天空橋が降りる夜

百門一新

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最終話

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 横たわる身体に感じる痛みと共に、デイビーは身に起こった事の全てを思い出した。ぴくりと手が動くと、覚醒を促すように閉じていた瞼がぴくりと震える。

 ああ、そうか。僕はベッドに横になっているんだ。

 身体を包んでいる温もり、背中に感じるベッドの感触。母が作った枕は、相変わらず頭の部分が沈み過ぎていて、耳まで汗をかいているかのように感じた。全身が鉛のように重く、ようやく毛布の中で動いた指先は、何かに押さえられて持ち上げる事ができない。

 デイビーは僅かに身をよじった後、ようやく瞼を開く事ができた。静かな室内に、もう一つの呼吸音を耳にして、誰かがいる事に気付いてそちらへと目を向けてみた。

 ベッドの脇に寄せた椅子に座ったオーティスが、毛布から出たデイビーの手を握りしめたまま、シーツに頭を倒して眠っていた。すっかり彼の下に埋もれたデイビーの手には、白い包帯が丁寧に巻かれてあった。

 不意に、オーティスが、ハッと目を覚ましてデイビーを見た。彼は寝起きの弱々しい顰め面で、しばらくデイビーを見つめたあと、「大丈夫か」とだけ尋ねた。

 デイビーは口を開こうとしたのだが、ひどく疲れを感じたので小さく頷いたあと、枕に片耳を沈めるようにして、オーティスの向こうにある窓へと目を向けた。

 そこには夜の景色が広がっていた。一際明るい光を放つ月が、デイビー達の小さな牧場を照らし出しているのが見える。

「あのあと、村長が駆け付けてくれたんだ」

 静まり返った室内で、オーティスが独り言のようにそう切り出した。

 切り傷と擦り傷、打撲が多数あったので薬草を煎じて皆で塗った事。突然の高熱が出て危険な状態だったが、一時間ほど前に熱も下がり容体が安定したので、つきっきりで看病していた村長とデイビーの両親、そして大人達が部屋を出て行った事。

 それからデイビーの体力が回復した後で、成人の儀が行われる事になった、ともオーティスは続けて話した。

「死ぬかもしれないと大騒ぎだった。今夜が峠だと聞かされた時、ホルスト達が隣の大きな村に助けを求めに行くと騒いで――とにかく大変だった」

 その名を聞いて、デイビーは一番賢い家の少年の事を思い出して、オーティスを見やった。助けた少年のいつも隣にいた、あの天空橋の詳しい記録について述べた少年である。

 そこまで思い出したデイビーは、ゆっくりと窓の向こうに見える夜空へ目を向けた。同じように、窓側を振り返ったオーティスの表情は暗い。

 デイビーはそれを見て、彼が自分と同じ事を思い出しているのだと気付いた。夜空を見やるオーティスの目は細められ、その顔には悲痛とも懐かしみとも取れない、複雑な表情が浮かんでいた。

「僕は、天空橋に登ったのだ」

 視線を窓の向こうへと戻しながら、デイビーは小さく唇を開いた。オーティスが「ああ」と静かな声色で答えながら、目尻の下に皺を寄せる。

 そんな彼の表情を、デイビーは窓ガラスに映った彼越しに見つめていた。オーティスもまた同じくして、ガラスに映り込んだデイビーの顔を見つめている。

「僕は登り切って、星まで取った。そうしたら突然に君がやって来て、引きずり降ろされてしまったんだ」
「ああ。確かに、そうだったな」

 オーティスは、一語一語言葉を噛みしめるように、ゆっくりとそう相槌を打った。そして彼は「実を言うとな」と続けると、窓ガラスに映るデイビーを見つめ返してこう言った。

「天空橋は伝説であって、俺達も内容まで知らなかったのだ。この世で生を終えた者を迎えに来る橋で、登り名人達は、自らの手と足で頂上まで登りきってしまうらしい、と――お前が登っていくのを夢で見た時は、正直とても怖かったよ」

 デイビーは、ようやく天空橋の意味を悟って黙り込んだ。オーティスは掠れた声を不意に切って、そのまま口をつぐむ。

 しばらく、二人とも黙ったまま窓の向こうを見つめていた。

 ひゅうっと風が吹いて窓が揺れた。オーティスは先程、夢、といった。この世のものではない伝説だと聞かされても、やっぱりデイビーには、それだって現実のように鮮明に覚えている事で――「でも、僕は登ったんだ」そう独り言のように呟いたところで、彼は、ふと気付いて、窓ガラスに映っているオーティスと目を合わせた。

「……窓、開けないの?」
「星空が明けるまでは」

 デイビーは「そう」と言って言葉を切った。オーティスは「ああ」と答えて、再び黙り込んだ。デイビーの右手を握ったままの彼の手はかすかに震えていて、まるでここにいる事を確認するかのように力が込められていた。

「…………オーティス。とても静かな夜だね」
「ああ、静かな夜だ」

 デイビーは、オーティスの答えを聞きながら不意に悲しくなった。

「オーティス。僕は、確かに登ったんだよ。美しい水と、とても美味しい青い果物と、流れてくる星を取って、袋に入れて――」
「皆、お前の事はよく分かっているんだ」

 言葉を遮るようにオーティスが強く言った。ゆっくりとデイビーが彼を見つめ返せば、感情を押し殺せていないオーティスが、弱々しく眉根を寄せてデイビーを見つめ返してきた。

「よく分かっていて認めてもいる。六歳の頃から、ずっと村長のところで一緒に勉強して育ってきた幼馴染だ。素直になれないだけで、皆お前の良いところも悪いところも十分に分かっているのだ。そして皆、あの時、大切な事に気付いてまた一つ大人になった」

 しばらく沈黙が続いた室内の向こうで、草原が心地よさそうに揺れていた。

 デイビーは「そうか」と相槌を打ちたかったのに、言葉にする事ができなかった。認められるような形ある物なんて、必要なかったのか――喉の奥から熱いものが込み上げそうになり、その表情を隠すように口をつぐんで窓へと顔を向けた。

 眩しいほど輝く月を見て、デイビーは周りの星の光が、その冷たく青白い光に覆い隠されているような印象を受けた。しばらく眺めていても、月のそばにある一際明るい星ですら霞んでいるように見えてしまう。

「あそこから見た星はね、とても美しかったよ。触れているのに浮いていて、とても温かいんだ」

 オーティスはデイビーの話を聞いて、「そうか」と頷く。デイビーもまた力なく頷いた。

「でも僕は、せっかくの星を忘れてきてしまった。彼に、大事に大事に、袋にまで入れてもらったのに」

 きっとあの星は、たった一つの特別なモノだった。

 ちらりとデイビーを見たオーティスが、再び窓へ顔を向けてこう言った。

「彼は『またね』と言っていた。――それならきっと、彼が大事に預かっていてくれているんだろう」

 デイビーは、どうにか「うん」と答えて、オーティスの手を握り返して夜空を見上げた。あの場所で、彼はまた待ち続けるのだろう。

 二人が見つめる夜空で、流れ星が、静かにそっと白く輝く線を引いて落ちていった。
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