2 王への元献上品と、その元調教師

華山富士鷹

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この物語は別れから始まる

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『翡翠様、ご婚約、誠におめでとうございます。心よりあなた様のお幸せを願っております』

これが、俺が翡翠にかけれた最後の言葉だった。

翡翠が王の元に嫁いでからは、その身分の違いから直接顔を合わせて対面する事はなかった。
翡翠が幼い頃からあれだけ何年も四六時中一緒にいたのに、真の主が現れた途端、調教師なんてものは、献上品との一切の関わりを断たれてしまう。いわば『他人』だ。疑似であれ、夜伽の指南の為に毎夜体を重ねたとて、それもまた幻想。無かった事のようになる。事実は、互いの思い出の中だけに存在し、棘の様に胸のしこりとなった。

翡翠はどう思っているのだろうか?

同じ屋根の下、別々の部屋で過ごす雷の夜。
俺のベッドの隣には誰も居なくて、主を失った枕だけが所在無げに佇む。俺は寂しいくらいベッドを広く感じ、姿無き想い人が雷に怯えてはいないかと無用な心配をする。俺が心配したところで翡翠には夫の風斗がいて、雷の恐怖を紛らわせてくれるのに、馬鹿な事だ。以前は、雷の度に翡翠がしおらしく俺に縋ってくるものだから雷の夜が待ち遠しかったが、今となっては、その雷が憎らしい。
未だに翡翠も俺の事を恋しく想っていたらいいのになんて、調教師失格な事を思っている。
いいや、今はもう、調教師ですらないのに、未練を持ったところで翡翠を困らせるだけだ。
この感情は、瑪瑙を失った時のそれによく似ている。愛する者が俺の手を離れ、二度と戻って来ない、そんな悲しみに相当していると思う。
会って話す事は叶わないが、同じ空間、同じ空気を吸う機会には、思わず手を伸ばしてもう一度翡翠をこの胸に抱きたい衝動に駆られたりもした。連れて帰って、誕生日も、クリスマスも、お正月も、みどりの日も、どっかの国の旧正月も、全部一緒にいて、笑ったり、怒ったりして穏やかに暮らしたい、そう切願している。
時々、俺は城の駐車場から、翡翠の住む城のペントハウスを見上げては彼女への想いをつのらせたり、辛い目にあってはいないかと気を揉んでいたが、一方で、こうして想い人の影を追っているのは自分だけなのだろうと虚しくなった。
結婚の儀の際には、花嫁をさらって逃亡しようかと葛藤までしたが、結果どうなるのか、分かりきっていたので踏み出せなかった。
俺が手を差し出したところで、翡翠は俺に付いて来なかった筈だ。
あの、海辺へ行った最後のデートの時の様に、翡翠は頑なに俺を拒んだだろう。
翡翠とは、そんな人間だ。
頑固で、意固地で、融通が利かなくて、俺の為にならない事は絶対にしない、一本気な性格なのだ。
俺の為だなんて、いかに俺が翡翠を愛し、翡翠の為に地位や権力を投げうったとてお構いなしとは、やれやれ、すれ違いもここまでくれば神のイタズラか。
俺の本当の願いよりも、自分を犠牲にしてまで俺の幸せを望む、それが翡翠という人間で、彼女なりの愛なのかもしれない。
あーあ、納得したつもりなのに、翡翠への俺の想いは強くなるばかりだ。無いものねだりというやつか、翡翠の有り難みがひしひしと俺を苦しめる。
おまけに今夜は俺の『南部国国王就任式典』ときている。否が応でも翡翠と顔を合わせる事になる訳だ。
今は翡翠の顔を見るのも辛いというのに、式典後のパーティーでまた風斗の隣にいる彼女というのを直視しなければならないなんて、拷問か。

──ともあれ、それから式典を迎える事となり、広いホールの壇上で王である風斗から王冠を被せられ、俺は正式に南部国国王に就任した。
そして俺はその後の立食パーティーでシャンパン片手に翡翠の姿を探して視線を彷徨わせる。『拷問』とか言いながら、目では常に翡翠を探しているなんて、ストーカーか、俺は。媚び、へつらう大臣連中はまるで目に入らず、どんくさくて、田舎丸出しの秘蔵っ子の影を会場の隅や物陰に見出す。
あれはドジで人見知りだから、きっと悪目立ちして1人だけ浮いているに違いな──

けれどこの会場のどこにも、俺の知る『献上品』翡翠の姿は無かった。

居たのは、後光さえ射し込むような神々しいオーラを纏った『王妃』翡翠だった。彼女の出で立ち、立ち振る舞いは、さすが生まれついての王族と舌を巻かずにはいられない品の良さで、俺の知る翡翠とはまるで別人だ。俺は我が子の成長ぶりを喜ばしく思う反面、どうしてか、心にぽっかりと穴の空いたような虚無感に襲われた。
腕を組んだ風斗の半歩後ろをにこやかに歩き、気の利いた時事ネタで夫の外交をフォローする。
完璧じゃないか。
あれはもう、俺の『献上品』じゃないんだな。
頭では理解していたつもりが、今、やっと、本当の意味で飲み込めた気がする。
翡翠と過ごした可笑しくも尊い日々が、まるでいまわのきわの走馬燈のように頭を駆け巡った。
始めは手を咬まれたり、逃げられたり、喧嘩したりして手を焼いたが、しだいに分かり合い、翡翠が懐いてくると、抑えきれないくらい愛おしくて戸惑ったものだ。それらは全て、二度と取り戻せない、何物にも変えられない宝のような経験だった。
気がおかしくなりそうだ。
俺が遠くからじっと翡翠の横顔を見つめていると、彼女もその視線に気付き、バチッと視線がかち合う。
「……」
「……」
俺は柄にもなくドキリとして表情を強張らせた。すました翡翠があまりに別人過ぎて初対面の人間を前にしているかのような緊張感を味わう。
いや、これは翡翠が俺より上の身分になったからか?
俺がペコリと頭を下げると、翡翠は僅かに口角を上げ、それから視線を己の夫へと定めた。
やはり完璧だ、隙が無い程に。
今なら、紅玉を王妃にまで育て上げた翠の気持ちがよく分かる。
あれだけ手塩にかけ、可愛がった翡翠が、取繕われた『体裁』という仮面越しにしか俺を見なくなるなんて、調教師としては冥利に尽きるが、1人の男としてはなんともやるせない。

これが『別れ』というものか。

しかし俺は、本当の意味でこの言葉を理解してはいなかったのだと思う。
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