或る男の話

名乃坂

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本編

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「お嬢さん、今お暇ですか?」

街を歩いていると、見知らぬ男に声をかけられる。
艶やかな着物を着て煙管を咥えた、随分と古風な美男子だ。
歳は私と然程変わらないように見える。

「すみません。お嬢さんはお綺麗なので、つい声をかけてしまいました」

私が戸惑っていると、彼は私を安心させるように少し微笑む。
口調こそ軽いけれど、その表情からは、いわゆるナンパにありがちな、異性を値踏みするようないやらしさは微塵も感じられない。

「よろしければ、一緒にカフェでお話でもしましょう」

普段ならこんな風に誘われても絶対について行かない。けれど、何となく、彼の誘いを拒否することはできなかった。

小洒落た喫茶店で彼と談笑をする。
彼は私の個人情報については一切触れずに、街の噂話ばかりしてくる。

「噂話と言えば……お嬢さんは羽衣伝説ってご存知ですか?」

どうして唐突に羽衣伝説の話が出るのか。
彼は口角こそ上がっているけれど、目は笑っておらず、その真意は全く読めない。

私が幼い頃、昔話で聞いた話について触れると、彼は満足そうに微笑む。

「その話は有名ですよね。でも、他の話もあるんですよ。羽衣伝説は様々な地域に伝わる伝承ですからね」

彼はそのまま話を続ける。

——昔々、あるところに、孤独な男がいました。その男は、ある日この世界に絶望して、身投げしようと近くの湖に向かいました。すると、湖には1人の美しい女性がいました。その女性は泣いていたので、この女性を何とかしないことには身投げもできないと思い、男は彼女に話しかけました。彼女は「羽衣を無くしたから月に帰れない」と言いました。男は悟りました。この女性は天女だと。
——男は天女が他の人間に見つかったら危ないと思い、彼女を家に連れて帰りました。そして男は、彼女が月に帰れるまで、彼女の面倒を見ることにしました。さっきまで死ぬつもりだったのにね。
——彼女と男は、それから親しい関係になりました。彼女は孤独だった男の唯一の心の拠り所になりました。彼女と男は愛し合うようになり、彼女は男と永劫の時を過ごせるように、月の兎が作った不老不死の薬を男に渡しました。男は喜んでその薬を飲みました。男は彼女のことを心の底から愛しているから。人間を捨ててでも、彼女のそばに居たかったから。

「幸せでした……。本当に……」

幸せそうに語っていた彼が、急に暗い顔をする。

——そんな幸せな日々が続いていたある日、彼女は男に「天の羽衣が見つかって月に帰れるようになったから帰りたい」などと言ったのです。これからも未来永劫愛し合うと誓って、彼を死ねない存在にしたのに……。

「そこで男はどうしたと思いますか?」

彼は突然私に問いかける。どう答えようか迷っていると、彼は私の答えを待たずにそのまま話を続ける。彼は私が何て答えるかは全く気にしていないらしい。

——男は彼女を監禁し、何度も何度も手酷く犯し、彼女の前で天の羽衣をビリビリに破り、そして燃やしました。彼女が天に帰れなくなるように……。天の羽衣を失っただけでなく、身も心も穢されて、天女としての神性を失った彼女の元には、もう2度と天からの仲間が助けに来ることもなくなりました。

なんとむごい話なのだろう……。
何も言えずに聞き入っていると、彼はぶつぶつと呟き始める。

「月に帰るって言われた時は本当におかしくなるかと思った……。僕にあんなに笑いかけてくれたくせに……。一生僕のそばに居てくれるって言ったくせに……。許せない許せない許せない許せない許せない許せない……」

その様子はあまりにも病的だった。

「失礼しました。僕はこういった話には感情移入してしまう方で。驚かせてしまいましたね」

不穏な空気に怯えている私に構わず、彼は急にまた笑みを浮かび始める。

「それから男は、今も彼女と幸せに暮らしています。そしてこれからもずーっと。2人とも不老不死ですからね。共に永遠を生きるんです。男は元々自殺志願者でしたのに、人生って何があるか分かりませんよね?」
「きっと男はもう狂ってしまっているのかもしれませんね。人間の器でありながら、千年を超えて生き続けているわけですから。数百年目からは、霊や神様のような者の姿も見えるようになりまして……。人ならざる者と関わった人間の末路なんてこんなものなんです」

彼は私の目をじっと見つめる。

「何で僕がお嬢さんにこんな話をしたのか分かりますか?」

彼は私に問いかける。
「お嬢さんも、こっち側の人間ですよね?」

そう言って私の隣の席をちらりと見つめる。
横には誰もいないのに。

「さっきからお嬢さんの連れの方の視線が怖いんですよ。僕がお嬢さんを誘った時から、まるで仇でも見るような目で僕を見つめてきて……。妖の類でもこんなに1人の人間に執着することがあるんですね。羨ましいなぁ……」

彼がそこまで話したところで、突然彼の横を鋭利な風が吹き抜ける。彼は咄嗟にその風を避けたけれど、彼が持っていた煙管が引き裂かれる。

「おっと危ない……。話し過ぎたみたいです……。彼の怒りを鎮めるためにも、僕はもう帰りますね。。僕も愛する彼女の元に帰らないとですし……。あっ、お代は払っておきますからね」

そう言って彼は、何事もなかったかのように帰る支度を始める。

「とにかく、あまり彼を放置していると、そのうち痛い目を見るかもしれませんよ?そのことだけを伝えたくて……。僕はお嬢さんよりもうんと長生きしてますので、年寄りからの忠告だとでも思ってください」

彼には聞きたいことがいくつもある。けれど、彼はそんな私に構わずに、そのままカウンターに向かう。

「それでは、くれぐれもお気をつけて」
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