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 用意が整えられているリビングの光景は、数十秒もの間、悪夢に疲れ切っていた仲村渠の思考力を奪った。

 やらなければいけないこと、それ以上の考えなければならないこともある。

 けれど長閑で柔らかな風が彼の白髪交じりの髪の間を、撫でてゆくのを、彼自身しばしぼんやりと感じていた。

(梅雨の間は、風が荒れるのは仕方のないことだな――)

 たびたび、唐突に強く吹くなまぬるい風に、そう思う。

 少し蒸し暑いが、風通しは悪くないだろう。

 仲村渠はようやく移動し、まずは食卓につき、珈琲の香りを堪能した。それからコーヒーカップに少し口をつけたのだが、立ち上る湯気の熱さにほんの少し顔を顰めて、や棘しそうだなと思いながらも再び考え込む。

(――やはり、淹れたてなのだな)

 そう、心の中で悩み事をひっそりと呟き、新聞紙を広げた。

 数あるコーヒーメーカーも、妻の手にかかれば魔法のようにいつもでも素晴らしい珈琲を仕上げてくれる。

 この珈琲があるということは、もちろん彼の妻は〝ソコ〟に、あたり前のようにして立っているのだろう。

 そんなことを推測しながら視線を移動してみると、見通しのいいシステムキッチンに今日も妻が立っていた。最近購入した真新しい桃色のエプロンをつけて、彼女は包丁をトントントン、と鳴らし、朝食の支度を進めている。

 時刻は、きっちり七時。

(……こうして見ていると、今にも『お弁当は必要ですか?』なんて声が、こちらを振り返って聞こえてくるようだ)

 仲村渠は定年退職前の、そんな光景を重ねて、密かに目を細める。

 嗚呼、と、嗚咽みたいな感想が胸の奥に落ちていく。

 朝食の支度を進めている妻は、五十代にしてはすこぶる調子のよさそうな肌、ピンと伸びた背中――ややふっくらとしているが、見ている限りはいたって健康的だ。

 仲村渠は、深い皺が刻まれた自身の浅黒い顔と見比べると、一見して夫婦には見られないかもしれない、というような可能性をまたしても考えてしまう。

「あなた、テレビのボリュームを少し上げてくださらない? あまり聞こえないの」

 妻が、キッチンの奥から声をかけてきた。

 彼はその視線を受け止めて、どきっとし、けれどそれを顔に出さないように動きつつ答える。

「わかった」

 そう言いながら彼は〝テレビの電源を入れて〟ボリュームを調整した。

 テレビの電源なんてはじめから入っていなかったのだが、そこについては、妻に教えなかった。

「あなたったら、いつもまず始めにテレビをつけてしまうんですもの。ふふふ、新聞を読むから、別に見もしないのにねぇ」

 ああ、そうだったな、と彼は心の中で相槌を打ってしまう。

 気付いたらまた、考え込んでしまっていたせいだ。

「でも、私達、長らくずつと一緒にいたんですもの。だから今では、私までテレビを見るようになったのよねぇ。あなたが食卓につく頃に始まっている朝のニュース番組とか、そのニュースの合間に流れる占いとか」

 妻は手際よく朝の支度を進めながら、いつものようにテレビの音に耳を傾けていた。

 彼女は、番組の中盤に流れる星座占いと、血液占いをチェックすることを楽しみにしていた。直前まで何も聞こえなかったなんて、彼女の中では起こっていないみたいだと、仲村渠は彼女の健康そうな後ろ姿を見て、思う。

「よく、眠れたかね」

 彼は新聞を大きく広げ、姿勢を楽にしつつまずはそう尋ねた。想像していた通り、彼女は振り返ると「うふふ」と楽しげに微笑んだ。

「変な人ねぇ。ええ、よく眠れましたよ。いつもと変わらないですよ」

 彼は「そうか」と答え、新聞の文面へと視線を戻す。

「つまらないことを聞いて、悪かったな」
「いいえ。私は嬉しいですよ」
「そうか」

 彼が頷いてみせると「相変わらず口数が少ないのね」と妻が笑う。

「けれど私、あなたのそういうところも、好きよ」

 その声に――彼はちっとも文章が入ってこない新聞を、微かに力をこめて握った。

(寝ている間を認識できる人間はいない、か)

 家事を済ませた彼女がベッドに入ってきたのか、仲村渠が眠っている間に起床までしていなくなってしまったのか。

 けれどベッドには、彼一人分の皺しかなかったけれど。

(でも――)

 ひとまず、妻の朝の目覚めが素晴らしいものであったとしたのなら、それでいいように思えたのだ。

 彼と妻の間で起こっている〝ささやかなズレ〟だとか、現在彼を悩ませている大きな問題についてさえ、彼女自身が不安感など心を痛めることがないのであれば、まずはそれでいい、と。

 考えなければならないこと、そしてやらなければならないことが仲村渠の脳裏をよぎっていった。

 仲村渠は新聞を下ろし、コーヒーカップの中にある珈琲に映る自分の顔を、じっと見つめて考え込む。

 その間にも食卓には味噌汁、焼き魚、白米、漬物が並んだ。

 やがて妻が最後の一品を揃えて、彼の向かい側へと腰を下ろす。

「今日も、見事なものだ」

 仲村渠は食卓の上を眺め、眩しいとも懐かしいとも言うように、目を細める。

 冷蔵庫に入れてあったアボガドは、見事な色合いでチーズとトマトの洋風サラダとなっていた。

「ふふ、褒めても何も出ませんよ」
「ふっ――ふふ、そうだな」

 仲村渠も、なんだか途端に可笑しくなってきた。

「いただきます」

 二人で手を合わせ、食事をとる。

 こうして二人で食べていることを不思議に思うと同時に、仲村渠は、アボガドという未知の食べ物を妻と揃って口にしている光景についても、妙な感覚になる。まるでふわふわと宙を浮いている幻の中にでもいるような感覚がした。

 それは、とても、幸せな幻だ。

「そのサラダ、うまいかね」
「何を言っているの、あなた。アボガドは健康にもいいのだから、しっかり食べなきゃ」
「俺はそんなに不健康そうか?」

 口をもぐもぐしながら頭を右に傾げると、妻は大根の漬物を一枚口に入れ、自分の歯でしっかりと噛みながら考える。

「そうねぇ。あなたの今の顔をたとえると、まるで、あの世から戻って来たみたいな顔、かしら」
「ひでぇ言いようだなぁ」

 確かにしばらくは、不健康な生活だったかもしれないという後ろめたさが込み上げ、反論はそれ以上できなくなる。

「あの世から戻って来た連中は、皆不健康そうだってことかい? そりゃあ、ご先祖様に悪いってもんだろう」

 反論の方向性を変えることにした。

 すると気をそらした際、仲村渠は早速、差し歯の間に挟まった魚の骨に苦戦した。漁師の息子の癖にお前は魚を食うのが下手だと、何度周りの人間にいわれたか知れない。

 やれやれという様子で、妻が妻楊枝を差し出した。

 出会った頃からそうだが、彼女は『漁師の息子の癖に』という台詞を口にしなかった。ただただいつも、こう言う。

「ふふっ。不器用な人ねぇ」

 それが、仲村渠をずっと長らく救い続けていることも一つだった、なんて彼女は思いもしないだろう。
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