東雲を抱く 第一部

新菜いに

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第二章

〈三〉高貴な戯れ

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 空気の冷え切った冬の朝。未だ空は少し暗く、夜の続きを思わせる。
 そんな中、白柊は一人起きて寝室で身支度を整えていた。彼の身分であれば侍従が身の回りの世話をするのが普通だが、白柊自身がそれを好んでいないため、こうして大抵のことは自分でやってしまう。これが行雲御所の人が他より少ない理由の一つでもあったが、元々人が多いのは好きではない白柊はそれで良いと思っていた。

「――おはようございます、白様」

 部屋の主が起きている気配を察したのか、襖の向こうから控えめな声がかかった。こうやって寝室の前で白柊を呼ぶのも、白柊のことを〝白様〟と呼ぶのも、この行雲御所――いや、国中探しても一人しかいない。
 いつもどおりの三郎の声を聞いて、白柊は思わず顔を綻ばせた。それは声の主が彼女であるということもあるが、今日に関しては安堵の方が大きい。自分で月霜御所への侵入という難題を命じたが、全く心配していなかったわけではないのだ。
 三郎なら無事に終えるという信頼と、けれど万が一のことがあったらという不安は同じくらいで、夜の間は何度も目が覚め彼女の帰還を待った。とは言っても余程のことが無い限り三郎が主の睡眠を妨げることはない。白柊が待ったとしても、音もなく帰ってきた彼女が姿を現すのは朝になると分かっていた。
 それでも何度も起きてしまったのは、やはり早く無事な姿を見たかったからだろう。心配する様を見せることの方が三郎に対して侮辱にあたるとは分かっていても、言い知れぬ不安は白柊の眠りを妨げた。

「おはよう、三郎」

 襖を開け、いつもと変わらぬ姿を確認する。直接見たことで一層増した安心感は、悟られないよう仏頂面で誤魔化した。

「どうだった?」

 収穫ありか、なしか。三郎が無事帰ってきたということは、その二つしか有り得ない。そう思ってはっきりとした返事を期待した白柊だったが、廊下に出た彼の後ろに続く三郎は、「えっと……」と言葉を濁す。

「どうした?」
「いやぁ、それが色々ありまして……」
「……まさか誰かに見られたのか?」
「……はい」

 困ったように言いつつも、その声色からは不安を感じ取れない。そのため白柊は見られたことについては一応解決しているのだろうと解釈したが、詳細は聞かなければならない、と小さく息を吐いた。

「朝餉の後でゆっくり聞かせろ」
「……はい」

 頼りない声で、三郎は小さく返事をした。


 § § §


「――というわけで」

 朝餉の後、いつもの離れで三郎は白柊に昨夜の出来事を報告した。幼い主は終始顰めっ面で、しかし怒ることなく静かに聞いているのが余計に恐ろしい。
 話し終えた三郎が窺うように白柊を見れば、彼は呆れたように大きな溜息を吐いた。

「つまり収穫はあったが、羽刄の誰かに知られたと。しかも相手の顔どころか背格好も確認できていないと――そういうことだな?」
「収穫……も、なかったんじゃ、ないですかね……?」

 おずおずと不自然に言葉を切りながら三郎が確認する。今の自分の報告に目立った収穫はなかったはずだ。それをそう取られたということは言い方がまずかったか、後から付け加えた羽刄との遭遇の件で白柊が混乱してしまったのかもしれない。

「あっただろう。昇陽殿が一人思いつめたような様子だった――それは十分収穫だ」
「あ、本当ですか? よかったぁ。てっきり私、役立たずな上にやらかしたのかと――」
「やらかしただろ」
「……そうですよねー」

 どうせなら羽刄に見つかったことも有耶無耶にしてしまおうと思ったが、目敏い主人は見逃してはくれないらしい。三郎の意図を察したのか、白柊はじろりと睨んでそれを咎めた。

「羽刄についてはまあ、後で探りを入れてみるか」
紫明しめい御所に行くってことですか?」

 三郎がそう尋ねたのは、紫明御所に住まう雪丸と琴の守護が羽刄の人間だからだ。

「いや、ここで待つ」
「え?」
「忘れたのか? 春から俺の守護は羽刄だ」
「それはそうですけど……」
「呼びつければいいだろう。ちょうど向こうから顔合わせも打診されていたし」

(そういえば白様って偉いんだった……)

 自分が出向くのではなく、相手を呼びつける。そういう発想を平気でするあたり、自分とは立場が違うと三郎は再認識した。

「でも昨日の今日で怪しまれません?」
「お前が俺との繋がりを疑われていればな」
「それは大丈夫だと思います!」

 暗に『自分との繋がりを示す何かを残すだなんて真似はしていないだろうな』と確認されて、三郎は慌ててそれを否定した。
 虚鏡ということは知られてしまったが、それ以外は知られていないはずだ。強いて言えば声がそうだったが、それは白柊も分かっているだろうし、頭巾でくぐもった声は面でのそれと少し異なる。しかも守護として振る舞っている時は一層声を低くしているため、昨夜の男本人が注意深く聞こうとしない限り知られようがないだろう。

「今日明日なら良いと、羽刄に文を出しておいてくれ」
「はーい」
「返事」
「はい!」


 § § §


 月霜宮において、守護は軍事を司る兵部へいぶに属する。とはいってもそれはあくまで形式上で、単に守護の任に就いている者の名を管理するか、御三家同士の連絡を取り持つというくらいしか実務上の関わりはない。後者についても兵部を介するのは正式な文書のやり取りくらいで、それ以外は御三家それぞれが独自の連絡経路を使っている。
 白柊が三郎に羽刄への連絡を命じたのは、兵部を通せという意味ではない。自身の次期守護についての面会なので兵部を通すのが正しいのだが、連絡するための手順を踏むだけでどうしても時間がかかる。それは白柊だけでなく、羽刄も望むものではないだろう。何せ貴人である白柊が兵部を通したならば、その返事もまた兵部を通すべきだからだ。
 しかしこれだとたった一回のやりとりだけで数日かかってしまう。だから白柊は、三郎の持つ虚鏡の連絡経路を使って羽刄へ文を届けるよう命じたのだ。

「――なんか、薄暮れ前には来れるみたいですよ?」

 朝のうちに出した文は、昼前には返事が戻ってきていた。三郎は受け取った羽刄の文の中身を確認して、その内容を白柊に伝える。

「ま、当然だな」

 白柊の文では『今日と明日、羽刄の都合の良い方』というような内容を送ったが、これは月霜宮の貴人達の言い回しでは『今日にしろ』という意味だ。そして羽刄の返してきた薄暮れ前という時刻は、白柊が文を送った時間を考えると相手に対し失礼でない最速の到着となる。急に白柊から呼び出しを受けた羽刄が、慌てて都合を付けたのは明らかだった。

「横暴ですねぇ。先方にだって都合があるでしょうに」
「正式な任命に先んじて、非公式での面会を求めてきていたのは奴らの方だ。大方俺の品定めをするためだろうが、そんな無礼に付き合ってやるんだから多少の無理は聞いてもらわなきゃ困る」

 そう言って、白柊は意地悪く笑った。
 白柊の言う品定めとは、彼が時嗣の御子でありながらも次期時嗣となる可能性が極めて低いことが関係している。時和は過去もしくは未来を見ることができるが、一人の時和が有するのはどちらか一方の時を見る能力だけだ。そしてこの月霜宮では、代々未来を見ることのできる時和を重んじる風潮がある。これまで過去を読むことのできる時嗣が即位したのは他に適性のある時和がいない場合のみで、それ以外は全員未来を読む時和だ。
 過去を読むことしかできない白柊は、時嗣の御子でありながらも次期時嗣とはなれないだろう。次期時嗣候補が彼一人なら話は違ったが、もう一人の時嗣の御子・琴は未来を読むことができる。しかも彼女は側室の子ながらも現時嗣の実子。人々の関心がそちらに向くのは当然のことで、誰も白柊に気に入られようとわざわざ機嫌を取ることはしない。

 今回の人事は、羽刄にとっていわば貧乏くじだ。折角次期時嗣となるであろう琴の守護に羽刄家の者を付けていたのに、彼女の不興を買ったせいで外されることになった。そしてまるで交代するかのように虚鏡の人間――三郎が琴の守護となり、別の羽刄の人間が白柊の守護に就く予定だ。
 いくら白柊が時嗣の御子とはいえ、琴と比べれば雲泥の差と言ってもいい。自分の守護する時嗣の御子が時嗣になることほど、その守護役――御三家にとって名誉なことはないのだ。

「――まあ、羽刄のことは一旦置いておこう。三郎、お前にはまだ調べてもらわなきゃならないことがある」
「またですかぁ? 白様、守護の役割分かってます? 白様のお側にいなきゃ意味ないですよ」
四郎しろうに代わり身を頼めばいいだろう」
「なら四郎に調べさせればいいじゃないですか!」
「あいつにはあいつの仕事がある。短時間の代わり身はできても、長時間かかる調査は頼めない」
「うぅ……」

 四郎とは三郎の双子の弟だ。女の三郎と違って男だが、まるで鏡写しのようにそっくりの外見をしている。二人が意図してそうなるよう努力しているというのもあるが、それでも彼らの親ですら見間違うことがあるほど。三郎のふりをさせるのであれば、四郎よりも相応しい人物はいない。
 しかしいくら三郎のふりをすることができると言っても、白柊の言うように四郎には四郎の仕事がある。彼は白柊の守護でもなければ、月霜宮に出入りする立場でもない。だから四郎に頼めるのは、せいぜい一時的に三郎のふりをすることくらいだった。

「いいなぁ、四郎ばっかり白様と一緒にいられて。あ、白様! 四郎だけにお菓子あげちゃだめですよ!?」
「どうだろうな。あいつの方が礼儀正しい」
「それは猫被ってるだけですって!」

 三郎が食って掛かるが、白柊が気にした様子はない。横で三郎が騒ぐのを無視して、「お前に頼みたいことだが」と話を切り出した。
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