2 王への元献上品と、その元調教師

華山富士鷹

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最愛の妻

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いつからだろう、翡翠の左手の薬指から婚約指輪が抜け落ちるようになったのは──

「翡翠……最近、痩せたね」
出勤前のバタつく朝、俺はいつものようにダイニングテーブルで味噌汁を啜りながら、排水溝に指輪を落とした翡翠を見てそう思った。
「そうですか?気のせいで──あっ、とれたっ!」
翡翠は排水溝から救出した金の指輪を嬉しそうに掲げている。
「痩せたから指輪がすり抜けるんだろ?今日で何回目?」
翡翠は着ぶくれしているが、水仕事でビショビショになった袖から覗く手首は骨そのものだ。何より頬が若干痩けたように見える。
「石鹸のせいですよ」
翡翠ははぐらかすように笑って、ダイニングテーブルでアボカドをペーストにする王子と小競り合いを始めた。
「こら、アボカドをペーストにするんじゃありません。アボカドが可哀想でしょ?」
「だってアボカドってグニュグニュしてて粘土を食べてるみたいなんだもん」
「粘土を食べた事があるの?」
「無いけど、とにかくグニュグニュしてて気持ち悪いのっ!」
「潰すからグニュグニュしてるんだよ。アボカドは多分体にいいから、ちゃんと食べて」
「ね、お母さん、お母さんのお名前作ったよ~」
これに双子の片割れがアルファベットのフライドポテトで遊び始め、夫婦の会話はどこへやら。
「まあ、いいか。我が家は今日も平和だな」
なんてのんきに仕事へ行き、1日が終わり、夜中、寝室で翡翠に夜の窺いをたてると──
「あの……今夜も寒いので着たままでもいいですか?」
俺が布団の中でゴソゴソと翡翠のパジャマを脱がせようとすると、彼女は体を丸くしてそれを阻止した。
最近の翡翠はずっとこの調子で夫の俺にすらあまり肌を見せたがらなかった。
「寒い?なら暖房を上げよう」
俺が枕元のリモコンでエアコンを弄ろうとすると、翡翠がそれを止める。
「でも、せっかくシャワーをしたのに、風斗さんが汗をかきますから」
「またシャワーしたらいい」
俺が強行突破でリモコンのボタンを押そうとすると、またも翡翠にそれを止められた。
「子供達が起きます」
「そんな事じゃ子供達は起きないよ」
そんなに俺に裸を見られるのがイヤなのか?
夫婦なのに今更じゃないか。
でも嫌がられると逆にそそられるのが俺の性分なのだ。
「でも……」
暗くてよく見えないが、翡翠の冴えない表情を想像しただけでからかいたくなる。
「どうしたの?俺に内緒で背中に入れ墨でもいれた?」
「いれるかー!」
いいツッコミだ。
「じゃあ裸になれ。これは命令だ」
「夫婦の寝室は治外法権ですから」
「翡翠は俺の言う事、全然きかなくなったよね」
スンとした翡翠の態度に、俺は少しだけ侘しくなる。
「きかないと決めましたからね」
お、断言した。
「久しぶりに奥さんの裸が見たいんだよ。お願いお願いお願いお願いお願い」
俺は見えぬ翡翠相手に手を合わせ、ひたすら頭を下げてみせる。
「これまで散々見てきたでしょう?」
「もっと見たい」
そう言って俺が、これから営みを始めるというのに枕元のリモコンで室内の明かりをつけると、翡翠の、びっくりするくらい真っ青なスッピンが目に入った。
「翡翠、具合が悪いの?」
翡翠は慌てて俺からリモコンをひったくり、室内の明かりを消したが、失礼な話、彼女の顔は、日中見た血色の良いそれとは違って、まるで死人みたいな顔色をしていた。
「夜は血行が悪くて。萎えましたよね?」
「萎えたって言うより、なんか翡翠が可哀想で出来ないよ」
翡翠は夫の俺にすら弱音を吐かない。ここに嫁いでからだって、右脚を失った時や沢山の辛い事があったとしても絶対に涙を見せなかった。だからきっと今も、本当は具合が悪いのに平気なフリをしているに違いない。
「ごめんね。今夜は俺が翡翠を温めてあげるから」
そう言って俺は翡翠を抱いて眠ったが、彼女の抱き心地が悪くなっている事にも気付いた。
翡翠はこんなに首筋が細かったか?
こんなに華奢だったか?
こんなに骨が浮いていたか?
翡翠はいつからこんなに痩せていたっけ?

翡翠はいつから、こんなにも儚くなっていたんだろう?

翌朝、寝ぼけまなこで起きてきた俺に、翡翠は、昨夜の死人の様な顔色が嘘みたいに、眩しい笑顔で『おはようございます』といつも通りの元気な挨拶をしてくれた。
「おはよう」
俺もいつも通り挨拶を返したが、翡翠の頬のチークが濃くなっているような気がして、不安が頭をよぎる。
翡翠は絶対に弱音を吐かない人間だ。双子の出産の時ですら悲鳴をあげず、産後、助産師さんから『こんなに我慢強い人は初めてです』と褒められたくらい。

もしかしたら、翡翠は何かの病気なのかもしれない。

そう思い、一番身近で翡翠の健康状態を診てきた鳥取を問い詰めると『王妃様が必死にお隠しになっているものを無理矢理暴きたてるおつもりですか?』と牽制され、俺は逆にそれで全てを悟ってしまった。


「風斗様も旧友の再会に参加したらどうですか?そもそも貴方が私にあのお二人を捜させたのに」
俺はその日、仕事と言って部屋を出たのにもかかわらず、真っ直ぐ隣のコンシェルジュ室に来ていた。
「あいつらは今、献上品と調教師に戻ってるんだ。俺という現実が行ったら、せっかくの再会が台無しになる。それに王である俺は立場上人門翠の罪を認める訳にはいかないだろ?」
本当は翡翠を他の男の目に触れさせたくなかったが、彼らと会わせないと一生後悔する気がして鳥取越しに人門翠と鷹雄を大捜索したのだ。
「まあ、そうですね」
鳥取は、窓辺に立ってボンヤリする俺の隣に並び、そこからペントハウスに匹敵する眺望を眼下に眺める。
「セキレイ……も、呼ぶべきだったかな?」
自分で聞いておいて、俺の心臓は罪悪感で脈打つ。
時々、翡翠同伴の社交界の場でダリアを伴ったセキレイと遭遇する事があり、2人はさして目を合わせる事もなかったが、俺には、2人の間に見えない絆のようなものが見えた気がしてとても嫌だった。
翡翠にセキレイを近付けたくない。
このごに及んで浅ましい考えかもしれないが、妻の最期だからこそ、彼女の想い人には夫婦の領域に立ち入ってほしくなかった。
「渡辺さんですか。多分、王妃様はそれを望みません」
鳥取からそう言われ、俺は心の中でホッと安堵する。
「そうか」
しかし罪悪感は薄れたが、釈然としない。

本当にそれでいいのか?

「翡翠が望まないのであれば……」
本心で翡翠が望まない訳がない。翡翠は今でもセキレイの事を深く愛している。夫だから解るのだ。俺はただ、翡翠を口実にセキレイを遠ざけたいだけだ。

俺は酷い人間だ。

意固地になってる。
死にゆく妻の最期の願いから目を背けるなんて、俺はきっと地獄に墜ちる。翡翠と同じ場所へは到底行けないだろう。
それでも俺は、たとえ地獄の業火に焼かれようとも──  

翡翠を最期まで自分の物にしていたい。                                   
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