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父と娘の生活は穏やかに過ぎる。バランスのいい食事メニューには制限もついていたが、料理を二人で開発する楽しみがあった。
天気がいい日には、父の体力に合わせて暮らし慣れた街を歩いた。
父はよく話したし、香澄は彼の話をよく聞いた。
二人とも、これが執行猶予を受けた最後の自由時間だと知っていたから。
「ずっと北にある街からここへやって来たんだ。夜の急行列車に乗ってね、母さんと南を目指した。当てもなく列車に揺られているとき、ふと視界が開けてね。――勘、みたいなものかな。父さんも母さんも『ここだ』と思って、列車を降りたんだよ」
はじめて聞く話だった。
噴水とグランドばかりしかない公園のベンチに腰かけ、香澄は父の話しに耳を傾けていた。
「雪が降る町だった、あたり一面真っ白になって、町が見えなくなるんだ」
「そんなに雪一色になる場所があるの?」
「そうか、香澄はここから出たことがないんだったね。本当は、いつか連れて行こうと思っていたんだよ。それでも決心がつかないまま、結局、時間ばかりが過ぎてしまった。父さんはね、母さんをさらって逃げてしまったときから、ずっと母さんのご両親が気にかかっていたんだ。一人娘の家族だったから、お前のことを知ったら喜ぶだろうなあ」
「悪い人じゃなかったの? お母さんは、無理やり結婚されそうになったって聞いたけど」
遠くを見るような目をした父の顔からは、穏やかな微笑が消えることはなかった。
「そうだね。あのときは、彼女のご両親は、母さんにとってひどく悪い人になってしまった。それでも、娘想いの両親だったんだよ。ただ、娘の幸せを考えるあまり、一番大切な心というものが見えなくなってしまっていた――綺麗な服を着せて、勉強や習い事をさせて、家と言う場所で彼女を守っていた」
静かな場所だよ。年の半分以上はは雪に包まれている街だ。春になると丘一面に花が芽吹いて、とてもいい匂いがする。お父さんの死に別れた両親の墓もそこにある。近所にとても親しくしてくれる伯父がいてね、一緒に墓の面倒も見てくれていたんだ――。
そう話す父の顔は、今にも霞んでしまいそうなほど輝いていた。
「帰りたくないの?」
香澄は父に尋ねた。
長いこと語った父は「そうだなあ」と小首を傾げた後、こう言った。
「いつか、香澄が行きたいと思ったとき訪ねてくれれば、それでいい」
一緒に旅をしようか、とは言ってくれなかった。
電車、もしくは新幹線でなら数時間では行けるだろう場所に想いを馳せて、父と並んで香澄も五月の風を吸い込んだ。見たこともない北の街の花畑の匂いや、丘を覆い尽くす銀色の静かな世界を想像した。
今、隣で呼吸をしている父が愛しいと思った。
香澄は前触れもなく悟った。
父と同じような暖かい気持ちや安らぎを、晃光から感じていない――それこそが、自分が求めていた求めていた答えなのだろう、と。
「きっと私は、桜宮家とは関係を持たないわ」
言葉を口に出すと、なぜだが胸の底がすうっと寒くなった。
父はじっくり黙ったのち、
「そうか」
とだけ言った。
◇◇◇
父は毎月一回の通院を続け、一年を家で過ごした。
目に見えて体力は落ち始め、手足の痛みに夜中何度も起きた。
手先が冷たくなってゆく感覚と、目に見えない神経が病魔に侵されて痺れを伴うのだ。しかし、父は香澄にその苦しさを訴えることはしなかった。
「大丈夫だよ」
そう、どうにか言葉を吐き出し、感情を押し殺して微笑んだ。
「一緒に、お前の二十四歳の誕生日を祝わせておくれ」
たびたび、父はそう口にした。まるで自分に言い聞かせるようだった。
きっと、その先はもうないのだろう。
香澄は静かにそれを受け止めた。
もう、癌は後戻りできないほど進行していた。日に何度も眠りに引き込まれる父の傍で、香澄はただじっと座って過ごした。涙はとうに枯れ果て、重々しい疲労だけが身体を重圧した。
変えようもない未来が、そこにはあった。
泣いて喚いてもどうにもならないことを、香澄は母の死後に悟っていた。
年を越す前、二度ほど晃光から電話が入った。何者かに急かされるように話しながらも「会いたい」と悲痛に訴えてきた。
香澄は、電話越しで小さく首を横に振った。
「忙しいのでしょう? 私は平気よ」
比較的柔らかい降雪量をぼんやりと眺め、香澄は言葉を切った。
その夜には、晃光の母親から電話があり、くどくどと説教のような言葉を受けた。
香澄は疲れ切ってしまっていた。それでも父が大切だった。少しの野菜と、やっこ豆腐の入った味噌汁、柔らかい白米が少々と漬物。そして、一日の合間に何度かは果物を切って父に食べさせる日々が続いた。
林檎や梨はもう、父には固すぎるので砂糖で少し蒸して柔らかくしていた。それを口にすると、父はとても幸せそうに笑った。
年が明けて香澄が二十四歳の誕生日を迎えた日、香澄と父はささやかな祝福をあげた。
手作りの小さなケーキに蝋燭を立て、香澄は出来るだけ長く父と過ごせますように、と願いを込めて一気に蝋燭を吹き消した。
そのときふと、香澄はまだ母が生きていた時や、藤野の会社があったときの暖かさを思い出して涙腺が緩んだ。慌てて電気をつけ直すと、父の瞳も潤んでいた。
「香澄、二十四歳の誕生日、おめでとう」
刻みつけるように、父は言葉を大事そうに区切って述べた。
香澄も泣き顔に笑みを刻んだ。
「お父さん、二十四年目のこの日も、そばにいてくれてありがとう」
晃光がやってきたのは、二人がケーキを食べ始めた頃だった。
香澄が玄関を開けると、胸いっぱいに薔薇の花束を抱えた晃光が立っていた。
「お誕生日おめでとう」
「ありがとう」
短い言葉を交わして、香澄は花束を受け取った。甘い匂いが鼻をついた。
「これを、受け取って欲しい」
彼は手短に言うと、小さな箱を香澄に押し付けた。
「きっと時間を見つけて、また会いに来るから」
晃光は踵を返していってしまった。玄関先に止まっていた社用らしき黒塗りの車が、急かすように晃光を乗せて去っていった。
香澄は、柔らかな紺色のジュエリーボックスに何が入っているのか容易に想像することができた。
そっと開けてみると、小さなダイヤが三つ並ぶ金色の指輪が、その存在を強く主張していた。決して安い指輪ではなかった。
「正式な、婚約指輪……」
香澄の唇から、自然と言葉がこぼれた。
ほとんど会うこともなくなっていた女性だ。家柄も何も持っていなくて、手元に残っているのは少ない財産と、この家だけ――。
香澄は、結婚という行為がますますわからなくなった。
もう、疲れ切ってしまっていた。
形ばかりの妻を、桜宮家で演じることなど出来るはずもない……。
(どうして、私なのかしら)
そうして自分は、果たして恋をしているのか?
思考は、はじめの疑問に戻ってしまった。晃光に対して、会いたいと思っている自分がいるのか、父のように傍にいたいと思っているのか――。
けれど、今は、じっくりと考えてもわからなかった。
香澄は指輪をしまった。家に戻ると、計ったように晃光の母親から電話が入った。誕生日の祝いを形式的に述べ、晃光には相応しい女性の候補がいるのだと淡々と続けた。
「晃光が女性に優しくなったこと、あなたにはとても感謝しているのよ。人に対する気遣いが見えるようになったわ。人付き合いも以前よりぐっと多くなって、――そうそう、よく親しくしている女性がいるのよ。あなたと会えなくなって当然だわ、あの子はね、彼女と楽しそうにしていたもの。付き合いがてらのパーティーの出席なんてあたり前でしょう? 晃光は、それはそれは注目されていますからね。あの子も、もう三十二歳になるわ。そろそろ結婚してもいい頃合いだと思うのよ。貴女はまだ若いものね、すぐの結婚なんて考えられないでしょう?」
電話を終える頃には、ぐったりと疲れていた。
今から五年前、桜宮家から初めてお見合いの通知が来たことを思い出す。四年前には二度目の催促をされ、両親とともにホテルへ赴いたのだ。
――どうして、お見合いの招待状が自分にも来たのか。
すべては、あれから始まったのだと香澄は思った。
なんとなくだけれど、自分と晃光の人生は、あきらかに接点をもたないはずだったような気がしてならない。
母の死や会社の閉鎖、父の病気、そのあとで自分は普通のOLをして、平凡な人生を歩んでいくだろう。
晃光が入って来ないその人生の方が、香澄は想像しやすかった。
天気がいい日には、父の体力に合わせて暮らし慣れた街を歩いた。
父はよく話したし、香澄は彼の話をよく聞いた。
二人とも、これが執行猶予を受けた最後の自由時間だと知っていたから。
「ずっと北にある街からここへやって来たんだ。夜の急行列車に乗ってね、母さんと南を目指した。当てもなく列車に揺られているとき、ふと視界が開けてね。――勘、みたいなものかな。父さんも母さんも『ここだ』と思って、列車を降りたんだよ」
はじめて聞く話だった。
噴水とグランドばかりしかない公園のベンチに腰かけ、香澄は父の話しに耳を傾けていた。
「雪が降る町だった、あたり一面真っ白になって、町が見えなくなるんだ」
「そんなに雪一色になる場所があるの?」
「そうか、香澄はここから出たことがないんだったね。本当は、いつか連れて行こうと思っていたんだよ。それでも決心がつかないまま、結局、時間ばかりが過ぎてしまった。父さんはね、母さんをさらって逃げてしまったときから、ずっと母さんのご両親が気にかかっていたんだ。一人娘の家族だったから、お前のことを知ったら喜ぶだろうなあ」
「悪い人じゃなかったの? お母さんは、無理やり結婚されそうになったって聞いたけど」
遠くを見るような目をした父の顔からは、穏やかな微笑が消えることはなかった。
「そうだね。あのときは、彼女のご両親は、母さんにとってひどく悪い人になってしまった。それでも、娘想いの両親だったんだよ。ただ、娘の幸せを考えるあまり、一番大切な心というものが見えなくなってしまっていた――綺麗な服を着せて、勉強や習い事をさせて、家と言う場所で彼女を守っていた」
静かな場所だよ。年の半分以上はは雪に包まれている街だ。春になると丘一面に花が芽吹いて、とてもいい匂いがする。お父さんの死に別れた両親の墓もそこにある。近所にとても親しくしてくれる伯父がいてね、一緒に墓の面倒も見てくれていたんだ――。
そう話す父の顔は、今にも霞んでしまいそうなほど輝いていた。
「帰りたくないの?」
香澄は父に尋ねた。
長いこと語った父は「そうだなあ」と小首を傾げた後、こう言った。
「いつか、香澄が行きたいと思ったとき訪ねてくれれば、それでいい」
一緒に旅をしようか、とは言ってくれなかった。
電車、もしくは新幹線でなら数時間では行けるだろう場所に想いを馳せて、父と並んで香澄も五月の風を吸い込んだ。見たこともない北の街の花畑の匂いや、丘を覆い尽くす銀色の静かな世界を想像した。
今、隣で呼吸をしている父が愛しいと思った。
香澄は前触れもなく悟った。
父と同じような暖かい気持ちや安らぎを、晃光から感じていない――それこそが、自分が求めていた求めていた答えなのだろう、と。
「きっと私は、桜宮家とは関係を持たないわ」
言葉を口に出すと、なぜだが胸の底がすうっと寒くなった。
父はじっくり黙ったのち、
「そうか」
とだけ言った。
◇◇◇
父は毎月一回の通院を続け、一年を家で過ごした。
目に見えて体力は落ち始め、手足の痛みに夜中何度も起きた。
手先が冷たくなってゆく感覚と、目に見えない神経が病魔に侵されて痺れを伴うのだ。しかし、父は香澄にその苦しさを訴えることはしなかった。
「大丈夫だよ」
そう、どうにか言葉を吐き出し、感情を押し殺して微笑んだ。
「一緒に、お前の二十四歳の誕生日を祝わせておくれ」
たびたび、父はそう口にした。まるで自分に言い聞かせるようだった。
きっと、その先はもうないのだろう。
香澄は静かにそれを受け止めた。
もう、癌は後戻りできないほど進行していた。日に何度も眠りに引き込まれる父の傍で、香澄はただじっと座って過ごした。涙はとうに枯れ果て、重々しい疲労だけが身体を重圧した。
変えようもない未来が、そこにはあった。
泣いて喚いてもどうにもならないことを、香澄は母の死後に悟っていた。
年を越す前、二度ほど晃光から電話が入った。何者かに急かされるように話しながらも「会いたい」と悲痛に訴えてきた。
香澄は、電話越しで小さく首を横に振った。
「忙しいのでしょう? 私は平気よ」
比較的柔らかい降雪量をぼんやりと眺め、香澄は言葉を切った。
その夜には、晃光の母親から電話があり、くどくどと説教のような言葉を受けた。
香澄は疲れ切ってしまっていた。それでも父が大切だった。少しの野菜と、やっこ豆腐の入った味噌汁、柔らかい白米が少々と漬物。そして、一日の合間に何度かは果物を切って父に食べさせる日々が続いた。
林檎や梨はもう、父には固すぎるので砂糖で少し蒸して柔らかくしていた。それを口にすると、父はとても幸せそうに笑った。
年が明けて香澄が二十四歳の誕生日を迎えた日、香澄と父はささやかな祝福をあげた。
手作りの小さなケーキに蝋燭を立て、香澄は出来るだけ長く父と過ごせますように、と願いを込めて一気に蝋燭を吹き消した。
そのときふと、香澄はまだ母が生きていた時や、藤野の会社があったときの暖かさを思い出して涙腺が緩んだ。慌てて電気をつけ直すと、父の瞳も潤んでいた。
「香澄、二十四歳の誕生日、おめでとう」
刻みつけるように、父は言葉を大事そうに区切って述べた。
香澄も泣き顔に笑みを刻んだ。
「お父さん、二十四年目のこの日も、そばにいてくれてありがとう」
晃光がやってきたのは、二人がケーキを食べ始めた頃だった。
香澄が玄関を開けると、胸いっぱいに薔薇の花束を抱えた晃光が立っていた。
「お誕生日おめでとう」
「ありがとう」
短い言葉を交わして、香澄は花束を受け取った。甘い匂いが鼻をついた。
「これを、受け取って欲しい」
彼は手短に言うと、小さな箱を香澄に押し付けた。
「きっと時間を見つけて、また会いに来るから」
晃光は踵を返していってしまった。玄関先に止まっていた社用らしき黒塗りの車が、急かすように晃光を乗せて去っていった。
香澄は、柔らかな紺色のジュエリーボックスに何が入っているのか容易に想像することができた。
そっと開けてみると、小さなダイヤが三つ並ぶ金色の指輪が、その存在を強く主張していた。決して安い指輪ではなかった。
「正式な、婚約指輪……」
香澄の唇から、自然と言葉がこぼれた。
ほとんど会うこともなくなっていた女性だ。家柄も何も持っていなくて、手元に残っているのは少ない財産と、この家だけ――。
香澄は、結婚という行為がますますわからなくなった。
もう、疲れ切ってしまっていた。
形ばかりの妻を、桜宮家で演じることなど出来るはずもない……。
(どうして、私なのかしら)
そうして自分は、果たして恋をしているのか?
思考は、はじめの疑問に戻ってしまった。晃光に対して、会いたいと思っている自分がいるのか、父のように傍にいたいと思っているのか――。
けれど、今は、じっくりと考えてもわからなかった。
香澄は指輪をしまった。家に戻ると、計ったように晃光の母親から電話が入った。誕生日の祝いを形式的に述べ、晃光には相応しい女性の候補がいるのだと淡々と続けた。
「晃光が女性に優しくなったこと、あなたにはとても感謝しているのよ。人に対する気遣いが見えるようになったわ。人付き合いも以前よりぐっと多くなって、――そうそう、よく親しくしている女性がいるのよ。あなたと会えなくなって当然だわ、あの子はね、彼女と楽しそうにしていたもの。付き合いがてらのパーティーの出席なんてあたり前でしょう? 晃光は、それはそれは注目されていますからね。あの子も、もう三十二歳になるわ。そろそろ結婚してもいい頃合いだと思うのよ。貴女はまだ若いものね、すぐの結婚なんて考えられないでしょう?」
電話を終える頃には、ぐったりと疲れていた。
今から五年前、桜宮家から初めてお見合いの通知が来たことを思い出す。四年前には二度目の催促をされ、両親とともにホテルへ赴いたのだ。
――どうして、お見合いの招待状が自分にも来たのか。
すべては、あれから始まったのだと香澄は思った。
なんとなくだけれど、自分と晃光の人生は、あきらかに接点をもたないはずだったような気がしてならない。
母の死や会社の閉鎖、父の病気、そのあとで自分は普通のOLをして、平凡な人生を歩んでいくだろう。
晃光が入って来ないその人生の方が、香澄は想像しやすかった。
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