天空橋が降りる夜

百門一新

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5話

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 デイビーは、とても楽しくて仕方がなかった。身体がとても軽く、まるで浮いた身体を梯子に掛けた手でそっと上へ押し上げているように、するすると白銀の梯子を登っていく。

 青年と同じようにずっと手足を動かしていたが、ちっとも疲れは感じなかった。相変わらず青年の足音はしなかったが、デイビーもまた、するするとした響きを発するだけで、初めの頃のような堅苦しい音を上げる事はもうなかった。

「見てご覧、デイビー! 湖に、空の魚達がやって来ているよ」

 足を止めた青年の声に、デイビーもようやく立ち止まって下へと視線を向けた。

 上から見下ろすと更に巨大に見える、青く光る美しい湖に向かって、上の雲の層から次々に色の薄い小羽を付けた魚達が飛んでいくのが見えた。頭から尾へと向かって虹色の不思議な色あいをした魚達の輝きは、常に色と色とが動き美しく光っている。

「うわぁ、相変わらず綺麗だなぁ! 虹の魚達は、虹を作る前にここで休息を取る。僕は、それがとても好きだった」

 そんなデイビーの言葉を聞いて、青年がふふっと笑みをこぼした。

「そう、彼らはここで休息をとる。そうやって湖の水が下へと少し抜けた時、それに乗って隊列を組みながら地上に落ちていって……そして終わったらまた、空へと飛んで帰ってくるわけだ」
「虹を作る事が、彼らに与えられた役目の一つだからね」

 デイビーはそれを知っていたので、そう言って頷くと「さぁ、行こう」と青年に声を掛けて先へと促した。青年は、にっこりと笑って頷くと、先へと進んだ。

 登り出しながら、デイビーは降りていく虹の魚達をもう一度見やった。一瞬、ふと不思議な感覚がしたが、すぐにそれが分からなくなって先へと進む事に意識を戻した。

「早くおいでよ、デイビー」

 茶化すような青年の声が、雲の向こうへと消えていく。デイビーは「分かってるよ!」と答えたところで雲の層に頭を突っ込んでいた。雲が口の中に入ってしまうと思って反射的に口を閉じたが、身体に雲がかかる感覚はあっても、不思議と鼻や口に入って来る様子はない。

 デイビーは、雲の層の中を突き進みながら「先に食べちゃうよ」と言う青年の声を聞いて、「待っておくれよ」と答えて笑った。更にするすると登っていくと、一気に彼の視界は開けた。

 広くどこまでも続く雲の地面に、沢山の背丈の低い木が立っていた。

 淡い緑に光り輝く葉の一枚一枚が大きくて、その隙間にたくさんの青い実がなっているのが見えた。滴のように下が膨れたような果実は、薄茶色の枝先を金緑に輝かせ、下にいくにしたがって段々と青く灯っている。

 まだ上の雲の層へと続いている梯子のそばで、青年がデイビーを待っていた。デイビーはにっこりと笑う青年に笑顔を返して、ふと、高い雲の天井を見上げた。

 白銀の光りがぼぉん、ぼぉんと美しい響を奏でながら、雲の層の中で光っているのが見える。まるで儀式の際に聞いたような音だったけれど、どんな式で聞いたのだったか忘れた。

「さぁ、デイビー。まずは腹ごしらえをしよう」

 上空の美しさに見惚れていたデイビーは、視線を上に向けたまま「うん」と言葉を返した。「とても美しいところだね」と思わず述べると、青年が「この上に行くと雲が開けて、そこはもっと美しいよ」と言った。

 青年はすぐそばにあった木から、慣れたように果実を一つ取った。さわさわ、と金緑にも見える大きな葉が揺れて、小さな音とともに青年の手に果実が収まる。

「はじめの一個は、まず君にやろう」

 彼はもう一つへと手を伸ばしながら、先に取った果実をデイビーに差し出した。デイビーは嬉しくなり、ひんやりと冷たい果実を受け取ると、満面の笑みを浮かべた。

「ああ、嬉しいな。僕はこれをもう一度食べるまでに、もうずいぶんと待たされたんだった」

 そう言いながら、デイビーは慣れたように果実を回すと「こっちだ」と呟き、不意に両の手でそれを二つに割った。

 まるで始めから切られていたかのように、キレイに割れた果実の中には、桃色かかった銀色の実が、瑞々しさたっぷりにぎっしりと詰まっていた。割れた切り口からは、光を帯びた果汁がとろっと溢れ出し、デイビーは「おっと」と言葉をもらしてそれを口に運んだ。

 そのまま横から皮ごとかぶりつくと、皮がないのではないかと思えるほどの柔らかい食音が、デイビーの口元からこぼれた。とても甘くて、まろやかな舌触りだ。

「空の欠片に包まれた果実は、変わらずとても美味しいね」

 これまで食べた、どの果実よりも甘く良い香りがデイビーを包み込んだ。とても美味しいのに、彼はその味をどう表現していいのか分からなかった。

 ひどく柔らかいのに崩れにくい実を食べ進めながら、デイビーはそれを初めて食したような不思議な感覚を覚えた。

「空の欠片も、それはそれは甘くて美味しいからね。星の滴からなる実と相性がいい」

 デイビーに続いてそう言いながら、青く光る果実を食べている青年の顔にも、満足したような笑顔が浮かんでいた。

「もう一つ食べるかい?」

 両手にあった実を、すっかり食べてしまったデイビーは、青年に首を振って「もう十分だよ」と答えた。

「必要以上に食べてしまうのは、勿体ないよ」

 微笑んだデイビーに、青年が「そうだね」とますます満足げに頷いた。

「じゃあ、一つだけ袋に入れておこう」

 いつのまにかデイビーの袋を手に持っていた青年は、慣れたように実を取ると、優しく袋の中へと入れて、それをデイビーのベルトに固定した。

 ほんの少しの重さしかなかったので、「本当に入っているのだろうか」とデイビーが袋の外側から果実に触れていると、ふと青年が「おや、先客がいたようだね」と言った。

 顔を上げてそちらを見てみると、デイビー達が立っている白銀色の梯子の向こうに、一人の老人が、雲の盛り上がりに尻を乗っけて座っていた。

 見た事もないほどひょろりとした長身の彼は、つるりとした豆のような頭部をしていた。長く垂れ下がった眉毛。小さくな口元には、ちょこっとばかしの白い髭をはやしている。

 顰め面に眉根を寄せたその老人は、デイビー達に気付くと、長い首を持ち上げるように見てきた。そして、ややあってから会釈をした。

「こんばんは、お二人さん」
「こんばんは、おじいさん」
「こんばんは、ご老人」

 デイビー達の挨拶が続き、青年の言葉で会話は途切れた。老人の声はぶっきらぼうだったが、ひどく優しげな口調である事にデイビーはホッとしていた。

 その時、デイビーは、彼が自分よりも先にここへ辿り着いていた事に気付いて、今更のように驚いて目を見開いた。

「あなたも、梯子を登って来たのですか?」

 すると、老人は不味い物でも食べたような顔をして、デイビーを見やった。

「馬鹿を言っちゃいけない。登るのは君達のような若者だけで、わしらはカゴで引き上げてもらうのだよ」

 ああ、そうだった。すっかり忘れてしまっていた。

 デイビーは、少し恥ずかしくなって頬をかき「すみません」と謝った。登る事ばかりを考えていた自分が恥ずかしくて、小さくなって俯いた彼に、老人が呆れたように息を吐く。

「お前さんは、それを誰かと競ってでもいたのかね?」

 吐息交じりに問われて、デイビーは事実を認めて頷き返して見せた。

「はい。僕らの村で、登り名人に憧れる子は沢山いて……」
「ほぉ、登り名人? 言い伝えの名残りが、今はそうやって残っているのだな」

 老人は懐かしそうに目を細めて、ふうっと息を吐き出した。

「わしもいつかは、と思っていたが、この歳になるとさすがに登れん。お前さんなら、きっと立派に登りきれるだろうさ。しかし不思議だ、ここまで登ってきたお前さんは、もう子供達の誰よりも一番の登り名人だろう。それなのに、一体ここまで来て、誰と競おうと思ったのかね?」

 老人に問われ、デイビーはようやくオーティスの事を思い出した。すっかり遠い昔の事のように、彼の事を思い出すのも何故か一苦労で、デイビーはもごもごと口を動かした。

「えっと、すごく立派な牛飼いの一家があって、そこにオーティスという僕と同じ年の子がいたのです。彼が先にこの梯子を見つけていたので、追い越されてしまう、と僕は心配して……だって、僕には登る事しかないのに…………」

 デイビーは、言葉が続かず口をつぐんだ。

 老人はしばらく黙っていたが、一度深く頷くと「そうか」と言葉をもらした。青年は、俯いたデイビーの斜め後ろで微笑み見つめている。

「競い合う相手がいるという事は、良いものだ」

 しばらくして、老人が思い出すようにしてそう言った。

「きっと彼は、お前さんをライバルと見ていたのだろう。そうして、誰よりも一番、お前さんのいいところを知っている。まだ若いのになぁ。追い抜かれてしまった彼だけが、そこへ残されたのか…………わしと同じように」

 デイビーは、言葉を切った老人を見やった。彼は疲れたように背を丸めて座り直し、もう一度「ふぅ」と息をついている。

「おじいさんは、誰かをここで待っているのですか?」

 なんだかそんな風にも感じてしまって、デイビーはそんな事を尋ねていた。

 すると老人が、疲れた顔にようやく微笑みを浮かべて、デイビーと視線を合わせた。深く刻まれた皺が、優しげな曲線を描いていて、デイビーは何故か胸と目尻が熱くなった。

 老人は、しばらく何も答えてこなかった。どのぐらい見つめ合っていただろうか。デイビーが身じろぎした時、ようやく老人が小さな口を持ち上げた。

「ああ、ずっと待っていたよ。そして、わしはやっと、待ち合わせの場所へと辿り着く事が出来た。あの時、わしが手を離してしまったために、すっかりわしを追い越してしまった彼を、ここで待っているのだ」

 すると青年が頷いて、「もうすぐで天馬が降り立ちます」と言った。

「きっと、その彼は、その時もう一頭の天馬を引き連れて、あなたのもとを訪れるでしょう」

 それを聞き届けた老人もまた、微笑んで頷く。

「『上』にある星を見るのは、二人で、とずっと決めていたんだ。だから、わしは、ここで彼を待とう。星を入れる、この袋を携えて」

 老人が、そう言いながら腰横に触れるのを、デイビーは静かに見つめていた。彼の手の先には、小さな牛皮の袋が提げられている。

「あなたも、星を?」
「ああ、そうだ。美しく輝く星を、一つだけ」

 それ以外は要らないのだ、と老人は続けて、まるで孫を見るような暖かい目でデイビーを見つめた。

「さぁ、お前さんは登り切るのだろう? 次は、星を取りに行きなさい」

 デイビーは頷くと、青年を振り返った。彼は白銀の梯子に手を掛け、ごぉん、ごぉんと美しい響きを奏でている上の雲を、懐かしげに眺めていた。

 ふっ、と青年が気付いてデイビーへ目を向ける。

「さぁ。行こうか、デイビー」
「うん、行こう」

 青年の名前を出しかけたデイビーは、それが喉元で途端にあやふやになって口をつぐんだ。青年は気付いた様子もなく、梯子を登り始める。

 デイビーは、最後にもう一度だけ老人を振り返った。

「さようなら、おじいさん」
「ああ、次は満天の星の下、天馬が降り立つ場所で会おう」

 デイビーは「そうですね」と答えた。嬉しそうに微笑んだつもりなのに、何故かひどく悲しい気分になって開きかけた口を閉ざした。「おいでよ、デイビー」と言う青年の声が少し上から聞こえてきて、「今行くよ」と答える。

 デイビーは、ゆっくりと白銀の梯子を登り始めた。ほとんど身体の重さを感じなくなり、ふと下を見やると、はるか下に金緑と白の光りが波打っているのが見えた。

 もう、ここまで登ってしまったのか。

 ぼんやりと、そんな事を思ったデイビーの脳裏に、先程老人が言った言葉が過ぎっていった。

『美しく輝く星を、一つだけ』

 まるで、未来のオーティスが言ったみたいに感じた。まるで変な想像をしたと、デイビーは、静かに上へと視線を戻した。

 青年が少しの距離で止まって、優しい表情でデイビーを見つめている。

「さぁ、美しい星を取りに行こう」

 デイビーは「うん」と答えて再び梯子を登り出した。するすると青年のもとへと行くと、不意に足が浮くような感覚を覚えて、デイビーは下を見やった。

 梯子から離れた彼の足は、もう宙を浮いていた。梯子を掴んだ手だけが、デイビーの身体を支えている。上を見てみると、青年もまた宙を浮いて手で梯子を掴んでいた。

「ここからは、もう伝って行くだけだね」

 それを知っていたデイビーが言うと、青年が「そうだよ」と続けてにっこりと笑い、白く美しい手を差し出してきた。

 デイビーは梯子から手を離すと、浮かぶ手を青年の掌に重ねた。とても懐かしい温かさに目を細め、デイビーは自分を優しく上へ上へと引き上げて行く青年を眺めた。

 その向こうに、白銀の眩しい光が、ぼんやりと雲から覗いているのが見えた。

 ああ、なんと美しい光景だろう。

 デイビーと青年は、ゆっくりと雲の中へ入っていった。デイビーは全身を包む温かい光りに、思わず目を閉じた。瞼の裏も眩しくて、温かい。

「もうしばらくで、天馬達がいらっしゃいますよ。皆さん、もう星はお持ちですか? ああ、まずは四組いらっしゃいましたね。では、お先にどうぞ」

 どこからか、そんな声が聞こえてきた。

 デイビーはだんだんと、雲が開けていくのを感じた。
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