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瑪瑙(トラウマ)と翡翠

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夕方、会議が終わり、俺は翡翠の好きなニシンを携え鷹雄の部屋に行くと、ダリアから翡翠は1人で部屋に戻ったと伝えられ、部屋に戻ると、そこに居るはずの翡翠の姿はどこにも無く、彼女と出会う前の冷たくて暗い、孤独な空間だけが残されていた。
いつもならこの時間帯は、俺が料理をしている間に翡翠がダイニングテーブルで宿題をやり、そこでちょこちょこテキストに醤油のシミをつけてみたり、宿題そっちのけで味見したりしていたのに、今は、瑪瑙が死んでからの1年間を彷彿とさせるような寒々しい部屋の空気感になっている。
あの頃は暗い部屋の中で酒ばかり飲んで眠れない日々を送っていた。
いつの間にか翡翠の存在が当たり前になっていて、こんなにも自分の心を占めていたとは驚きだった。
そして俺はこう思った。

翡翠に逃げられた。

脱走っ!?
翡翠が脱走したっ!?
俺はサーッと血の気が引き、自分でも顔面蒼白になったのがわかった。
何の前触れもなかったが、俺には翡翠が脱走に至る様な心当たりだけは物凄くあった。
どれがいけなかったんだ?あれか?これか?いや、全部か?俺が自らの所有欲を満たす為だけに着せたネーム入りシャツがいけなかったのか?
そうは言っても、こうなってはペットの迷子札みたいに俺の連絡先もシャツに入れておけば良かったと後悔した。
待て、おれ、落ち着け、オレ、鷹雄の部屋に居ないなら翠の部屋に行っている可能性もある、いや、絶対そうだ、すげームカつくけどそうに違いない、何ならそうであってくれ!
俺は祈る様な気持ちで翠に電話したが、翠から『知らない』と言われ、更にパニックに陥る。
何で居ないんだよ、大好きな翠だぞ?!どうして、翡翠、何処に行った?何が不満だった?案外楽しくやっていたと思ったのに、あの笑顔は偽りだったのか?
思い出すのは、楽し気に笑って俺にすり寄って来る翡翠ばかり。
なのに何故なんだ!
調教師達の住まうフロアに翡翠が居ないとすれば、射撃場や実習室かとも思ったが、この時間になると全て見回りされ、施錠もされる。そもそもユリ以外の献上品達は通行証を持たないので基本的に単独でのこのフロアの出入りは禁止されている。献上品なんて体のいい代名詞で、要は囚人みたいなものなのだ。
神隠しにでもあったか?
とにかく、翡翠が消えた事が友人達以外に知られるのはまずい。特にその他の調教師達に知れれば総出で捜索され、それでもし城の外で翡翠が見付けられれば、彼女は見回りによってその場で射殺される。調教師同士ライバルなのだ、皆足を引っぱろうと手をこまねいている。
翡翠が瑪瑙みたいに死に追い込まれてしまう。

また、あの時の悲劇を繰り返してしまう。

俺の背中に悪寒が走り、冷や汗がこめかみを伝った。
あの時と一緒だ。瑪瑙を亡くしたあの時も、彼女の消息を追って不安でどうにかなりそうだった。あちこち駆けずり回り、捜せば捜す程心を乱され、そして瑪瑙が死んだと知らされた時は、この世の終わりみたいに絶望して何もかもがどうでもよくなった。

もう、あんな思いは2度としたくない。
2度と大事な人を失いたくない。

俺は他の調教師達に翡翠の失踪がバレないようそれとなくフロアを捜索し、それから念のため、普段、翡翠が通う実習室や射撃場等を中心にあちこち巡った。
一応、鷹雄にも連絡し、翡翠が調教師フロアに戻ったら一報をよこすよう指示したが、捜索から1時間経っても何の音沙汰もない。
翡翠、お前は本当に俺から逃げたのか?
けれど、だとして、俺は翡翠を逃がしてやる気なんか毛頭ない。翡翠が瑪瑙みたいに死ぬくらいなら、どんなに泣いて嫌がっても絶対に連れて帰る。
「後はもう、外を探すしかない」
俺は、翡翠は城内には居ないと判断し、部屋で上着に袖を通し、翡翠の分のセーターやら帽子やら手袋やらの衣類と、腹を空かせているだろうとチョコレートと、怪我をしている可能性もあるので応急処置に必要な物をリュックに詰め込み、大嫌いなコンタクトを装着して部屋を出た。
「セキレイさん!」
「ユリ」
エレベーターに乗り込もうとしたところで後ろからユリに呼び止められ、俺はドアを押さえたまま振り返る。
「セキレイさん、私の通行証が失くなってて……翡翠は通行証の置場所を知らないからダリアに問い詰めたら、翡翠にその通行証を渡して、北に海があるから行くように唆したって。翡翠、海にシーグラスを探しに行ったって、ダリアが白状したんです」
「海だって!?」
「……はい」
脱走ではなかったものの、俺は頭が真っ白になり、ユリは青い顔で泣きそうになっていた。
海なんてここから何十キロも先だし、その前には崖がある。

瑪瑙が命を落とした崖が──

それに問題は崖だけじゃない、年中雪に覆われた北部国の夜はとても厳しい。まだ上着を用意してやれてなかった翡翠は、子供体温と言えど薄着だ、長く外にいれば必ずや低体温症になって命を落とす。
俺は、翡翠を唆したダリアへの怒りよりも、翡翠が心配過ぎて死ぬほど身を焦がした。
翡翠、どうか無事でいてくれ!
翡翠!
「セキレイさん、ごめんなさい!私のせいです!ダリアが悪いって訳でもないんです。年長の私がしっかりしていなかったせいなんです。私が付いていたのに、翡翠が……翡翠に何かあったら、私……」
ユリは両の拳を握り締め、泣きそうなのをグッとこらえて小刻みに震えていた。
「ユリ、お前は良くやっているし、翡翠にいつも良くしてくれている。ダリアの事は、調教師の鷹雄の責任だ。お前は責任を感じるな」
俺がユリを落ち着かせようと肩に手をやるが、ユリは自責の念で今にも泣き崩れそうだった。
「違うんです。ダリアを調教しているのは私で、言わば私が調教師なんです。私の責任なんです。だから私も外に捜しに行きます!」
「駄目だ。今のお前は通行証を持っていないだろ?俺とはぐれたらお前は見回りに射殺される」
「いいんです!どうせ私は特別枠の献上品だから、今殺されてもどうでもいいんです!それより、翡翠が──」
いつも聞き分けのいいユリが珍しく駄々をこね、俺は気持ちばかり焦らせていると、ユリの後方から翠が厚着で走って来た。
「ユリ、君は翡翠が戻って来た時の為に鷹雄と処置の準備をしていて。翡翠はきっと外で凍えて、傷付いているだろうから、温かい環境と、清潔な医療器具が必要になるかもしれない。翡翠は俺とセキレイで捜しに行くから何も心配いらない。必ず無事に見付けるから」
翠はナイスフォローで俺をエレベーターへと押し込み、自身もそれに乗り込むと、ユリが付いて来る前にドアを閉じる。
「翠、すまないな」
1人でも多くの捜索の手があると心強い。しかも理論派の翠だ、俺とは違った切り口で翡翠を捜索してくれるだろう。
「セキレイ、大丈夫か?」
翠は俺に熱々のカイロを渡してくれた。
「大丈夫だ。翡翠は瑪瑙とは違う。絶対に生きて連れて帰る。今度こそ、生きて……」
何より、俺には翡翠が必要だ。
2度とあのような悲劇を繰り返すものか。
「そうだ。翡翠は必ず生きて帰ってくる。絶対にだ。絶対に見付けてあげよう」
俺と翠はそんな気概を持ってエレベーターを降りたが、外へ出てホワイトアウトしている猛吹雪を目の当たりにすると、内心、不安で気を揉んだ。
正直、隣でスノーモービルに跨がった翠の顔は、最悪の事態を想定している表情だった。
解っている。常識的に考えて、こんな横殴りの猛吹雪の中で子供が生き抜けるなんて奇跡に近い。
でも俺は、たとえ最悪の事態が起こっても、翡翠の死体を見ない限りは絶対に諦めない。そうでなければ瑪瑙への想いの様にずっと消化出来ずに後悔する。

翠と二手に分かれ、俺はスノーモービルで翡翠を捜索していたが、積雪とホワイトアウトのせいで彼女の足跡を見つけられない。一面真っ白だ。
「くそ、翡翠、何処にいる!まさか、崖の方へ行ってしまったのか!?」
俺は危険も顧みず、スノーモービルのエンジンを吹かしながらグングン崖の方へ向かう。
俺はゴーグルをしていたが、次から次へと降り注ぐ降雪が顔面に叩きつけてきて痛い。      
「翡翠!翡翠!」
俺は声の限り叫んでみるが、乗っているスノーモービルのエンジン音によってそれはかき消される。    
けれど、それでも俺は呼び続けた。           
俺は崖の手前まで行き、翡翠の痕跡を探ってその周辺を探索するが、何の手掛かりもない。あったとしても全て雪に塗り潰されているだろう。
「翡翠の奴、まさか……」
最悪の事態が俺の頭をよぎった。
翡翠……
最初はあんなに俺の事を敵視していて、俺の方も翡翠を邪険に扱っていたのに、気が付いたらあいつは俺の為におっぱいプリンなんて作ってくれるようになっていて、俺は俺で翡翠が嫌いなアボカドをどうしたら旨く食べさせてやれるか考えるようになっていて、それがまた楽しくも尊い日々で、瑪瑙が帰らなくなってからこんな気持ちになるのは初めてだったから、率直に言って、単純に、翡翠といるのが凄く楽しかったんだ。
瑪瑙を亡くし、翡翠と出会う前までは、調教師に付いて歩く他の献上品達を見るのが辛かった。そんな俺にとって翡翠という傷付いた少女は、希望の光だった。
その希望の光を失ってしまったら……
って、何を走馬灯の様に思いを馳せているんだ、これじゃあまるで翡翠が死んだみスノーモービルを飛ばすと、猛吹雪の中に微かにオレンジ色の灯りを灯す観測所を見付け、俺はその小窓から中を覗く。
すると見てびっくりだ。
ここから見た限りでは、中で王が翡翠に迫っていた。
「あいつ!うちの子に」
あのロリコン変態鬼畜が!
献上の日に泣いていた瑪瑙の顔が思い浮かび、俺はみるみる頭に血が上る。
そして翡翠の無事を噛み締めるのも忘れて部屋に押し入った。
俺が冷静さを欠いて王を愚弄すると、貞操を死守しようとした相手本人が王を擁護し始め、まるで自分が悪者にでもなったかの様な妙な図になってしまった。
翡翠、そいつは希代の変態だぞ!?
お前はいずれそいつに尖った木馬に乗せられて泣かされるんだぞ!?
翡翠は瑪瑙との話をどこまで理解しているんだ?
てか風斗、離れろ、翡翠に変態が感染する。
やっと翡翠を見つけたと思ったら、こんな所で懇ろになって、あまつさえ俺を悪者にするなんて、どういうつもりだ。
そいつは瑪瑙が死んだ元凶だぞ!?
俺はせっかく見つけた翡翠にあたり散らし、あろうことか彼女にビンタまで食らわせ、小屋を飛び出した。

翡翠、泣きそうな顔してたな。

顔色も悪くて、唇なんか紫だったのに、思わず手が出てしまった。
俺は最低な男だ。
外で雪に打たれ、不意に頭が冷やされると、頭に血がのぼっていた自分を客観視出来た。
翡翠を殴った手がジンジン疼いて痛い。それなら、翡翠はこれの何倍も痛かっただろう。
酷い事をした。酷い事を言った。
いつもだ、いつも翡翠に酷い事を言ってはあんな顔をさせてしまう。献上の日までの何年かを幸せに過ごさせてやりたいと思うのに、俺はいつも翡翠を悲しませてしまう。
何故だろう、瑪瑙や翡翠を幸せにしたいと思えば思う程、彼女達を傷付けてしまう。大事に思っているのに、時々こうして酷い気持ちになる。
最低だ。 
翡翠に引導を渡した手前、俺は王に翡翠を任せて帰ろうと思ったが、寧ろそれが心配でドアの前から動けずにいた。
風斗の奴、まさかあんな子供相手に変な気を起こしたりしないだろうな?
いくら変態の名を欲しいままにしている風斗と言っても、それくらいの秩序は……いや、わからない、わからないぞ。あいつは鷹雄よりもずっとずっと変態だからな。
どうする?ここで朝まで2人を見張るか?
いや、俺が凍死する。
ここは恥をしのんで翡翠を迎えに行くか?
俺が頭を悩ませていると、中から──

『今からお前はうちの子だ』

──という王の声がした。
俺はまるで背中にカビでも生えたみたいにぞわぞわと気持ちの悪い感覚に襲われた。
確かに、勢いで翡翠を突き放してしまったが、それは決して本心からではなく、売り言葉に買い言葉というか、我ながら子供じみた当て付けというか、とにかく、本当は翡翠にはそばにいてほしかった。早く部屋に連れ帰って、自分の腕の中で彼女の無事を噛み締めたかった。けれど翡翠にあんな事を言われ、冷静でいられなかったのだ。

だがどうだろう、こうして頭が冷やされると、翡翠にかけられた王の言葉はこの上もないチャンスで、元々その為に俺は翡翠を引き取り、大事に育ててきたのだから絶好の上げ膳ではないだろうか?これは願ってもない申し出だ。しかも王自ら翡翠を調教すると言うのだ、そうなれば側室の中でも特段寵愛を受け、目をかけてもらえるだろう。
そらみろ、翡翠は幼くして幸せの切符を手に入れられるのだ。応援してやらない手はない。良かったじゃあないか、俺は子供が嫌いだったし、また好きな時に飲んだり喫煙したり、時には女を連れ込んだり自由にやれるんだ。早起きして朝御飯を作ってやる必要もないし、わざわざ体を洗ってやる事もない。雷の夜だって、俺1人でベッドを占領できる。

でもそんな事の全てが、嬉しくない。
全然虚しい。

それどころか、また真っ暗で誰もいない部屋に独りで戻るのかと思うと、心がズンと重くなった。
もしも翡翠が望むのならば、王の申し出は願ったり叶ったりだ。
俺さえ身を引けば、翡翠はもう王の物。
──違うな。馬鹿だな、最初から翡翠は王の物だった。他の献上品見習いもそうだ。この城の物は全て王の所有物だ。俺の物なんか何一つない。俺は、王にもらわれていく少女を王の為に育て上げるだけの存在だ。それが何を今更。
良かったじゃあないか、これで俺も一国の主って訳だ。富も権力も金も女も、全て手に入る。今度は俺が献上される側になって、妻をめとり、側室を迎え入れるんだ。
俺は俺で当初の計画通りじゃないか、万々歳だ。

でも何故だろう、めでたい事なのに、翡翠が幼くして王のオモチャにされるのかと思うと腹がたって仕方がない。

俺はイライラを抑える為に煙草に火を着けようとしたが、当然、吹雪でライターが着火しない。
「くそっ」
俺は悪態をついて煙草一式を地面に叩きつけた。
「……寒……帰るか」
後ろ髪引かれる思いでスノーモービルに乗ろうとすると、小屋のドアが開かれ、次いで腰の辺りに何かがへばりついてきた。
「ん?」
振り返ると、立っているのもままならない翡翠が懸命に俺の腰にしがみついている。
「セキレイさん、行かないで」
翡翠の弱々しく握られた手が霜焼けであかぎれていて痛々しい。
「翡翠」
俺は翡翠を支え、急いでリュックから衣類を引っ張り出して彼女に着せてやり、翠から貰ったカイロをマフラーのうなじのところに挟んだ。
「……帰りたい」
翡翠はしゃがみこんだ俺の胸に顔を埋め、しっかりとしがみつく。
「とりあえず鷹雄の部屋に連れて行く。話はお前が元気になってからだ。寒いけど、ここから城はすぐだから、少しだけ我慢しろ」
「セキレイさんのところに戻りたい」
翡翠はうわ言の様にそう言って、俺に倒れ込んできた。
「おい!おい!翡翠!」
俺がベチベチと翡翠の頬を叩いても、反応がない。
「セキレイ、これも使え。早く鷹雄の所に連れてってやれ。俺は翌朝晴れてから戻るから」
そう言うと王は、自分の上着を翡翠に掛けてやった。
いくら小屋の中と言っても、この猛吹雪では石油ストーブ1つくらいでは寒いだろうに。
「すまない」
俺は素直にそう言うと、翡翠を前で抱える様にしてスノーモービルを走らせた。

城に戻り、翡翠を抱いて鷹雄の部屋に駆け込むと、鷹雄の指示で翡翠の濡れた衣服を取り換え、毛布でくるみ、ソファーに寝かせた。
「体温は35度台だからそんなに心配いらないよ。翡翠が起きたら生姜糖の入ったホットココアを飲ませてあげて」
鷹雄は翡翠の脇に入れた体温計を見て安堵する。
「私が淹れ──」
ユリが翡翠のそばに張り付こうとすると、鷹雄が彼女の肩を掴んで首を横に振った。
「俺達はダリアと向き合う事にしよう」
「……はい」
ユリは俺と翡翠を交互に見やって、何とも言えず悔しそうに鷹雄と子供部屋に入った。
子供部屋のドアが閉まると同時に、俺は膝を着いて翡翠の顔を覗き込む。
顔色はまだいまひとつ悪いけど、いつもの寝顔だ。やっと俺の所に戻って来た。
俺はようやく肩の力を抜く事が出来た。
良かった、生きてる。生きて、目の前で寝息をたててる。
「お前、どうしてシーグラスなんか取りに行ったんだ?」
死んだ様に眠る翡翠が応えてくれるとは思っていないが、俺は語りかけずにはいられなかった。
「脱走してでも欲しかったのか?なんで言ってくれなかった?俺もお前も無口だけど、一言言ってくれれば何でも与えてやるものを……いや、俺が与えなくても、これからは王がお前に全て与えてくれる」
そうだ、翡翠はこれから何不自由ない生活を送れる。外に出なくても、城にいながらにして何でも手に入る。今日みたいに九死に一生を得る事だってない。
「風斗は変態だけどいい奴だろ?俺の弟だからな。瑪瑙みたいに死ぬくらいなら、早いうちから風斗の変態に慣らしておくのもいいのかもな。お前ってば、いつも冷めた顔してるけど、もしかしたらソッチの素質もあるかもしれないしな」
言っていて、自分でも馬鹿みたいだと可笑しくなったが、変な話、それが一番いいのかもしれないと思った。
「変な価値観が生まれる前に風斗の変態を体験したら、案外すんなり受け入れられるかもしれないよな?」
ちょっと自分で想像してみたが、やっぱり翡翠があの時の瑪瑙と重なってすこぶるイヤな気分になる。
「俺の心の整理がつかないんだけど、お前はどうなんだ?すぐにでも王の女になるのか?なりたいのか?正直、お前をぶった俺より風斗の方が優しかったろ?あれはあれで日中は人格者で優しいんだ。まあ、そこらへんは俺の弟だからな。普段優しくて、ベッドでは鬼畜の風斗と、常時鬼畜な俺と、お前は前者を選ぶんだろ?翡翠」
俺だったらそうする。
「お前が一人前になるまであと6年くらいは一緒にいられると思って油断してたから、何も心の準備が出来てなかった。さっき観測所で言った事は本心じゃなかったんだよ。本当はお前とずっと一緒にいたいけど、王がお前をもらってくれるって言うのなら、お前を行かせるべきだと思う。瑪瑙の時は判断を誤ってしまったからね。なんだか、瑪瑙みたいに急に死なれるよりは全然いいけど、突然もらわれていくっていうのも、死なれるのに匹敵するくらい寂しいもんだな」
俺はうなされている翡翠の眉間にブスリと人差し指を突き立て、更にうなされた彼女の反応を楽しんだ。
「こんな馬鹿みたいな事も出来なくなるんだな。俺はさ、お前がもらわれて行ったら、もう誰の事も調教しない。お前が最後だよ。お前みたいのが懐いてくれて嬉しい反面、居なくなった時の衝撃は本当にしんどいからね。こんな思い、お前で最後だよ」
俺が、深い眠りについている翡翠の鼻を摘まむと、彼女の口がパカッと開いて、それがまたいとおしくなる。
翡翠はかわいい。面白い生き物だ。
「ただ寝ているだけなのに、お前は俺を退屈させないな……嫌だな、離れたくないな。お前がダリアみたいな性悪だったらノシ付けて風斗にくれてやるのに、お前はいい子だから俺の決心がつかない。どうする?お前の為に、俺の大嫌いなにしんを大量に冷凍してあるんだぞ?誰が食うんだよ?」
放したくない。
これは俺のわがままか……
手塩にかけて紅玉を育てた翠も、秘蔵っ子を手放す時はこんなにも複雑な心境だったのだろうか?
体の一部をもがれるみたいだ。
別に、同じ城内にいるのだから翠や紅玉みたいにたまに何処かですれ違う事だってあるのに、今生の別れの様に辛い。
「翡翠、王に可愛がってもらえよ」
俺がそうして翡翠の頭を撫でると、ゆっくりと瞼を持ち上げた彼女と目が合う。
「……セキレイさん、良かった」
翡翠は俺の存在を確認すると、ホッとしたように目を細めた。
俺がぶった事、忘れた訳じゃあないよな?
「あ……と、体調はどうだ?寒いだろ?」
俺は気まずくて毛布をすっぽりと翡翠の頭まで被せてやる。
「あの……セキレイさん」
毛布の下からくぐもった翡翠の声がしたが、彼女は従順にもされるがままだ。
馬鹿だな、かわいい。
「元気になったら、冷凍してあるにしん携えて王を訪ねろ」
そんな事を言いながら、俺は上手く笑えなくて、翡翠がこちらを見れなくて良かったと思った。
俺がそのまま立ち去ろうとすると、毛布から翡翠の手が伸びてきて俺のシャツの裾を捕らえる。
「セキレイさん!私、脱走したんじゃないんです!ちゃんとセキレイさんの所に戻る気だったんです!勝手に出て行ってごめんなさい。もう2度と外には出ません。だから……捨てないで下さい」
翡翠にぎゅっと握られた裾と、早口で捲し立てられた言葉が、彼女の必死さを感じさせた。
こんな事をされたら、俺の中途半端な決心が鈍るじゃあないか。
気紛れに餌をやった野良犬に追いかけられている気分だ。
「翡翠、俺はお前が憎くて捨てる訳じゃあない。お前が外に出た事は単なるきっかけであって、思わぬチャンスに見舞われたからそう言っているんだ。王から直々にオファーを受けたなら、お前はそれを受けるべきだ。遅かれ早かれ俺達は必ず離れ離れになる運命なんだ」
俺はもう怒っていない事をアピールする為になるべく穏やかに話すが、翡翠の方がやや感情的だった。
「解ってます。解ってて、セキレイさんが城を持つ為に私がお役にたてたらと思っていました。でも、今はまだセキレイさんのそばにいたい。私はとてもいい子にするし、アボカドだってペーストにしません。時がきたら必ず側室になってみせますから、だから、どうか、お願いです。まだそばに置いて下さい」
そんな風に懇願されても、嬉しいよりも心が苦しくて仕方がない。俺だってまだまだ翡翠と一緒にいたいのだから。
「翡翠、王は(日中は)お前をぶったりしない。俺の弟は(日中は)俺よりずっと優しいし、お前が適齢期になるまで(多分)絶対に手を出したりしないし、大事に育ててくれる」
……
俺は自分で言っておいて物凄く不安になる。
翡翠が風斗の変態プレイを受け入れられれば必ず幸せに暮らせるのは間違いないのだが……
全く説得力がないものを、当然、翡翠は納得しない。
「セキレイさんは私を厄介払いして新しい子を可愛がる気なんでしょ?爆乳の」
ん?
何か引っ掛かるが、俺は黙って翡翠の話に耳を傾ける。
「セキレイさん、私は……瑪瑙さんの身代わりでいいですし、瑪瑙さんみたいに土壇場で逃げ出したりしませんから……瑪瑙さんの代わりにそばに置いて下さい。私……瑪瑙さんみたいになれるように努力しますから」
「翡翠!」
何故、翡翠が、声を詰まらせて瑪瑙の身代わりになると俺に申し出たのか?

それは全て俺のせいだ。

ひどくやるせない心持ちだった。
俺が無意識に瑪瑙と翡翠を重ねて見ていたせいで翡翠にそんな事を言わせてしまった。
本当は嫌だろうに……
俺は、自分のせいなのに翡翠を憐れむ気持ちでいっぱいになり、どうにも彼女を放っておけなくなる。
あぁ!もうっ!
俺がやけになって毛布を捲ると、やっぱり翡翠は声を殺して泣いていて、俺はこの甘酸っぱい思いをどう表現していいか解らず、勢いのままに翡翠のオデコにキスをした。
子供好きというのはこういう気持ちなんだろうな。
「翡翠、だったら正式に献上されるその日まで、絶対に俺から離れるな。シーグラスなんか俺が根こそぎ取ってきてやる」
「……」
翡翠はちょっと困った顔をして、でも安堵して笑っていた。
けれど一番安堵していたのは、何を隠そう、この俺だ。
「寝ろ」
俺は気恥ずかしくておざなりに再度翡翠の顔を毛布で覆った。

それから俺は翡翠に付き添って鷹雄の部屋で数日を過ごした。
鷹雄には煙たがられたが、ユリは大歓迎してせっせと俺らの世話を焼いてくれて、ダリアは、まあ、相変わらずだった。
ちなみに翠には後から小一時間説教をくらった。俺が連絡も無しに雪山から帰って来てしまったので、当然と言えば当然か。

そして翡翠が俺の部屋に戻る日の朝、俺がいつものようにソファーに寄り掛かって寝ていると、肩にカサリと紙袋が乗る様な感触がして目覚めた。
「ん?」
確かに、俺の肩には掌サイズの紙袋が乗っていて、それを乗せた張本人はソファーの上で慌てて頭から毛布を被る。
バレバレ。
「何だって、こんな……」
悪戯か?とも思ったが、半信半疑で紙袋を開けると、中からバランスの悪いドリームキャッチャーが出てきた。見た目ですぐに素人が作った物だと判る。これはきっと、翡翠が俺の目を盗んで作った物だ。
この鳥の羽……
「いつの間に……」
俺は驚いていると、紙袋の底に1枚の手紙を見つける。
読んでみると──
『セキレイさん、お誕生日おめでとうございます。こうしてお誕生日をお祝い出来るのも限りがあるけれど、残された誕生日も、クリスマスも、お正月も、みどりの日も、どっかの国の旧正月も、全部一緒にいて、笑ったり、怒ったりして下さい。それから、セキレイさんの願いは、将来、私が必ず叶えます。翡翠』
と書かれていた。
そうか、今日は俺の誕生日か。バタバタしていてすっかり忘れていた。
翡翠の奴、脱走じゃあないなら、もしかして俺への誕生日プレゼントの材料を取りに外へ?
そんな翡翠を殴ってしまった俺は、今世紀最悪の鬼畜だ。心臓というか、ハートというか、俺はそれらの物を握り潰される様な思いだった。
「俺の為に?何もいいのに……危うく命を落としかけて、俺はお前さえいれば、それで──」

『セキレイさんの願いは、将来、私が必ず叶えます』

俺は手紙の最後の文脈が頭に引っ掛かる。
そう言えば俺の願いって?
翡翠を王の側室にして、俺は東部国の王になる事?
──だっけ?
俺はいつの間にか自分の当初の願いが変わってきている事に気付いた。
「翡翠、ありがとうな。でも俺の本当の願いは絶対に叶わないだろうな」
というか、それは翡翠の為にも叶えてはいけないのだ。
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