38 / 53
第38話:ティーカップの密やかな告白
しおりを挟む― 密室の館にて ―
雨が降っていた。
正門からの長い石畳の道を抜けた先、白壁の洋館の前にパトカーと捜査車両が停まっている。
その屋根に打ちつける雨音が、やけに軽やかに響いていた。
「また、立派な家ですね……」
霧島まどかが傘を閉じながら呟く。
隣を歩く橘直哉は、口元をぴくりとも動かさないまま応じた。
「高名な作家だ。印税で建てたらしい」
玄関ホールに入ると、すでに科捜研の職員と鑑識が数名、足音を消すように動いていた。
館内はしんと静まり返り、ただ灯りの落ちた廊下だけが、時間を止めていた。
「……被害者は、赤根紫苑さん。六十二歳。人気のミステリー作家」
案内役の若い刑事がメモを見ながら説明する。
「遺体は二階の書斎で発見されました。内側から鍵がかかっていた密室で、死因は毒物中毒の疑いがあります」
「密室で毒殺、か」
直哉は廊下の奥を見つめながら、目を細めた。
「ミステリー作家らしい、最後だな」
「……作り話のようだけど、だからこそ真実は静かに潜んでるのかもしれませんね」
まどかがふと足元を見る。長い廊下の絨毯に、紅茶のしみのようなものがあった。
「この館で、最後に誰かと“お茶”をしたのは……被害者だったのか、それとも……」
廊下の先に、書斎のドアが見えていた。
その扉の前に、真鍮製の小さなプレートがある。
《SHION》──と書かれたそのプレートは、すでに色褪せていたが、不思議と風格があった。
「行こうか、まどか。密室が語る“真実”ってやつを、聞きにいこう」
直哉が言った。
その背中を追いながら、まどかはふと、
“密室”とは扉の内側ではなく、時に人の心そのものではないかと思った。
――そして、そこに注がれた一杯の紅茶が、密やかに告白を始めるのだった。
二階の書斎は、重厚な木製のドアの向こうにあった。
扉の錠前は内側からかかっており、合鍵は被害者しか持っていなかったとされている。
「鍵はどうやって開けたんですか?」
まどかが尋ねると、所轄の鑑識員が答えた。
「通報後、消防が駆けつけて窓を割って突入しました。
防犯ガラスですが、一部に補修跡があったので比較的割りやすかったですね」
直哉とまどかは、室内に入る。
中央の執筆机には、万年筆と便箋、そして一冊の未完原稿。
机の右端には、紅茶の入ったカップと菓子皿が置かれていた。
カップの中身はすでに冷めきっており、スプーンはカップの下皿に伏せられている。
「……一口だけ、飲んだ形跡があります」
まどかが言う。紅茶の表面に、うっすらと口紅のような跡があった。
「毒は、その一口に含まれていた可能性が高いな」
直哉はカップの横に置かれていたティーバッグの包みに目を留める。
「メーカーは一般的な市販品。だが、封を開けた形跡が不自然だ。ハサミで切られてる」
まどかは部屋の片隅に目をやる。ティーセットのトレイが残っており、使用されたティーバッグの缶が置かれていた。
「この缶、古いけど……中身は新品に近いですね。外装だけ古く見せかけて中身を入れ替えた?」
「つまり、**毒入りティーバッグを“あらかじめ仕込んだ”**ってわけだ」
そこへ、館の管理人が二人に声をかける。
「捜査官の方。ご遺族と関係者の方々、応接室にご案内しております」
◆
応接室には、3人の関係者が集められていた。
■ 黒瀬 宏紀(くろせ こうき)・32歳
出版社の編集者。紫苑の長年の担当で、執筆の進行に関してかなり厳しい発言もしていたらしい。
どこか慣れたような態度で、「お力になれることがあれば」と口にする。
■ 石上 久子(いしがみ ひさこ)・58歳
家政婦。十年近く紫苑に仕え、食事や紅茶の準備を一手に担っていた。
「わたしが淹れたお茶に……そんな、毒が入っていたなんて」と混乱気味。
■ 赤根 小夜(あかね さよ)・24歳
紫苑の姪。紫苑とは離れて暮らしていたが、最近になってたびたび館を訪れていた。
冷静な口調だが、どこか怯えたような瞳をしている。
直哉が最初に口を開く。
「紫苑さんが亡くなった当日、皆さんはどこで何を?」
黒瀬が答える。
「僕は午後二時に打ち合わせで訪ねました。
最後のシリーズの原稿について話して……三時前には館を出ました」
久子が続く。
「私は台所で家事をしていました。紅茶も……いつも通り出しただけで」
小夜は短く答えた。
「私は、応接間で読書をしていました。先生には……会ってません」
直哉とまどかは、3人の視線と声の温度差を観察しながら、
密室で交わされた“最後のティータイム”に、誰が毒を落としたのかを探り始めていた。
館の台所は、時代を感じさせるレトロな作りだった。
タイルの壁、ガス式のコンロ、そして棚に整然と並ぶ紅茶の缶──
「こっちの缶には“封が切られていない”ティーバッグが入ってます」
まどかがしゃがみ込み、古い缶のひとつを確認する。
「けど、この銘柄──使われてたのと違う」
彼女はすぐ隣の缶に目を移す。
それは現場にあったのと同じブランドのティー缶だったが、
中身はすでに半分以上使われており、開封済みの袋が無造作に混ざっていた。
「……これ、まるで“誰でも出し入れできるようにしてあった”みたい」
まどかは眉をひそめた。
そのとき、ふと耳にした言葉を思い出す。
──「紫苑さんは、紅茶は熱々じゃないと嫌って人で……」
台所の外で、家政婦・久子が何気なくそう話していた。
ティータイムの際、紅茶の温度がぬるいと、機嫌を損ねるほどだったという。
まどかは立ち上がり、紅茶の入ったカップにもう一度思いを巡らせる。
「でも、あの紅茶……ぬるくなってた。
つまり“すぐに飲まれたものじゃなかった”。
ティータイムの時点で、誰かが一度持ち込んでいた?」
すると、背後から直哉の声がした。
「紫苑は、“編集者と会う前”に紅茶を口にしてた可能性が高い。
つまり、毒は“来客前に”仕込まれていた──ってことになるな」
まどかは、ティーカップのスプーンに目をやった。
「スプーンがカップの下皿に伏せてあった。飲んだあと、きちんと戻されたってことは……被害者自身が手で戻した」
「なら、自殺……?」
「──違うと思います」
まどかは静かに首を振った。
「原稿が、机の上に置かれてました。
でも、“書きかけ”だった。紫苑さんほど几帳面な人なら、
手を止めてお茶を飲む前に、万年筆をきちんと拭いて仕舞ってたはず」
直哉がふっと息を吐く。
「つまり、急に“飲まされた”」
「もしくは、“安心して飲んだ”」
まどかは応接室での3人の姿を思い返した。
「一番自然に、“紅茶を渡せた人”がいたはずです──」
そう言って、彼女の視線はある一点に留まる。
テーブルの上に置かれた、編集者・黒瀬の名刺。
その端には、かすかに紅茶のシミがついていた。
「……黒瀬さん、書斎で“お茶”を出しませんでしたか?」
直哉も口を開く。
「会話中、紫苑さんに“ひと息つきましょう”って紅茶を出した。
それを最後の一口として──毒を仕込んだ」
名刺の紅茶シミは、編集者が“カップを自ら運んだ”ことの証だった。
そして、書斎の鍵──
直哉は懐から一枚の紙を取り出した。現場に残された小さな破片。
「ドアに挟まってた、釣り糸の断片。
鍵を外から引き閉める細工に使われてた。クラシックな密室トリックだ」
証拠は揃った。
紫苑の死は、自らの“原稿を終わらせることを拒んだ”ことで、
自分の担当編集の“利益”を阻んだことによって起きた、極めて静かな殺意だった。
取調室。
編集者・黒瀬宏紀は、無言で椅子に腰掛けていた。
机の上にそっと差し出されたのは、あの名刺。
端にかすかについた紅茶の染みが、沈黙の証言を始める。
「紫苑さんに、紅茶を淹れて差し出したのはあなただ。違いますか?」
まどかの声は、柔らかくも鋭い。
黒瀬は、一度だけ目を伏せる。
そして、小さく吐き出すように呟いた。
「……彼女は、もう続きを書かないと言った。
“これで物語は終わりにしましょう”って……笑いながら言ったんだ」
「あなたにとって、それは困ることだった?」
「当然だ。出版社にとっても、俺にとっても。
あれは売れるシリーズだった。
……それを、勝手に終わらせるなんて」
拳を握る黒瀬の目には、涙とも怒りともつかぬ熱が滲んでいた。
「なのに、最後の原稿は未完のまま。
“真相は読者の想像に委ねる”……そんなの、ただの放棄じゃないか」
「……違うと思いますよ」
今度は、直哉が口を開いた。
「紫苑さんは、最後まで“自分の物語”を書いていた。
ただそれは、文字の上じゃなく──
“あのティーカップ”の中に、綴っていたんだ」
沈黙。
「……彼女は、気づいてたのかもしれませんね」
まどかが静かに言った。
「あなたの企みも、自分の最期も。
だからこそ、未完のまま原稿を置いた。
“この物語のラストは、あなたが書く”ように」
黒瀬は、その言葉に顔をゆがめ、口元を歪ませる。
「バカな女だ……最後まで俺の手の中で動いてたくせに……」
しかし、その言葉にはどこか、打ちひしがれた諦めの響きがあった。
紅茶のカップの中に仕掛けた毒。
閉ざされた書斎のドア。
そして──
読者への、沈黙のエンディング。
事件は、幕を閉じた。
◆
その夜、直哉とまどかは帰り際に「凪月」に立ち寄った。
いつものカウンター席。
咲良がカスタードプリンを運んでくると、まどかが小さく呟いた。
「……物語の結末って、不思議ですよね。
書いた人より、読む人の心に残ることの方が多いなんて」
直哉はスプーンを手に取りながら、ふと目を細めた。
「そうだな。
……でもそれは、きっと“誰かの記憶の中で、生き続ける”ってことなんだろ」
まどかは一瞬黙って、それから笑った。
「……いいこと言うじゃないですか。意外と、詩人だったんですね」
直哉は咳払いをひとつして、プリンにスプーンを入れる。
カラメルの甘い香りが、静かに空気を和らげていった。
10
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
肉食御曹司の独占愛で極甘懐妊しそうです
沖田弥子
恋愛
過去のトラウマから恋愛と結婚を避けて生きている、二十六歳のさやか。そんなある日、飲み会の帰り際、イケメン上司で会社の御曹司でもある久我凌河に二人きりの二次会に誘われる。ホテルの最上階にある豪華なバーで呑むことになったさやか。お酒の勢いもあって、さやかが強く抱いている『とある願望』を彼に話したところ、なんと彼と一夜を過ごすことになり、しかも恋人になってしまった!? 彼は自分を女除けとして使っているだけだ、と考えるさやかだったが、少しずつ彼に恋心を覚えるようになっていき……。肉食でイケメンな彼にとろとろに蕩かされる、極甘濃密ラブ・ロマンス!
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
