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第7章「温室栽培」
120話
しおりを挟むユリウスside
明け方頃、僕はふと目を覚ました。
目を擦り、むくりと起き上がれば、額から何かが滑り落ちた。ぽふっと掛け布団に落ちたそれは、相変わらず絞りの甘い濡れタオルだった。
「…。」
この既視感に、僕は思わず苦笑いをする。
―本当に、馬鹿な人だ。
横を見れば、椅子に座って眠る姉が居た。
慣れない看病で疲れてしまったのだろう。全身血塗れのまま深い眠りについている。血液さえ付いていなければ、うたた寝をするただの公爵令嬢だ。
そんなフォークより重いものを持ったことのないお嬢様が、拙いながらもここまで看病出来たことが心底不思議だった。また誰かが彼女に要らぬ入れ知恵をしたのか……。
そこまで考えてふと、こちらを案じるような幼い姉の視線を思い出した。
―あぁ、そうか。
貴女は、僕が侍女達に看病される姿をずっと見ていたのか。
敢えて何も出来ない令嬢を育ててきたというのに、皮肉なことに僕の存在のせいで彼女の中に新たな可能性の花が咲いてしまっていたようだ。
思わず、自嘲の笑いを洩らす。こういう花は深いところまで根を張っているので、摘み取るのが少しばかり厄介なのだ。
熱が下がり、やっと麻痺していた頭が回り始めた。
ベッドから降りた僕は、椅子にに座り眠る姉を見下ろした。
無防備な寝顔を晒す姉に苦い気持ちが込み上げてくる。いっその事、このまま彼女の命の芽を摘み取ってしまいたい。そうすれば…。
僕は彼女の頭に右手をかざす。そして、血液に混じる青の魔力に意識を向ければ、右手は淡いブルーの光を帯びた。
このまま姉の記憶を操作しようとして―――やめた。
今更、彼女の記憶を操作した所で、毒林檎の成長を止めることはできない。
僕は記憶の操作魔法ではなく、姉に浄化の魔法をかけた。淡いブルーの光りが姉の身体を包み込み、彼女の身体にこびり付いている汚れを浮かび上がらせる。そして汚れは、そのまま空気に溶けていった。
僕は青い光を失った右手を力なく下ろす。
穢れが落ちた姉は、剥きたての卵のように綺麗になった。そんな姉は、薄暗い部屋の中でぼんやりと白く浮かび上がっている。
土も、灰も、薄汚れた血液も、どれも貴女には似合わない。
白い夜着を身に纏い静かに眠る姉は、あの時の少女と重なった。
ふと、彼女の隣に置いてあるナイトテーブルに目がとまった。仄白い窓あかりを浴びたテーブルの上には、白と赤の何かの破片が皿の上に乗っていた。一瞬生ゴミかと思ったが目を凝らし良く見てみると、それは歪にカットされた林檎だった。
林檎は全てキッチンに保管してあるはずだったが……よくまぁ見つけたものだ。まるで食べ物を荒らす溝鼠のようだ、と言ったら彼女は怒るのだろうな。顔面を林檎のように真っ赤に染めながら怒り狂う姉の姿が容易に想像ができた。
僕は一欠片の林檎を手に取り、色んな角度で眺める。
皮を厚めに剥いてしまったようで、身の部分はほとんど残っていない。むしろ、皮の方が林檎としての食べ応えがあるだろう。こんな可哀想な林檎は初めて見た。
だが、何よりも淑女としてのプライドを大事にし「清く、正しく、美しく」を地で行く彼女が、剥いたものだと思えば見方はだいぶ変わってくる。
彼女は生粋の貴族階層出身者だ。そんな彼女が使用人の真似事のように林檎の皮を剥くだなんて、かなりの抵抗があったに違いない。
「……。」
僕は誰よりも姉のことを理解している。だが、最近の彼女はよくわからない。本来の彼女は警戒心が強く、良くも悪くも保身的な人だ。そんな彼女が、自ら危険を冒すような真似は絶対にしないはず。…だったのだが…。
今の姉は無謀で実に不安定である。もしかしたら自分が何をしているのか姉自身でさえ、よく分かっていないのかもしれない。
そんなことを考えながら、僕は小さな林檎の欠片を口の中に放り込んだ。その瞬間、爽やかな甘味と酸味、瑞々しい蜜が口いっぱいに広がる。
ノルデン帝国産の林檎は蜜が豊富で、色艶が宝石のように美しい。帝国を代表する特産品の1つである。
「……甘い。」
林檎を食べる度に思い出す、あのツンと鼻につく不快な発酵臭。まるで林檎が樽の中で腐ったような匂い。―――毒林檎の香り。
例え記憶を失ったとしても、あの香りだけは忘れてはいけない。
僕にとって毒林檎の香りこそが全ての始まりで、終末のきっかけなのだから。
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