1 王への献上品と、その調教師(ブリーダー)αp版

華山富士鷹

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自分との闘い

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俺は部屋に帰り、早速、翡翠に指南しようと彼女を俺のベッドに上げた。
「セ、セキレイさん、き、今日もよろしくお願い致します」
翡翠はカチコチになりながら例のごとく三つ指を着いて頭を下げる。
初夜か。
翡翠の奴、ガチガチじゃないか。
「そんな緊張するな、これは練習なんだから、リラックスして」
「は、はあ……」
この間までは自分から指南してほしいとしつこかったのに、今は俺と目を合わせるのも憚られるようだ。
まあ、仕方ないか。
翡翠が正室になりたいなどと言わなければ、俺もただ翡翠を見守るだけなんだが、それがあの王の正室になりたいとなると、ハードな指南は避けて通れない。
気は進まないが、心を鬼にするしかないか。
「じゃあ翡翠、まずは俺にキスが出来るか?」
「あの……やります」
翡翠は気が乗らないのかじりじりと俺との距離を縮め、目を泳がせながら何故か手で俺の視界を奪った。
「……何やってんだ?」
何も見えないじゃあないか。
「えっ!?いや、目線がかち合うのって恥ずかしいじゃないですか」
「そうか?」
中坊か。
俺は何とも思わないが。
「じ、じゃあ、やります」
そんなに改まらなくても……
「……」

……まだか?
待てど暮らせど俺の唇には何の感触もなく、気が短い俺は痺れをきらして口を開いた。
「翡翠、確認なんだが、するんだよな?」
「あっ!はい、します、やります。何か間近でセキレイさんの口元を見ていたら、ちょっと剃り残しがあるなって思って」
剃り残し?
まあ、俺は目が悪いから、あればあるかもな。
「気になるなら剃るけど?」
「い、いえ、何か、大人の男の人だなって思ったらやりづらくなって。でも、やります。セキレイさんを犬か何かだと思って直ちにやるので口を閉じてて下さい」
「はいはい」

……犬?

ちょっと引っ掛かるが、俺は軽く口を閉じ、再度その時を待った。
「……」

暫くして、翡翠が決心を固めたのか小声で『よし』と言うのが聞こえ、そのすぐ後にサラッと何かが唇に触れた。
「……」
……春風?
そう思える程に翡翠のキスは触れるか触れないかの絶妙なタッチで俺の唇を掠めたのだ。
そして何故、終わってからも翡翠は手をどけない?
泣きそうな顔をしているからか?
俺は敢えてされるがままで翡翠に尋ねた。
「翡翠、俺とキスするの、嫌か?」
「と、とんでもないです!滅相もないです。ただ、セキレイさん相手だと本領が発揮出来なくて」
俺相手じゃ不服なのか?
「じゃあ誰となら本領を発揮出来るんだよ?鷹雄か?」
俺が腹立たしさを露にして目隠しを解くと、翡翠は上目遣いで困り抜いた顔をする。
「いじめないで下さい」
翡翠は自分で自分を抱き締め、内股でへたり込んだ。
カワッ──
何だこれ、ハートを射抜かれた様な可愛さだな。
俺はつい翡翠を抱き締めたくなったが、とにかく心を落ち着け、我慢した。
そう、我慢。我慢しかない。我慢に尽きる。我慢一択。プラス忍耐に次ぐ忍耐。
「じゃあ、ちょっとずつ、出来る事と出来ない事を確認していこう」
「はい」
こうなったらもう、手探りでいくしかない。
「じゃあこれは?平気だよな?」
そう言って俺は翡翠の手を両手で握った。
「突然でなければ平気です」
「じゃあこれは?」
俺は翡翠の上腕に手を滑らせ、肩に手を置く。
「手の延長線上なので平気です」
「なら、こっちは?」
俺は先程までとタッチを変え、愛撫を連想させる様に翡翠の首をくすぐった。
「くすぐったいですね」
翡翠はそう言って肩を竦めたが、嫌そうではない。なかなか好感触だ。
「じゃあこっちはどうかな?」
俺は少し調子に乗り、翡翠の鎖骨のデコルテを撫で上げ、胸の膨らみの手前まで手を移動させると、彼女は険しい表情であからさまに何かと闘いだす。
「セキレイさん、そっちは……」
翡翠は俺の手から逃れる様に前傾姿勢で猫背になる。
「どっち?」
俺は解っていたけれどしらをきって指南を強行した。
「そこはちょっと……」
「そこって?」
翡翠は上体を捻って俺の魔手を回避しようとしたが、俺はそれを手で追い掛ける。
「セキレイさん、くすぐったいので止めて下さい」
「逆にくすぐられていると思って耐えたら?」
そうだ、我ながら名案だ。
これを性的なものと切り離して体感できたら、翡翠のいいリハビリになるんじゃあないか?
ちょっと荒療治だが、俺は作戦を変えて翡翠をくすぐり始めた。
「セキレイさん!本当に止めて下さい!」
翡翠はビクンビクンと体を跳ねらせ逃げ腰だったが、俺はそれでも執拗に翡翠をくすぐっていると──

ガブッ

「ってぇ……」
久しぶりに翡翠に手を噛まれた。それも全力で。
スゲーイテー。
俺はジンジン疼いて赤くなったその手を引っ込める。
悪のりしすぎたか。
「あっ!セキレイさん、すみません」
翡翠はハッと我に返って平に謝った。
悪気は無いのだろうが、痛すぎる。
歯形がエグい。
「うーん、じゃあ今度はアプローチを変えてみよう。翡翠、今からする事は決して痛い事じゃあない。俺はお前を怖い目にあわそうっていうんじゃないんだ、凄く気持ちのいい事をするよ?」
「は、はあ……」
翡翠は最早尻込みしていた。
「何?正室になりたくないのか?嫌なら止めるよ?」
俺が冷たく突き放すと、翡翠は焦って食い下がる。
「い、いえいえいえ!やります、やらせて下さい」
「じゃあまずは肩を揉んでやろう、翡翠、おいで」
俺が自分の股の間をポンポンと叩くと、翡翠は背を向けて俺から少し距離をとった所にちょこんと座った。
「遠い」
俺が指摘すると、翡翠はお尻歩きで僅かに俺と距離を詰める。
警戒心が半端ないな。
「よし、良い子だ」
俺が後ろから翡翠の頭を撫でようとすると、翡翠は後頭部に目でもつけているかの様にそれを避けた。
傷付いた、が、寧ろスゲー!!
「あ、すみません、後ろからなんで、つい……」
「お前、スゲーな。じゃあ、気を取り直して、揉むぞ?」
「はい、お願いします」
俺が翡翠の両肩にソッと両手を添えると、彼女はビクッと肩をいからせ、自身の両膝の上で両の拳を強く握り締める。
おお、耐えてる耐えてる。
感心しながら俺は『肩揉み』とは名ばかりのマッサージを始めた。
さわさわと肩の周辺を撫でさすり、わざとその首元に顔を寄せる。
「また随分と凝ってるね」
翡翠の肩は緊張で硬くなっていた。
可哀想だけど、怯える動物は可愛い。
「ほら、力を抜いて、俺に身を任せるんだ」
「はい……」
俺は翡翠の肩を下に下げたが、彼女の硬直は解けない。
「じゃあ次は背中をマッサージするよ?」
「はい」
俺が翡翠の背骨に沿って親指を這わせていくと、彼女はギュッと目を閉じ、顎を上げて背中を反らせた。
あー、直に触りたい。
翡翠にとってはリハビリなのに、俺は不謹慎にも下心が理性に台頭しようとしていた。
いかんいかん、これは指南なんだ、私利私欲は良くない。
「どうだ?翡翠、気持ちがいいだろう?」
「ソウデスネ……」
嘘つけ、返事が棒読みじゃあないか。
「今度は上から指圧してやるから、俯せで横になって」
俺がそう言うと、翡翠は素直に従ってベッドに俯せになった。
「人に指圧してもらうと気持ちいいから、そのまま寝てしまうかもな」
「へぇ、そうなんですか。指圧なんて初めてだなぁ……」
エヘヘと翡翠が笑うので、俺は何の躊躇いもなくその腰に跨がった。
すると翡翠は──
「えっ!?いや、止めて下さいっ!!やめて!やめてやめてやめてやめてやめて!!」
急にパニックに陥り、手足をジタバタさせて暴れだす。
「翡翠!?落ち着け!これは指圧マッサージだ、何も怖い事はない」
俺が慌てて上から翡翠を押さえつけると、彼女はより一層手がつけられない程に抵抗して足掻いた。
火事場の馬鹿力とでも言うのか、翡翠は華奢な体からは想像も出来ないくらいの力で俺の手を煩わせ、俺はそれに対抗すべく手加減無しに翡翠を捩じ伏せると、彼女は『あっ……』と声を漏らして唐突に脱力する。
「?」
翡翠の突然の無気力に俺は肩透かしをくらったが、俺の膝を着いた辺りがじんわり温かくなり言葉を失った。
翡翠の状態は日増しに悪くなってきている。
このままいったら、献上どころか日常的な社会生活もままならなくなる。いや、既にそうなのかもしれない。
俺が思うよりもずっと翡翠の闇は深く、重症だ。
「セキレイさん、すみません、ベッドを汚してすみません」
翡翠はベッドにおでこを擦り付けながら謝罪したが、彼女が謝れば謝る程、俺の翡翠に対する同情の念は深まった。
「いや、俺が急ぎ過ぎたんだ。お前が可愛くて、自分を止められなかった」
反省するのは俺の方だ。これじゃあ調教師失格だ。
「なあ、翡翠、俺はどうしたらいい?どうしたらお前を傷付けずに触れる?」
事態が深刻過ぎる。俺はもうどうしていいかお手上げだ。
「すみません、あれからずっと悪夢にうなされてて、日を追うごとに恐怖心が増幅してきて、自分でもどうしていいか解らなくて……正室になるって言ったのに、情けないですよね……」
翡翠は両手で顔を隠し、俯いたままバスルームへ向かう。
「翡翠、洗ってやろうか?」
確認の為翡翠にそのように伺いをたてたが、彼女はそれを首を振って断った。
やはり、事件直後は大丈夫だったものが徹底的に駄目になってきている。
俺は危機を感じ、鷹雄の助言を求める事にした。

「鷹雄、翡翠のトラウマが悪化してきているんだが」
俺は鷹雄の部屋を訪ねるなり開口一番に尋ねた。
鷹雄は風呂から上がったばかりで、全裸に首からタオルを巻いた状態で立ち尽くす。いつもならそんな姿の鷹雄を罵倒するところだが、今はそれどころではない。
「何だよ、藪から棒に」
「翡翠が大変なんだよ。触られるのを極端に嫌がって、遂には粗相までしてしまって……」
俺は後半の方は言っていいものか迷い、語尾を濁らせた。
でもちゃんと鷹雄に伝えて、適切な処置をして翡翠を治してほしかった。
翡翠が献上品だからという事ではなく、純粋に翡翠の苦しみや心の闇を取り除いてあげたかった。
「あー、それな、完全なPTSDだな。俺は元々婦人科出身の医者だからあまり詳しくないけど、あれって時間差で症状が出るんだよ。人間て不思議なもんで、極度の精神的ストレスを感じたのにも関わらず、後からになって脳がその原因になった体験を反芻して、忘れたり、欠けたりしていた記憶をつぎはぎして偽りの体験を作り出す事もあるんだ。セキレイ、翡翠は男の顔を見ていないだろ?」
鷹雄は素っ裸で俺を指差す。
「暗かったからな。不幸中の幸いか、多分見ていない」
俺ですら男の顔を見る事は出来なかったのだ。
「何が不幸中の幸いだよ、翡翠は男の顔を知らない分、想像で万人の男達をその加害者の物とすり替えてるんだ、時には加害者の男の顔にお前の顔をすり替える事もあるだろう」
そう考えると翡翠のあの態度も頷ける。
「それでか……でもどうしたらいいんだよ?どうしたら翡翠を癒してやれる?」
あれじゃあ翡翠が不憫過ぎる。
「時間が解決するまで待つんだな」
「そんな、時間ったって……」

翡翠にはあと2ヶ月も残されていない。

俺が部屋に戻ると、翡翠はキッチンで梅干しを焼いていた。
おれは最初、翡翠はPTSDとやらでおかしくなったのかと思ってビビった。
けれど俺が取り乱しては翡翠が不安がるだろうと思い、いつも通りを装う。
「翡翠、シャワーは済んだんだな。美味しそうだな、夜食か?」
翡翠を驚かせないよう、俺は離れた所から声をかけ、ゆっくり近付く。
「俺の分もあるのか?」
翡翠によってコロコロとフライパン上を転がされる梅干しは、軽く見積もっただけでも10個はある、2人分にしても多すぎる。
「セキレイさん、梅干し嫌いじゃないですか。何か、酸っぱいミイラを食べているみたいで不快だって」
真っ直ぐ梅干しを見つめる翡翠の目は、思いの外赤くなっていて、彼女は俺のいない間に1人で泣いていたんだろうなと思った。
俺に頼ろうともしないで1人で思い煩っているなんて、いじらしい。
というかミイラ?言ったか?
──いや、言ったな。
「まさかそのミイラ、1人で全部食べるのか?さすがに翌朝浮腫むぞ?」
しかも何で焼くんだよ?
「うん……でも、体にいいってネットで見たから」
翡翠は先刻の粗相が効いているのか元気がない。
しょんぼり俯き加減で梅干しを焼く翡翠の背中たるや、哀れなのに愛しい。
それにしてもネットでねぇ……
塩分過多で高血圧になりそうなものだが。

後に俺がスマホで『焼き梅干し』で検索すると『おねしょ改善には焼き梅干し』という見出しが出てきた。

おねしょだなんて、翡翠はただ怖くて漏らしただけなのに。
見ようによってはシュールなやり方だが、翡翠自身も必死でトラウマと闘っている。
俺はそんな翡翠がいじましくて抱き締めてやりたいのに、愛しい人がこんなに苦悩していても何もしてやれない。

それがとても心苦しかった。

あれから申し訳程度に数日期間をおき、夜、改めて翡翠に指南する事にした。
「いいか、翡翠、今日は俺からはお前に触らない。お前から俺に触るんだ」
俺は例のごとくベッドに乗せた翡翠と向き合う。
「はい」
翡翠は緊張した面持ちで素直に頷いた。
「じゃあ、まずは好きな所から触れ」
俺は『当たり障りのない所』という意味で言ったつもりだったが、翡翠は小難しい顔でしばし悩み抜くと、俺の顔に触れる。
翡翠の細い指先が俺の頬を捉え、俺はその冷たさに背筋がゾクッとした。
「……結構、難易度の高い所からいくんだな?」
あまり人から触れられる事のない場所を触られ、俺は少し面食らった。
「え、だってセキレイさんが好きな所を触れって言うもんですから……」
翡翠、俺の顔が好きだったのか!
俺は天にも昇る思いで舞い上がった。
「そうかそうか、成る程ね~、気持ちは解るよ」
にやけそうになる口元を必死で抑え、俺は腕を組んで何度も頷く。
「セキレイさん、気持ち悪い」
俺が自意識過剰に納得していると、翡翠から思わぬジャブをくらった。
表には出さないが、俺は今100のダメージをくらった。
「ああ、やっぱり少し剃り残しがありますね」
翡翠は指先で俺の顔を確認する様にさわさわと顔中を撫でた。
恐らく、翡翠は俺と加害者の区別をつける為に触って脳に刷り込ませているのだろう。
「あのセキレイさんの顔を私が思うさま撫でていると思うと、ちょっと面白いですよね」
最近はひきつった顔しかしていなかった翡翠だが、一瞬だけ臆面もなく笑った気がした。
「昔飼っていたウサギのポーランドの事を思い出すなぁ」
ネーミングのセンス!
「ポーランドが寝ている時もずっと目を見開いていたものですから、私は好奇心からその目玉をそっと触ってみたんですけど、なんかトゥルって言うか、ぺとって言うか、プルプルしてて風船の中に入った羊羹を思い出したんですよねぇ。あの、爪楊枝で刺すやつ。不思議だなぁ、直前で目を閉じると思ったのに」
翡翠は少しだけリラックスしたのか俺の目元に触れながらしみじみと思い出に浸っていた。
「翡翠、絶対俺の目玉に触れるなよ!絶対だぞ!?」
今は、翡翠に触られている俺の方が怖い。
「不思議だなぁ、こうして自分から触るのは平気なのに」
翡翠は落ち込んだ様子で俺の顔を解放した。
「まあまあ、逆に好きなだけ俺を触れるチャンスだぞ?ほら、煮るなり焼くなり好きにしろ」
俺が両腕を開いて受け入れの体勢をとると、翡翠は一度俺の顔を確認し、それから俺の懐に飛び込んで来た。
いや、うわ、この感じ、感動的だ。
最近は翡翠を抱き締める事だけを夢見て生きていたが、いざこうして彼女が自分の胸の中にいるかと思うととても感慨深い。
「セキレイさんは温かい、それから、いい匂いがする」
翡翠が俺の胸板に顔をすり寄せ、クンクンと気持ちよさそうに匂いを嗅いでいる。
犬みたいだな。
「そうか?」
翡翠だって温かいし、柔らかないい匂いがする。
ずっとそのままの姿勢で、そろそろこの体勢も辛くなってきた頃、翡翠の頭がズシリと重量を増した。
「なんだ、寝落ちしたのか?」
俺が恐る恐る翡翠の下痢ツボを人差し指でツンツンしてみるが、彼女は日頃の睡眠不足からか熟睡して起きない。
寝てる、可愛いなぁ。
よく、天使の様な寝顔という表現があるが、翡翠は天使そのものなのではないかと思う。
翡翠が俺の胸の中で無防備に寝ている事がやけに嬉しい。
安心しきってるのかな?
翡翠の、俺への信頼が戻ってきているかに思えた。
けれど翡翠が体勢を崩して顔からベッドにダイブしそうになり、俺は反射的にそれを腕で支えて回避すると、彼女は飛び起きて俺の顔に平手打ちをかました。
ザシュッと肉が切れる音がして、俺の目元から温い液体が滴る。
「セキレイさんっ!?すみません!!すみません!!本っ当にすみません!!私、何て事を……」
翡翠は土下座するんだか、俺の患部を労るんだかオロオロと挙動不審で顔を青くしていた。
俺が何度も『気にするな』と翡翠を励ましたが、彼女はこれまで以上に酷く落ち込んで無口になってしまう。
「なあ、翡翠、やっぱりお前には献上品は無理なんじゃ……」
ずっと俺のそばにいてくれれば、何年かかっても俺が翡翠の痛みを癒してやるのに、彼女は首を縦には振らなかった。
「セキレイさん、私はやります。ただ、少しだけ時間をください」
そして翡翠は『お願いがあります』と切り出した。
「鷹雄さんの所に行かせて下さい」
翡翠は、最近お馴染みとなった三つ指を着いて俺に懇願した。
「はあ?」
俺はあまりの事に語尾がチンピラの様に跳ね上がる。
それもそうだ、翡翠は男性不信に陥っているというのに、何故、一番の危険人物である鷹雄に会おうと言うのか、俺の理解の範疇を超えている。
「お前1人でか?」
「はい」
翡翠は頭を下げたまま頷いた。
「却下」
「でも……」
「却下」
「お願いします」
「駄目だ。俺はお前を鷹雄に預けた事を後悔しているんだ、無理に決まっているだろう」
「1時間、いえ、30分でいいですから、お願いします」
俺がことごとく翡翠の願いいれを却下するも、彼女は断固として退かない。俺が理由を尋ねると『私にも考えがあるんです』の一点張り。こうなっては翡翠はテコでも動かないのだ。
俺は深々とため息をつき、仕方なく折れる事にした。

そして翡翠を鷹雄の部屋にやってから30分、俺が部屋の前でドアを睨み付けているといきなりそれが開かれ、俺は顔面を強打した。
「……」
痛いじゃあないか。
この高い鼻が折れたかと思った。
「あっ!セキレイさん、すみません、こんな所で待ち伏せしてると思わなくて」
「……」
待ち伏せって言うな。
翡翠の奴、俺をストーカーか何かだとでも思ってるんじゃあないだろうな?
当たらずも遠からずだ。
「すみません、痛かったですか?鼻は曲がってはいませんけど」
翡翠は申し訳なさそうに俺の顔を覗き込み、俺の顔に自然と手を伸ばす。
「うん、スゲー痛かったよ。それはもうね」
俺が翡翠への当て付けに少し大袈裟に話を盛ると、彼女は心配して俺の頬に触れる。
やに積極的じゃあないか。
元々翡翠は自分から他人に触れる事はまずない人間だったのに、ほんの一時鷹雄に会っただけでこうも変わるものか不思議だった。
俺は試しに翡翠の下痢ツボを人差し指でツンツンしてみるが、彼女は口をへの字に曲げて憤慨するも、とりたてて自分を失う事はない。
「セキレイさん、何て事するんですか、私がお腹を下したらどうするんですか?」
「ん?いや……」
俺は顎に手を当てて暫し考察した後、ものは試しとばかりに翡翠をそっと抱き締めてみる。
「セキレイさん!?どうしたんですか?こんな所でセクハラだなんて」
本人は当惑していたが、反応としては、事件前の翡翠に戻っている様。まるで事件自体がなかったかの様に、驚く程翡翠は普通だ。
元気な翡翠が戻ってきた。
俺は嬉しくて翡翠をひしと抱き締め直す。
「良かった」
自分でもどんな感情か解らないけれど、俺は翡翠の目元を片手で覆い、その下で彼女が目をパチクリさせる睫毛の感触をふんだんに楽しんだ。
堪らん……
昔、飼っていたチワワによくやっていたが、これを翡翠にずっとやってみたかったんだ。
「え?何々?セキレイさん?」
翡翠は俺の奇行に混乱し、これでもかと言う程何度も瞬きをして俺の欲を満たしてくれる。
可愛いな。
はてさて、翡翠が元に戻ってくれたのは良しとして、問題は鷹雄が彼女にどんな魔法をかけたかだ。
俺は翡翠を部屋に帰し、そのまま鷹雄と対談する。
「鷹雄、お前、翡翠に何をした」
「やあ、セグウェ──セキレイ」
鷹雄はビール片手にソファーで枝豆を食べていて、頬をピンクに染めてちょっと出来上がっていた。
「お前、まさかビール片手に翡翠の診察をしたんじゃないだろうな?」 
俺は鷹雄からビールを引ったくり、それをテーブルに置く。
「まさか、両手にビールを持ってたよ」
ケラケラ愉快に笑う鷹雄に、俺はちょっとした殺意が芽生えた。
「それで?どうやって翡翠のPTSDを治した?」
俺が幾分不機嫌に尋ねると、鷹雄は枝豆を食べながらそれに応える。
「治してはいない、誤魔化しただけだ」
「誤魔化した?」
「そう、催眠療法だよ。いわば催眠術で翡翠の辛い過去を上書きしたんだ」
「それでか!」
俺は納得したと同時に安堵の息を漏らしたが、鷹雄は少し浮かない顔だ。
「言っておくが、記憶が完全に消去された訳ではないからな。何かの拍子に魔法が解ける事もある。よくよく注意する事だ」
「注意って?」
「例えば、翡翠の前で指を鳴らすとか。ベタな話だが、これで催眠術をかけたんだ、指を鳴らすと催眠が解けるトリガーになる」
指パッチンか……
「安心しろ、俺は指パッチンも口笛も出来ない人間だ」
「……だったな」
俺と鷹雄、2人の間にシュールな空気が流れた。
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