東雲を抱く 第一部

新菜いに

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第四章

〈六〉嵐纏う来客・弐

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『いいぞ。この櫛を壊したのが誰だか教えてやっても』

(そんなこと言っていいのかな……)

 三郎は意地悪く笑う主を見ながら不安になった。何せ昨日力を使ったばかりなのだ。先程までその疲れを引きずって眠っていたというのに、またそんなことをするのは体力がもたないのではないか。時和の力を私的に使うこともそうだが、白柊の身体の方が三郎には心配だった。
 だが当の白柊本人は琴に対する態度を全く変えない。相変わらず余裕の笑みを浮かべ、「いくつか聞きたいんだが」と琴に話しかけた。

「その櫛、いつ壊れたんだ?」
「……さっきよ。ちょっと昼寝をしてたら、起きた時には壊れてたの」

 それですぐに白柊を頼ろうと思ったあたり、相当大事な物なのだろう。三郎は少しだけ琴に同情したが、ならばもう少ししおらしい態度を取って欲しいものだとも思う。

「寝る前に櫛はどこに?」
「頭につけてた」
「外さなかったのか?」

 呆れたように白柊が聞けば、琴が目尻を吊り上げた。

「何? 私が寝ながら自分で外したって言うの!? 今までそんなことしたことない!」

(そこまで言ってないと思うけど……)

 白柊の質問はあくまで状況を確認していただけ。それなのにそんな発想に至り、尚且つ怒り出したということは、自分でも少しはそう思っていたのではないだろうか。まるで図星を刺された人間のような態度に三郎は小さく息を吐いた。

「今までしていなければ今後もしないと? そもそも、それは本当に誰かが壊したのか?」
「当たり前でしょ! それにこれは櫛よ、誰かがわざと力を込めなきゃ壊れようがないじゃない! きっと誰かが私の寝ている隙に部屋に入り込んで壊していったのよ!」

(そんなわけないだろ)

 三郎は思わず顔を顰めた。守護がそのようなことを許すはずがないのだ。このような物言いは守護を馬鹿にするのと同じ――先程まで三郎の中にあった呆れは、はっきりとした怒りに変わっていた。

「紫明御所はそんなに不用心なのか? 守護がいるのにそんなことできるはずがないだろう」

 しかし白柊のその言葉で、三郎の怒りはふっと消えた。自分が心から仕えているのは白柊なのだ。その白柊が守護を、自分を信用していると思わせる発言をしてくれただけで十分だった。
 いずれ琴の守護となる日が来るが、今の主は間違いなく白柊だ。彼女の物言いは受け入れ難いが、所詮は少女の戯言。現時点では自分には何ら関係ないと思い直して、三郎は冷静さを取り戻した。
 しかしその一方で琴の口は止まらない。守護がいる限り他者は侵入できないと白柊に指摘された琴は、思いついたかのように自らの守護を勢い良く指差した。

「じゃあ私の守護が壊したのよ! そうでしょう、勇仁ゆうじん!」
「私は……!」

 突然犯人にされて驚いたのだろう、琴の守護の羽刄勇仁は慌てて否定しようとする。雪丸も「琴様!」と声を荒らげ、思いつきで言葉を繰り出す妹をどうにか止めようとしていた。
 しかし白柊は彼らを手で制し、勇仁に向き直る。

「琴殿の昼寝中はどこに?」
「隣の部屋に控えておりました」
「誰かが来た気配は?」
「ありません」

 そこまで確認すると、白柊は「ふむ」と顎に手を置く。

「そんなの嘘に決まっているじゃない!」
「何故だ? 貴女の疑いを晴らしたいなら人が来たと言えばいい。そうだな……母君や侍女ならば、貴女の部屋に入っても守護は警戒しないだろう」
「それはっ……!」

 言われて気付いたのか、琴が気まずそうに顔を背ける。それを白柊はどうでもよさそうに横目で見て、「琴殿」と落ち着いた声で問いかけた。

「猫を飼っているんじゃないか?」

 白柊が問いかけると、琴は驚いたような顔をした。

「そうだけど……なんで……」

 白柊は琴の住まいである紫明御所を滅多に訪れない。それなのに自分が猫を飼っていると知られた理由が分からないのか、琴が混乱した様子を見せる。

「手の傷」

 白柊が言えば、琴ははっとしたように手を隠した。

「手の甲にあるのは、猫の引っかき傷だろう? 見た限り新しいものも古いものもある。飼っているのでなければ、守護が何度も主が傷を負うのを許すはずがない」
「で、でも猫と櫛に何の関係があるのよ! まさか猫が壊したとでも!? 猫の力で壊せるようなものじゃない!」

 琴の言うとおりだ、と三郎は思った。櫛というのはそれなりに強度がある。結い上げた髪に挿すのだから当然だ。猫が器用に力を込められれば話は違うだろうが、それは現実的に有り得ない。飾り紐だけならともかく、櫛自体を猫に壊すことは不可能だ。
 しかし白柊は表情一つ変えず、琴の持つ櫛を指差した。

「その飾り紐、少しほつれいている箇所がある。ちょうど猫の爪のような、細く尖ったもので引っ掻いたようだ」

 そう言われて、琴が慌てたように飾り紐を確認する。すると白柊の言う通り、僅かだがほつれたところがあった。

「嘘、本当だ……いつの間に……」
「少なくとも、昨日の茶会の時は無事だったな」
「そ、そんなとこまで見てたの!?」

 傷のある髪飾りをつけていたことが恥ずかしいのか、琴が顔を真っ赤に染め上げた。少しもじもじとしているのは、白柊という敵に格好悪いところを見られてしまったからだろうか。
 意外と可愛いところもあるではないかと三郎は微笑ましくなったが、同時に主人の目敏さに驚いてもいた。興味なさそうに茶会に参加していたにも拘わらず、髪飾りだなんてものまで見て、しかもそれを覚えているとは――自分ではこうはいかないだろうと思いながら、三郎は白柊の言葉の続きを待った。

「琴殿の猫はこの紐飾りのようなものが好きなのでは? 寝ている貴女の頭についた櫛の飾りで遊ぼうとしたならば、櫛が外れてしまうこともあるだろう」

(確かに、折るのは無理でも外すくらいなら……)

 櫛というのは髪に挿さっているだけだ。うまく爪が引っかかれば外すことはできるかもしれない。

「じゃあ、やっぱり猫がこの櫛を折ったって言うの!?」
「いや、猫の力では無理だ。琴殿もそう言っていたじゃないか」
「なら誰が――」
「貴女だろう」

 白柊はつまらなさそうに言い放った。
 しかしそれで納得いかないのは琴だ。当然のように怒りを顕にし、「そんなはずないじゃない!」と食ってかかる。

「ならばその右肘の傷はどうした?」
「え?」

 白柊の指摘に、琴の動きが止まる。わけがわからないというような顔をして、戸惑ったようにその場に立ち尽くした。

「雪丸殿、琴殿の傷に櫛を当ててみてくれ」

 雪丸も困惑したように琴に腕を出させる。着物の袖を捲くると、肘辺りに猫の引っかき傷よりも大きな、蚯蚓腫れのような傷があった。
 そして白柊に促された雪丸が櫛を当てると、それらの形は綺麗に一致した。

「――ぴったりだな」

 白柊が言えば、琴がはっとしたように顔を上げた。

「こんな怪我、私知らない!」
「だろうな。大方猫の外した櫛が布団の上に落ち、寝返りを打った貴女がその上に乗ったんだろう。櫛は確かに丈夫だが、その櫛は細工が凝っているから他より強度は劣る。子供とはいえ人間の肘のように固いものが乗れば、下も柔らかい布団だし折れたっておかしくはない。傷にしたって、着物越しだから痛みを感じるほどではないはずだ」
「で、でも! そうしたら着物にも傷が付いたはずじゃない!? でも侍女は何も……」
「寝ていたということは襦袢か? 月霜宮で使われるのは、薄いが布自体には傷が付きにくい生地だな」
「そんな……」

 琴はショックを受けたように視線を櫛へと落とした。それもそうだろう、お気に入りの櫛が壊れて、それが他人の手によるものではなく自分の不注意のせいだったのだ。誰にも怒りをぶつけることはできないし、引っかかれても手元に置いておくほど可愛がっている猫を責めることもできないだろう。 

(可哀想だけど、白様が力を使うことにならなくて良かった……)

 三郎はほっとしながら白柊を見やる。その白柊はといえば、「で、琴殿」、と再び意地の悪い笑顔を浮かべていた。

「……何よ」
「櫛を壊した者を見つけたら、どうするんだったか」

 その言葉に、意気消沈していた琴の顔が引き攣った。

「貴女は時嗣の御子だ。自分の言葉に責任を持たなければならない」
「それは……!」
「私欲のために時和の力を行使しようとした。その上全く責のない者に勝手な思い込みで罪を負わせようともしたな。罰せられるべきは誰か、分からないわけじゃあるまい?」
「――っ!」

 歪められた琴の目元に、きらりとしたものが浮かぶ。口がふるふると震え、「あ……あう……」と言葉にならない声を発していた。

「許されたいのならば何をすべきか、知っているだろう?」

 白柊がそう言って一層口端を持ち上げた直後、琴の目からは涙が溢れた。


 § § §


 守護と共に、琴がとぼとぼと行雲御所を後にする。その背はすっかりと消沈しており、まああれだけ泣かされればな、と三郎は琴を少し気の毒に思った。

 白柊の悪いところは、相手が自分よりも年下でも容赦しないところだ。大人でさえ身が竦む迫力をそのままに、逃げ場のない言葉で相手を追い詰める。
 あの後の琴はわんわんと泣きながらもなんとか白柊に謝ったのだが、その時もやれ『声が小さくて聞こえない』だの、やれ『謝れば済むと思っているのか?』だの、琴を許すどころか徹底的に追い込む言葉ばかりを投げかけていた。
 しかもその時の白柊はとても晴れやかな笑顔を浮かべているものだから、三郎としてもあれはよくないと思う。とはいえ琴も毎回最後は泣かされるのが分かっているのだから避ければいいのに、何かと理由を見つけては白柊にかかっていくのである意味自業自得とも言えた。
 次に来る時は自分が彼女の守護なのだろうなと思いながら三郎が琴の背を見送っていると、一緒には行かなかったらしい雪丸が白柊の元へと近付いてきた。

「このたびは本当に申し訳ありません。事前によく状況を確認するようにと言ったんですが、全く聞き入れてもらえず……」

 雪丸が残ったのは白柊に謝るためだったらしい。大きな身体で自分よりも随分小さい白柊に低頭平身している。白柊も彼の立場は分かっているため、「貴殿が謝ることではない」と頭を上げさせた。

「まあ、私を利用したことに関する謝罪なら別だがな」
「……やはり気付いておられましたか」

 にやりと笑う白柊に、雪丸は気まずそうな表情を浮かべる。「申し訳ございません」、改めて謝罪を口にしながら、事の経緯を話し始めた。

 雪丸は分かっていたそうだ、櫛を壊したのが琴自身だと。どうやって壊してしまったのかは分からないが、状況から考えて彼女の不注意から起こった事故だということは疑いようもなかった。
 しかし頭から別の人間の仕業と決めつける琴を納得させられるだけの材料がない。その上すぐに白柊の元に行くと言い出してしまいまずいことになったと思ったが、同時にちょうど良いとも思った。白柊相手にならきっと、琴も当時の状況を話してくれる。そうすればどうやって櫛が壊れたか分かるかもしれない。

 そこまで説明すると、「本人に反省させるところまでやっていただけたのは、とても助かりました」と悪戯っぽさを含ませて雪丸は苦笑した。白柊も分かっていたように「貴殿が止める気配がなかったのでな」と笑う。
 その様子を見ながら、三郎はほんの少しだけ琴を不憫に思った。最初から彼女は今日、白柊に泣かされる運命だったのだ。自業自得とはいえ、これでは味方と信じていた雪丸に仕組まれたようなものだ。彼の意外なずる賢さには三郎も驚いたが、同時にそれだけ琴の我儘に鬱憤が溜まっていたのかもしれないと思うと、雪丸を責める気にもなれない。
 第一、雪丸の行動は琴を貶めるものではなく、日頃の振る舞いを懸念してのことだろう。その証拠に一連の経緯を話していた雪丸の声には、恨みや怒りといった感情は含まれていなかった。

「環殿の言うことも聞かないのか?」
「普段はそういうこともないのですが、あの櫛は母からの贈り物なのです。だから尚更母に知られたくないと思って焦ってしまったのでしょう」
「だからと言ってああも好き勝手言うとは。琴殿にはご自身の言にどのような意味があるか、早く自覚して欲しいものだ」
「返す言葉もありません」

 琴は時嗣の御子であると同時に、未来を読む時和だ。勝手な想像で決めつけるように物を言うのは、周りにそれが事実なのではと誤解させてしまう可能性がある。そうでなくとも彼女の言葉には逆らえない者が殆どなのだから、自分の発言にどういった意味があるのか琴は知らなければならない。
 雪丸もそれは十分理解しているらしく、身体がどんどん縮こまっていくようだった。天真の言う通り山男のような雰囲気を放っているが、こうして見るとその様子がなんだかおかしくて、三郎は仮面の下でこっそりと笑みをこらえた。

「貴殿も苦労するな」
「しかし妹ですから。誰が時嗣になろうとも、私はあの子の盾になるつもりです」
「矛ではないのか」
「彼女は既に見境いのない刃を持っていますので。切れ味は悪いですけどね」

(確かに……)

 特に白柊に対してはなまくらもいいところだ、と三郎は琴が刃物を振り回す様を想像した。あれでは白柊が盾を構えておらずとも、切ることはできないだろう。その前に当たりすらしないだろうが。

「琴殿も少しは貴殿を見習えばいいのだがな」
女子おなごは少し考えの足りない時があるくらいが可愛いものですよ」

 そこまで言うと、雪丸は「では、今度こそ失礼します」と去っていった。

「……確かにな」

 雪丸を見送りながら白柊が小さく呟く。しかしすぐに大きな溜息を吐くと、「戻るぞ」と三郎を促した。

「溜息なんて吐いてどうしたんですか?」
「馬鹿すぎるのも困りものだなと思っただけだ」
「……琴様が?」
「そうだな、それでいい」
「ううん?」

 三郎が首を捻っても、白柊は答える気はないらしい。それならばと三郎は道中ずっと考えていたが、結局離れに着いても答えは出なかった。

「――そういえばよく覚えてましたね、昨日の琴様の櫛」

 狐面を取りながら、分からないことは考えても仕方がない、と三郎は少し前に気になったことを口に出した。白柊は女心を全く分かっていないと思っていたが、女性の小さな変化を覚えていたことは中々に評価できる。そんな気持ちを込めて三郎が言えば、白柊は呆れたように片眉を上げた。

「覚えているわけないだろう。昨日は視界にも入れていない」
「え……? 嘘ってことですか?」
「当たり前だ」
「えぇ! でも結構断言してたじゃないですか!?」

 予想外の発言に、三郎は驚いて声を荒げた。

「俺は『茶会の時は無事だった』と言っただけだ。それを勝手にそう解釈したのはお前達だろう?」
「で、でも! じゃあ琴様に『どうして分かったのか』って聞かれてたらどうするつもりだったんですか!?」

 たとえ相手が白柊の言葉を勝手に解釈しただけだとしても、そう聞かれれば逃れようがないはずだ。三郎が問いかければ、白柊は馬鹿にしたように笑った。

「相手が覚えていないんだ。その時は適当なことを言って納得させればいい」

 悪びれもせずそう言った白柊に、三郎の脳裏にはある考えが浮かぶ。

「……もしかして、最初から時和の力を使う気はなかったんですか? 今回は偶然犯人が分かったけど、そうじゃなかったら嘘で丸め込もうとしてました?」
「よく分かってるじゃないか。誰があんなくだらんことのために力を使うか」
「ってことは、櫛を折った犯人は最初からで……?」

 思えばタイミングがおかしいのだ。それまで消極的だった白柊が、急に琴の願いを叶える気になった。そしてそれは、彼女が『櫛を折った犯人を罰する』と言った直後だ。

「琴殿も自分の言葉には責任を持てと、いい教訓になっただろう」
「性格悪っ」

 三郎が顔を思い切り顰めて言えば、白柊は楽しそうな笑顔を浮かべた。
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