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最終章 虚像
〈三〉記憶の矛盾
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八尾が幼少期に父親と暮らしていた家は、既に取り壊されて店舗になっていた。そこは一軒家の立ち並ぶ住宅街で、新城の家があった地域ほど田舎っぽさはないが、ちらほらと見かけるマンションは背の低いものばかりで都会だという印象は受けない。
真夏の照りつけるような日差しの下、尾城と河野は当時の八尾家のことを知る人物を探して近所を歩き回っていた。できれば八尾の父親の遺体を発見した人物と話したかったが、どうやらその人物は既に引っ越してしまったようだ。現在の連絡先を知る人間にも巡り会えないまま尾城達が一軒一軒回っていくと、やっと当時からここに住んでいたという男性に巡り会えた。
「八尾さんの……? ああ、覚えていますよ。随分驚いたものですから」
不思議そうな顔でそう答えた初老の男性は、子供の頃からずっとこの街に住んでいるらしい。既に老後の生活を営んでいる今とは違い、八尾親子が暮らしていた頃は会社勤めをしていたそうだ。それなのに今でもはっきりと覚えているということは、相当な衝撃があったのだろうと尾城に思わせた。
「驚いたというのは、近所でそういう事件が起こったからですか?」
「それもあります。だけどまさかあの人が自殺しちゃうなんてって驚きの方が凄くて。だって八尾さん、奥さんが亡くなられてからとても精力的に励まれてましたから」
はたから見るとそう感じられたのか、と尾城は頭の中で新城に聞いた話と照らし合わせた。
新城が言うには、八尾善晴は亡き妻との思い出を捨て無理矢理自分を奮い立たせていたように見えたらしい。だが一方で彼がそこまでしていたと知らない人物からすれば、八尾善晴は追い込まれていたと見えなかったようだ。
彼らに見えていたのは恐らく上辺の空元気だけだったのだろう。これはあまり期待できないかもしれないなと尾城が考えていると、相手の男性が「でも……」と言葉を続けた。
「でも?」
「ある時から突然様子がおかしくなっちゃったんです。何か思い悩んでいるような感じで……うちはあまり親しくなかったんで分からないんですけど、噂では息子さんが保育園でお友達に怪我をさせちゃったとかって」
「怪我を?」
それは新城の話にはなかった、と尾城と河野は僅かに身を乗り出す。
「まあ、事故みたいなものだったらしいんですけどね。うちの子は当時もう小学生だったんで詳しくはないんですけど」
古い記憶を刺激しようと聞き方を変えても、この男性はこれ以上詳細は知らないようだった。代わりに当時のことを知っていそうな人物を紹介してもらい、尾城達はこの家を後にした。
§ § §
「――そういえばそんなこともありましたね」
尾城達が先程の男性から紹介してもらったのは、八尾と同年代の子供がいる女性だった。子供の歳は一つ違いだが、八尾と同じ保育園に通わせていたらしい。
女性は思い出すように首を捻ると、「ああ、そうそう」と話し始めた。
「確か八尾さんちのお子さんがお友達を遊具から突き落としちゃったって話だったと思います。でもまあ子供同士ですから、悪意があったというよりは、取っ組み合いの喧嘩になったのが偶然遊具の上だったみたいです。ほら、子供ってあまり周りが見えていないでしょう? 幸い背の低い遊具だったから、落とされた方のお子さんは軽い怪我で済んだんじゃなかったかな。そこまで大事にはなっていないですよ」
朗らかに言う女性の言葉を聞きながら、尾城は本当に大事にはならなかったのだろうなと感じていた。この件で少しでも悪い噂などがあればこんなふうに話しはしないだろう。
だがそうなると先程の男性の話と合わなくなる気がした。彼の話では、息子が友達に怪我をさせた時期に八尾善晴の様子はおかしくなったらしい。二十年も前の記憶のため当てにならないかもしれないが、保育園での事故が大事にならなかったのであれば八尾善晴を追い詰める要因にはならないだろう。
「その頃の八尾さんの様子はどうでした? 思い悩んだ様子とか」
尾城の問いに、女性は「様子……」と言って頬に手を当てた。
「どうだったかな……落ち込んではいるようには見えましたけど、思い悩むというほどでは……。実際相手の親御さんとは揉めなかったみたいですし、そこは問題なかったと思います。――ああ、でも……言われてみれば、その後くらいから様子が変だなと思うことは増えましたね。今思えばそれで猫を殺しちゃったのかなって」
「猫って、自宅の庭で見つかったっていう……」
新城の話にもあった内容に、河野が目線を鋭くした。
「そうです、ご存知なんですね。あの頃野良猫が何匹かいなくなっちゃってたんですよ。それも仔猫とか、年を取った子とか、ちょっと弱い子ばっかり。でも猫って急にいなくなるところもあるでしょう? それに弱い子ばかりだったっていうのも、カラスとかに狙われたのかもしれないって誰もそこまで気にしてなかったんです。それでもそんなことが何件か続いたものですから、段々と『あれ? おかしいな』ってなってきて。この辺、当時はみんなあちこちで野良猫に餌をあげていたんです。だからそういう人達の間で最初に噂になって……まさか八尾さんがあんなことしてたとは思いもしませんでしたけど」
当時のことを思い出したのか、それまで朗らかに話していた女性はうっと顔を歪めた。
「実際に八尾さんがやったところを見た人はいたんですか? どこかで見つけた死骸を埋葬していただけとか……」
河野の声を聞きながら、尾城は新城とのやり取りを思い出していた。自宅に猫の死骸が埋められてはいたが、誰がやったのかは今も分からないままだと言っていたのだ。確かにそれが八尾家で発見された時点で、自ずと犯人は八尾家の大人――善晴ということになるのだろう。
だが新城も言っていたように幼い八尾が見つけてきた死骸を埋めていただけかもしれないし、八尾家とは関係のない人間が悪戯でやったということもあるかもしれない。
「決定的な場面を見たことある人はいなかったんじゃないかな……でも、普通野良猫の死体を見つけたら保健所に連絡しません? それに息子さんが猫を抱えて家の方に歩いているのを見たことがある人がいたんです。その猫が生きていたかどうかは分からないんですけど、息子さんが連れ帰った猫を八尾さんが殺しちゃったんじゃないかって噂になって」
「息子さんが猫を連れていたのはいつ頃ですか?」
「そこまでは流石に……。だけどそういう話が出たのは八尾さんが亡くなった後だったと思いますよ。ご自宅で猫の死骸が見つかったって話になって、そこからどんどんみんな自分の見たものを付け足していく感じだったので」
ならば今聞いた当時の噂も信用できないかもしれない、と尾城は僅かに眉間に力を入れた。噂に付け足された〝自分が見たもの〟というのは、恐らく事実から連想された事柄だろう。その中には確かに関係のあるものもあったのかもしれないが、人の記憶というのは曖昧なものだ。悪意があろうがなかろうが、付け足された話はただの思いこみだったということだってあるかもしれない。
結局あまり新しい情報は得られなかったなと思いながら、尾城達は女性に礼を言うと東京に戻るため歩き出した。
移動手段である車は時間貸しの駐車場に止めてある。住宅街のど真ん中に位置するそれは、少し歩くとすぐに尾城の目に飛び込んできた。落ち着いた色合いの家が多いこのあたりでは、駐車場のカラフルな看板は嫌でも目立つのだ。さらに出入り口あたりにはオレンジ色のミラーが立っているのだから、目を逸らしていたってその存在を認識せずにはいられないだろう。
尾城がミラーをぼうっと見ながら近付いていくと、そこに映った自分の姿がぐにゃりと歪んだ。当然のことだから驚きも何もない。だが、その上からのアングルの自分の姿を見た瞬間、ふと尾城の頭の中に防犯カメラの映像が蘇った。
「……あ!」
「あ?」
急に声を上げて駆け出した尾城に、河野が不審そうに顔を顰める。だが尾城はそれを全く意に介さずに車へと走り寄ると、後部座席に放り込んだ資料を乱暴に取り出して中身を確認し始めた。
「おい、せめてドア閉めて中でやれ。落としたら面倒だぞ」
河野の声は聞こえていたが、尾城はそれどころではなかった。どこだ、どこだ――耳の奥で自分の声が急かしてくる。今これを見つけなければならないという焦燥が、自分の手を慌ただしく動かす。
やがて資料の中から一枚の紙を見つけると、尾城はそれを「河野さん!」と相手の顰めっ面の前に突き出した。
「これ!」
「八尾の画像じゃねぇか。それがどうした」
尾城の持っていた紙に印刷されていたのは、防犯カメラに映る八尾の姿だった。まだ彼の名前が分かる前の聞き込みに使っていたもので、少し上から見た八尾の胸辺りまでが写っている。それより下はちょうどカメラの設置場所である店の商品棚で隠れてしまっていて、辛うじて片足のつま先だけが棚の奥から覗いていた。
「靴見てください、靴」
「靴? つま先しか写ってないだろ」
「でもこれどう見ても色は黒でしょう? 八尾の家から黒い靴は見つかっていません」
尾城が言うと、河野が僅かに目を見開く。
「八尾は嘘を吐いてるのか」
その低い声に、尾城は力強く頷いた。
真夏の照りつけるような日差しの下、尾城と河野は当時の八尾家のことを知る人物を探して近所を歩き回っていた。できれば八尾の父親の遺体を発見した人物と話したかったが、どうやらその人物は既に引っ越してしまったようだ。現在の連絡先を知る人間にも巡り会えないまま尾城達が一軒一軒回っていくと、やっと当時からここに住んでいたという男性に巡り会えた。
「八尾さんの……? ああ、覚えていますよ。随分驚いたものですから」
不思議そうな顔でそう答えた初老の男性は、子供の頃からずっとこの街に住んでいるらしい。既に老後の生活を営んでいる今とは違い、八尾親子が暮らしていた頃は会社勤めをしていたそうだ。それなのに今でもはっきりと覚えているということは、相当な衝撃があったのだろうと尾城に思わせた。
「驚いたというのは、近所でそういう事件が起こったからですか?」
「それもあります。だけどまさかあの人が自殺しちゃうなんてって驚きの方が凄くて。だって八尾さん、奥さんが亡くなられてからとても精力的に励まれてましたから」
はたから見るとそう感じられたのか、と尾城は頭の中で新城に聞いた話と照らし合わせた。
新城が言うには、八尾善晴は亡き妻との思い出を捨て無理矢理自分を奮い立たせていたように見えたらしい。だが一方で彼がそこまでしていたと知らない人物からすれば、八尾善晴は追い込まれていたと見えなかったようだ。
彼らに見えていたのは恐らく上辺の空元気だけだったのだろう。これはあまり期待できないかもしれないなと尾城が考えていると、相手の男性が「でも……」と言葉を続けた。
「でも?」
「ある時から突然様子がおかしくなっちゃったんです。何か思い悩んでいるような感じで……うちはあまり親しくなかったんで分からないんですけど、噂では息子さんが保育園でお友達に怪我をさせちゃったとかって」
「怪我を?」
それは新城の話にはなかった、と尾城と河野は僅かに身を乗り出す。
「まあ、事故みたいなものだったらしいんですけどね。うちの子は当時もう小学生だったんで詳しくはないんですけど」
古い記憶を刺激しようと聞き方を変えても、この男性はこれ以上詳細は知らないようだった。代わりに当時のことを知っていそうな人物を紹介してもらい、尾城達はこの家を後にした。
§ § §
「――そういえばそんなこともありましたね」
尾城達が先程の男性から紹介してもらったのは、八尾と同年代の子供がいる女性だった。子供の歳は一つ違いだが、八尾と同じ保育園に通わせていたらしい。
女性は思い出すように首を捻ると、「ああ、そうそう」と話し始めた。
「確か八尾さんちのお子さんがお友達を遊具から突き落としちゃったって話だったと思います。でもまあ子供同士ですから、悪意があったというよりは、取っ組み合いの喧嘩になったのが偶然遊具の上だったみたいです。ほら、子供ってあまり周りが見えていないでしょう? 幸い背の低い遊具だったから、落とされた方のお子さんは軽い怪我で済んだんじゃなかったかな。そこまで大事にはなっていないですよ」
朗らかに言う女性の言葉を聞きながら、尾城は本当に大事にはならなかったのだろうなと感じていた。この件で少しでも悪い噂などがあればこんなふうに話しはしないだろう。
だがそうなると先程の男性の話と合わなくなる気がした。彼の話では、息子が友達に怪我をさせた時期に八尾善晴の様子はおかしくなったらしい。二十年も前の記憶のため当てにならないかもしれないが、保育園での事故が大事にならなかったのであれば八尾善晴を追い詰める要因にはならないだろう。
「その頃の八尾さんの様子はどうでした? 思い悩んだ様子とか」
尾城の問いに、女性は「様子……」と言って頬に手を当てた。
「どうだったかな……落ち込んではいるようには見えましたけど、思い悩むというほどでは……。実際相手の親御さんとは揉めなかったみたいですし、そこは問題なかったと思います。――ああ、でも……言われてみれば、その後くらいから様子が変だなと思うことは増えましたね。今思えばそれで猫を殺しちゃったのかなって」
「猫って、自宅の庭で見つかったっていう……」
新城の話にもあった内容に、河野が目線を鋭くした。
「そうです、ご存知なんですね。あの頃野良猫が何匹かいなくなっちゃってたんですよ。それも仔猫とか、年を取った子とか、ちょっと弱い子ばっかり。でも猫って急にいなくなるところもあるでしょう? それに弱い子ばかりだったっていうのも、カラスとかに狙われたのかもしれないって誰もそこまで気にしてなかったんです。それでもそんなことが何件か続いたものですから、段々と『あれ? おかしいな』ってなってきて。この辺、当時はみんなあちこちで野良猫に餌をあげていたんです。だからそういう人達の間で最初に噂になって……まさか八尾さんがあんなことしてたとは思いもしませんでしたけど」
当時のことを思い出したのか、それまで朗らかに話していた女性はうっと顔を歪めた。
「実際に八尾さんがやったところを見た人はいたんですか? どこかで見つけた死骸を埋葬していただけとか……」
河野の声を聞きながら、尾城は新城とのやり取りを思い出していた。自宅に猫の死骸が埋められてはいたが、誰がやったのかは今も分からないままだと言っていたのだ。確かにそれが八尾家で発見された時点で、自ずと犯人は八尾家の大人――善晴ということになるのだろう。
だが新城も言っていたように幼い八尾が見つけてきた死骸を埋めていただけかもしれないし、八尾家とは関係のない人間が悪戯でやったということもあるかもしれない。
「決定的な場面を見たことある人はいなかったんじゃないかな……でも、普通野良猫の死体を見つけたら保健所に連絡しません? それに息子さんが猫を抱えて家の方に歩いているのを見たことがある人がいたんです。その猫が生きていたかどうかは分からないんですけど、息子さんが連れ帰った猫を八尾さんが殺しちゃったんじゃないかって噂になって」
「息子さんが猫を連れていたのはいつ頃ですか?」
「そこまでは流石に……。だけどそういう話が出たのは八尾さんが亡くなった後だったと思いますよ。ご自宅で猫の死骸が見つかったって話になって、そこからどんどんみんな自分の見たものを付け足していく感じだったので」
ならば今聞いた当時の噂も信用できないかもしれない、と尾城は僅かに眉間に力を入れた。噂に付け足された〝自分が見たもの〟というのは、恐らく事実から連想された事柄だろう。その中には確かに関係のあるものもあったのかもしれないが、人の記憶というのは曖昧なものだ。悪意があろうがなかろうが、付け足された話はただの思いこみだったということだってあるかもしれない。
結局あまり新しい情報は得られなかったなと思いながら、尾城達は女性に礼を言うと東京に戻るため歩き出した。
移動手段である車は時間貸しの駐車場に止めてある。住宅街のど真ん中に位置するそれは、少し歩くとすぐに尾城の目に飛び込んできた。落ち着いた色合いの家が多いこのあたりでは、駐車場のカラフルな看板は嫌でも目立つのだ。さらに出入り口あたりにはオレンジ色のミラーが立っているのだから、目を逸らしていたってその存在を認識せずにはいられないだろう。
尾城がミラーをぼうっと見ながら近付いていくと、そこに映った自分の姿がぐにゃりと歪んだ。当然のことだから驚きも何もない。だが、その上からのアングルの自分の姿を見た瞬間、ふと尾城の頭の中に防犯カメラの映像が蘇った。
「……あ!」
「あ?」
急に声を上げて駆け出した尾城に、河野が不審そうに顔を顰める。だが尾城はそれを全く意に介さずに車へと走り寄ると、後部座席に放り込んだ資料を乱暴に取り出して中身を確認し始めた。
「おい、せめてドア閉めて中でやれ。落としたら面倒だぞ」
河野の声は聞こえていたが、尾城はそれどころではなかった。どこだ、どこだ――耳の奥で自分の声が急かしてくる。今これを見つけなければならないという焦燥が、自分の手を慌ただしく動かす。
やがて資料の中から一枚の紙を見つけると、尾城はそれを「河野さん!」と相手の顰めっ面の前に突き出した。
「これ!」
「八尾の画像じゃねぇか。それがどうした」
尾城の持っていた紙に印刷されていたのは、防犯カメラに映る八尾の姿だった。まだ彼の名前が分かる前の聞き込みに使っていたもので、少し上から見た八尾の胸辺りまでが写っている。それより下はちょうどカメラの設置場所である店の商品棚で隠れてしまっていて、辛うじて片足のつま先だけが棚の奥から覗いていた。
「靴見てください、靴」
「靴? つま先しか写ってないだろ」
「でもこれどう見ても色は黒でしょう? 八尾の家から黒い靴は見つかっていません」
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