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5章 忘れられた国
50話 絶望
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サミュエルは一一七番植民地、もとい「カップランド」の片隅で誕生した。
家はボロ屋。風が吹き抜け、耳を澄まさずとも隣人の声が聞こえる程、開けた家だった。その中で父と母、二人の愛に包まれて、伸び伸びと育てられた。
八歳になり、訓練所に通うようになった。そこで出会ったのがイアン――後に相棒となるである。
幼年期の彼は無邪気であった。剣術を真面目に学ぶことはなく、かと言って弓術に長けていた訳でもない。彼が好んだのは座学。知識や知恵を頭に入れるだけの、あまりにも退屈な授業である。
「知る度に、知らないことが増えていくんだ」
彼はよく、そんなことを言っていた。
「おれ達は今まで壁の中にいて、外なんて……訓練以外で出たことないけど、あの向こうには沢山の人や文化、自然が広がってるんだ。もし出来るなら、おれは『任務』じゃなくて、調査の為に外に出たい」
今思えば、彼は頭脳派であったのだろう。壁の中から指示を飛ばす、それがお似合いだ。しかし運命とは残酷なもので、訓練開始から五年後、成人を迎えた十三歳の夏。彼はサミュエルと共に壁外へと派遣された。
王が求めて止まなかった『プレイヤー』、それを捜索する為に。
それからの経緯は単純である。各所で村を襲い、キャラバンを攻撃し、腹を空かせたモンスターを退ける。病に臥せることも、喧嘩することもあった。だがそれ以上に、イアンは持前の明るさをもってサミュエルを楽しませた。
いつからイアンが変わったのか、腹の中に暗闇を抱えるようになったのか、それは今となっては分からない。もしかしたら最初から――サミュエルと出会った頃から、到底解き得ない思惑を紡いでいたのかもしれない。
どうでもいい。サミュエルは思う。どれも些細な問題だ。自分が友人を裏切ったことに比べたら、蟻のように小さな問題である。
誰よりもイアンは賢かったし、誰よりも残酷で、誰よりも寂しがり屋だ。
振り下ろされる剣。多分イアンは、サミュエルを殺した後泣くだろう。物陰に隠れて、ひっそりと。
今こそ鉄仮面を被っているものの、その裏には、今にも泣き出してしまいそうな幼い少年がいる筈だ。相棒、そのしがらみに囚われたままの、大好きなイアンが。
その時、ふとイアンの視線が持ち上がる。喉笛を貫くその寸前、剣の纏《まと》う冷気が垂れ落ちそうな距離で、ぴたりと動きを止めている。
じっと息を潜めていると、オリハルコンの紋様の中に、見覚えのある黒髪が映った。
「クローイ?」
マルケン巡査部長に付いていた筈の彼女が、引き返したのだ。肩を上下させるクローイは、唇を巻くように舐めると、
「イアン君、もうやめよう……?」
「ハッ、おねーさん、戻って来たんだ。人を殺したことない癖に、一丁前に弓なんか使っちゃってさ。何、サミューの真似? 不愉快極まりない」
サミュエルの胴上、イアンは舌を打つ。先程までの憂いる様子はどこへ行ったのか、彼の顔には、一変して憎しみだけが宿されていた。もはや取り繕う余裕もない、そう理解せざるを得なかった。
「何で戻った……アイツは?」
「マルケンさんなら――ううん、大丈夫。大丈夫だって、そう言ってた」
情報が敵方に渡ることを危惧したのだろう。クローイは凛然と首を振って、腰の矢筒から矢を引き出す。左手の弓をやや傾けて持ち直す。彼女の目は鋭い。彼女の本心は職人ではなく、狩人でもあった。
「イアン君、お願い、剣を置いて。どこに当たるか分からないから……」
「結構な自信だね、当てるつもりはあるんだ。おねーさんが戦闘職に就いた方がよかったんじゃない?」
軽口を叩きつつ、イアンの足腰が力を蓄えていくのが分かる。これ以上妙な動きを見せれば、すぐにでも始末する。そういう魂胆なのであろう。
幸いにも、サミュエルの肩を押さえるのはイアンの膝である。手は、可動域こそ制限されているが、自由に動くことが出来る。これ以上イアンに罪を重ねさせたくない。その一心でサミュエルは、ぐっと足首を掴んだ。
「……サミューは、おれを的にする気?」
見下ろす少年は、軽い笑みを浮かべていた。引き攣っている。
イアンのナイフ、もしくは剣とクローイの弓矢。彼等が衝突すれば、勝敗は容易に決する。距離を詰めればイアンの圧勝だろうし、仮にクローイの矢が狙い通りに飛んだとしても、イアンならば十分避け得る。
弓の角度、視線、身体の向き――全ての情報を総動員して、どこを射るか、どの軌跡を辿るか、それを推測する。
両者の間は十メートル程、矢にとっては一秒にも満たない距離であるが、それでも彼ならやりかねない。イアンは、どの状況においても冷静だ。だからこそ足枷が必要となる。
「僕はアンタを殺したくない。言う通りにしてくれ」
「拘束してどうするの。おれをあの村に連れて帰るの?」
「それは……」
「前みたいに仲良くしようって? 無理だよ、もう。全部手遅れなんだよ」
見降ろすイアンの目に膜が張る。
なぜ。頭にあるのは、ただそれだった。なぜ泣いている。なぜ今まさに泣こうとしている。どこからどう見ても、彼の方が優勢なのに。彼の方が生き延びるのに。
瞠目すると、イアンは困ったように笑った。
「おれだって考えたよ、一緒にハッピーエンド。だけど、サミューにとっておれは敵だし、おれにとってサミューは敵になっちゃった。もう無理じゃん。勇者と魔王は和解しないんだよ」
「ま、まだ大丈夫だよ、まだやり直せるよ。また一緒にご飯食べたり、一緒に寝たり、もっといろいろなこと、しよう?」
クローイの声が聞こえて来る。
そう、まだやり直せる。何も、一度敵になったら終わりではないのだ。それ以上の友情を育んできた。たった一回きりの衝突で壊れるほど脆くはない。
そう信じたい。信じたいのに、イアンの顔は次第に色を失っていく。絶望を、初めて認識したかのように。
「イアン」
「そう、どっちかが死ぬしかない。死なないと終わらないんだ」
「イアン、話を聞いてくれ」
「だけど、ただ死ぬんじゃおもしろくない。それならさ、どうせなら、もっと記憶に残る死に方、したいと思わない?」
「な、何……」
イアンが持つ剣、それが次第に手繰り寄せられる。幾重にも重なる波模様が、意思を持つ生き物のように蠢いている。切っ先がサミュエルの目の前を横切り、イアンの喉笛に吸い付く。
「イアン――イアン、何を考えて……イアン、やめろ!」
体格はほぼ同じ。どれだけもがいても、確立された体幹には敵わなかった。軽く揺れるばかりで、どれも崩すには至らない。
こちらを見降ろしたイアンは、ギイと口角を吊り上げると、
「我が国の為、王の為に死ねるなら本望! 情けなど無用! ――なあ、そうだろ、相棒!」
切っ先が白く細い喉へと吸い込まれる。音もなく白肌を切り裂く。初めて聞こえた音は、イアンの嘔吐にも似た呻きだった。視界が赤く染まる。口の中に鉄の味が広がる。
引き抜かれた剣が、どこかで音を立てる。ぱっくりと裂けた管から、眩い程の鮮血が溢《あふ》れ出す。ランプの光を返して、ぬらぬらと艶やかに落ちる。
「イアン……イアン!」
ぐらりとイアンの身体が揺らぐ。腕を引き抜き、身体ごと患部を押さえ込もうとするが、気が触れたようにもがく少年は、サミュエル一人の手には負えなかった。
我を取り戻したクローイが取り付くが、結果は同じである。大した助力にすらならない。
「イアン、ど、どうしたら……」
呼び掛けるも、当然答えはない。ごぼごぼと嘲笑うような咳は次第に遠退き、少年の手足は力を失っていく。
裂けた喉を修復する技術はない。応急処置程度の心得では、どうすることも出来なかった。
手を伸ばし、濡れた柄を握る。サミュエルに下せるのは、たった一つの決断である。
家はボロ屋。風が吹き抜け、耳を澄まさずとも隣人の声が聞こえる程、開けた家だった。その中で父と母、二人の愛に包まれて、伸び伸びと育てられた。
八歳になり、訓練所に通うようになった。そこで出会ったのがイアン――後に相棒となるである。
幼年期の彼は無邪気であった。剣術を真面目に学ぶことはなく、かと言って弓術に長けていた訳でもない。彼が好んだのは座学。知識や知恵を頭に入れるだけの、あまりにも退屈な授業である。
「知る度に、知らないことが増えていくんだ」
彼はよく、そんなことを言っていた。
「おれ達は今まで壁の中にいて、外なんて……訓練以外で出たことないけど、あの向こうには沢山の人や文化、自然が広がってるんだ。もし出来るなら、おれは『任務』じゃなくて、調査の為に外に出たい」
今思えば、彼は頭脳派であったのだろう。壁の中から指示を飛ばす、それがお似合いだ。しかし運命とは残酷なもので、訓練開始から五年後、成人を迎えた十三歳の夏。彼はサミュエルと共に壁外へと派遣された。
王が求めて止まなかった『プレイヤー』、それを捜索する為に。
それからの経緯は単純である。各所で村を襲い、キャラバンを攻撃し、腹を空かせたモンスターを退ける。病に臥せることも、喧嘩することもあった。だがそれ以上に、イアンは持前の明るさをもってサミュエルを楽しませた。
いつからイアンが変わったのか、腹の中に暗闇を抱えるようになったのか、それは今となっては分からない。もしかしたら最初から――サミュエルと出会った頃から、到底解き得ない思惑を紡いでいたのかもしれない。
どうでもいい。サミュエルは思う。どれも些細な問題だ。自分が友人を裏切ったことに比べたら、蟻のように小さな問題である。
誰よりもイアンは賢かったし、誰よりも残酷で、誰よりも寂しがり屋だ。
振り下ろされる剣。多分イアンは、サミュエルを殺した後泣くだろう。物陰に隠れて、ひっそりと。
今こそ鉄仮面を被っているものの、その裏には、今にも泣き出してしまいそうな幼い少年がいる筈だ。相棒、そのしがらみに囚われたままの、大好きなイアンが。
その時、ふとイアンの視線が持ち上がる。喉笛を貫くその寸前、剣の纏《まと》う冷気が垂れ落ちそうな距離で、ぴたりと動きを止めている。
じっと息を潜めていると、オリハルコンの紋様の中に、見覚えのある黒髪が映った。
「クローイ?」
マルケン巡査部長に付いていた筈の彼女が、引き返したのだ。肩を上下させるクローイは、唇を巻くように舐めると、
「イアン君、もうやめよう……?」
「ハッ、おねーさん、戻って来たんだ。人を殺したことない癖に、一丁前に弓なんか使っちゃってさ。何、サミューの真似? 不愉快極まりない」
サミュエルの胴上、イアンは舌を打つ。先程までの憂いる様子はどこへ行ったのか、彼の顔には、一変して憎しみだけが宿されていた。もはや取り繕う余裕もない、そう理解せざるを得なかった。
「何で戻った……アイツは?」
「マルケンさんなら――ううん、大丈夫。大丈夫だって、そう言ってた」
情報が敵方に渡ることを危惧したのだろう。クローイは凛然と首を振って、腰の矢筒から矢を引き出す。左手の弓をやや傾けて持ち直す。彼女の目は鋭い。彼女の本心は職人ではなく、狩人でもあった。
「イアン君、お願い、剣を置いて。どこに当たるか分からないから……」
「結構な自信だね、当てるつもりはあるんだ。おねーさんが戦闘職に就いた方がよかったんじゃない?」
軽口を叩きつつ、イアンの足腰が力を蓄えていくのが分かる。これ以上妙な動きを見せれば、すぐにでも始末する。そういう魂胆なのであろう。
幸いにも、サミュエルの肩を押さえるのはイアンの膝である。手は、可動域こそ制限されているが、自由に動くことが出来る。これ以上イアンに罪を重ねさせたくない。その一心でサミュエルは、ぐっと足首を掴んだ。
「……サミューは、おれを的にする気?」
見下ろす少年は、軽い笑みを浮かべていた。引き攣っている。
イアンのナイフ、もしくは剣とクローイの弓矢。彼等が衝突すれば、勝敗は容易に決する。距離を詰めればイアンの圧勝だろうし、仮にクローイの矢が狙い通りに飛んだとしても、イアンならば十分避け得る。
弓の角度、視線、身体の向き――全ての情報を総動員して、どこを射るか、どの軌跡を辿るか、それを推測する。
両者の間は十メートル程、矢にとっては一秒にも満たない距離であるが、それでも彼ならやりかねない。イアンは、どの状況においても冷静だ。だからこそ足枷が必要となる。
「僕はアンタを殺したくない。言う通りにしてくれ」
「拘束してどうするの。おれをあの村に連れて帰るの?」
「それは……」
「前みたいに仲良くしようって? 無理だよ、もう。全部手遅れなんだよ」
見降ろすイアンの目に膜が張る。
なぜ。頭にあるのは、ただそれだった。なぜ泣いている。なぜ今まさに泣こうとしている。どこからどう見ても、彼の方が優勢なのに。彼の方が生き延びるのに。
瞠目すると、イアンは困ったように笑った。
「おれだって考えたよ、一緒にハッピーエンド。だけど、サミューにとっておれは敵だし、おれにとってサミューは敵になっちゃった。もう無理じゃん。勇者と魔王は和解しないんだよ」
「ま、まだ大丈夫だよ、まだやり直せるよ。また一緒にご飯食べたり、一緒に寝たり、もっといろいろなこと、しよう?」
クローイの声が聞こえて来る。
そう、まだやり直せる。何も、一度敵になったら終わりではないのだ。それ以上の友情を育んできた。たった一回きりの衝突で壊れるほど脆くはない。
そう信じたい。信じたいのに、イアンの顔は次第に色を失っていく。絶望を、初めて認識したかのように。
「イアン」
「そう、どっちかが死ぬしかない。死なないと終わらないんだ」
「イアン、話を聞いてくれ」
「だけど、ただ死ぬんじゃおもしろくない。それならさ、どうせなら、もっと記憶に残る死に方、したいと思わない?」
「な、何……」
イアンが持つ剣、それが次第に手繰り寄せられる。幾重にも重なる波模様が、意思を持つ生き物のように蠢いている。切っ先がサミュエルの目の前を横切り、イアンの喉笛に吸い付く。
「イアン――イアン、何を考えて……イアン、やめろ!」
体格はほぼ同じ。どれだけもがいても、確立された体幹には敵わなかった。軽く揺れるばかりで、どれも崩すには至らない。
こちらを見降ろしたイアンは、ギイと口角を吊り上げると、
「我が国の為、王の為に死ねるなら本望! 情けなど無用! ――なあ、そうだろ、相棒!」
切っ先が白く細い喉へと吸い込まれる。音もなく白肌を切り裂く。初めて聞こえた音は、イアンの嘔吐にも似た呻きだった。視界が赤く染まる。口の中に鉄の味が広がる。
引き抜かれた剣が、どこかで音を立てる。ぱっくりと裂けた管から、眩い程の鮮血が溢《あふ》れ出す。ランプの光を返して、ぬらぬらと艶やかに落ちる。
「イアン……イアン!」
ぐらりとイアンの身体が揺らぐ。腕を引き抜き、身体ごと患部を押さえ込もうとするが、気が触れたようにもがく少年は、サミュエル一人の手には負えなかった。
我を取り戻したクローイが取り付くが、結果は同じである。大した助力にすらならない。
「イアン、ど、どうしたら……」
呼び掛けるも、当然答えはない。ごぼごぼと嘲笑うような咳は次第に遠退き、少年の手足は力を失っていく。
裂けた喉を修復する技術はない。応急処置程度の心得では、どうすることも出来なかった。
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