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蒼緋蔵邸の三人(1)

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 改めて客人を迎えた蒼緋蔵家の面々は、雪弥と宵月が不在の中、二階の広いリビングに場所を移していた。
 向かい合うアンティーク風の長ソファには、蒼慶と亜希子、桃宮勝昭とその妻の紗江子の四人が腰かけて向かい合う。双方の間にあるガラステーブルには、人数分の紅茶とケーキが並んでいた。

「当主の席を譲って、その引き継ぎを完全に終えたのが、最近だったか。そのせいか、桃宮前当主は随分と丸くなったな」

 場の緊張を解すようにして、蒼慶が凛々しい美麗な顔に薄らと笑みを浮かべて、そう述べた。一見するときつい言い方だが、その声色には嫌味ったらしい響きはない。
 彼に馴染みの冗談を言われた桃宮は、愛想の似合う顔に乾いた笑みを浮かべた。

「ははは、私はそんなに丸くなりましたか。いやはや桃宮の本家に婿入りして、しばらくしてようやく、あちらに男児が授かりましてね。今年に入って、当主という荷が下りたせいでしょうかね」
「そうだろうな。現役だったこの前までは、蒼緋蔵家というより、桃宮一族の人間らしく食えそうにない男だった」

 蒼慶はそこで言葉を切って、ティーカップを口に運んだ。その隣では、本日二度目となる茶会となった母の亜希子が、ケーキを食べ進めつつも、お客様向けの優雅な微笑を浮かべている。

 会話が途切れたタイミングで、桃宮がまたしてもハンカチで額の汗を拭った。風通しを良くしたリビングは、昔よりも随分ぽっちゃりとした体形となった彼に、十分な涼しさを与えられないようだった。若々しい頃のままの美しい亜希子の視線に気付くと、彼は「おかまいなく」と苦笑してこう続けた。

「亜希子さんは、まるで変わりませんなあ」
「そんな事ありませんわよ。わたくしも、同じ年月分の歳を取りましたわ」

 亜希子は「うふふふ」と口許に手をあてて答えながら、息子の蒼慶がティーカップをテーブルへと戻しながら、続いて向けた視線の先に気付いた。髪が薄くなった桃宮の『頭』にまで話題が発展する可能性を察知し、素早く別の話題を振る。

「当主の件は、両家でお見合いがされた後だったとは聞いております。長い間、本当にお疲れ様でした」
「ありがとうございます、亜希子さん。今では、私の上の子供達も頑張ってくれていますし、負担がなくなったのは確かです。このままアメリカで隠居するのもいいのですが、ちょうどそこに、桃宮の新しい事業を立ち上げる計画を立てているものですから、あと十年はゆっくり出来そうにありません」

 答えた桃宮は、柔らかい苦笑で言葉を締めた。紅茶にもケーキにも手をつけないまま、開いた膝の上にやんわりと手を添える。蒼慶も、紅茶だけを時々口にするばかりで、テーブルに並べられたケーキのほとんどは亜希子や紗江子が進んで食べていた。
 桃宮が視線をテラスへと向けたので、座っている蒼慶達もそちらへと目をやった。そこには、向こうまで広がる美しい庭園を眺めている緋菜とアリスがおり、二人は女の子同士での談笑を続けていた。

「また一段と、美しいお嬢さんになられましたわねぇ」

 紗江子が微笑む。亜希子もつられて微笑むと、幸福な母親の表情で頷いた。

「大学を卒業して一年ほど、社会勉強だと言って、あの子が別企業の社長秘書をしていた時は、もう冷や冷やものでしたわ」
「ふふふ、そうなりますでしょうね。殿方達は、放ってはおかないと思いますわ。今年の春先から、彼女は蒼緋蔵家の会社に籍を置いていると伺っておりますけれど、これからは本格的に花嫁修業でも?」
「そんなんじゃありませんわ」

 すぐに亜希子が、可笑しそうに言った。顔を上げた蒼慶が「あれに花嫁修行は早い」とすかさず告げたそばから、紗江子が微笑んで「やはりお兄様ですわねぇ」と言う。彼は眉を寄せただけで何も答えず、視線をそらして腕を組んだ。

 庭園の花々の匂いを含んだそよ風が、テラスから吹き込んだ。亜希子が「良い風ねぇ」と言って、再び紅茶を口にする。桃宮や蒼慶は口を閉じており、心地よさそうな表情を浮かべた紗江子が、カーテンのはためく音に耳を澄ませていた。

「私達のところへも、お嬢様のお噂は色々と入っておりますよ」

 風が少しやんだ拍子に、桃宮がそう言った。

 亜希子は意外そうな表情を浮かべると、「一体どんな噂ですの?」と客人向けの婦人声で尋ねる。その隣で蒼慶が、げんなりとした表情を薄く浮かべるのを気配で察した彼女は、器用にも客人から見えないテーブル下で足を踏んだ。

「蒼緋蔵家が、とうとう彼女の婚約者を探し始めているとか、蒼緋蔵家の会社に勤めているというのは形上だけで、既に彼女の『お相手』は決まっていて、裏ではその婚姻の準備が着々と進んでいる、など色々とあります」

 それを聞いた亜希子は、心底驚いたような表情を浮かべた。本家に女子が生まれるのも少ないから、まだ二十三歳なのにそんなに注目されているのかしら、と目を丸くしてしまう。

 久々の来訪で緊張しているのか、笑ってそう話した桃宮が「失礼」と言って一旦言葉を切り、再び顔に浮かんだ汗をハンカチで拭った。隣に座っている婦人は、それを茶化しもせずゆっくりと紅茶を手に取る。

 蒼慶が、話す亜希子と桃宮の向こうに、そんな紗江子の様子を見つめていた。妻に急かされたわけでもないのに、桃宮が少し急いたようにハンカチをしまって、喉仏を上下させて小さく唇を開く様子も、しっかり目に留めていた。


「その…………もう一つ、お噂があるとすれば。次期当主就任に合わせて、緋菜様にも『役職』が与えられるのではないか、という事です」


 しどろもどろに桃宮が言った。そこではじめて、蒼慶の顔に怪訝そうな表情が浮ぶ。彼の様子をチラリと確認した桃宮が、途端に困ったような顔で微笑んだ。

「ただの噂ですよ。失言でしたら非を詫びます。あの、その、緋菜様は聡明で美しく、将来をとても期待されている優秀なお嬢様です。それくらいの事も起こりえるのではないか、と、みな噂しているのですよ」
「そうなのですよ。本家のご長女様でもあらせられるわけですし」

 桃宮家の本家長女である紗江子が、優しく夫の言葉を補足して続けた。

「蒼緋蔵家の女性が『本家の役職』に就くとすれば、曾お爺様の代以来でございましょう? 蒼緋蔵家は、日本で三本の指に入るほどの大家ですから、皆様方は常に注目なさっているのですわ」

 そう世間話のように口にした紗江子が、ティーカップをテーブルに戻して、そこで穏やかな表情を真っ直ぐ蒼慶へと向けた。

「真相のほどは、いががですの?」

 ふっくらとした顔に浮かぶ皺を、柔らかに深めて面白そうに尋ねる。

 それについては、先日に一族内で話し合われたばかりで、まだ公表されていない詳細部分だ。亜希子は、申し訳なさそうに肩をすくめた。しかし、彼女が口を開くよりも早く、蒼慶が唐突にこう断言していた。

「うちの会社に呼び戻したのは、婚姻関係の類では一切ない。緋菜には、秘書の『役職』を与える」

 亜希子がガバリと目を向けて、ちょっと言わないはずなんじゃないの、と目で伝えた。動揺する母に対して、蒼慶は冷静な様子でチラリと横目を返しただけだった。
 桃宮夫妻が、驚いたように丸い目を見開いた。

「まぁっ。蒼慶様、それは本当ですの?」
「緋菜であれば、その『役職』が務まると蒼緋蔵家の多くが推薦し、権限を持つ者が集った場にて、全員の賛成一致で受理された。当主と私で、本人の意思も確認してある――アメリカに渡る前の朗報だ、今は他言無用で頼む」

 ふっと不敵に笑んだ蒼慶が、やや柔らかい声色で言ってティーカップを手に取った。
 桃宮夫妻は、しばらくお互いを見つめ合っていたが、それぞれが微笑をたたえた。桃宮家が今年で代替わりしたように、近い将来は蒼緋蔵家の当主となる彼へと向き直る。

「それは、おめでたい事ですわ。数代振りの、女性の『役職』ですわね。本当におめでとうございます」
「アメリカに旅立つ前に、良い事を聞きました。感謝致します」

 昔から交流があった緋菜の朗報である。我が子のように喜ぶ婦人に対して、けれど桃宮はぎこちなく笑っていた。

 亜希子は、自分の息子を探るように見つめた。紅茶を口に付けようとしていた蒼慶が、「前もって祝いに来てくれた礼だ」と言うのを聞いて、やや納得したように肩から力を抜いた。

「なんだ、珍しい事するじゃないの。大人になって、その変はちょっと丸くなったのかしらね?」

 おい化けの皮が剥がれそうだぞ、と、言いかけた蒼慶の言葉は続かなかった。ティーカップを持った彼は無表情で、テーブルの下でその足を踏んだ亜希子は作り笑いを張りつかせた状態で、互いに似た絶対零度の眼差しで見つめ合う。

(おい。普段は『あんた』と呼んでハッキリ言ってくる癖に、それが出来ない場所でストレスを発散するみたいに、こうして足で地味に訴える手段に出るところ、どうにかならないのか?)
(足じゃないとダメージないじゃないの。それに、あんたが空気読まないからでしょ)

 睨み合ってこっそり言う。

 フォークを手に取った紗江子が、またしてもハンカチでこめかみを拭う夫に、優しくケーキを勧めた。それから、視線を移動させてこう尋ねた。

「蒼慶様、他の『役職』はどうでしょう? 結構難しいのではありませんか?」
「難しいところではあるが、蒼緋蔵家は皆協力的なので、順調に進んでくれている」
「頼もしい限りですわね。皆、あなた様だからこそ、ついてこられるのでしょう」

 微笑んだ紗江子を見やった蒼慶の瞳が、少し悲しげに細められた。珍しい息子の様子に気付いて、足を離した亜希子が首を傾げるそばで、当の彼女が「何か?」と尋ね、彼は「特に何も」と短く言葉を切って足を組み変えていた。


 新しく立ち上げる予定の事業について、桃宮が蒼慶に意見を聞き始めた。小難しい長々としたやりとりを見たアリスが、いまらなそうにして考えた後、金魚を見せようと思い立って緋菜を引っ張って部屋を出て行った。


 亜希子はその場に残って、紗江子と女性同士の会話を楽しんでいた。

 桃宮家の前当主だった桃宮勝昭は、蒼緋蔵家の分家出身である。昔は時々、家族を連れて泊まっていく事もあったが、家族付き合いというよりは一族同士の社交のようなもので、大抵は夫がメインとなって相手をしていたから、亜希子は彼の子供達や紗江子の事も、ぼんやりとしか覚えていなかった。

 だから、このように個人的に話す時間を、長く過ごした事はなかった。しかし不思議なもので、紗江子と話していると、時間も忘れてしまうほど楽しかった。

 亜希子は、何故もっと前から、親しい友人として付き合わなかったのだろう、と懐かしい穏やかな気持ちに包まれていた。これまで長く離れていた親友のようにも思える彼女の声や仕草に五感が奪われて、桃宮と息子の方の会話に注意をはらえない。
 なんだか自分がおかしい。頭の中がふわふわとしてきて、時間の経過が分からなくなってきた。プライベートの深い話なんてした事もないはずなのに、好きだわ、という気持ち一色に染まって、何も考えられなくなりそうになった。

 蒼緋蔵家の当主の妻として、普段の強気な自分はこんなんじゃないわ!

 そんな自分の心の声がしたような気がして、亜希子はハッとした。何もかも話してしまいたいような危うさから立ち直った時、不意にある古い思い出が蘇った。その人物が、目の前に座る彼女の姿に重なる事に気付いた。

 驚いた。この人、誰かに似ていると思ったら、紗奈恵に似ているんだわ。

 紗奈恵は、雪弥の母だった女性だ。穏やかに笑う瞳は、時々悪戯っ子の少女のような輝き見せ、それでいて指先まで優雅で優しい子だった。

「亜希子さん、どうかなさったの?」

 不思議そうに問い掛けられて、亜希子は慌てて「ううん、なんでもないのよ」と、うっかり素の口調で謝っていた。けれど紗江子は気にしないでいてくれて、再び話し始めた。手振りを交える少しの仕草も、やはり亜希子に懐かしさを感じさせた。
 愛しい妹同然だった彼女を思い起こして、まじまじと見つめてしまう。そんなはずはないのに、まるで年を取った紗奈恵が生きてそこにいるような印象さえ受けて、そんな自分が不思議になった。

 そもそも桃宮紗江子という女性は、元からこのような雰囲気だっただろうか。そんな違和感が頭の片隅に過ぎったものの、話していると気のせいにも思えた。
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