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そのはじまりは
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魅入られたと知らずに、その異界に心を奪われて、
それを恋だと錯覚した僕たちは、
正しく生きなければならない、この世界の理を踏み出して
どこまでも、どこまでも落ちていくのだ。
※※※
二〇〇※年――
ねっとりと肌にこびりつくような生温かい空気は、吸い込むと自分が吐き出したものと区別がつかないほどの息苦しさを覚えた。
本格的な夏が訪れてから夜風もぴたりと止み、町には熱気だけが溢れている。建物の裏に設置された排気口からは、建物内部を常に冷やし続けている冷房機の熱気が吐き出されていて、鼓膜を低く叩くその音と熱気に、少年は衣服が汗で張り付く心地悪さを強く感じた。
額に浮かぶ脂汗を拭おうと上げかけた手に、ピキリと痛みが走り眉を寄せた。夕方に降ったにわか雨がたまった水辺に、街灯が鈍く反射して、自分の姿がゆらりと映っているのが見えた。
そうか。また、顔以外を殴られたんだっけ。
ひどく無関心に思って、少年は辺りを見回した。少し休みたい。そう考えて座れる場所を探す。
鈍い動きで制服についた埃や靴跡を払い、すぐそばにあった瓶ケースに腰を降ろしてみた。頭上にある排気口から、むっとした熱風を直に受ける位置だと遅れて気付いた。
回らない腕を、どうにか後ろへと回して携帯電話を取り出した。
時刻は午後八時二十三分。両親には、今日も学校で数学の講座を受けると伝えてある。下校時刻からだいぶ経ったこの時間に帰っても、大騒ぎになるようなことはない。
少年は、脇に転がっている通学鞄を見やった。彼らはいつも、鞄や顔だけは傷つけない。どうしてだろうと考えたところで、やはりどうでもよくなって吐息をもらした。
「疲れた……」
少年は、抑揚なく言葉を吐き出した。遠くから鈍く響いてくる、都会の喧騒を意味もなく聞いた。
中学校を卒業すれば終わると思っていた関係が、高校まで続くことになった。進学校という環境の中で、異質な彼らを誰もが放っておいた。利口そうに見えた他の学生たちの目が、次第に変わっていったのを少年は覚えている。
攻撃性の見えない同じ年頃の子たちが浮かべた表情は、はじめに同情だった。次には、自分もターゲットにされないかという恐れを覚え、目をそらすようになった。
そんな彼らの無関心に好奇心が芽を出すまで、そんなに時間はかからなかった。優越心という残酷さは、被害者の少年に手を差し伸べることを止めて、加害者の娯楽に便乗してしまったのだ。
どうでもいい。少年はそう思う。今日も、きちんと家に帰らなければならないと分かって、試しに膝に置いた手をぎゅっと握りしめてみた。それだけで全身がギシギシと痛むのを感じた。
歩くには、もうしばらくかかるだろう。ひときわ強く蹴られた膝は打撲だけで、手の感触では骨に異常もなさそうだと、少年は冷静に自身の身体の状態を分析する。
イジメ程度の暴力で、死にはしない。彼は身に染みて分かっていた。中学の三年間だと思っていたものが、あと三年に伸びただけだろう――入学した当初は、そう思っていた。
けれど、高校へ進学してから四ヵ月。
少年の中で、何かが歪み始めていた。
中学生まで感じていた痛みも悲しみも、もしかしたらという希望すら、少年の中からはなくなってしまっていた。こうして殴られた後だって、何を考えているかと言えば――ゆっくりと繰り返されている自身の呼吸に、汗が噴き出すような蒸し暑さを感じている。
ただそれだけだ。無心に、無感情に、淡々と。
決められた予定のように行動して、生きているだけ。
不意に心の奥底で、一点の黒いもやがポツリと発生する違和感を覚えた。
正体はよく分からないが、それは高等学校へ進学してから時折、少年の胸の奥に現れるものだった。一点の染みのようでもあるのに、同時に、ひどく重々しいモノだ。
心の中に前触れもなく発生した一点の染みは、正体不明でありながら彼の苛立ちを誘発してくる。突然自分の首をかきむしりたくなるほどの嫌悪感を覚えたり、大切にしていた物を叩き潰したい破壊衝動に襲われ、もしや精神的な病気ではないかと彼自身は疑ったりもしていた。
同じ頃から、妙な癖も表れ始めた。
自分の中で、自分への問いかけをすることだ。
意識とは、これまでの経験や知識からなる言語の集合体だ、と少年は思っている。話すことも滅多になくなってしまっていたため、自分の中で無意識に、自分とのやりとりをするようになったのではないだろうか?
何せ、その一点の染みが発生するのは、いつも彼がぼんやりとしている時だ。
その問いかけは、たいてい突然やってくる。自分がふと呟いたりするような言葉を、少年は他人事のように聞いているという感じだった。
(トモダチ)
不意に、またしても例の如く、少年の中でその呟きが起こった。
自分との対話を皮肉に思いながら、心の中で、友達なんて一人もいないよと答えた。精神分裂の手前なのかと一時期本で調べてみたことがあったが、特徴的な兆候は、それ以外に見当たらないでいる。
きっと気のせいなのだろう。僕は病気になんてならない。
少年は、すっかり何も感じなくなってしまった自分の気持ちが、あまりにも不透明なことを自覚していた。自分のことなのに、自分がよく分からない。
いつしか、無意識にそれを探す行為が、自分同士との対話だと考えるようにもなっていた。
(トモノリ、トモノリ)
心の中で無意識に呟かれる言葉は、いつも突発的だ。
少年は乾いた笑みを浮かべた。それは幼い頃亡くなった『おじいちゃん』の名前だと心の中で答えた。僕の名前はトモヒサだと告げると、静まり返った心の中で、不思議と言葉が返ってくる。
(トモヒサ、トモヒサ。空虚、何モナイ)
寂しさに似た感情が胸の奥底に起こった。しかし、少年はそれが自分自身のものなのか、その言葉が引き起こしたモノなのか分からなかった。
ふと、もしこんな生活じゃなければ、と思った。
こうなった原因を『全て無くせば』『終わらせられたら』どうだ、と少年の中で言葉が続く。
少年は「そうなれたら」と思いかけて、ハッと冷静に立ち戻った。そんなことを思ってはいけないと、昔祖母に言われていたことを思い出したのだ。
一時の感情に流されて、心でもそんな思いを持ってはいけないと、彼は幼少期に何度も強く教えられていた。理由は解からない。けれど彼にとって、昔からの言い伝えや迷信にそむくのは、とても怖いことのような気がしていた。
夜に髪や爪を切ってはいけないし、外出の際にも切ってはいけない。合わせ鏡や、深夜に靴をおろすこと。
襖や扉を、ほんの少し空けておいて置くことだって駄目だ。そして何よりも、――人間と同じ形をしたオモチャを『バラバラにしてはいけない』。
少年がそうやって、祖母と過ごした記憶を手繰り寄せていると、無意識の声が息を潜めた。
心の中が、不自然なほどぴったりと静まり返る。熱気と心地悪くまとわりつく汗に、理由も分からず嫌悪感が込み上げた。その瞬間、心の中に静寂を引き起こしていた黒いもやが、暗黒を押し広げて少年の内部を飲みこんだ。
一瞬後に、彼は、何も感じなくなった。
この心地よい静寂を、少年は自分が知っていることに気付いた。暴力を受けるようになってから、唯一心を支えてくれたものだった。
もし、そう望むならば形を――
もし、すべてやり終えたのなら――
心の底に自分の意識とは別の、まるで言葉に似た思いがよぎった。少年は思考も定まらないまま、長い沈黙のあと、夢に落ちる直前のような穏やかさで、自分の首がゆっくりと倒れかけて、こくん、と頷くのを感じた。
心の中で何モノかが呟き、少年が答える。
しかし、なんと言われ、なんと答え返したのか彼はすぐに忘れてしまった。ただ、胸の中に広がった漆黒の中で、何モノかが笑った白い歯が見えたような気がした。
それを恋だと錯覚した僕たちは、
正しく生きなければならない、この世界の理を踏み出して
どこまでも、どこまでも落ちていくのだ。
※※※
二〇〇※年――
ねっとりと肌にこびりつくような生温かい空気は、吸い込むと自分が吐き出したものと区別がつかないほどの息苦しさを覚えた。
本格的な夏が訪れてから夜風もぴたりと止み、町には熱気だけが溢れている。建物の裏に設置された排気口からは、建物内部を常に冷やし続けている冷房機の熱気が吐き出されていて、鼓膜を低く叩くその音と熱気に、少年は衣服が汗で張り付く心地悪さを強く感じた。
額に浮かぶ脂汗を拭おうと上げかけた手に、ピキリと痛みが走り眉を寄せた。夕方に降ったにわか雨がたまった水辺に、街灯が鈍く反射して、自分の姿がゆらりと映っているのが見えた。
そうか。また、顔以外を殴られたんだっけ。
ひどく無関心に思って、少年は辺りを見回した。少し休みたい。そう考えて座れる場所を探す。
鈍い動きで制服についた埃や靴跡を払い、すぐそばにあった瓶ケースに腰を降ろしてみた。頭上にある排気口から、むっとした熱風を直に受ける位置だと遅れて気付いた。
回らない腕を、どうにか後ろへと回して携帯電話を取り出した。
時刻は午後八時二十三分。両親には、今日も学校で数学の講座を受けると伝えてある。下校時刻からだいぶ経ったこの時間に帰っても、大騒ぎになるようなことはない。
少年は、脇に転がっている通学鞄を見やった。彼らはいつも、鞄や顔だけは傷つけない。どうしてだろうと考えたところで、やはりどうでもよくなって吐息をもらした。
「疲れた……」
少年は、抑揚なく言葉を吐き出した。遠くから鈍く響いてくる、都会の喧騒を意味もなく聞いた。
中学校を卒業すれば終わると思っていた関係が、高校まで続くことになった。進学校という環境の中で、異質な彼らを誰もが放っておいた。利口そうに見えた他の学生たちの目が、次第に変わっていったのを少年は覚えている。
攻撃性の見えない同じ年頃の子たちが浮かべた表情は、はじめに同情だった。次には、自分もターゲットにされないかという恐れを覚え、目をそらすようになった。
そんな彼らの無関心に好奇心が芽を出すまで、そんなに時間はかからなかった。優越心という残酷さは、被害者の少年に手を差し伸べることを止めて、加害者の娯楽に便乗してしまったのだ。
どうでもいい。少年はそう思う。今日も、きちんと家に帰らなければならないと分かって、試しに膝に置いた手をぎゅっと握りしめてみた。それだけで全身がギシギシと痛むのを感じた。
歩くには、もうしばらくかかるだろう。ひときわ強く蹴られた膝は打撲だけで、手の感触では骨に異常もなさそうだと、少年は冷静に自身の身体の状態を分析する。
イジメ程度の暴力で、死にはしない。彼は身に染みて分かっていた。中学の三年間だと思っていたものが、あと三年に伸びただけだろう――入学した当初は、そう思っていた。
けれど、高校へ進学してから四ヵ月。
少年の中で、何かが歪み始めていた。
中学生まで感じていた痛みも悲しみも、もしかしたらという希望すら、少年の中からはなくなってしまっていた。こうして殴られた後だって、何を考えているかと言えば――ゆっくりと繰り返されている自身の呼吸に、汗が噴き出すような蒸し暑さを感じている。
ただそれだけだ。無心に、無感情に、淡々と。
決められた予定のように行動して、生きているだけ。
不意に心の奥底で、一点の黒いもやがポツリと発生する違和感を覚えた。
正体はよく分からないが、それは高等学校へ進学してから時折、少年の胸の奥に現れるものだった。一点の染みのようでもあるのに、同時に、ひどく重々しいモノだ。
心の中に前触れもなく発生した一点の染みは、正体不明でありながら彼の苛立ちを誘発してくる。突然自分の首をかきむしりたくなるほどの嫌悪感を覚えたり、大切にしていた物を叩き潰したい破壊衝動に襲われ、もしや精神的な病気ではないかと彼自身は疑ったりもしていた。
同じ頃から、妙な癖も表れ始めた。
自分の中で、自分への問いかけをすることだ。
意識とは、これまでの経験や知識からなる言語の集合体だ、と少年は思っている。話すことも滅多になくなってしまっていたため、自分の中で無意識に、自分とのやりとりをするようになったのではないだろうか?
何せ、その一点の染みが発生するのは、いつも彼がぼんやりとしている時だ。
その問いかけは、たいてい突然やってくる。自分がふと呟いたりするような言葉を、少年は他人事のように聞いているという感じだった。
(トモダチ)
不意に、またしても例の如く、少年の中でその呟きが起こった。
自分との対話を皮肉に思いながら、心の中で、友達なんて一人もいないよと答えた。精神分裂の手前なのかと一時期本で調べてみたことがあったが、特徴的な兆候は、それ以外に見当たらないでいる。
きっと気のせいなのだろう。僕は病気になんてならない。
少年は、すっかり何も感じなくなってしまった自分の気持ちが、あまりにも不透明なことを自覚していた。自分のことなのに、自分がよく分からない。
いつしか、無意識にそれを探す行為が、自分同士との対話だと考えるようにもなっていた。
(トモノリ、トモノリ)
心の中で無意識に呟かれる言葉は、いつも突発的だ。
少年は乾いた笑みを浮かべた。それは幼い頃亡くなった『おじいちゃん』の名前だと心の中で答えた。僕の名前はトモヒサだと告げると、静まり返った心の中で、不思議と言葉が返ってくる。
(トモヒサ、トモヒサ。空虚、何モナイ)
寂しさに似た感情が胸の奥底に起こった。しかし、少年はそれが自分自身のものなのか、その言葉が引き起こしたモノなのか分からなかった。
ふと、もしこんな生活じゃなければ、と思った。
こうなった原因を『全て無くせば』『終わらせられたら』どうだ、と少年の中で言葉が続く。
少年は「そうなれたら」と思いかけて、ハッと冷静に立ち戻った。そんなことを思ってはいけないと、昔祖母に言われていたことを思い出したのだ。
一時の感情に流されて、心でもそんな思いを持ってはいけないと、彼は幼少期に何度も強く教えられていた。理由は解からない。けれど彼にとって、昔からの言い伝えや迷信にそむくのは、とても怖いことのような気がしていた。
夜に髪や爪を切ってはいけないし、外出の際にも切ってはいけない。合わせ鏡や、深夜に靴をおろすこと。
襖や扉を、ほんの少し空けておいて置くことだって駄目だ。そして何よりも、――人間と同じ形をしたオモチャを『バラバラにしてはいけない』。
少年がそうやって、祖母と過ごした記憶を手繰り寄せていると、無意識の声が息を潜めた。
心の中が、不自然なほどぴったりと静まり返る。熱気と心地悪くまとわりつく汗に、理由も分からず嫌悪感が込み上げた。その瞬間、心の中に静寂を引き起こしていた黒いもやが、暗黒を押し広げて少年の内部を飲みこんだ。
一瞬後に、彼は、何も感じなくなった。
この心地よい静寂を、少年は自分が知っていることに気付いた。暴力を受けるようになってから、唯一心を支えてくれたものだった。
もし、そう望むならば形を――
もし、すべてやり終えたのなら――
心の底に自分の意識とは別の、まるで言葉に似た思いがよぎった。少年は思考も定まらないまま、長い沈黙のあと、夢に落ちる直前のような穏やかさで、自分の首がゆっくりと倒れかけて、こくん、と頷くのを感じた。
心の中で何モノかが呟き、少年が答える。
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