恋を真剣に考え続けた彼と、その結末

百門一新

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 本を一切読まない五十里(いかり)憲明(のりあき)が、ある時からの数年間、擦り切れるほど読み返して手放さなかった本がある。

 見栄えの良さのためだけに書斎に飾った美しい背表紙の本とは違い、それは薄くて軟な文庫本だった。彼は初めて自分からある種の本を貪欲に探ったのだが、その中の一つで「これは」と思うものを、とうとう見つけ、それからというもの聖書の如く目を通したのである。

 彼が次男として産まれた五十里の家は、家柄は厳粛で名高かった。先祖は立派であったし、存命している分家も含めると、議員や法律家や社長という肩書きも珍しくない。

 五十里家の男の性質は厳格で、先祖が商売でうまく立ち回って富を得たように、疑い深く賢かった。彼らは代々似たような愛想の悪い端麗な顔立ちと性格を引き継いでいるのだが、次男の憲明の場合は、それに拍車をかけて強烈だった。

「こいつはいずれ大物になるぞ」

 勤勉な息子を誇らしく思ってそう言った彼の父や親戚連中でさえ、しまいには心配してしまうほどだった。それくらいに憲明は、五十里家の強い性格が偏り出てしまったのだ。

 憲明は、幼少期から父等のような威厳を顔に刻んでいた。

 五十里家は代々美しい嫁や婿を厳選して引きいれていたのだが、彼の場合は美麗というより、屈強な戦士や、指導者の彫り深い面差し、としか表現のしようがなかった。

 彼は物心ついた頃より、母親譲りの通った鼻筋に軽蔑の皺を寄せていた。二重瞼の鋭い瞳は、譲り受けた容姿による幼い可愛らしさよりも、相手に畏怖や恐れを抱かせた。常に引き結ばれた形の良い唇は、交友や好ましい人間関係の一切を拒絶していたし、元より彼自身がそれを一切必要としていなかった。

 一族の中でも特に優秀だった憲明は、英才教育の全てを順調に淡々とこなしていった。一つの妥協も許さない彼の勤勉な態度に感心していた両親、兄弟、親族達は、だからその異変に気付くのが遅れたのだ。

 憲明は、家族内だろうが滅多に会話に参加しない人間だったので、自己の人格形成をすっかり終えて、一族の一員として社交の場に立った時、ようやくその欠点が浮き彫りになった。

 たとえば彼が十三歳だった当時、五十里家の長女には婚約者がいた。彼女がどの恋人同士にも訪れるような、倦怠的な悩みを親族の集まりの中、一つの話題として提供した時、話を聞いた憲明はこんな事を言って場を凍らせた。

「あなたが彼と別れる事について異論はありません。彼は父親から会社を引き継いだものの経営が全くなっていないので、これ以上の発展は見込めないでしょう。いずれの将来についても危ぶまれる要因は多々ある。あなたが経営に加担して軌道を修正する方法もありうるが、指導者ではないあなたに、それは無理でしょう。徒労と苦労に立ち向かう勇気がなければ、今のうちに切ってお捨てなさい」

 親族の中でも、特に母親が受けた衝撃は大きかった。彼女はすっかり心を痛め、鉄壁のような我が子の精神を危ぶんだ。何か打つ手はないかと模索し、息子に映画やホームドラマの鑑賞などを勧めたりしたが、憲明は「無駄な時間」と一蹴した。

 彼は自分に対して徹底的に厳しく、年頃らしい甘えや娯楽にも興味を示さなかった。

 常に良い教師が揃っていた事もあり、教科書以外の本を開く事さえもない。学ぶ中で様々な文豪の知識を得ていたので、「すでに書籍や文献に関する内容の要約が頭に入っているのだから、わざわざ元本を読む必要もない」と考えるような人間だった。

 だから彼は、人間の心理や精神については全く疎く、父がそういった文献を勧めても、まるでその意図について考える事をしなかったのである。

 親として、憲明の父は偉大な人であった。完璧主義者ながらの仕事ぶりで恨みを買う事はあったが、それは人間として立派な人格が形成された上での行いであったから、そこに心がないわけではなかった。

 次男の憲明に対して、父は口煩く諭す事はせず、父親として辛抱強くその時が来るのを待ち続けた。その隣で母親の心配事は、年々現実味を帯びてきたのである。

 結婚した長女に第二子が産まれた頃、次女が婚約者と共に渡米した。その数年後、長男は次期取締役として第一子を抱えての新しい生活を踏み出した。やや歳の離れた三男は、アメリカの大学を卒業する年になると、他の兄弟と同じように、早速良い家柄の縁談が次々と舞い込んで来るようになった。

 しかし、大学を卒業し既に起業に成功していた憲明には、女性の噂一つさえなかった。そればかりか、付き合っている友人の話を一度でも耳にした事はなく、母親はますます次男坊の身を案じたのである。

 憲明が起業した会社は、三男が卒業と婚約をした年には、誰もが知っている大企業へと変貌を遂げていた。急速に進化する技術を駆使した会社は、成長が凄まじかった。

 強い意思をもって進み続ける彼に、自分の事について思い巡らせる余地はないように見えたのも仕方がない。

 二十五歳になったその頃、憲明は答えの分からない悩みを考え続けて、すでに数年が経っていたのだが、離れて暮らす家族たちは知りようもなかったのだ。

 憲明は、二十二歳の年に社会に出ていたので、自分の欠点に関わるある種の違和感を覚えたのは、それからしばらくもしないうちの事だった。

 会社が無事に一年を過ぎて、おおよその業務の流れが分かった春先。ふと、唐突に彼は喜怒哀楽について考えさせられたのだ。少々時間に余裕が出来始めた頃だったせいか、部下達の「楽しい」「悲しい」「悔しい」という顔が目についたのである。

 特に彼は、女性社員の、ころころと変わる表情や態度を見て疑問を覚えた。

 彼は引き寄せられるようにして、ある日の談話に進み入り「どうしたのか」と声を掛けた。すると彼女達は、次々と彼の分からない事を口にしてきたのだ。

――「嫉妬で胸がぐるぐる」「でも落ち込んでいて憂鬱」「気晴らしにカラオケに行こうかと話していた」「パァッと気分も晴れるでしょ?」……

 そう話される間にも、彼女達の態度や表情は、目まぐるしいほどにクルクルと変わった。

 一体これは何だ?

 憲明は、生まれて初めて、知らない事など何もないと自負するこの自分が、全く知らない事があるのだと気付かされた。どうやら心理という類のモノらしい、と半ば疑心暗鬼ながら情報をチラチラと収集し始めたのだが、自分でもムッとくる事はあるし、不味い物や美味い物を食った時の気分は違うだろうと思えるし――。

 結局馬鹿らしくなり、その時は放り投げた。そうして忘れている間に、春の柔らかな日差しは強くなっていった。

「社長、取引き先の※※※お嬢さんを知っていますか」

 その年のある晴れの日、秘書の田口(たぐち)がそんな事を言った。

 社長に続き、ほとんどの社員の年齢層がぐっと若いのも、この会社の特色である。若いなりに優秀なのが多く、憲明より八歳年上の彼は、社長秘書兼幹部として日々業績を上げていた人間だった。

「ああ、向こうの会長さんの娘だったな。毎度毎度、あの人は顔を見るたびに娘の事を自慢してくる。まあ、娘さんの名前だけは覚えているが、それがなんだ?」
「ははは、社長らしいですね。実は、彼女が女優志願だったのを覚えていますか? オーディションで選ばれて、デビュー作で賞をもらったらしいので、そのパーティーの招待状が届いているんですよ。ビデオも用意してありますので、出席する前に、その映画を一度ご覧になってみてはいかがでしょうか」
「分かった。見ておく」

 渡された映画は、有名な監督が初めて恋愛をテーマとして作った映像作品だった。田舎暮らしの若い娘と、都会からやって来た男が出会い、なんでもないような風景の中で、その恋の過程が語られていくものだった。

 憲明はこれまで、映画というものを見た事がなかった。これが普通なのかと思いながら――映画というやつはどうしてじっと座って見ていなければならないのか、この間に俺はもう一仕事出来るんじゃないのか、と彼は苛々した――台詞がほとんどないその作品を見始めた。

 どうやらこの映画は、主人公の二人が静かに寄り添いあう風景描写に、恋の苦しさや甘さが表現されているらしい。憲明にも、それぐらいの事なら理解は出来た。

 でもそれだけの事である。彼は座って五分もしないうちに欠伸をもらし、何もしないで座り続ける歯がゆさに貧乏揺すりを始めた。

 しかし、はじめは「くだらん」と頬杖をついて欠伸をもらしていた憲明だったが、次第にテレビ画面から目を離せなくなった。会社から帰宅したスタイルのまま、気付けばただ沈黙して映画を見入り続けていた。

 一時間もない映画が、ほとんど台詞もなく終わってしまうと、彼はそれを再び冒頭にまで巻き戻して鑑賞した。深い夜が沈んで行き、次第にカーテンの外が白んで来るまで、憲明は動く事を忘れてしまったかのように、テレビの前から動かなかった。

 映画の中で流れる二人きりの風景や、彼らの短い台詞の一つ一つが、憲明の耳にこびりついて離れなかった。理由(わけ)も分からず、彼は恋人達の短い言葉のやりとりに耳を傾け、心に対して急速な興味を覚え始めたのだ。

 憲明は、恋という感覚に惹かれた。

 それが、どういう風に感じるものなのか、彼自身全く予想もつかない。

 けれどテレビ画面に流れる二人の風景を何度も目にしているうちに、何故かソレが欲しいと強く思った。二人で見つめ合い、そっと寄り添う間に孤独がないのだという事を、その時の憲明はまるで気づかなかったのだ。

 彼はビデオを止めると、慌ただしく身支度を済ませ、車庫と庭のついた広い一軒家を飛び出した。すぐさま会社へと向かい、常に早朝の暇を自宅で持て余しているその会長に電話を入れた。

 娘の主演映画を見た、という憲明からの予想外の連絡に対して、会長はこれまでの接待以上の興奮と喜びを見せた。憲明は、人との会話で胸に熱を覚えたのは初めてだったので、どうしてなのだろう、としばらく考えたが、結局答えは分からなかった。

 彼が唐突に父の声を聞きたくなったのは、その直後の事である。

 朝も早い時刻だというのに、憲明は用件もなく実家へと電話した。母と手短に挨拶を交わした後、父から近況と他愛のない話を聞く。何か用があったのかと尋ねられれば、自分から話す事など特にない事を思って首を傾げるばかりだ。

 しかし父は、親としての勘を働かせて憲明にこう言った。

「私は、常々お前の幸せを願っているのだ。妻と出会い、お前達に恵まれた事が一番の幸福だと思う。昔、お前のために参考にしようと読んでいた本があるのだが、もうお前が持つに相応しいだろう。実をいうと、私が父親となって、一番恥ずかしい買い物がアレだったように思う。馬鹿らしいといって捨ててしまっても構わない。その本を、お前に贈ろう」

 それからしばらく、憲明は父から送られてくる本の存在を忘れていた。例の映画の影響で探究心が昂っていた彼は、その日の内に書店を訪ね、心や恋に関わるすべての本を、手当たり次第に購入して持ち帰ったからである。

 翌日が休日とあって、その日購入した書籍はリビングいっぱいに広がった。彼は鷹の目の如く鋭い眼差しで活字を追って頁(ページ)をめくり、一分一秒でも早く情報を知り得ようと必死に取り組んでいった。

 子供向けの絵本のような簡単な解説書から専門書、今の女性に流行(はや)っているという恋愛本まで、彼は片っ端から読破していった。ある種の系統の本になると、身体に現れる心拍異常や特徴のような、たとえば「恋をするとアタシの耳元までドキドキする」や「彼に触れるとアタシの指先までジンジンしてくる」といった直接的な書き方がなされていなかったので、書店で流し読みした彼は見本にならないかもしれないと、手をつけない事を決めた。

 父が七年前に購入したという本が届いたのは、それから数日後の事だった。几帳面な父らしく、保存状態が良く傷みの少ない文庫本は、それでも、何度も繰り返し読まれた形跡が見て取れた。

 様々な関連書を数日で読破していた彼は、恋愛指南、と記されたその本の題名を見て胡散臭さを覚え、桃色の背表紙にはうんざりと顔を顰めた。何気なくその本を拾い上げた拍子に、一枚の手紙がハラリと落ちた。

 それは父からの伝言だった。それを読んだ時、文庫本に抱いた彼の第一印象は一変した。

『憲明へ。この本には、あまりにあたり前の事ばかり書かれていたので、あの頃は全く参考にならなかったのだ。私が経験して感じたような事ばかりが、ただ簡素に書かれているだけで、それは中学生が読むような、まあ、そんな本だよ。ようやく先日になって妻に打ち明けたのだが、一読するなり笑われてしまった。けれど、あの時は、私だって必死だったのだよ。時が来たら、もしお前の必要になるのならと思って大事に取っておいたのだ。/父より』

 父が、母と恋をして、感じた事が書かれている本。当たり前の、男女が恋をした時に感じる事がまとめられた内容の――それが、憲明に興味を呼び起こした。

 期待して試しがてらに読んでみると、その文庫本は題名が記す通りだった。憲明には、恋に関する全てがそこに書かれているように思えた。恋の出会いや発展までが、簡易でありながら分かりやすく説明されている。

 文字は専門書のようにぎっしりと詰まっているわけでもなく、まるで子供向けの詩集や、童話のように読みやすい。三十六からなる短い章の間には、ほんのりと葉や月や雫のイラストが付き、なぜか不思議と見飽きない水彩でもあった。

 憲明はいまだ、自身が孤独である事に気づいていなかった。彼はただ、自分も「恋」とやらをしてみたいと思っているにすぎないから、寄り添ってくれる人のいる人生を自分自身が渇望しているなどとは、まるで考えもしなかったのだ。

 恋とは、一体何なのだろう?
 恋とは、一体どこに宿るモノなのだ?

 そして、なるほどと思う。恋とは、とても素晴らしいモノであるらしい。指南書にある通り、俺はまず、恋の予兆とやらを探さなければならない。

 けれど働き盛りの二十五歳の青年実業家は、あまりにも多忙すぎた。彼は利益の拡大や信頼の固定といった、様々な事に追われた。

 しかしながら、彼が自身について、最も疎い人間だったのは救いでもあった。先頭を切って動き、会社を指揮するクールな彼を、部下達は尊敬の眼差しで見つめた。憲明は二、三時間という睡眠しかとる事のできない毎日に、疲労の気持ちを知らないがために疑問すら覚えなかったのである。
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