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第二章 狩る者と狩られる者の探り合い

【第六話 本音】6-3 人情ってやつだよ

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 鼓膜に微かに触れた声が、私を一気に冷静に戻した。
 こんなことしてたって駄目だ。私の仕事は別にある。それをしなければ私は私でいられないのに、こんなどうでもいい話で仕事を失敗なんてできるはずがない。

「キョウ、この話は後でしよう」

 急に私の雰囲気が変わったのに気付いたのか、キョウは何も言わなかった。代わりに私が見ている方に視線を送り、その先に何があるのか探ろうとしている。けれど彼にはまだ見ることはできない。私にだって、見ることはできない。
 私の耳が拾ったのはただの悲鳴。都会ならそこまで珍しくもないけれど、その張り詰め方は一流の演者だって真似しきれない。

「ただの悲鳴だけど、行く?」

 私が問うと、既に気持ちを切り替えたらしいキョウは静かに頷いた。流石にこういうところはちゃんとしていて安堵を覚える。

「可能性はあるってことだろ?」
「本気で切羽詰まってそうってところはね。ただの事故とか人間同士の諍いの可能性もあるよ。まだそのへんは分からない」
「違ったら引き返せばいい。確認を怠って見逃したんじゃ笑い話にもならない」
「引き返しちゃうの? 私は必要だったら助けるけど」
「……なんでアンタが助けるんだよ」

 キョウは怪訝そうに言うけれど、その雰囲気からは彼も私と同じように考えていることが伝わってきて思わず頬が緩む。これはきっと間違ってない――そう思うと、心がちょっと軽くなった気がした。

「人情ってやつだよ」

 私が笑って走り出せば、後ろから「……そうかよ」と小さく聞こえてきた。


 § § §


 キョウと共に走って数十秒。悲鳴が聞こえた方へ向かっても、思っていたほどの血の匂いはしてこなかった。香るのはほんの少しだけ。だけどこれくらいなら別に異常でもなんともない。生きている限り多少の怪我はするし、病気で手術だってするだろう。空気に混じるのはその程度の強さの香りだった。

 でも、私は既に何かがあったのだと確信していた。血の匂いなんて関係ない。悲鳴の方へと近付くごとに、私の芯に染み付いた感覚が静かに疼くから。
 それが感じ取るのは愉悦の気配。興奮した吸血鬼の撒き散らす邪悪な喜び。

 普通はそんなもの感じ取れないのだそうだ。同胞に話してみても、なんのことを言っているんだと首を捻られる。
 だけど確かに感じる。時々誰かを見て、「この人は怒っているな」と感じることがあるだろう。感覚としてはそれに近い。その人の仕草にそんな素振りは微塵もないのに、自分の無意識の向こう側にある何かがそっと教えてくる、あの感覚。

 子供の頃、壱政様に繰り返し繰り返し何度も教えられた。分からないとどれだけ泣いても、それでもやれと見逃してもらえなくて。当時は吸血鬼の存在なんて知らなかった。壱政様のことも人間だと思ってた。だからなんで機嫌良さそうな人を観察させられるのか理解できなかった。
 理解できるようになったのは、自分が人間じゃなくなった後。私が教えられていたのは興奮した吸血鬼の気配だったのだと知った時だった。
 だから私を人里に戻す時、壱政様は言ったのだ。『あの気配を感じたら何を置いてもそこから離れろ』――非力な人間である私を自分達吸血鬼から守ろうとしてくれていたのだと、そう理解した時にはもう私は人間ではなかったけれど。教えてもらったそれは、ちゃんと私の役に立っている。

「キョウ、ちょっと先に行くね」
「ッおい!」

 タンッと地面を蹴って電柱の上まで跳び上がる。人間の速さだと逃げられてしまうかもしれないから、ここからは私達のやり方で追いかけた方がいい。
 複雑に絡み合った電線を踏まないように、私はもう一度コンクリートを優しく蹴って身体を闇に紛れ込ませた。わざとぎりぎりまで影にならずにいたから、キョウには私の向かった方向が分かるだろう。彼なら追いつくのにそう時間はかからないはずだ。

 ぐっと景色が切り替わる。所狭しとビルが並んでいたはずの街並みは、あっという間に空白が見えるようになった。
 向かったのは柵に囲まれた場所。何かの工事現場だろうか。確かにこれなら真夜中の今なら人気ひとけはない。

 追っていた気配が大きくなる。その中心を探れば重機の横に男の姿。この気配の元はあの男だと、彼は吸血鬼だと直感が叫ぶ。
 男の足元には女性。僅かに香る血の匂いが、彼女が人間であると私に教えた。倒れているのは気絶だろうか。まだ死の臭いはしない。
 地面に近付きながら影となっていた身体を戻す。手が戻ったら仕込み刀を抜いて、脚が戻ると同時に地面を思い切り蹴った。

「――ッ!?」

 突然現れた私に気付いて、相手の紫色の目が見開かれる。でももう遅い。私の方が速い。私の刀が、相手の腕へと真っ直ぐ向かう。

 ザッ……嫌な音が空気を揺らして。男の腕が宙を舞った。

「ぐッ……!? クソがァ!!」

 男が怒りに吠える。傷口を押さえてこちらを睨む。若い吸血鬼ならばのたうちまわるはずなのに、痛みへの反応が少なかったのはそれに慣れている証。

「年上かな?」

 吸血鬼になったところで痛いものは痛い。反応の違いは慣れているかどうかだ。痛みに慣れているということは、それだけ場数を踏んでいることを示唆している。
 これはこのくらいの怪我じゃ逃げるかもしれない――追撃のためもう一度踏み込む。残った腕を狙って斬り上げる。肉と骨を斬る感触が、私の右手に伝わる。

「ッざけんなよテメェ!!」

 私の刀が完全に振り切られた後。少し遅れて両腕を失ったことに気付いたらしい男が怒鳴り声を上げた。
 彼は後ろによろめいたけれど、意地なのか思い切り地面を踏んでその場に留まった。

「ふざけてるのはそっちだよ。どう見ても合意じゃないね? 仮に彼女が受け入れていたのだとしても、こんな場所で気絶するほど人間の血を飲むのはルール違反。ノストノクスに連行する」
「やっぱ執行官か……! 特権階級の狗共が!!」

 ゆらり、男の顔が黒い煙になる。でもすぐにそれは止まって、男は辛そうに呻き声を上げた。

「流石にその怪我じゃ影にはなれないでしょ。いくら痛みに慣れてたって、それ以上痛くなると分かってたら身体が拒絶する」

 深手を負った状態で影になれば想像を絶する痛みに襲われる。それはその怪我の痛みが可愛らしいと思えるくらいの苦しみ。その苦痛に打ち勝ってまで影になれる人は滅多にいない。

「クソ……クソ! 偉そうにしやがって! 外界でまで人の邪魔するんじゃねェよ!!」

 怒りを顕にする男は、使っている言語の示すとおり日本人らしい容姿をしていた。
 これは当たりかもしれない。狩りをするのに国は選ばないけれど、この国で何かを企むなら日本人の方が都合が良いだろう。ただの偶然ということも否定できないものの、最近の状況を考えると意図的にこの地を選んでいる可能性だって低くはない。

 どうせ後で取り調べるけれど、折角なら決定的なことを聞いておきたい。取り調べは私の担当じゃないから内容が分かるまで時間がかかるのだ。
 それに興奮で紫眼のままなのに私を操ってこようとしないところを見ると、向こうは自分の序列が私より下だと知っているのだろう。執行官になれる序列は決まっているし公表もされているから、別に不思議なことではない。
 となると、じっくり話を聞いても問題はなさそうだ。本当は操ってさくっと聞き出したいけれど、捕縛前の場合は動きを封じる目的以外は駄目というルールがあるので普通に聞くしかない。どっちにしろキョウが手枷を持ってきてくれるまで待たなければならないし。あ、でも付ける手がないや。……まあいいや、足首にも括り付けよう。

「残念だけど、外界の治安維持も執行官の仕事なんだよね。って言っても君みたいな人を捕まえるだけだけど」
「それはお前らが利益を独占したいからだろ!? 自分達ばっか美味い蜜吸いやがって……偶然高い序列で転化したからって良い気になってんじゃねェ!!」

 利益っていうのは何のことだろう。ノストノクスの役割の中に思い当たるものはいくつかあるけれど、この男がそれを口に出すということは彼もまたその何かに関わっているということになる。ここはちょっと話を合わせてみるか。

「人間の作ったものを取り入れるには人間の通貨が必要でしょ? で、それをちゃんとノクステルナに還元してるからいいじゃん」
「食糧供給を牛耳ることが還元なのか!? 俺達には獣の血で我慢させて、自由に外界を行き来できるお前らはどうせ好きに人間の血を飲んでるんだろ!?」

 ああ、そういうことか。なんとなく男の言いたいことが分かった。
 私達執行官の所属するノストノクスは食糧の安定供給の役目も担っている。人間の血はなかなか確保が難しいから基本的に屠殺された家畜の血で賄っているのだけれど、彼はそれが不満なのだ。
 だから勘違いしている。私達執行官だって食糧事情は一般の吸血鬼と変わらないのに、簡単に外界に行けるからその時につまみ食いしてるんだろって言いたいらしい。
 でもそれだけでは利益を独占という話には繋がらないから、もしかしたら彼は人間の血をノクステルナで売り捌こうとしているのかもしれない。既に出回っているものは入手の難しさのせいで高額だから、そのままの額で売るのでもちょっと値引きするのでも、それなりにいい商売にはなるだろう。……たまにいるんだよなぁ、こういう人。

「君もノクステルナで暮らしてたなら執行官の方が禁止事項多いのは知ってるでしょ? 罰だって普通より重いのに、わざわざそんなリスク犯してまで人間の血なんて飲まないよ」
「お前らの言葉なんか信用できるかよ!」
「それは好きにしていいよ、君がどう考えてようと私は自分の仕事をするだけだから。そろそろ身体もキツイんじゃない? 食事後って言ったって、流石にそれだけ血を流し続けてたら飲んだ分以上にお腹が空くでしょ」

 図星なのか、男は私の言葉に顔を歪めた。吸血鬼は傷の治りが早いけれど、その再生力は残った体力にも左右される。深手を負えば負うだけ治すのに体力を使うし、体力がなくなればお腹が空く。そこまで来てしまえば身体は生きることを優先するから、傷の治りは遅くなる。
 両腕を私に斬られた男は、傷の具合もそうだけれど体力の源である血液も大量に失っている。だからなかなか傷は治らないし、強がっていてももう立っているのもしんどいだろう。隣に横たわる女の人が生きているならその血を飲めばいいけれど、私が見ているからそれもできない。

 いわゆる万事休すというやつだ。だから諦めて大人しくしてくれるかなと思ったのに、男は私の後方を見た途端、にやりと口端を上げた。

 なんで? ――その答えは、考えるより先に浮かんだ。

「ッ……まさか!」

 慌てて後ろを振り返れば、その先にいた相手に頭から血の気が引くのが分かった。
 キョウだ。追いついた彼がこちらを見ている。男の紫色の瞳を、見てしまっている。

「確か執行官様は無関係の人間を死なせられないんだよなァ?」

 男の嫌な声が私の耳をねっとりと舐める。その言葉の意味を理解すると同時に、胸元に手を入れるキョウの姿が見えた。
 上着で隠れているけれど、あそこに彼が入れているのは銃だ。それで狙うのは、きっと私じゃない。

 執行官は無関係の人間を死なせられない――あの男はキョウを操って、彼に自死をさせようとしているのだ。

「ッキョウ!」

 思わず声を上げる。キョウの腕が胸から引き抜かれる。その手元にはやっぱり銃があって、虚ろな目をした彼は迷わずそれを自分の頭に突きつけた。
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