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エピローグ
虚像のゆりかご
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「――大したことなくてよかったですよ、本当」
三日ぶりに職場にやってきた河野を見て、自席で出迎えた尾城は心底ほっとしたと言わんばかりに声を上げた。
「ちょっと頭割れただけだろ。中身は無事だったし、お前は大袈裟なんだよ」
「頭からたくさん血を流して倒れてる人を見たら誰だって慌てるでしょう! しかも河野さんもう歳なんだから!」
「年寄り扱いすんじゃねぇよ」
そう尾城に文句を言いながら、河野は「よっこいせ」と気だるそうに自分の椅子に座った。そういうことを口に出してる時点で年寄りなのに――言い返したくなった尾城だったが、河野の額に貼られた大きなガーゼを見てごくりと言葉を飲み込む。
確かに見た目ほど重症ではなかったようだが、それでも額は三針縫ったらしい。入院は一晩で済んだものの、出血が酷かったせいもあって安静にしていなければならず、追加で二日休んでいたのだ。
「俺のことより、八尾の件は進んでんのか?」
だから当たり前のように仕事を始めようとしている河野を見て、尾城は顔を思い切り歪めた。出勤している時点で何もおかしくない行動だったが、もう少し病み上がりという自覚を持って欲しい。
しかしそんなことを言ったところで河野相手では無駄なのだろうと溜息を吐くと、尾城は質問に答えるべく頭の中にここ三日間の出来事を思い浮かべた。
「それが……」
言い淀んでしまったのは、頭の中に浮かんだ内容がどれもぱっとしなかったからだ。
河原で河野に手を出したため、公務執行妨害の現行犯として八尾を逮捕することはできた。里中殺しについても、彼の首に残されていた痣が八尾の手の大きさと一致することは確認できた。
だが、それ以上はまだ何も進展がないのだ。痣と八尾の手形が一致すると言っても、それだけでは証拠にならない。里中の件については管轄の警察署が裏取りを進めているが、未だ有力な物証が出てきたとの報告はなかった。
それは東海林卓と橘椿の件も同じで、現場周辺や八尾の自宅を徹底的に調べているが、目ぼしい物は見つかっていない。東海林美亜のことだって今更新しいものなど見つけられないだろう。
尾城の表情で河野は事情を察したのか、「八尾の取り調べは?」と質問を変えた。
「正直全然進んでないです。でも一応、四人の殺害は認めてくれてますよ。ただすっかり様子がおかしくなっちゃって……明日には正式な精神鑑定ができる予定ですけど、結果は期待できませんね……」
「そんなに支離滅裂なのか?」
「そういうわけではないんですけど、なんていうか夢と現実の間にいるような印象ですね。こっちが聞くと事件についてぽつぽつと話してくれるんですけど、突然パニックになったり、かと思えばまた自分がやったことを忘れていたり……まあ、いくつか記憶を刺激するようなことを言えば思い出してくれるんですけどね、でもその後は今言ったことの繰り返しです」
これが八尾の取り調べが進まない一番の理由だった。記憶を持っている時の八尾はこちらの質問に答えてくれるが、少しでも彼の精神に負担をかけるような話になると途端にその記憶をしまい込んでしまうのだ。
八尾の話にはそれなりに信憑性があるのに、こんな状態の人間が話した内容となると正式な供述としてどこまで使えるかも分からない。だからこそ彼の発言を裏付ける証拠が必要だった。だが罪を犯している時の八尾はかなり巧妙なようで、中々その証拠が見つからないのだ。
尾城は初めて東海林卓の殺害現場を見た時のことを思い出した。あの時は中途半端な証拠隠滅作業だという印象を受けたが、それでも未だ八尾があの現場にいたと証明できないことを考えると、作業自体は中途半端というわけではなかったのだろう。どういう理由であんな状況になったかはまだ分かっていないが、あの倉庫との関わりが八尾の中で完全に消えなかったお陰で今があるのは否定できない。
「……八尾は嘘の記憶で自分を守ってるのか」
独り言のような河野の言葉が聞こえてきて、ああ、と尾城は妙な納得感を覚えた。確かにそう考えれば八尾の状態に説明がつくのだ。
罪を犯して、その罪に耐えられなくなったら別の記憶で塗り変えて――そうして八尾は自分を守ってきたのだろう。偽物の橘椿の存在はそれを補助するためのものだったのかもしれない。
「今もあいつの近くには鮫島――いや、〝椿〟はいるのか?」
「時々ですけどね。八尾が記憶をしまい込むと、〝彼女〟がそれを引っ張り出すのを手伝ってくれてるみたいです」
「〝椿〟は八尾の良心みたいなものか」
本当にそうだろうか――ふっと鼻で笑った河野を見ながら、尾城は少し違和感を抱いていた。確かに正しい記憶を思い出させようとする〝椿〟は、八尾の中の良心が形になったものと言えるだろう。だがもし本当にそうなら、八尾の〝彼女〟に対する印象はもっと良かったはずだ。尾城が思い出せる限りでは、八尾は〝椿〟の容姿を褒めこそすれ、中身に対しては悪い印象を持っていたように感じられる。
現に河原で話していた時の八尾の傍には〝椿〟がいたはずだ。そしてあの時の八尾は、どちらかというと〝椿〟に追い詰められているように見えた。もしその印象どおりなら、記憶が消える理由も違うのでは――そこまで考えて、尾城は小さく首を横に振った。
医師ではないのだから、いくら考えたところで実際はどうかなど分からないだろう。ならば刑事である自分は、八尾の発言の証拠を集めるだけだ。仮に彼には責任能力がないと判断されたとしても、四件の事件の犯人が誰だったかという情報は遺族にとっては重要なもの。信憑性が低く見えてしまう八尾の供述だけでなく、客観的に彼が犯人だと証明する物が必要だろう。
「この後も取り調べありますけど、勿論河野さんも来ますよね?」
「当たり前だろ」
それまでの考えを誤魔化すように、尾城は河野と共に立ち上がった。
§ § §
自分の息遣いがやけに大きく聞こえる。呼吸のたびに揺れる肩が酷く鬱陶しい。
もう、何も考えたくなかった。だって僕は人殺しだったから。あんなに父さんのしたことを嫌だと思っていたのに、僕だって同じようなことをしていたと知ってしまったから。
蘇った記憶の中で、東海林達を殺していたのは僕だった。僕は猫を殺した父さんよりも、もっと道から逸れたことをやっていたのだ。
しかもそれを思い出した時に混乱して河野のことまで傷つけてしまった。幸い大事には至らなかったらしいけれど、事故とは言え手に残ったこの感触はいくら拭っても消えてくれない。
「殺し損ねたね」
目の前に座る椿が馬鹿にしたように嗤う。なんてことを言うのだろうと顔を顰めれば、椿は一層笑みを深めた。
まさか彼を殺しておくべきだったとでも言いたいのだろうか。そんなこと頼まれたってするわけがない。僕はもう既に何人も殺してしまったのだから、これ以上手を汚さなくてよかったと心底安堵しているのに。
「ふふ、本当に君は面白いね。今はそう見ているのかもしれないけど、彼らのあの目まで忘れてしまったわけではないだろう?」
――化け物を見るような、あの目を。
「お父さんも、叔母さんも。東海林美亜も橘椿も。あの目をした人はみんなみんな君のことが嫌いだったじゃないか」
そうだろうか。彼らは僕のことを、そんなふうに思っていたのだろうか。
「思ってたよ、だから彼らは君を拒絶した。東海林達だってそうだ、彼らは君に害をなそうとしたよね。だから君のやったことは正しいんだよ。あの目をする奴らは君を傷つけるんだから、いなくなってもらった方がいい」
椿の声に同調するように、どこからか猫がわらわらと群がってきた。それらはみんな黒猫で、僕の方をじっと見ている。
「ああ、二人が来たよ。そろそろちゃんと思い出したらどうだい? 君は――」
― 虚像のゆりかご・完 ―
三日ぶりに職場にやってきた河野を見て、自席で出迎えた尾城は心底ほっとしたと言わんばかりに声を上げた。
「ちょっと頭割れただけだろ。中身は無事だったし、お前は大袈裟なんだよ」
「頭からたくさん血を流して倒れてる人を見たら誰だって慌てるでしょう! しかも河野さんもう歳なんだから!」
「年寄り扱いすんじゃねぇよ」
そう尾城に文句を言いながら、河野は「よっこいせ」と気だるそうに自分の椅子に座った。そういうことを口に出してる時点で年寄りなのに――言い返したくなった尾城だったが、河野の額に貼られた大きなガーゼを見てごくりと言葉を飲み込む。
確かに見た目ほど重症ではなかったようだが、それでも額は三針縫ったらしい。入院は一晩で済んだものの、出血が酷かったせいもあって安静にしていなければならず、追加で二日休んでいたのだ。
「俺のことより、八尾の件は進んでんのか?」
だから当たり前のように仕事を始めようとしている河野を見て、尾城は顔を思い切り歪めた。出勤している時点で何もおかしくない行動だったが、もう少し病み上がりという自覚を持って欲しい。
しかしそんなことを言ったところで河野相手では無駄なのだろうと溜息を吐くと、尾城は質問に答えるべく頭の中にここ三日間の出来事を思い浮かべた。
「それが……」
言い淀んでしまったのは、頭の中に浮かんだ内容がどれもぱっとしなかったからだ。
河原で河野に手を出したため、公務執行妨害の現行犯として八尾を逮捕することはできた。里中殺しについても、彼の首に残されていた痣が八尾の手の大きさと一致することは確認できた。
だが、それ以上はまだ何も進展がないのだ。痣と八尾の手形が一致すると言っても、それだけでは証拠にならない。里中の件については管轄の警察署が裏取りを進めているが、未だ有力な物証が出てきたとの報告はなかった。
それは東海林卓と橘椿の件も同じで、現場周辺や八尾の自宅を徹底的に調べているが、目ぼしい物は見つかっていない。東海林美亜のことだって今更新しいものなど見つけられないだろう。
尾城の表情で河野は事情を察したのか、「八尾の取り調べは?」と質問を変えた。
「正直全然進んでないです。でも一応、四人の殺害は認めてくれてますよ。ただすっかり様子がおかしくなっちゃって……明日には正式な精神鑑定ができる予定ですけど、結果は期待できませんね……」
「そんなに支離滅裂なのか?」
「そういうわけではないんですけど、なんていうか夢と現実の間にいるような印象ですね。こっちが聞くと事件についてぽつぽつと話してくれるんですけど、突然パニックになったり、かと思えばまた自分がやったことを忘れていたり……まあ、いくつか記憶を刺激するようなことを言えば思い出してくれるんですけどね、でもその後は今言ったことの繰り返しです」
これが八尾の取り調べが進まない一番の理由だった。記憶を持っている時の八尾はこちらの質問に答えてくれるが、少しでも彼の精神に負担をかけるような話になると途端にその記憶をしまい込んでしまうのだ。
八尾の話にはそれなりに信憑性があるのに、こんな状態の人間が話した内容となると正式な供述としてどこまで使えるかも分からない。だからこそ彼の発言を裏付ける証拠が必要だった。だが罪を犯している時の八尾はかなり巧妙なようで、中々その証拠が見つからないのだ。
尾城は初めて東海林卓の殺害現場を見た時のことを思い出した。あの時は中途半端な証拠隠滅作業だという印象を受けたが、それでも未だ八尾があの現場にいたと証明できないことを考えると、作業自体は中途半端というわけではなかったのだろう。どういう理由であんな状況になったかはまだ分かっていないが、あの倉庫との関わりが八尾の中で完全に消えなかったお陰で今があるのは否定できない。
「……八尾は嘘の記憶で自分を守ってるのか」
独り言のような河野の言葉が聞こえてきて、ああ、と尾城は妙な納得感を覚えた。確かにそう考えれば八尾の状態に説明がつくのだ。
罪を犯して、その罪に耐えられなくなったら別の記憶で塗り変えて――そうして八尾は自分を守ってきたのだろう。偽物の橘椿の存在はそれを補助するためのものだったのかもしれない。
「今もあいつの近くには鮫島――いや、〝椿〟はいるのか?」
「時々ですけどね。八尾が記憶をしまい込むと、〝彼女〟がそれを引っ張り出すのを手伝ってくれてるみたいです」
「〝椿〟は八尾の良心みたいなものか」
本当にそうだろうか――ふっと鼻で笑った河野を見ながら、尾城は少し違和感を抱いていた。確かに正しい記憶を思い出させようとする〝椿〟は、八尾の中の良心が形になったものと言えるだろう。だがもし本当にそうなら、八尾の〝彼女〟に対する印象はもっと良かったはずだ。尾城が思い出せる限りでは、八尾は〝椿〟の容姿を褒めこそすれ、中身に対しては悪い印象を持っていたように感じられる。
現に河原で話していた時の八尾の傍には〝椿〟がいたはずだ。そしてあの時の八尾は、どちらかというと〝椿〟に追い詰められているように見えた。もしその印象どおりなら、記憶が消える理由も違うのでは――そこまで考えて、尾城は小さく首を横に振った。
医師ではないのだから、いくら考えたところで実際はどうかなど分からないだろう。ならば刑事である自分は、八尾の発言の証拠を集めるだけだ。仮に彼には責任能力がないと判断されたとしても、四件の事件の犯人が誰だったかという情報は遺族にとっては重要なもの。信憑性が低く見えてしまう八尾の供述だけでなく、客観的に彼が犯人だと証明する物が必要だろう。
「この後も取り調べありますけど、勿論河野さんも来ますよね?」
「当たり前だろ」
それまでの考えを誤魔化すように、尾城は河野と共に立ち上がった。
§ § §
自分の息遣いがやけに大きく聞こえる。呼吸のたびに揺れる肩が酷く鬱陶しい。
もう、何も考えたくなかった。だって僕は人殺しだったから。あんなに父さんのしたことを嫌だと思っていたのに、僕だって同じようなことをしていたと知ってしまったから。
蘇った記憶の中で、東海林達を殺していたのは僕だった。僕は猫を殺した父さんよりも、もっと道から逸れたことをやっていたのだ。
しかもそれを思い出した時に混乱して河野のことまで傷つけてしまった。幸い大事には至らなかったらしいけれど、事故とは言え手に残ったこの感触はいくら拭っても消えてくれない。
「殺し損ねたね」
目の前に座る椿が馬鹿にしたように嗤う。なんてことを言うのだろうと顔を顰めれば、椿は一層笑みを深めた。
まさか彼を殺しておくべきだったとでも言いたいのだろうか。そんなこと頼まれたってするわけがない。僕はもう既に何人も殺してしまったのだから、これ以上手を汚さなくてよかったと心底安堵しているのに。
「ふふ、本当に君は面白いね。今はそう見ているのかもしれないけど、彼らのあの目まで忘れてしまったわけではないだろう?」
――化け物を見るような、あの目を。
「お父さんも、叔母さんも。東海林美亜も橘椿も。あの目をした人はみんなみんな君のことが嫌いだったじゃないか」
そうだろうか。彼らは僕のことを、そんなふうに思っていたのだろうか。
「思ってたよ、だから彼らは君を拒絶した。東海林達だってそうだ、彼らは君に害をなそうとしたよね。だから君のやったことは正しいんだよ。あの目をする奴らは君を傷つけるんだから、いなくなってもらった方がいい」
椿の声に同調するように、どこからか猫がわらわらと群がってきた。それらはみんな黒猫で、僕の方をじっと見ている。
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