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 親父と再会して数日間、片付けても片付かないような家の中で、俺は親父の面倒をみながら、秋の冷たい風もそっちのけで汗だくになって室内の掃除を進めた。

 強い薬の副作用で、親父は吐き気と眩暈に苦しむことがあった。塩分の他、カリウムと脂質といったいくつかを極端に抑えられたうえ、カロリー制限もあった。その際、食材の一部が薬の副作用を強くする事があるらしい、とも遅れて気付かされた。

 俺は、医療に対しては知識が全くなかったから、古本屋で薬剤と療養に関する書籍を買いあさって、それと睨みあいをする日々が始まった。環境も大事だから、ヤニと黴だらけの家内を出来るだけ拭い拭き、足が上がらない親父が転ばないよう、人が通れる分の通路を開けるべく整理整頓も行った。

 親父は相変わらず、震える手を持ち上げて「イツキ、イツキ」と老人みたいな声で俺を呼んだ。情けない声に胸がかき乱され、苛々しながらも俺は「なんだよ」と答えて、脈絡のない彼の話を聞いたりする。

 親父の思考の霞みが薄らぎ始めたのは、再会して五日が過ぎた頃だった。

 水が欲しい、腹が減った、テレビのリモコンをくれ、煙草が吸いたい、と親父は病人ながらしっかりと要求するようになった。相変わらず一人では歩けなかったので、オムツに関しては少し躊躇った後に「トイレ」と口にして、俺から受け取って手を借りた。

 親父はプライドが高い人だったから、排泄に関しては一番気に病んでいる様子でもあった。排泄は、アンモニアや塩分を流してくれる大事なものだ。我慢されても困るので、俺はすぐに対策を練って実行に移した。

 トイレの出入り口に棚を設けて、そこにトイレットペーパーやティッシュ、シャンプーや洗剤などの生活用品を揃えた。そこに、さもついでだと言わんばかりに、取りやすいよう大人用オムツを置いたのだ。


 親父は少し歩けるようになった頃、トイレに入る前に、そこから自分でオムツを取り出して使用するようになった。時折、トイレに間に合わずオムツの中で排泄をもらしたが、一週間後にはオムツの替えも自分で行うようになっていた。

 俺の手を必要としなかったから、そこは正直助かった。リハビリも兼ねるだろうからと、俺も彼が弱音を上げるまでは放っておくことにした。


 食事で摂るお米は、柔らかい粥が主流となる。けれど、ある程度の栄養は大事なので、俺は本から得た知識を駆使し、あらゆる野菜やキノコ類を細かく切り刻んで雑炊を作った。おかずも細かく柔らかい物に仕上げるため時間はかかったが、それで親父が食えて、元気になってくれるのなら構わなかった。

 親父は次第に、ゆっくりではあるが自立で歩けるようになっていった。

 強い薬を飲用したあとは、副作用で足が上がらずに転ぶ事もあったが、親父の憎ったらしい眉間の皺も戻り始めた。その頃には頭も通常思考が戻り、掠れた弱い声量ながら、いっちょ前に文句をこぼすようになった。

 そうなると、当然のように口喧嘩になった。彼はまず、俺の料理が不味いと不満をぶちまけた。塩分をほとんど抜いているから当たり前だろう、と俺は怒鳴り返したが、彼が残した料理を食っている俺も、全く素材の味しか活かされていない食事は不味い事を知ってはいた。

 料理にケチをつけられた事が悔しくて、俺は減塩料理本を片手に、親父に文句の言われない減塩料理を目指した。ハーブや果汁を利用し、出汁にも凝った。市販の梅干しや薫製を家庭でも作れると知って、それにも手を出した。

 食事に文句を言わなくなった親父が、次に言ったのは「冷たいゼリーが食べたい」と言うものだった。

 市販のゼリーは化学調味料が入っており、親父が飲用している薬との相性も分からないのであげる訳にはいかず、俺は生まれて初めてデザート作りに挑戦する事になった。多分、奴があと何日生きられるか分からないという、脅しみたいな医者の宣言も効いていたのかもしれない。


 慌ただしいままに一週間が過ぎ、料理とゼリーの味が飛躍的な向上を続ける間に、二週間が経った。


 定期検診のため、俺は親父を車に乗せて、二週間ぶりに病院へ連れていった。

 どうしたことか、親父の余命が一ヶ月に伸びていた。相変わらず親父の目に活気はなかったが、担当医となった男の話に大人しく耳を傾ける様子が珍しくて、俺は神妙な気持ちを覚えて何も言わなかった。

 親父の三週間ごとの通院が決定した病院の帰り道、車の運転も出来なくなった親父が、唐突に「買い物をしたい」言い出した。二週間も家に閉じこもっていた反動がきたらしい。

 俺は病院の近くにある大型スーパーへ立ち寄り、車椅子を借りて親父を乗せた。親父は車椅子で店内を回りながら、使えそうな食材を次々に買い物かごに放り込んでいった。

 野菜やキノコ類の他、無添加の野菜ジュース、医者が勧めていたヨーグルトや牛乳、塩分の低い駄菓子、水分摂取で乾く喉を誤魔化すための飴玉……食材だけで一万円近くかかった。俺は文句も言わずに支払った。


 頭がしっかりしてくると、親父自身も薬の飲み合わせや減塩の調理方法を覚え始めた。一人でも歩けるようになり自炊も可能だと見届け、俺も仕事を再開する事にした。


 親父の思考能力の機能が以前のように戻ると、当然のように文句も増えて喧嘩になる。俺が仕事を再開した初日は、夕方に様子を見に来ると親父が機械修理をしていて「なんで休んでいないんだ」と俺が指摘した事をきっかけに喧嘩になった。

 医者は身体を休めろと言っていたのに、あんた、一体何をやっているんだと俺は頭を抱えてしまった。喧嘩といっても、昔みたいに暴力に訴える事はない。大声ではなく、互いに愚痴と嫌味を言いあうといものだった。

「病気なんだから煙草ぐらいやめろ」

 と俺が言えば親父は、

「酒も辞めたのに煙草もやめろというのは酷だ」

 と反論する。維持費が馬鹿にならない機械修理の店を閉じろと指摘すれば、水道光熱費ぐらいは自分で稼げると主張してくる。実際はちっとも足しにならない額であり、俺の貯金を崩して払っていた。

 ここ二年は禁煙に成功していた俺だったが、結局ストレスもあって喫煙を再開した。目の前の病人に、昔と変わらず室内で好きなだけ煙草を吸うところを見せられて、我慢している自分が馬鹿らしくなったのだ。

 俺が自分のアパートに戻るのは、ほとんど風呂と睡眠のためだけで、酒を飲みに行く暇もなかった。親父は免疫力が低下していたから、少しの事で体調を崩すくせに、俺が少し目を離すと仕事に没頭して食事と薬を忘れたりする。

 危篤状態から二ヶ月が過ぎた頃、親父のオムツが取れた。どれだけしぶといんだと俺が嫌味をこぼすと、親父は顰め面で「フンっ」と鼻を鳴らした。

「だから言っただろう。仕事も煙草も害にはならないし、害になるなんて証明されていない」

 自信たっぷりに言い返すが、煙草で肺が真っ黒になる事は、学校でも教えている内容である。

 そう少なからず反論をした俺だったが、毎年の会社の健康診断で、自分が喫煙者だと気付かれなかったほど肺がきれいであった事を思い出した。煙草を一時的にやめていたのは、付き合いの飲み会が増える中で、憎たらしくも煙草が値上げしてしまったせいである。

 アルコール中毒で末期癌にまで悪発展してしまった人間が、大好きなビールを辞めてくれただけでも良しとするべきだろう。そう考えて、俺はそれ以降、親父の煙草については何も言わなくなった。

 妊婦のようだった親父の腹部も、その頃には一回り分小さくなっていた。癌の末期だから、腹水は完全には抜けないようだが、親父は俺がいない間に健康番組のストレッチを覚え、毎日続けるくらいには体力も気力も戻っていた。


 気付けば季節は、冬になっていた。

 親父の家には電気ストーブしかなかったから、俺がボーナスで冷暖房機を購入して設置した。親父は忌々しいと云わんばかりの顔で、「わざわざそんな金を使わんでも」と愚痴り、設置工事の人間が出入りする中で、俺達はまた口論になった。


 こうして付き合うようになってから分かったのだが、酒を飲んでいない親父は、驚くほどお喋りだ。用もないのに俺を引き止めて、テレビを流しながら、取りとめもなく話題を振る。

 仕事を再開した俺を手助けするように、気に掛けて平日の日中に訪問してくれるようになった親父の友人達が「寂しいからだろう」と苦笑顔でそう言っていた。いつも俺と入れ違いで彼らは帰っていくのだが、どうやら親父に機械の修理を頼んでいる人間もいるようで、帰り際に「よろしくお願いしますね」の一言を付け足していった。

 減塩制限が若干緩くなると、親父が摂取出来る食事の幅がぐっと増えた。量にも制限はあったが、多種類を揃えて少量ずつ楽しむ食事スタイルが自然と確立され、残った料理を胃袋に片付けるのは俺の役割になった。そうやって、二人きりでの年が明けていった。

 年初めの定期検診の日、俺は医者から、親父の余命が二年だろうと伝えられた。

 次は三年に伸びるのではないかと、俺はころころと変わる余命宣告に、そんな事を思った。
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