天空橋が降りる夜

百門一新

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6話(下)

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「この声、本当にあのおじいさんなの?」

 そう尋ねてみると、青年は下を見つめた、どこか考えるようなぼんやりとした表情で「あのご老人だね」と独り言のように呟いて、黙り込む。

 その時、雲の下で鈍く硬い音が響いてくるのをデイビーは聞いた。二人の真下というわけではないその音が、雲全体に響き渡って、少しずつ音を強めて反響していく。

 歯を食いしばるような短いうめき声が、時々聞こえた。同じ頻度で、雷のように老人の怒鳴り声が聞こえていた。言葉数が多すぎて、デイビー達は内容がまるで分からなかった。

「うわっ!」

 不意に、下の雲から虹の鳥達が一斉に飛び出してきて、デイビーと青年は短い驚きの声を上げた。よろめきながらも、鳥達にぶつからないように、お互い妙な踊りをしながらその場から離れる。

 勢いよく雲から飛び出してきた鳥達は、虹を描きながら星空の闇へと向かって次々に飛んでいく。

「うーむ、これは滅多にない例だね」

 青年は少し困ったように呟きながら頬をかき、それでもどこかきょとんとした呑気な表情で、鳥達が飛び去っていった方向を見つめていた。

 何かを打ちつけるような硬い音が、雲全体に響き渡って地響きのように揺れている。すべての鳥が去っていったあと、デイビーは雲の地平線を見やった。

 下に広がる白くぼんやりとした光が、音に合わせてそれを強くしているのが見えた。

「とりあえず、あの椅子のもとまで行こう」

 突然青年がそう言って、デイビーの手を取った。困惑して「え」「あの」としか言葉が出て来ないデイビーに、「まぁまぁ」と、彼は陽気に答えて雲の上を跳ねて行く。

 椅子の横辺りまで来た時には、音は更に激しくなっていた。

 まるで巨大な何かが、硬い地面を打ちつけているようだ、とデイビーは思った。青年はデイビーから手を離すと、梯子の先が少し出ているばかりの場所を、ひょいと覗き込む。

「な、何か見える?」
「うーん。カゴを持っていないから、星の欠片達に『帰れ』と怒られて、叱られている人が見えるよ」
「叱られている人?」

 デイビーは、よく分からななかった。更に質問を投げかけようと口を開いたのだが、それは耳が痛くなるような衝撃音に遮られてしまった。

 梯子が飛び出た下の雲が激しく光り出し、まるで雷が素早くぶつかり合うような音を上げた。すると雲の下から、更に呻く声が上がった。

 その時、デイビーは信じられない光景を見て、思わず目を見開いた。雲の下から、焼けた小麦色の大きな手が伸びたかと思うと、前触れもなく梯子の先を掴んだのだ。

 雲の中から現れたのは、擦り傷だらけの手だった。それは痛みに決して負けるものかと、梯子の一番上を強く掴んで一際力が込められる。デイビーと青年が見守る中、続いては雲から左手が飛び出してきて、がっしりと白銀の梯子を掴んだ。

 雲の下から出てきた傷だらけの両手に、デイビーはひどく驚いた顔をした。その両腕のずっと下から、「諦めるな!」と怒号する老人の声が小さく聞こえてくる。

 激しい雷のような音が小さくなり、デイビーと青年がそろそろとそちらに近寄った時、突然、梯子を登って来た人間が勢いよく顔を出した。それは髪も服も乱れ、傷だらけになったオーティスだった。

「オーティス!」

 びっくりして、デイビーは反射的に彼の名を叫んだ。

 オーティスは痛みを堪えた顔で、眉間に険しい皺をんだまま真っ直ぐデイビーを見つめ返してきた。激しい怒りや強い決心のような気迫を彼から感じて、デイビーは戸惑った。

「一体どうしたのさ。何故、君が傷だらけに?」

 そう、しどろもどろに口にしかけた時、

「帰るぞ、デイビーっ!」

 一喝するような怒号が、オーティスの口から飛び出た。

 直後、彼の傷だらけの大きな手は、デイビーの手をしっかりと掴んでいた。デイビーは更に驚いたが、掴まれた腕から雷のような光が上がって、弾くような衝撃音が小刻みに起こり出したのを見て「あっ」とその顔を強張らせた。

 短い呻きと共に、オーティスの顔が苦痛に歪む。焦げるような匂いと共に、彼の傷が増えるのを見て、デイビーはこう叫んだ。

「オーティス、今すぐその手を離して! よく分からないけれど、離した方がいい!」

 すると、オーティスは苦痛に歪んだ顔を、必死に横へと振った。

「いいや、離さない! 俺は、ようやく掴んだのだ!」

 離すものかと歯を食いしばり、更に手に力を込めたオーティスが青年の方を見やった。デイビーが「わけが分からない」というように振り返ると、青年が少し悲しそうに、けれど、どこかホッとしたような笑みを浮かべた。

「考えたね、オーティス君。カゴは昇る事しか出来ないけれど、自分のカゴを引き連れていない今の君なら、引きずり降ろす事が出来る」

 すると、オーティスは鼻を鳴らした。

「下で『あなたのコウノトリだ』とか言う知らない女に会って、ここを登るように言われた。急げば間に合う、と」

 腹に響くような低い声で言ったオーティスが、続いてデイビーを見た。

 その目が、不意に細められるようにして歪んだ。憤りや悲痛が入り混じったようなその表情に、デイビーは投げかけようとした言葉も忘れ、思わず息を呑んだ。

「一体どうしたんだい、オーティス。何が君にそんな辛い想いをさせているんだ?」

 そう声を掛けたら、オーティスが慈悲を願う声で「デイビー」と呼んだ。

「帰ろう、デイビー。俺はただ、お前と張り合っていたいだけだったのだ。それなのに、そんな俺を、どうか置いていってくれるな」

 置いていく? 一体、何を?

 オーティスの弱々しい囁きに、デイビーはひどく苦しくなった。引き寄せられまいと後ろへと身を引きながら、どうにか言葉を探して口にする。

「で、でも、君も登りきった。こうして、天空橋を登ってきたじゃないか。君を置いていってはいない。ほんの少し先に、僕が辿り着いただけで――」

 けれど不意に、デイビーは言葉を切ってしまった。光と衝撃音に包まれながら、オーティスが痛みと悲しみにその顔を歪めたのだ。

 そんな彼を見たのは、デイビーは生まれて初めてだった。どうして、と疑問を投げかけようとして、すでにその答えを知っているような感覚に捕らわれた。

 きっと、この手が離れたら、二度とオーティスとは会えないだろう。

 そんな想いに駆られ、デイビーもまた悲しげに顔を歪めて黙り込んだ。

「――よし、行くぞ」

 すると、前触れもなく、そんなオーティスの声が上がった。デイビーが反応するよりも早く、オーティスがその手を掴んだまま雲の下へと彼を引きずり込む。

 デイビーの短い悲鳴よりも先に、彼の後ろから青年が雲の中へと飛び込んで「じゃあよろしく」と言って、オーティスに手を差し出した。オーティスは頭から落ち出しながら、右手でデイビーを掴んだまま、左手で青年の手をむんずと掴んだ。

 閃光とともに、オーティスの身体に向けて鋭い音が連続して起こり、デイビーは眩しさと衝撃音に思わず一度目を閉じてしまった。雲から身体が抜けた眩しさに目を開けてみると、金緑と白い光が視界いっぱいに広がった。

 デイビーは、浮いている自分の身体と青年の身体が、オーティスに引きずられるようにして落下している事に気付いた。じょじょに速さを増した落下に、デイビーが悲鳴を上げるよりも早く、あっという間に金緑の広い木々が眼前に迫っていた。

 デイビーは悲鳴を上げかけて、ハッとオーティスを見やった。新鮮な空気や金緑の木、そして、青年やデイビーからも一層強い白銀の光りが飛び出して、オーティスを攻撃し始めていたのだ。

 傷だらけのオーティス、それなのに更に傷が増えてしまう。

「だめだオーティス! とても痛いだろう、だから、どうか僕を離して――」

 そう叫んだデイビーは、梯子のそばに、先程会った老人が立っている事に気付いた。彼は苦痛に歪むオーティスを真っ直ぐに見て、すうっと息を吸い込んだかと思うと、カッと目を見開いて怒鳴った。

「決して手を離してはならんぞ! いいか、どんなに痛かろうが決して手を離すな! 諦めたらそれで終わりだ! 真っ直ぐ、ただ真っ直ぐ地上へ帰って行け!」

 わけも分からずデイビーが老人を見つめていると、オーティスを挟んだ隣で、青年が「やぁ」と挨拶するように手を上げて、老人に笑い掛けた。

「待っている『未来の彼』によろしく。一旦さようなら、ご老人」
「ああ。コンチクショーめ、ずっと遠い未来まで帰って来るんじゃないぞ!」

 デイビーは雲に突き入る直前、皺が刻まれた老人の顔に、ああ、と安堵の微笑みが浮かぶのを見た。その熱くなった瞳は潤み、そこから美しい滴が一つ、雲の上に落ちて行く。

 老人がこちらを見て、ちょろっと照れたように手を振って唇を動かした。

――デイビー。今度は共に、この歳になるまで。

 その目の奥に宿った強い輝きの名残りを見て、デイビーは小さく目を開いた。

 オーティス……? そう開きかけたデイビーの口が、そのまま雲の中にかき消える。激しい光のぶつかり合いで視界が遮られたデイビーは、腕に感じるオーティスの大きな手以外、途端に何も分からなくなった。

 薄らいでいく意識の中で、たくさんの美しい声がデイビーに降り注いだ。「さよなら、さよなら」「また会いましょう、愛しい子」「さよなら、またいつか会いましょう」「それまでお元気で、デイビー」「また迎えに行くよ」「きっと、また会おう」……。

 ごぉーん、と頭を強く叩かれるような衝撃を、デイビーは感じた。

 記憶の奥で、誰かが「デイビー!」とひどく悲痛な声で叫んだのを思い出す。「ああ、神様!」と言って、歯が少し飛び出た少年が崩れ落ち、オーティス達が駆け寄って来る映像が、突如としてデイビーの頭の中に流れ込んできた。

 ああ、そうだった。僕は――

 デイビーは、手にオーティスの重みを感じながら、とうとう意識を手放し、どこまでも眩しい光の中へと落ちて行った。
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