ!指がもってかれる!」
悲鳴を上げる翠に両手でドアをこじ開けられ、俺は観念して奴の対応をする事にした。
「何だ?寒い、2秒で喋れ、寒い」
廊下から差し込む冷気のせいで俺の全身に鳥肌がたつ。
「いや、2分くれよ。この子、俺の部屋を訪ねて来た迷い子なんだけど、最近引き取るって言ってたセキレイとこの子じゃない?何も喋んないけど、部屋が隣だから間違えたみたいだよ」
『この子』と言って翠に手を引かれたのは、さっき使用人に託した筈の翡翠だった。翡翠の頭からは水滴が止めどなく滴り、首にはまだ泡が残っていて、バスタオルを羽織った状態で、風呂の途中で逃げ出して来たのは明らかだった。そんな翡翠はちゃっかりと翠の手を握りしめ、彼にくっついている。
何で翠の事は噛まないんだよ?何で秒で懐いているんだよ。こいつもしかして、部屋を間違えたんじゃあなく、俺から逃げる為に翠に助けを求めたんじゃあないだろうな?
怯えて翠の陰に隠れる翡翠を見ると、必然的に俺の切れ長の目が据わり、尚更彼女を恐がらせた。
「そんな睨むから震えちゃったじゃないか。子供相手にどうしてもっと笑顔で対応出来ないんだか。これだからサディストのサイコパスは困るよ。あー手が痛い。絶対骨いってるよ。この子達献上品は王の所有物にあたるんだから、もっと大切にだな……くどくどネチネチ……」
翠はくっきりとドアの痕が残った手をわざとらしく労りながらネチネチと俺に説教をたれる。
ウザいな……
「翡翠、早く来い」
俺はとにかく翠の説教から逃れたくて翡翠の手を引っ張った。
「やだ」
翡翠は翠にしがみつき、それを拒む。そうなると俺もついむきになって翡翠の腕を力任せに引く。
「痛い痛い痛い痛い痛い」
翡翠は痛がって顔をくしゃくしゃにしたが、それでも意固地に翠から離れようとしなかった。
「セキレイ、痛がってるじゃないか!相手は女の子だぞ!?お前、本当にどサドな」
慌てた翠に手を振りほどかれ、俺はため息をついて両手を腰に着く。
「何が不満なんだよ?翡翠、言ってみろ」
俺が冷たい声で吐き捨てると、翡翠は翠にすがって──
「この人、これから私に奉仕させる気なんです」
とか細い声で訴えた。
翡翠、お前、本当は、一体どこまで知っているんだ?
俺はガクリと脱力して肩を落とす。
「セキレイ、お前、来たばかりの子供にもうそんな事を……いくらなんでも鬼畜過ぎるだろ」
翠から侮蔑され、俺は誠に遺憾だったが、シャワーをしたままの半裸状態なうえに、翡翠には首輪も手綱も付けている、明らかに分が悪い。
「するか、子供相手に。木葉を溺愛しているロリコンに言われたくない」
ちなみに木葉(コノハ)とは、翡翠よりも2つ歳上の、翠が調教している献上品の事だ。翡翠にしてみたら木葉はライバルの1人。その木葉を、翠は蝶よ花よと甘やかして溺愛している。
「愛情いっぱいに育てれば、必然的に心豊かな素晴らしい女性に育つもんなんだよ。大切なのは心だよ。いかに外面が綺麗でも、心が豊でなければ、王の相手は人形でもいいんだから」
そう決め台詞を吐いて翠は自信満々に笑った。悔しいけれど、実のところ今の王の正室、紅玉を育て上げたのは翠だ。紅玉は他の正室候補者より群を抜いて抜きん出た魅力を持ち、王の圧倒的な寵愛から、北部国の平民でありながら正室までいっきにスピード出世した伝説の献上品なのだ。それにより、同じく北部国の平民の出身であった翠も今の大臣の座にまでのぼり詰めた。そして大臣の次は、良き側室を育てて一国の王になろうと言うのだ。翠は同僚でありながら、俺にとっての最大のライバルでもある。だからこそ、翠の言葉には説得力があるから嫌だった。
「翡翠!」
俺は翡翠を見下ろして名を呼びつけた。
確かに『体操のお兄さん翠』は偉大だが、よそはよそ、うちはうち。俺には俺のやり方がある。ただ愛情だなどと溺愛したところで、献上品に情を移してはならないのだ。それが調教師である俺達の鉄則。献上品はあくまで王の所有物なのだ。それに手をつけたらいかに大臣の称号を持つ調教師でも首をはねられる。だから献上品は絶対に処女でなくてはならないのだ。それに加え俺がこんな子供相手に欲情する訳もないのに、翡翠は何をそんなに怖がる事があるのか、俺には疑問だった。
「翡翠、来ないのか?そいつのうちの子供にでもなる気か?」
翡翠が床の一点を見つめたまま僅かに頷き、俺のこめかみに血管が浮く。
「言っておくが、そいつは本当のロリコンで、既に1人子供を囲っている。翠はお前の居場所ではないぞ。それでもいいならここを出て行け」
俺が翡翠に突き放した言い方しか出来ないのは、以前飼っていた瑪瑙での失敗談が元になっている……つまり、躾は大事、という事。瑪瑙の事は甘やかし過ぎた。
突き放された翡翠はと言うと、泣きそうな顔をして翠と俺を交互に見た後、一歩だけこちらに歩み寄った。たった一歩だったが、俺にしてみたら大きな一歩だったと思う。
「やれやれ、似た者同士がペアになると、こうも話がごたつくもんか」
本当にやれやれと翠が両手を掲げる。
「翡翠って言ったね。聞いた通り、うちには既に君みたいな女の子がいる。でもね、もしこの暴君に嫌な事をされたり、傷付けられたりしたら、またいつでも俺のところにおいで。別に、家出でなくても、木葉と遊んでくれるだけでもいい。厳しい世界だけど、俺には甘えてくれていいからね」
と腰を落とした翠に優しく声をかけられ、翡翠は今にも翠の方へ踵を返してしまいそうで、俺は焦りと共に彼女を捕まえて抱き上げた。
翡翠を翠に取られてしまいそうだと思った。
馬鹿な独占欲だが、自分んちの子をよそに取られるのが嫌だと思った。
『ちゃんと髪を拭いてあげるんだよ』
ドアを閉める際、そう翠に釘をさされ、俺は『わかってる』と不機嫌に返した。
人んちの子に、本当にお節介な奴だ。言われなくても、大事な献上品に風邪をひかせるわけにいかないんだ、頭くらい拭いてやるさ。
俺はバスルームから新たに持ってきたタオルで翡翠の濡れた髪を拭き上げ、ドライヤーで入念に乾かしてやる。
「熱い?」
念の為翡翠に確認すると、彼女は黙って首を横に振る。
翡翠の髪は黒くて艶々なわりに猫っ毛で柔らかく、手触りも良くてすぐに乾いた。
さらさらだ。ブラッシングいらずだな。
しかし瑪瑙をブラッシングしていた時の記憶が甦り、グルーミングはコミュニケーションの一貫という事を思い出し、せめて手櫛で翡翠の髪を整えてやると、彼女は気持ち良さそうに目を細めた。
こいつ、あんなに俺を嫌ってたのに、そんな顔もするんだな。
たったそれしきの事なのに、やけに感動的だった。手を噛まれた時の事を思えば、それも仕方ないだろう。
「さて、着替え」
俺はクローゼットから自分のシャツを引っ張り出し、それに着替えさせようと翡翠からバスタオルを取り去る。
「え……」
月明かりに照らされた翡翠の裸を見て俺は驚いた。日焼けで爛れた肩と、奴隷時代に受けた無数の青アザ、力任せに擦られたであろう擦り傷があちこちから血を滲ませ、目に痛々しかった。日焼けや青アザは別として、擦り傷はあの若い女性使用人がやったものだろう。俺は失念していたが、いかに使用人と言えど、城内にいる若い女性の誰もが、王のおめがねに叶えば一夜にして妾くらいにはなれる世界なのだ。たとえそれが調教された献上品でなくとも、可能性はゼロではない。言ってみれば城内にいる若い女性全てが翡翠のライバルであり、敵なのだ。こういった妬み、嫉み、嫌がらせや苛めもあるだろう。
「何で言わないんだよ」
まだ俺が信じられないのは解るが、これは痛かっただろうに。だから逃げてきたんだ。逃げて、隣の部屋の翠に助けを求めた。
……何か釈然としないな『俺が守る』と言ったのに、何故、見ず知らずの隣人の翠に助けを求める?
俺はモヤモヤしながらキッチンの戸棚から軟膏を取り出し、腹いせとばかりに嫌がる翡翠の手綱を引いてそれを全身にベタベタと塗りたくってやった。
ベタベタの軟膏のせいで俺のシャツが1枚無駄になったが、翡翠を隣の子供部屋に連れて行き、ベッドに寝かせる。この部屋は全面に青空の壁紙が貼られ、天井からは天体のオブジェがゆらゆらと吊るされている。そしてタンスから机まで、細部に渡って可愛らしく『子供部屋風』を装っている。大人しくて落ち着いている翡翠にはあべこべで不釣り合いに見えた。
「まさか、絵本でも読み聞かせろとは言わないだろうな?」
翡翠は枕に頭を沈めて横に振る。
「ここはずっと使ってなかったから、少しカビ臭いが、布団は日中干ししておいたからお日様の匂いがするだろう?」
俺がそう言うと、翡翠は顔を掛布団に埋めクンクンと匂いを嗅いだ。
「犬みたいだ」
変なところが素直で、変なところが子供らしくて、変なところに愛嬌があるもんだな。
瑪瑙みたいだ。
瑪瑙もよく、好きな物の匂いを嗅いでいた。俺の匂いもよく嗅いでいたな。最初は翡翠みたいに牙をむいていた。でも懐いてくると愛しくて仕方がなかった。目がくりくりしていて、よく俺の事を眼で追っていたっけ。
俺はつい感傷に浸り、目元を綻ばせると、目を丸くした翡翠と目が合う。
「何?」
俺が尋ねると、翡翠はそっぽを向いて布団に潜った。
何を考えてるんだが、掴みどころのない奴だな。まあ、瑪瑙みたいに下手に懐かれても困るけど。
調教師と献上品は寝起きを共にし、四六時中一緒にいても、決してそれ以上の関係になる事は許されない。家族でも、友人でも、恋人でもない、単なる『ブリーダーと犬』の関係であり続けなければならない。一定の距離と壁は大事なのだ。それに俺は子供が好きじゃあない。結果として、行き場のない翡翠の為にもなるが、私欲の為に調教師になった。北部国を除外した3つの国の中で最も経済の豊かな東部国を手中に収め、一国の王になる為。ただそれだけ。だから、大事な手駒である翡翠に風邪をひかせるわけにはいかない。
「温水ヒーターはついてるが、室温が20度も上がらないから少し寒いだろう?」
どれどれと俺は翡翠の足元に回り込み、彼女の小さな足を探り出すと、冷えきったそれを両手で包み込み、ハァと吐息を吹きかけてやる。
子供って冷え性とかあるのか?えらい冷たいな。というか、小さい足だな。ミニチュアみたいだ。
「こんな冷たいシーツと掛布団じゃあ、やっぱり足が冷たいよな?」
自然と、昔、瑪瑙にしたみたいに振る舞うと、翡翠はビクリと肩を跳ね上げ、足を引っ込めた。
「あ、ごめん」
俺は我に返り、首の後ろを掻く。
そうだった。相手は翡翠だ。瑪瑙じゃない。翡翠は瑪瑙と違ってこういうのが嫌なのだろう。生き物が違うから、そりゃそうなんだけど。
無意識に瑪瑙と翡翠を重ねて見ている自分がいて、馬鹿馬鹿しさに自嘲した。
今日は長い1日だった。翡翠にとっては俺以上に長かった事だろう。大人と子供とでは、流れる時間も違うだろうし。
明日から献上品の心得を教え込むわけだが、あの調子で大丈夫なのか?もし使い物にならなければ、元敵国の姫である翡翠は俺の手で処断する事になる。別に子供は好きじゃあないが、それはそれで後味が悪い。
絶対に翡翠を側室にしなければ。
亡き瑪瑙にも誓ったんだ。俺は絶対一国の王になると。
俺は明日のスケジュールを組み立てながらベッドで瞼を閉じる。腰にタオルを巻いただけのだらしない格好だったが、今日はやけに疲れて着替える気力もない。
朝食には何を作ろうか?風呂の件もあるから、使用人に翡翠の食べ物は任せられない。毒を盛られたら終わりだ。にしても誰かの為に料理をするなんて久しぶりだな。冷蔵庫にちゃんとした食材があったか?子供はピーマン嫌いだよな?翡翠はどうだろう?というか、俺の作った物を食べてくれるか?最初は栄養バランス度返しで子供の好きそうな物にしよう。慣れたらピーマン地獄のピーマンフィーバーだ。あれは栄養があるからな、多分。
あれやこれやと考えあぐねいているうち、俺は意識を手放し、微睡み始める。
「瑪瑙……」
ゴロゴロゴロ……
ガラガラガラ……
夢うつつの中、俺は意識とは遠いところで雷の閃光と雷鳴を感じた。
……結構近いな……
……瑪瑙は大丈夫だろうか?
…あれは雷が苦手で……
カカッ!!
夢と現実が入り交じる中、雷鳴が一際強く轟き、空気を引き裂く様な爆音が窓や建物をガタガタと揺らした。
……近くに落ちたな。
そう思った時、子供部屋のドアのノブが激しく音をたてて回った。
ガチンッ!
チャイルドロックが掛かったドアが開けられたのが判った。
馬鹿力が、どうした?翡翠。
俺は瞼を閉じたままドアに背を向けて様子を窺う。もし翡翠が玄関の出口から逃げるようならそれなりの罰を与えるつもりでいた。
人の気配がすぐ後方でする。布団を手で探っているのか、さわさわと衣擦れの音がして、俺は、もしかして翡翠は俺の寝首をかこうとしている?と疑惑を持つ。
そうだ、俺は調教師という名の親代わりだが、そもそも翡翠にとっては憎き敵国の人間に過ぎない。寝込みを襲われても不思議はない。
俺はいつ襲われてもいいように覚悟を決め、翡翠のアクションを待った。
ガラガラガラッ!
「あっ!」
翡翠が雷に驚き、短く声をあげ、突然ベッドに潜り込んで来たかと思うと、俺の背中にしっかりと掴まり、震えていた。
……なんだ。雷が怖いのか。
これだから子供は、と呆れたが、背中に必死でしがみついてくる翡翠があまりにも瑪瑙とリンクして、ちょっと可愛いと思えた。
飼い犬は、雷の日によく迷い犬になるらしい。
何故かふとそんな事を思い出し、俺はくるりと体を半回転させ、小刻みに震えて抱き付いてくる翡翠を両腕でしっかりと包み込み、胸に抱いた。地肌に子供の体温が熱くて、心地よかった。
献上品として、男のベッドに潜り込む度胸は認めるが……
「大丈夫」
宥める様に優しく翡翠の頭を撫で、そこに顔を埋めると、石鹸のいい匂いがした。
「なぁ、翡翠、絶対に俺の事を好きになるなよ」
──今だけ。
そうして俺は自分をも戒めた。
翌朝、昨晩の雷が嘘の様な、窓から差す陽の眩しさで目が覚めた。
いつも朝方は冷え込んでいて、身を縮めて暖をとっているのに、今朝はべったりとくっついている翡翠のお陰でうっすら寝汗さえかいている。
気を張っていたのか、疲れていたのか、翡翠は俺につむじをツンツンと刺激されても微動だにしない。
少し腫れがひいたか?
翡翠の寝顔は天使そのもの。少し青アザは残るものの、年齢にしては大人びた、子供らしくない端正な容姿をしていた。
驚いた。結構、いや、わりと整った顔をしてないか?目を開けたらきっと美人だ。へぇ、わからないものだ。
俺はやけに感嘆として翡翠の前髪を上げて凝視する。
早く起きて、その顔をよく見せろ。
起こすのは忍びなかったが、俺はそれとなく身じろいでサイドテーブルの煙草に手を伸ばし、やめた。いつもは起き抜けに取り敢えず一服するのだが『副流煙による子供への悪影響』という資料DVDの内容を思い出し、喫煙を思い留めたのだ。
副流煙は子供の成長に悪いらしい。
それにしても何だか腰の辺りが生ぬるくて気持ちが悪い。
俺は掛け布団を持ち上げて中を確認してみた。
「……」
俺は言葉を失った。
翡翠は敷き布団に日本地図を描いたらしい。
昨晩の雷があまりにも怖かったのか、俺が水分を摂らせ過ぎたのか、はたまた精神的なものなのか、定かではないが、翡翠は俺のベッドにおねしょをしていた。
これは良くない。ベッドでの粗相は処断ものだ。
俺は無性に煙草が吸いたくなったが、眉間を押さえてその欲求をやり過ごす。
「おい、起きろ」
ベチベチと、安らかな翡翠の頬をはたき、文字通り彼女を叩き起こした。
「ぅん……」
翡翠は夢心地のまま目を擦りながら目覚め、目の前にいるのが俺だと認識すると驚いてベッドから落ちそうになり、寸前で俺が彼女の背中を抱き寄せる。
「自分から潜り込んで来ておいてそれはないだろう」
『危ない危ない』と俺が肝を冷やしていると、翡翠は俺の胸板を足蹴にし、結局ベッドから落ちて尻もちを着いた。
懐いたかと思うと、これだよ。
「まあ、いい。お前、ちょっとこっち来い」
俺は有無を言わさず翡翠をバスルームまで引っ張って行き、裸にひん剥いて頭から洗い直してやる。翡翠は水を嫌う猫みたいにじたばたと暴れ、昨夜のしおらしかった翡翠は何処へやら、俺は噛まれるの、殴られるのと酷いめにあった。
朝のどたばたが一段落して、俺が作ったフレンチトーストを2つ向かい合わせてテーブルに置き、それぞれそれに合わせて着席したところで、ようやく翡翠の顔を改めてまじまじと凝視する事が出来た。
何だ?やたらと整った顔をしているじゃあないか。目は据わって、酷いクマだが、これは磨けば、ひょっとするかもしれない。
俺の胸は期待で高鳴った。
翡翠か、これは鍛え甲斐があるな。
「っ!!」
噛まれた!
俺は咄嗟にケージを放してしまい、翡翠は停めてあった車にゲージごと派手に激突する。ケージは上の部分がひしゃげ、雪には、噛まれた俺の右手から滴る血で殺人現場の様。指がもげなかっただけでもラッキーくらいの傷と痛みだった。
こいつ、本気で噛みやがった。
今になって、奴隷商人の注意事項その1『ケージは絶対に上の取っ手部分を持つ事』を思い出す。考えてみれば、害獣駆除の業者も絶対に獣の牙が届くような捕獲かごの持ち方はしない。1つ勉強した。俺はジャケットに付いた雪を払い、それを着ると今度はケージの取っ手を持って城へと入る。
献上品に風邪をひかれては困ると思ったが、要らぬ事をしたようだ。
鉄扉から雪に埋もれた広い中庭を抜け、またしても裏口の鉄扉をくぐり、そこから薄暗くて無機質な白壁の長い廊下を進み、エレベーターで一気に19階まで上がり、カードキーで自室に入る。ちなみにこの城の最上階には王のパーソナルスペースがある。
「ふぅ」
広くて、ベッド以外これと言って何も無い部屋だが、入り口のチェストに鍵を置くと、どっと1日の疲れが肩にのしかかり、俺はすぐにタイを緩め、長めの髪をかき上げた。
そして奴隷商人の注意事項その2『革手袋を装着の上、首輪と鞭を使用する事』を守りつつ、注意事項その3『必ず施錠した室内でかごを開ける事』を実践する。
ドアはオートロックで、特別にチャイルドロックまで取り付けてあるので問題ない。あとはチェストの1番下の引き出しから革手袋、首輪、鞭を取り出す。
こんな子供相手に仰々しい事だ、と思ったが、噛まれた右手が疼き、きっちりと革手袋を装着して鞭と首輪を用意した。
さて、準備は万端。完全防備だ。何故か猛獣を相手にしている感は否めないが、最初はこんなものだろう。
俺は奴隷商人から貰った鍵でケージの扉を解錠し、扉を開けようとすると、ケージの奥で丸くなっていた翡翠が突然電光石火の速さで中から扉を押さえつけ、それを阻止した。
「……」
……開けられないじゃあないか。
しかも年齢よりずっと体が小さいのに翡翠はとんでもなく馬鹿力だった。
火事場の何とかか。
しかしそこはさすがに女で、子供、俺が容赦なく思い切り扉をこじ開けると弾みで扉自体が何処かへ飛んでいく。
少しむきになったが、ここが俺の最大の短所であり、大人気ないところ。
「出ろ」
ぶっきらぼうに命令したが、逆に翡翠は怖がってケージの端で丸くなった。
面倒だな。
「お前はアルマジロか何かか?さっさと出ろ」
そう言うと俺は、ケージをむんずと掴み、逆さまにしてそれを強引に振るう。翡翠は振るい落とされぬようケージに指を引っかけて必死に食いつく。
「くぅっ」
ここで初めて翡翠の声を耳にする。
意外と高い声で鳴くんだな……子供だから、それもそうか。
何故か妙に感心しながらも、俺は鬼の如くケージを振り回したが、子供ながらに頑固な翡翠の粘り勝ちというか、俺の腕が悲鳴をあげているというか、つまり俺はこの強情っぱりに根負けして遂にケージを投げ出した。
フローリングの床は、翡翠の体から落ちた砂でザリザリと散らかり、俺は思わず眉をひそめる。
床が……何だ、こいつ、とんでもない頑固者じゃあないか。床……床!
余談だが、人を部屋にあげるのが憚られるうえに、人に任せられないたちの俺は、いつも自分で部屋を隅々まで綺麗に掃除している。だからと言ってせっかくピカピカに磨き上げたフローリングが砂でザリザリになったくらいで怒るような器の小さい人間ではない。ただ少しだけ、猛烈に、かつ控え目に苛つきはしている。
あぁ、煙草が吸いたい。
とりあえず落ち着こう。床が何だ。床の事はもういい。床の事などどうでもいい。ん?窓から射す月明かりで床に傷が見えるな。これはさっきケージを放った時の傷か。傷は駄目だ。砂はいい。いっそ今は傷が気になって仕方がない……傷……で、何の話だ?
──しばしのシンキングタイム。俺は昔飼っていた『犬』の事を思い出す。
瑪瑙(メノウ)も最初ここに来た時は怯えてケージから出て来なかった。優しく呼び掛けて、手を出したら、翡翠みたいに噛みついてきたものだ。あれも最初は噛み癖が酷くて手を焼いた。動物は環境の変化に敏感だから、最初は何もせず、そっと様子を窺うくらいが丁度良いんだったな。
そうと解れば話は早い。俺はベッドのヘリに腰掛け、首輪と鞭を握ったまま翡翠がケージから出て来るその時を待つ。
翡翠は相変わらずケージの奥で縮こまっているが、不躾に観察している俺の目が気になってか、薄暗い室内の中、青い眼を光らせてこちらを盗み見ていた。
やっぱり綺麗な眼だ。それ自体が光り輝いている様で、僅かに見る角度が違える度にうるうると煌めき、涙目になっているみたいだ。いっそこの手でその円らなホープダイヤから穢れない雫を流させてみたい。
──そんな風に思ったところで俺は、翡翠とよく似た瞳を持っていた瑪瑙を思い出していた。
ああ、そうか。成る程。どうしてこんなに青い瞳に惹かれるのか解った。
さて、ところで翡翠がケージから出て来たかと言うと、答えは『ノー』だ。互いにずっとにらめっこをしたまま膠着状態だ。
「……」
「……」
俺はいい加減煙草が吸いたくなってイライラし始める。色々と落ち着いたら寝る前に一服しようと思っていたのが、ついぞ尻ポケットでグシャグシャになった煙草に手をかけると、床に散らばった砂で名案を思い付く。
そうだ。こいつ、喉が渇いているに違いない。水をやろう。
そうと決まれば俺はベッドサイドに備え付けられた冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを2本取り出し、1本を開栓して3分の1程これ見よがしにごくごくと喉を鳴らして飲んで見せると、物欲しそうに見上げてくる翡翠の鼻先にそれを突き出した。
「ほら、毒は入っていないから」
俺は妙案の為に柄にもなく優しげな声音を翡翠にかける。
本当に、毒が無くて残念だ。痺れ薬くらい用意しておくんだった。回りくどい。
「ほら、喉が渇いているんだろう?」
怯えながらも迷っている翡翠を誘惑し、俺は彼女の目の前にボトルを置く。
「ハァッハァッ」
俺の手がボトルから離れるのが先か、翡翠がそれを引ったくるのが先か、彼女は慌ててボトルの飲み口を裾で拭うと、食らい付く様に水を飲んだ。そして空になったボトルがベコッと凹んだタイミングで2本目のボトルを置くと、翡翠はそれも流し込む様にあっという間に空にした。
気のせいか、飲み口拭いた?
細かいことはさておき、俺は隣の部屋のキッチンへ行き、インスタントのコーンポタージュスープを用意する。
「お前にはこの国は寒いだろ?これで体を温めるといい。腹も減っているだろうし」
俺の用意したスープなど警戒するだろうと、俺は先刻と同じようにスプーンで一口味見してからそれを翡翠に差し出す。
「ほら、毒は入っていないだろ?」
俺がひきつった慣れない笑顔でそう言うと、デジャヴか、翡翠はまたしてもスプーンを裾で拭ってスープを飲んだ。
拭……
今度は気のせいじゃあなかった。
「……」
ちょっとイラッとはしたが、ここで短気を起こせば元も子もない。俺は努めて平静を装いつ、翡翠が飲み干した皿を片付け、それからまたベッドのヘリに座ってその時を待つ。
──しかし煙草が旨いな。
あれから俺は4本目の煙草に火を着けた。こうして翡翠を観察していると、自分で連れて来ておいて、これが王の献上品にまで成長出来るか心配になる。
この大陸を4分するうちの1つ、南部国の王の末娘という血筋と肩書きは申し分ないが、器量が伴わないうえにこの怯えようじゃあ、献上品として王の相手を果たせるのか?俺相手だったから事なきを得たが、王に噛みついてみろ、その場で調教師の俺が責任をもって首をはねなければならなくなる。見た目はなるようにしかならないが、せめて寝所のお務めで王を満足させられるよう調教しなければ。まずは少しでも見られるように身なりを整えるところから。あとは、元がどうかは顔面の腫れがひかない事には何とも言えないが、愛嬌があれば王に可愛がってもらえるだろう。それと努力次第、どれだけ従順に奉仕出来るか……あと5、6年でどれだけ成長出来るか……モヤモヤクドクド……
はてさて、俺があれやこれやとこれからの展望を見据えていると、ようやく『その時』がきた。翡翠が顔を赤くして歯を食いしばり始める。
「どうした?」
俺は白々しく尋ねた。
「くぅ……」
翡翠は恨めしそうに俺を見上げ、内股で膝を抱える。
「あれだけ水を飲めば出したくもなるさ。そこのキッチンの入って左の奥がトイレだ。行っておいで」
体も冷えていただろうし、この部屋もさして暖かくはないし、外は雪から雨に変わり、湿度まで上がってはトイレが近くなっても仕方がない。それも、子供なら尚更。
俺は天井に向けて煙の輪を吐き出す。
──そう。全ては計算通り。翡翠に水分を多量に摂らせて、自分からケージを出るよう仕向けたのだ。遠回しなやり方に思えるかもしれないが、水や餌で釣ってケージからおびき寄せたところでいつ出て来るとも知れないので、確実な方法を選択した。それに、大事なのは自分の足でケージを出る事だ。これは『北風と太陽』に学んだ……やり方は鬼畜だが。子供と言ってもそろそろ10になる頃合いだ、しかも王家のプライドもあるだろう、羞恥心は持ち合わせているはず。まさかここでお漏らしするような恥態はさらすまい。というか、そうあってほしい。床が……
「どうした?トイレに行きたいんだろ?行っておいで」
よもや翡翠がここまで頑固だとは思わなかった。
翡翠が催してから30分は経った。かなり辛い筈なのに、翡翠は両手を握りしめて健闘している。顔なんか真っ青だ。
──言ってしまうと、こっちの方が焦っている。
まさか俺の目の前でお漏らしするとかないよな?それはそれでショッキングというか、俺の良心の呵責が苛まれるだろう。
「俺の見てる前でお漏らしする気か?別にそこから出ても何もしないから、我慢していないで早く行け」
と言うのに、翡翠は石みたいに頑なにそれを拒む。
子供らしくないというか、可愛げがないというか……
「うっく……ハ、ハァ……ハァ……」
冷や汗でびちょびちょの翡翠が限界を突破して足の指をギュッと握りしめ、俺は見兼ねてケージごと翡翠をトイレに連れて行った。
「本当に仕方がない奴だな」
トイレの入り口に向けてケージを置くと、おずおずと翡翠が出てきて、俺はそのままトイレのドアを閉めるとケージをリビングの窓から投げ捨てる。
「本っ当に手のかかる奴だ」
俺は床に散らばった砂を前に、腰に手を当ててため息を吐くと、クローゼットのコードレス掃除機を手にした。
俺が掃除機をかけている間に、翡翠が用をたしてリビングに戻ってきて絶望的な顔をする。
巣(ケージ)がないっ!?
と思った事だろう。それを確認すると翡翠はまたトイレに戻ろうとして踵を返すが、そうはいかない。俺は掃除機を投げ出して彼女の腕を捕まえた。ちなみにトイレに籠城されるのを防ぐ為、鍵は事前に取っ払ってある。
「観念しろ。いつまでもケージに閉じ籠ってても仕方がないだろ?別に悪いようにはしないから、大人しくしろ」
「ぁぅっ!」
「危なっ!」
翡翠が自慢の犬歯で俺の手に噛みつこうとして、俺はつい本気で彼女の腕を後ろ手に締め上げ、床にうつ伏せで組敷く。
「ぁっ!」
翡翠は短く声をあげた。
いかに翡翠が馬鹿力でも、大人で、男の俺に敵う筈もなく、体重をかけた俺の下で力無く足掻いている。
見るのと触れるのとでは全然違うな。思った以上に華奢な体をしている。ガリガリだけど軟らかくて壊れそうだ。成長してもこのままだと、王に壊されてしまうぞ。
俺が翡翠の体を調べていると、彼女は酷く怯えて、そして初めて喋った。
「止めて下さい止めて下さい止めて下さい」
それはまるで、追い詰められた小鳥が高く美しい声で許しを乞うている様で、俺は一瞬聞き入ってしまう。
鳴かせ甲斐のある声だ。
きっと王も気に入る。
「止めて下さい止めて下さい。私は子供です。まだ6歳なんです。大人の相手は出来ません」
翡翠は見え透いた嘘をついたが、子供ながらに俺に乱暴されると勘違いしたのだろう、誤解されても仕方がないが、ずっとそう思っていたのかと思うと少し可哀想に思えた。
「お前はもうすぐ10になるだろう?分別のつく歳だ。噛みつかないと約束するなら放してやろう」
「何もしないと約束するなら噛みつきません」
「何もしないさ。俺はね」
するのは『王』だ。
「私を売るんですか?」
翡翠の体が俺の下で戦いたのがわかった。
翡翠が、奴隷市でどんな思いで俺に買われたのか想像にかたくない。
「せっかく遠出して買ってきたのに、売り飛ばす訳がないだろう?」
いや、結局のところ翡翠を一人前にまで調教したら王のオモチャとして献上するんだ、それに近い事にはなるか。
「じゃあ、私はどうなるんですか?」
王族で、歳が10くらいにしてはしっかりとした言葉遣いだが、翡翠の声は不安で震えていた。
俺はかねがねサディストでサイコパスと名高かったが、翡翠の怯えようと、この小さい子供を押さえつけている罪悪感から少しだけ彼女を不憫に思う。考えてみれば、翡翠は王族と言っても、自国は戦争に負け、家族を殺され、自分は奴隷として闇市で売られ、今はこうして得体の知れない男に蹂躙されている、その恐怖と言ったらないだろう。俺だって優しくしてやりたいとは思うが、立場上そうもいかない。俺は翡翠を王へと献上するその日まで、彼女の調教師(ブリーダー)なのだから。
「翡翠、話をしよう。お前に言っておかなければならない事がある。手を放すけど、暴れたり、噛みついたり、逃げようとしない事」
『わかったか?』と俺が聞くと、翡翠は素直に頷き、俺は安心して彼女を解放した。
するとどうだろう、翡翠は待ってましたとばかりに玄関へ一目散に走り出し、俺はやれやれと大股でその後を追う。
とんだタヌキだ。もう騙されないぞ。
「翡翠、ここからは逃げられないぞ。この部屋から逃れたって、ここは北部国なんだ、誰も味方なんかいない。捕らえられて、またここに連れ戻される。城の外に出られたとしても、内部事情漏洩防止の為に撃たれる。最悪、俺がお前を処断しなければならなくなる。お前に逃げ場はない」
帰る場所だって、ないじゃあないか。
「ほら、手を焼かせるな」
出口のドアノブに飛び付いた翡翠を、俺は後ろからヒョイと持ち上げ、そのまま肩に担いだ。翡翠は漫画みたいに手足をばたつかせ、前と後ろから俺を攻撃してくる。
痛いじゃあないか。
「こら、暴れるな。往生際が悪いな、諦めろ。お前は王への献上品として俺に買われたんだ。献上品として王に奉仕し、お慰めする以外、お前に選択肢はない。あるとしたら、それは死だ」
俺は活きのいい翡翠の裏腿を押さえつけ、軽く尻を叩いた。
──こんな時になんだけど、こんなに腰が細くて貧弱で、将来、王を受け入れられるんだろうか?不安でしかない。
「放して下さい、私はまだ6歳の子供なんです」
この期に及んでまだいたいけな幼女のふりをするのか、食えない奴だ。しかしもう騙されないぞ。タヌキめ。
こうして歩いている間も、翡翠は俺から逃れようと俺の背中に爪をたててくる。なまじ力が強いだけに、当然凄く痛い。それはそれはとても。
少しくらい容赦しろよ。
「イテテテテ、大人しくしろ。6歳だからって、嫌がる幼女を無理やり犯すのが好きな変態だっているんだ、そんなでたらめ通用しないからな」
王がそうとは言わないが、俺はとにかく翡翠の引っ掻きが痛くてそんな出任せを言うと、彼女は硬直した様に体を強張らせた。
所詮子供か。
俺は翡翠を背負ったままベッドまで行き、くるりと反転させてそこに下ろすと、すぐに逃げようとする翡翠の肩を捕まえて瞬時に革の首輪を装置した。首輪にはリードが付いていて、それをしっかりと引くと、くんと翡翠が顎を上げる。こちらを見上げた翡翠は反抗的な眼をしていた。
少し手荒だが、そっちがその気なら、こっちはこうするまでだ。
「何が6歳の子供だ。ただの獣じゃあないか」
引っ掻かれた背中がヒリヒリと痛む。きっと血が出ているに違いない。
俺はこれ以上翡翠が暴れぬよう、しっかりと手綱を握り、片手で彼女の肩を掴んだ。
「痛っ」
「あ、ごめん」
翡翠が痛みで顔をしかめ、俺は力を弱める。暗がりの中目を凝らすと、彼女のはだけた肩が赤くなっていた。
この程度で痛がるのか、いや、元々日焼けで肌が炎症していたのもあるか。本当に弱いな。
「嫌がる……幼女を……無理やり……犯す……変……態……」
翡翠は震えて腰を抜かした。とんだ誤解をしているようだ。
俺はロリコンじゃあない。
「聞け。俺はその変態じゃあない。お前の調教師、教育係だ。お前はこれから沢山勉強をして王の側室や妾として王に誠心誠意奉仕し、お慰めするんだ。もし運良く子を孕む事が出来ればここでの権利は約束される。生涯食うに困らないし、お前がうまくやれば俺も出世して一国の王になれる。悪い話じゃあないだろう?要はビジネスさ。俺とお前の取引だ。俺達は助け合って自分らの権利を勝ち取るんだ。居場所を失ったのならここで居場所を勝ち取れ。俺はお前の国を滅ぼした北部国の人間だが、お前の唯一の味方だ。お前が献上されるその日まで、俺はお前を全力で守る」
『わかったな?』と尋ねると、翡翠は少し落ち着いた様に肩の力を抜いて頷いた。
「じゃあ、今、使用人を呼ぶから、風呂に入れてもらえ。使用人は女だから、別に抵抗はないだろう?南部国でも使用人に身の回りの世話をしてもらってたんだろ?お前は側室候補だから、ここでもそういう事は全て使用人にやってもらえ」
『わかったか?』と再度尋ねると、やはり翡翠は僅かに頷く。
意外と素直だな。歳のわりに聞き分けがいい。無口だが、一般的な子供みたいにギャンギャンうるさいより全然ましだ。
俺はポンと翡翠の頭を撫で、尻ポケットから出したスマホで使用人を呼ぼうとすると、翡翠は俺のシャツの裾を軽く引き、戸惑いながら尋ねる。
「王は何故泣いているんですか?」
「は?」
俺は翡翠が何を言っているのか解らず当惑した。
「奉仕して、お慰めしろと……」
「あぁ……」
それな……
相手は子供。解っているようで、解っていない。
どこを、何て説明したら……俺が翡翠くらいの時には全て知っていた。翡翠はどこまで知っている?雄しべがどうとか、雌しべがどうとか、コウノトリがどうとか、そのレベルか?いや、困ったな。
「泣いてはいないよ。多分……」
そんな澄んだ瞳で見られと、自分がどれだけ穢れているかまざまざと見せつけられているようだ。
そんな眩しいくらいあどけない瞳に見つめられ、俺は、夜のお務めの事はまだいいかと飲み込む。
「お前はまだ何も知らなくていいよ。少しずつ、ゆっくり教えてあげるから、お前はただ、ゆっくり大人になれ」
翡翠はまだまだ子供だ。献上品のお務めの事などまだ早い。今はまだ、無垢な子供のままでいい。
手で翡翠の髪をすいてやると、彼女は黙ってそれを受け入れた。あんなに暴れていたのが嘘の様。
「そうそう、俺はお前の調教師のセキレイだ」
俺は思い出した様にそう言って手を差し出したが、翡翠はその手を取らなかった。
……噛まれないだけましか。
それからすぐスマホで使用人を呼び、翡翠の手綱と革手袋を預けた。それを見た若い使用人はドン引きした眼で俺を見た。
変態ロリコン調教師とでも思われたか。
『相手は女性なんだから、絶対に噛むなよ?絶っ対に噛むなよ?わかったか?約束出来るな?』
俺が強く念押しすると、翡翠はうつむき加減に頷き、使用人に手綱を握られ連れて行かれた。その後ろ姿は、さながら保健所に連れて行かれる野良犬。しょぼんとこうべを垂れ、悲壮感さえ漂っている。
若い女性相手でもあの調子か、元々人見知りなのだろう。あれで王相手に奉仕だなんて破廉恥な事、どだい無理そうだ。モノを見ただけで怯えるか、最悪噛み千切るぞ。どう調理したものか、先が思いやられる。
そこからまた暫くして、とっくに夜も更けた時分にインターホンが鳴り、俺は早々にシャワーを切り上げ、腰にタオルを巻いて玄関に立つ。当然、使用人が翡翠を洗って戻って来たものだと思っていた。だが、ドアを開けると、そこにいたのは同じ調教師で、隣の部屋に住む翠(ミドリ)だった。
翠は俺と変わらない年頃で、爽やかな見た目と性格で、まるで体操のお兄さんの様な人物だ。髪も瞳も栗色で、くっきりとした二重に愛嬌があり、口角が上がっているせいか見る人に好印象を与える。しかし実際は、俺に対しては口煩い小姑だ。
「なんだ、翠か」
俺が早々にドアを閉めようとすると、すかさず翠がその隙間に手を差し込んできたので寧ろ思い切り閉めてやる。
「いだだだだだだだだだだだだだっ!セキレイ!指がもってかれる!」
悲鳴を上げる翠に両手でドアをこじ開けられ、俺は観念して奴の対応をする事にした。
「何だ?寒い、2秒で喋れ、寒い」
廊下から差し込む冷気のせいで俺の全身に鳥肌がたつ。
「いや、2分くれよ。この子、俺の部屋を訪ねて来た迷い子なんだけど、最近引き取るって言ってたセキレイとこの子じゃない?何も喋んないけど、部屋が隣だから間違えたみたいだよ」
『この子』と言って翠に手を引かれたのは、さっき使用人に託した筈の翡翠だった。翡翠の頭からは水滴が止めどなく滴り、首にはまだ泡が残っていて、バスタオルを羽織った状態で、風呂の途中で逃げ出して来たのは明らかだった。そんな翡翠はちゃっかりと翠の手を握りしめ、彼にくっついている。
何で翠の事は噛まないんだよ?何で秒で懐いているんだよ。こいつもしかして、部屋を間違えたんじゃあなく、俺から逃げる為に翠に助けを求めたんじゃあないだろうな?
怯えて翠の陰に隠れる翡翠を見ると、必然的に俺の切れ長の目が据わり、尚更彼女を恐がらせた。
「そんな睨むから震えちゃったじゃないか。子供相手にどうしてもっと笑顔で対応出来ないんだか。これだからサディストのサイコパスは困るよ。あー手が痛い。絶対骨いってるよ。この子達献上品は王の所有物にあたるんだから、もっと大切にだな……くどくどネチネチ……」
翠はくっきりとドアの痕が残った手をわざとらしく労りながらネチネチと俺に説教をたれる。
ウザいな……
「翡翠、早く来い」
俺はとにかく翠の説教から逃れたくて翡翠の手を引っ張った。
「やだ」
翡翠は翠にしがみつき、それを拒む。そうなると俺もついむきになって翡翠の腕を力任せに引く。
「痛い痛い痛い痛い痛い」
翡翠は痛がって顔をくしゃくしゃにしたが、それでも意固地に翠から離れようとしなかった。
「セキレイ、痛がってるじゃないか!相手は女の子だぞ!?お前、本当にどサドな」
慌てた翠に手を振りほどかれ、俺はため息をついて両手を腰に着く。
「何が不満なんだよ?翡翠、言ってみろ」
俺が冷たい声で吐き捨てると、翡翠は翠にすがって──
「この人、これから私に奉仕させる気なんです」
とか細い声で訴えた。
翡翠、お前、本当は、一体どこまで知っているんだ?
俺はガクリと脱力して肩を落とす。
「セキレイ、お前、来たばかりの子供にもうそんな事を……いくらなんでも鬼畜過ぎるだろ」
翠から侮蔑され、俺は誠に遺憾だったが、シャワーをしたままの半裸状態なうえに、翡翠には首輪も手綱も付けている、明らかに分が悪い。
「するか、子供相手に。木葉を溺愛しているロリコンに言われたくない」
ちなみに木葉(コノハ)とは、翡翠よりも2つ歳上の、翠が調教している献上品の事だ。翡翠にしてみたら木葉はライバルの1人。その木葉を、翠は蝶よ花よと甘やかして溺愛している。
「愛情いっぱいに育てれば、必然的に心豊かな素晴らしい女性に育つもんなんだよ。大切なのは心だよ。いかに外面が綺麗でも、心が豊でなければ、王の相手は人形でもいいんだから」
そう決め台詞を吐いて翠は自信満々に笑った。悔しいけれど、実のところ今の王の正室、紅玉を育て上げたのは翠だ。紅玉は他の正室候補者より群を抜いて抜きん出た魅力を持ち、王の圧倒的な寵愛から、北部国の平民でありながら正室までいっきにスピード出世した伝説の献上品なのだ。それにより、同じく北部国の平民の出身であった翠も今の大臣の座にまでのぼり詰めた。そして大臣の次は、良き側室を育てて一国の王になろうと言うのだ。翠は同僚でありながら、俺にとっての最大のライバルでもある。だからこそ、翠の言葉には説得力があるから嫌だった。
「翡翠!」
俺は翡翠を見下ろして名を呼びつけた。
確かに『体操のお兄さん翠』は偉大だが、よそはよそ、うちはうち。俺には俺のやり方がある。ただ愛情だなどと溺愛したところで、献上品に情を移してはならないのだ。それが調教師である俺達の鉄則。献上品はあくまで王の所有物なのだ。それに手をつけたらいかに大臣の称号を持つ調教師でも首をはねられる。だから献上品は絶対に処女でなくてはならないのだ。それに加え俺がこんな子供相手に欲情する訳もないのに、翡翠は何をそんなに怖がる事があるのか、俺には疑問だった。
「翡翠、来ないのか?そいつのうちの子供にでもなる気か?」
翡翠が床の一点を見つめたまま僅かに頷き、俺のこめかみに血管が浮く。
「言っておくが、そいつは本当のロリコンで、既に1人子供を囲っている。翠はお前の居場所ではないぞ。それでもいいならここを出て行け」
俺が翡翠に突き放した言い方しか出来ないのは、以前飼っていた瑪瑙での失敗談が元になっている……つまり、躾は大事、という事。瑪瑙の事は甘やかし過ぎた。
突き放された翡翠はと言うと、泣きそうな顔をして翠と俺を交互に見た後、一歩だけこちらに歩み寄った。たった一歩だったが、俺にしてみたら大きな一歩だったと思う。
「やれやれ、似た者同士がペアになると、こうも話がごたつくもんか」
本当にやれやれと翠が両手を掲げる。
「翡翠って言ったね。聞いた通り、うちには既に君みたいな女の子がいる。でもね、もしこの暴君に嫌な事をされたり、傷付けられたりしたら、またいつでも俺のところにおいで。別に、家出でなくても、木葉と遊んでくれるだけでもいい。厳しい世界だけど、俺には甘えてくれていいからね」
と腰を落とした翠に優しく声をかけられ、翡翠は今にも翠の方へ踵を返してしまいそうで、俺は焦りと共に彼女を捕まえて抱き上げた。
翡翠を翠に取られてしまいそうだと思った。
馬鹿な独占欲だが、自分んちの子をよそに取られるのが嫌だと思った。
『ちゃんと髪を拭いてあげるんだよ』
ドアを閉める際、そう翠に釘をさされ、俺は『わかってる』と不機嫌に返した。
人んちの子に、本当にお節介な奴だ。言われなくても、大事な献上品に風邪をひかせるわけにいかないんだ、頭くらい拭いてやるさ。
俺はバスルームから新たに持ってきたタオルで翡翠の濡れた髪を拭き上げ、ドライヤーで入念に乾かしてやる。
「熱い?」
念の為翡翠に確認すると、彼女は黙って首を横に振る。
翡翠の髪は黒くて艶々なわりに猫っ毛で柔らかく、手触りも良くてすぐに乾いた。
さらさらだ。ブラッシングいらずだな。
しかし瑪瑙をブラッシングしていた時の記憶が甦り、グルーミングはコミュニケーションの一貫という事を思い出し、せめて手櫛で翡翠の髪を整えてやると、彼女は気持ち良さそうに目を細めた。
こいつ、あんなに俺を嫌ってたのに、そんな顔もするんだな。
たったそれしきの事なのに、やけに感動的だった。手を噛まれた時の事を思えば、それも仕方ないだろう。
「さて、着替え」
俺はクローゼットから自分のシャツを引っ張り出し、それに着替えさせようと翡翠からバスタオルを取り去る。
「え……」
月明かりに照らされた翡翠の裸を見て俺は驚いた。日焼けで爛れた肩と、奴隷時代に受けた無数の青アザ、力任せに擦られたであろう擦り傷があちこちから血を滲ませ、目に痛々しかった。日焼けや青アザは別として、擦り傷はあの若い女性使用人がやったものだろう。俺は失念していたが、いかに使用人と言えど、城内にいる若い女性の誰もが、王のおめがねに叶えば一夜にして妾くらいにはなれる世界なのだ。たとえそれが調教された献上品でなくとも、可能性はゼロではない。言ってみれば城内にいる若い女性全てが翡翠のライバルであり、敵なのだ。こういった妬み、嫉み、嫌がらせや苛めもあるだろう。
「何で言わないんだよ」
まだ俺が信じられないのは解るが、これは痛かっただろうに。だから逃げてきたんだ。逃げて、隣の部屋の翠に助けを求めた。
……何か釈然としないな『俺が守る』と言ったのに、何故、見ず知らずの隣人の翠に助けを求める?
俺はモヤモヤしながらキッチンの戸棚から軟膏を取り出し、腹いせとばかりに嫌がる翡翠の手綱を引いてそれを全身にベタベタと塗りたくってやった。
ベタベタの軟膏のせいで俺のシャツが1枚無駄になったが、翡翠を隣の子供部屋に連れて行き、ベッドに寝かせる。この部屋は全面に青空の壁紙が貼られ、天井からは天体のオブジェがゆらゆらと吊るされている。そしてタンスから机まで、細部に渡って可愛らしく『子供部屋風』を装っている。大人しくて落ち着いている翡翠にはあべこべで不釣り合いに見えた。
「まさか、絵本でも読み聞かせろとは言わないだろうな?」
翡翠は枕に頭を沈めて横に振る。
「ここはずっと使ってなかったから、少しカビ臭いが、布団は日中干ししておいたからお日様の匂いがするだろう?」
俺がそう言うと、翡翠は顔を掛布団に埋めクンクンと匂いを嗅いだ。
「犬みたいだ」
変なところが素直で、変なところが子供らしくて、変なところに愛嬌があるもんだな。
瑪瑙みたいだ。
瑪瑙もよく、好きな物の匂いを嗅いでいた。俺の匂いもよく嗅いでいたな。最初は翡翠みたいに牙をむいていた。でも懐いてくると愛しくて仕方がなかった。目がくりくりしていて、よく俺の事を眼で追っていたっけ。
俺はつい感傷に浸り、目元を綻ばせると、目を丸くした翡翠と目が合う。
「何?」
俺が尋ねると、翡翠はそっぽを向いて布団に潜った。
何を考えてるんだが、掴みどころのない奴だな。まあ、瑪瑙みたいに下手に懐かれても困るけど。
調教師と献上品は寝起きを共にし、四六時中一緒にいても、決してそれ以上の関係になる事は許されない。家族でも、友人でも、恋人でもない、単なる『ブリーダーと犬』の関係であり続けなければならない。一定の距離と壁は大事なのだ。それに俺は子供が好きじゃあない。結果として、行き場のない翡翠の為にもなるが、私欲の為に調教師になった。北部国を除外した3つの国の中で最も経済の豊かな東部国を手中に収め、一国の王になる為。ただそれだけ。だから、大事な手駒である翡翠に風邪をひかせるわけにはいかない。
「温水ヒーターはついてるが、室温が20度も上がらないから少し寒いだろう?」
どれどれと俺は翡翠の足元に回り込み、彼女の小さな足を探り出すと、冷えきったそれを両手で包み込み、ハァと吐息を吹きかけてやる。
子供って冷え性とかあるのか?えらい冷たいな。というか、小さい足だな。ミニチュアみたいだ。
「こんな冷たいシーツと掛布団じゃあ、やっぱり足が冷たいよな?」
自然と、昔、瑪瑙にしたみたいに振る舞うと、翡翠はビクリと肩を跳ね上げ、足を引っ込めた。
「あ、ごめん」
俺は我に返り、首の後ろを掻く。
そうだった。相手は翡翠だ。瑪瑙じゃない。翡翠は瑪瑙と違ってこういうのが嫌なのだろう。生き物が違うから、そりゃそうなんだけど。
無意識に瑪瑙と翡翠を重ねて見ている自分がいて、馬鹿馬鹿しさに自嘲した。
今日は長い1日だった。翡翠にとっては俺以上に長かった事だろう。大人と子供とでは、流れる時間も違うだろうし。
明日から献上品の心得を教え込むわけだが、あの調子で大丈夫なのか?もし使い物にならなければ、元敵国の姫である翡翠は俺の手で処断する事になる。別に子供は好きじゃあないが、それはそれで後味が悪い。
絶対に翡翠を側室にしなければ。
亡き瑪瑙にも誓ったんだ。俺は絶対一国の王になると。
俺は明日のスケジュールを組み立てながらベッドで瞼を閉じる。腰にタオルを巻いただけのだらしない格好だったが、今日はやけに疲れて着替える気力もない。
朝食には何を作ろうか?風呂の件もあるから、使用人に翡翠の食べ物は任せられない。毒を盛られたら終わりだ。にしても誰かの為に料理をするなんて久しぶりだな。冷蔵庫にちゃんとした食材があったか?子供はピーマン嫌いだよな?翡翠はどうだろう?というか、俺の作った物を食べてくれるか?最初は栄養バランス度返しで子供の好きそうな物にしよう。慣れたらピーマン地獄のピーマンフィーバーだ。あれは栄養があるからな、多分。
あれやこれやと考えあぐねいているうち、俺は意識を手放し、微睡み始める。
「瑪瑙……」
ゴロゴロゴロ……
ガラガラガラ……
夢うつつの中、俺は意識とは遠いところで雷の閃光と雷鳴を感じた。
……結構近いな……
……瑪瑙は大丈夫だろうか?
…あれは雷が苦手で……
カカッ!!
夢と現実が入り交じる中、雷鳴が一際強く轟き、空気を引き裂く様な爆音が窓や建物をガタガタと揺らした。
……近くに落ちたな。
そう思った時、子供部屋のドアのノブが激しく音をたてて回った。
ガチンッ!
チャイルドロックが掛かったドアが開けられたのが判った。
馬鹿力が、どうした?翡翠。
俺は瞼を閉じたままドアに背を向けて様子を窺う。もし翡翠が玄関の出口から逃げるようならそれなりの罰を与えるつもりでいた。
人の気配がすぐ後方でする。布団を手で探っているのか、さわさわと衣擦れの音がして、俺は、もしかして翡翠は俺の寝首をかこうとしている?と疑惑を持つ。
そうだ、俺は調教師という名の親代わりだが、そもそも翡翠にとっては憎き敵国の人間に過ぎない。寝込みを襲われても不思議はない。
俺はいつ襲われてもいいように覚悟を決め、翡翠のアクションを待った。
ガラガラガラッ!
「あっ!」
翡翠が雷に驚き、短く声をあげ、突然ベッドに潜り込んで来たかと思うと、俺の背中にしっかりと掴まり、震えていた。
……なんだ。雷が怖いのか。
これだから子供は、と呆れたが、背中に必死でしがみついてくる翡翠があまりにも瑪瑙とリンクして、ちょっと可愛いと思えた。
飼い犬は、雷の日によく迷い犬になるらしい。
何故かふとそんな事を思い出し、俺はくるりと体を半回転させ、小刻みに震えて抱き付いてくる翡翠を両腕でしっかりと包み込み、胸に抱いた。地肌に子供の体温が熱くて、心地よかった。
献上品として、男のベッドに潜り込む度胸は認めるが……
「大丈夫」
宥める様に優しく翡翠の頭を撫で、そこに顔を埋めると、石鹸のいい匂いがした。
「なぁ、翡翠、絶対に俺の事を好きになるなよ」
──今だけ。
そうして俺は自分をも戒めた。
翌朝、昨晩の雷が嘘の様な、窓から差す陽の眩しさで目が覚めた。
いつも朝方は冷え込んでいて、身を縮めて暖をとっているのに、今朝はべったりとくっついている翡翠のお陰でうっすら寝汗さえかいている。
気を張っていたのか、疲れていたのか、翡翠は俺につむじをツンツンと刺激されても微動だにしない。
少し腫れがひいたか?
翡翠の寝顔は天使そのもの。少し青アザは残るものの、年齢にしては大人びた、子供らしくない端正な容姿をしていた。
驚いた。結構、いや、わりと整った顔をしてないか?目を開けたらきっと美人だ。へぇ、わからないものだ。
俺はやけに感嘆として翡翠の前髪を上げて凝視する。
早く起きて、その顔をよく見せろ。
起こすのは忍びなかったが、俺はそれとなく身じろいでサイドテーブルの煙草に手を伸ばし、やめた。いつもは起き抜けに取り敢えず一服するのだが『副流煙による子供への悪影響』という資料DVDの内容を思い出し、喫煙を思い留めたのだ。
副流煙は子供の成長に悪いらしい。
それにしても何だか腰の辺りが生ぬるくて気持ちが悪い。
俺は掛け布団を持ち上げて中を確認してみた。
「……」
俺は言葉を失った。
翡翠は敷き布団に日本地図を描いたらしい。
昨晩の雷があまりにも怖かったのか、俺が水分を摂らせ過ぎたのか、はたまた精神的なものなのか、定かではないが、翡翠は俺のベッドにおねしょをしていた。
これは良くない。ベッドでの粗相は処断ものだ。
俺は無性に煙草が吸いたくなったが、眉間を押さえてその欲求をやり過ごす。
「おい、起きろ」
ベチベチと、安らかな翡翠の頬をはたき、文字通り彼女を叩き起こした。
「ぅん……」
翡翠は夢心地のまま目を擦りながら目覚め、目の前にいるのが俺だと認識すると驚いてベッドから落ちそうになり、寸前で俺が彼女の背中を抱き寄せる。
「自分から潜り込んで来ておいてそれはないだろう」
『危ない危ない』と俺が肝を冷やしていると、翡翠は俺の胸板を足蹴にし、結局ベッドから落ちて尻もちを着いた。
懐いたかと思うと、これだよ。
「まあ、いい。お前、ちょっとこっち来い」
俺は有無を言わさず翡翠をバスルームまで引っ張って行き、裸にひん剥いて頭から洗い直してやる。翡翠は水を嫌う猫みたいにじたばたと暴れ、昨夜のしおらしかった翡翠は何処へやら、俺は噛まれるの、殴られるのと酷いめにあった。
朝のどたばたが一段落して、俺が作ったフレンチトーストを2つ向かい合わせてテーブルに置き、それぞれそれに合わせて着席したところで、ようやく翡翠の顔を改めてまじまじと凝視する事が出来た。
何だ?やたらと整った顔をしているじゃあないか。目は据わって、酷いクマだが、これは磨けば、ひょっとするかもしれない。
俺の胸は期待で高鳴った。
翡翠か、これは鍛え甲斐があるな。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】異世界に転移しましたら、四人の夫に溺愛されることになりました(笑)
かのん
恋愛
気が付けば、喧騒など全く聞こえない、鳥のさえずりが穏やかに聞こえる森にいました。
わぁ、こんな静かなところ初めて~なんて、のんびりしていたら、目の前に麗しの美形達が現れて・・・
これは、女性が少ない世界に転移した二十九歳独身女性が、あれよあれよという間に精霊の愛し子として囲われ、いつのまにか四人の男性と結婚し、あれよあれよという間に溺愛される物語。
あっさりめのお話です。それでもよろしければどうぞ!
本日だけ、二話更新。毎日朝10時に更新します。
完結しておりますので、安心してお読みください。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
黒騎士団の娼婦
イシュタル
恋愛
夫を亡くし、義弟に家から追い出された元男爵夫人・ヨシノ。
異邦から迷い込んだ彼女に残されたのは、幼い息子への想いと、泥にまみれた誇りだけだった。
頼るあてもなく辿り着いたのは──「気味が悪い」と忌まれる黒騎士団の屯所。
煤けた鎧、無骨な団長、そして人との距離を忘れた男たち。
誰も寄りつかぬ彼らに、ヨシノは微笑み、こう言った。
「部屋が汚すぎて眠れませんでした。私を雇ってください」
※本作はAIとの共同制作作品です。
※史実・実在団体・宗教などとは一切関係ありません。戦闘シーンがあります。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる