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第3話「超記憶能力とおかしな空白時間」
しおりを挟む朝八時。梅雨の切れ間、東京の空は曇っていたが、真木誠探偵事務所にはすでに小さな騒動の予兆が漂っていた。
「助手が先に出勤している探偵って、どうなんだ……」
真木誠は自室の扉を開けると同時に、うっすらコーヒーの香りと、タイプライターを叩くようなキーボード音が耳に届いた。寝癖を手櫛で押さえつつ仕事部屋に入ると、そこにはすでに椅子に座って書類に目を通す天音ユリカの姿があった。
「おはようございます、真木さん。依頼の整理をしておきました。昨日の夕方、メールで来ていた内容は四件、そのうち即日対応を求めるのは一件だけです」
「……おはよう。ていうか、鍵って俺が最後まで持ってたよな?」
「はい。ですが、隣室のベランダが繋がっている構造だったので、そちらから侵入しました」
「言い方……いや、行動が完全にアウトなんだが?」
真木は思わず額に手を当てた。助手を名乗って三日目の宇宙人──もとい天音ユリカは、人間社会の常識というものがまだ曖昧らしい。
しかし、昨日の調査でユリカが見せた“異常な記憶力”と、法律に関する知識の正確さ──さらには防犯カメラの映像を一瞥で暗記し、フレーム単位で再生できる能力には、ただならぬ可能性を感じずにはいられなかった。
「で、即対応案件って?」
「こちらです」
ユリカが差し出した紙には、ある会社の社員が体験した“記憶にない空白時間”に関する相談が記されていた。
⸻
【依頼概要】
相談者:川西 瞬(27歳・SE)
内容:出社時刻は8時半だが、午前10時ごろから突然の頭痛と吐き気に襲われ、気づくと13時過ぎ。職場内の誰も自分を見かけていなかったというが、タイムカードには確かに“出勤”の記録が残っていた。記憶が抜けた3時間、どこで何をしていたかまったく思い出せない。
⸻
「記憶喪失……いや、部分的な空白か。薬か催眠、もしくは精神的なストレス……いろいろ考えられるけど、なんでこれが探偵の仕事になる?」
「依頼文の最後に、“部内では幽霊や異世界転移の噂が流れている”とあります」
「オカルト枠かよ……ま、ウチらしいっちゃウチらしいな」
そう、真木探偵事務所──正式には《真木誠調査事務所》は、正統派の浮気調査や企業スパイの摘発より、どこか“妙な依頼”が集まりがちな、いわばキワモノ専門のような色合いを帯びていた。
「じゃあ、さっそく行ってみますか。ユリカ、用意は?」
「五分前に完了しています。着替えも、お弁当も」
「弁当持参かよ。俺よりプロだな、もう」
ユリカは淡いグレーのスーツ姿で立ち上がり、背筋をピンと伸ばす。表情は変わらず無機質だが、その手には見事なまでにきっちり詰められた手作り弁当がぶら下がっていた。
都心の外れにある中規模ソフトウェア開発会社《アイディクス・ラボ》。築年数の割に外観は新しく、ガラス張りのエントランスからは観葉植物とカフェマシンが見えた。
「うわ、探偵ってより営業の挨拶って感じだな……」
と呟く真木の隣で、ユリカはすでにICレコーダーと小型ノートを取り出していた。外回りも三日目とは思えぬ準備の良さだ。
受付で呼び出しをお願いすると、依頼人の川西瞬が慌てた様子で現れた。細身で、眼鏡をかけた物腰柔らかな青年。オフィスカジュアルのシャツにネクタイといういでたちが、いかにも真面目そうな印象を与えた。
「はじめまして……えっと、真木先生で……?」
「うん、探偵の真木誠。こちら、助手の天音ユリカ」
「助手さん……すごいですね、見た目が、えっと、モデルさんみたいで」
「ご挨拶、ありがとうございます。現在の心拍数は平常より約15%上昇中、照れと緊張が混ざっていますね。安心してください、こちらに攻撃の意志はありません」
「えっ?」
「あ、えーっと、少し変わったタイプですが優秀なんで」
真木はすかさずフォローを入れると、会議室に通された。すぐに川西が経緯を語り始めた。
「正直、自分でも何が起こったのかわかってなくて……。この前の金曜の朝、いつもどおり出社して、9時くらいまでは普通にデスクで仕事してた記憶があります。で、次に意識が戻ったときには、13時半。デスクの前で寝てたんです。でもタイムカードはちゃんと打ってあるし、同僚も“午前中は見てない”って……」
「体調の異変は? 頭痛とか吐き気とか」
「ええ、ありました……。目が覚めたとき、すごく気持ち悪くて。おまけに背中に、何か擦ったような痕が」
「痕……? 見せてもらっていい?」
川西は戸惑いながらも、背中の一部をめくった。そこには赤く細い擦り傷のような跡が、交差するように2本残っていた。ユリカが間髪入れず口を開く。
「傷の深さは表皮層0.5mm程度、非鋭利なプラスチック素材で付いたと推測されます。圧力の方向と血流から見て、誰かが背後から力を加えたのではなく、無意識に自分自身で背もたれなどに強く擦りつけた痕と考えられます」
「いやいや、ユリカさん……あなた医者じゃないでしょ?」
「医学部の初期教育程度の知識なら、全領域保持しています。」
「……」
真木は慌てて話を戻した。
「何か記憶に残ってることはない? 匂いとか音とか」
「……強いて言えば、ほんの少しだけ香水の匂いみたいな……女の人の?」
ユリカはその瞬間、目を細めて何かに集中するように軽くまぶたを閉じた。コンピュータのように情報を高速で検索しているような……そんな静寂が数秒流れる。
「川西さんの椅子には、香水の微粒子がごくわずかに残っていました。成分の組成からして、これは《イリス・ブルーム No.7》、某有名ブランドの限定品。現在、所持しているのはこのビル内では──」
「ちょ、待って待って! なに? その情報どうやって!?」
「空気中の揮発性成分は時間が経過しても一定の比率で残ります。私の嗅覚は犬の約27.6倍の精度です。加えて……このブランドは去年、東京地区での販売数が21本しかなく──」
「もうやめて! 俺が混乱する!」
真木が椅子にもたれてため息をついた。
「……要するに、その香水をつけてる誰かが、川西さんに何かしたってことだよな?」
「その可能性が高いですね。ちなみに、この会社の受付嬢・白鳥玲奈さんが、該当する香水を先月購入しています。確認しますか?」
「もう……あとは任せるよ、完全にユリカワールドだこれ……」
午後、川西の案内で《アイディクス・ラボ》の社員ラウンジに足を踏み入れた真木とユリカ。コーヒーマシンの横では、数人の社員が雑談をしており、部屋にはフローラル系の香りがかすかに残っていた。
「あれが白鳥玲奈さんです」
川西が指さした先、受付業務を終えたらしい女性がカップを片手に一人座っていた。整った容姿にハイヒール、いかにも都会的でスタイリッシュな佇まいだ。
「真木探偵事務所の者です。少しお話よろしいですか?」
「えっ……? は、はい。何か……問題でも?」
真木の声に白鳥は一瞬だけ警戒したような目を見せた。
ユリカが横から滑るように立ち、微笑んだ。
「白鳥さん、突然失礼します。ご使用中の香水は《イリス・ブルーム No.7》ですね。個人輸入で購入されたのでは?」
「え……あ、はい。どうしてそれを?」
「川西さんの椅子から、ごく微量の香気粒子が検出されました。あなたが最近、彼の執務スペースに入られましたか?」
「そんなこと……私は総務ですし、技術の人の席には……」
「嘘ですね」
「!」
ユリカの声は穏やかだったが、妙に断定的だった。
「あなたは金曜日の朝9時15分、川西さんの席にいました。入退室ログには痕跡がありませんが、あなたの所持する社員証は一時的に別の人間に貸し出されていました」
「な、なにそれ……」
「つまり、誰かにカードを貸して、自分は記録を残さずに移動していた。目的は……川西さんのPCの閲覧。もしくは……バックアップデータの消去ですね?」
「…………っ」
白鳥の瞳に、明らかに焦りが走った。真木が低く問いかける。
「川西のバックアップに、何かまずいデータでもあったのか?」
「彼……川西くんが、部内チャットのログを取ってるって知って……。ある会話を、削除してほしいって頼まれたの」
「誰に?」
「……笹木主任。うちの技術チーフ。あの人、自分の言葉を録られるのをすごく嫌がってて……。でも私はただ言われたとおりにカードを貸しただけ……本当です……」
「その時間、笹木が川西に薬を盛った可能性は?」
「まさか! そんな……でも、笹木さんなら……やるかも……」
真木は苦い表情をしたままうなずいた。
「わかった。ひとまずそのカード貸与について、社内で確認させてもらう」
ユリカは再び、にこやかに微笑んだ。
「ありがとうございます。なお、録音と記録は全て私の処理領域にて完了済みです。あとで整理して報告書にまとめます」
「あなた……本当に、ただの助手ですか?」
白鳥がつぶやくと、真木が小さくため息をついた。
「俺も毎日それ思ってるよ」
⸻
その日の帰り道。
事務所近くのコインランドリーの横を歩きながら、真木はふと尋ねた。
「お前さ、なんであんなに香水の種類とか知ってんだ?」
「人間の嗅覚情報は個体識別の要素として優先される傾向があります。香水の分子組成と経年変化についても──」
「待った。やっぱりその話、理解する気力ないわ」
「では、抹茶ラテでも飲みに行きましょうか?」
「なんでそうなる」
「あの香り、今日ずっとあなたの体温が0.4度高かった要因です」
「……え?」
真木は思わず立ち止まった。
ユリカは静かに、しかしどこか嬉しそうに振り返った。
「人間の感情変化、まだよくわからないのです。もっと調査が必要ですね」
川西瞬の“空白の記憶”に、白鳥玲奈の告白が加わり、事件は急速に形を取り始めていた。
とはいえ、直接的な犯行の証拠は何もない。
薬を盛られた可能性、カードの貸与、ログの改ざん……すべてが状況証拠にすぎない。
このままでは“なんとなく怪しい”の域を出ない。
その夜、真木は事務所で頭を抱えていた。
「やっぱり決定打がねぇな……」
ユリカは既に作業台の前に座り、何かを淡々と打ち込んでいる。
目の前のモニターには、会社の社内チャット履歴がずらりと並んでいた。
「ユリカ、ログ解析中?」
「はい。川西さんの端末はクラウド自動同期されていました。一時的に上書き削除されていたログも復元済みです」
「復元⁉ そんなことできるのか?」
「消去されたように見えても、実際には“インデックス”が消えているだけの場合が多いのです。特に急いで操作した場合、削除ログが完全ではありません」
「お前……やっぱり人間じゃないだろ……」
「……人間ですよ」
あっさり否定されて、真木は言葉を失った。
ユリカは、にこりともしないまま淡々と話を続ける。
「注目すべきは、2月15日午前9時10分。笹木主任が社内チャットにて『さすがにあいつ、気づいてきた』と送信した文です。送信先は白鳥さん。ただし、白鳥さん側のログでは当該メッセージが削除されています」
「つまり……白鳥が、笹木に言われて消した?」
「その可能性は高いです。ですが、白鳥さん自身はメッセージ内容を知らされず“削除だけ”依頼されたようですね」
真木はコーヒーをすすりながら、小さくうなる。
「『気づいてきた』って、何にだ……?」
ユリカの手が止まった。
「笹木主任は、ある技術データを不正に社外へ持ち出していた可能性があります。川西さんはそれに気づきかけていた」
「……情報漏洩か」
「はい。ユリカの解析した外部接続履歴から、パケットの不自然な転送記録が発見されました」
「しかも川西は、それを“警告的に”上層部に伝えようとしていた……」
「その動きを止めるために、“薬”を使った」
真木は立ち上がった。
「ユリカ。証拠は十分か?」
「決定的とは言えませんが、追い込むには充分です」
⸻
翌日、アイディクス・ラボ。
真木は再び笹木主任に面会を申し込んだ。
「突然で悪い。少しだけお時間をいただけますか?」
「……探偵さん? なんの用?」
「あなたが白鳥さんを使ってログを消させた件について、お聞きしたい」
「はぁ? なんの証拠があってそんなこと──」
「送信された文は、こちらに復元されています。残念ながらあなたが“削除したつもり”のメッセージも」
笹木の顔が引きつった。
「証拠なんか……あるわけ……」
「川西さんのコーヒーに含まれていたのはジフェンヒドラミン。大量に摂取すれば一時的な記憶障害が起きます。あの日、あなたが自販機で買った眠気覚ましのドリンク缶、回収済みですよ」
「………………」
「会社内の情報漏洩を防ぐために、自分の不正を隠蔽しようとした。だが、その手口はあまりに稚拙だった」
沈黙。
やがて笹木は椅子に沈み込み、ぽつりと漏らした。
「アイツ……あんまり真面目すぎて、むかついたんだよ……全部正しいと思ってやがって……」
真木は、目を伏せた。
「正しいってのは、たいてい誰かにとって“都合が悪い”もんだ」
⸻
その日の夕方、真木とユリカは事務所に戻っていた。
ソファに体を預けながら、真木はぽつりとこぼした。
「……なんでこんな奴ばっかり出てくるんだろうな」
ユリカは静かにチョコを齧りながら答えた。
「人間は誰も善意と悪意がとても複雑に絡み合っています。とても興味深いです」
「……そうかよ」
「ですが、あなたのように“信じてくれる”人がひとりいるだけで、救われる人もいるのではないでしょうか」
「……」
ユリカの言葉に、真木はしばらく黙っていたが、不意に笑った。
「……俺の助手、お前で良かったかもな」
「確認ですが、それは“採用継続”の意志表示でしょうか?」
「だから、そういう言い方が堅いっての」
「すみません、まだ“恋愛フラグ”と“就労条件”の区別が曖昧でして──」
「……誰か説明してくれよ、それ」
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