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第2話「助手、──地球の常識、通用しません」
しおりを挟む「おはようございます、真木さん。今日からよろしくお願いします」
まだ午前8時58分。秒針が9時に届く前に、事務所兼住居のチャイムが鳴った。
思わず時計を見やった真木誠は、苦笑しながら立ち上がる。どうやら本当に几帳面な人間らしい。
玄関を開けると、隣の部屋に越してきたばかりの女性──天音ユリカが、きっちりとしたパンツスーツ姿で立っていた。
「時間、ぴったりだな」
「はい。“8時59分に呼び鈴を鳴らすと感じがいい”とネットで見ましたので」
「……それを鵜呑みにして実行するやつ、初めて見たよ」
ユリカはぺこりと頭を下げ、靴を脱ぎ、躊躇なく事務所に入ってくる。物音ひとつ立てない所作に、真木はなんとなく緊張感を覚えた。
「こちらが、今日からの仕事場ですか?」
「まあ、見ての通り、小ぢんまりした事務所だ」
事務所といっても1LDKのリビングの一角にデスクがひとつ。ファイルボックスと書類棚が寄せ集まって、それらしい雰囲気を出しているだけ。刑事時代の名残で、整頓はされているが、華はない。
「整理整頓は悪くないと思います。清掃レベルも、おそらくBランク以上。一般家庭平均よりはやや高いです」
「いや、急に採点しなくていいよ」
真木が苦笑すると、ユリカは真面目な顔で問い返した。
「採点してはいけないルールがありましたか?」
「……ないけど、空気ってのがあるんだ」
「なるほど。“場の空気”ですね。仮想的な共有感情によって発言を制限する……文化特有の現象です」
「……誰か説明してくれよ、それ」
真木は小さくため息をつき、机の上から一枚のファイルを取り上げた。
「今日はさっそくだけど、軽い案件がある。張り込み調査だ」
⸻
「メモ、何書いてるんだ?」
真木が横目で尋ねると、ユリカは淡々と答えた。
「観察記録です。家の郵便受けが13時32分に開閉。中年男性が外に出て、片足を軽く引きずりながら歩いていましたが、速度は毎秒1.2メートル。痛みを訴えるにはやや速すぎます」
「……そのレベルで観察してんの?」
「はい。あとで保険会社に報告する際、可能な限り客観的証拠が必要になると考えました」
真木は驚きと呆れの混じった表情を浮かべながら、ぼそりとつぶやいた。
「こっちは双眼鏡で見てるのに……ユリカさん、肉眼だよね?」
「はい。双眼鏡がありませんでしたので」
「いや、あっても必要なさそうだな……」
そのとき、家の前に一台の車が停まった。運転席から降りてきたのは、件の被害者――のはずだった男。だがその足取りはしっかりしていて、何の支障もなさそうだ。
「やっぱり、クロか……」
真木がカメラのシャッターを切ろうとした、その瞬間。
「カメラ、構える前に歩行速度の違いで矛盾が証明できます」
「いや、証明っていうか……写真が証拠なんだけどな、こっちは」
ユリカはポツリとつぶやいた。
「保険金詐欺──刑法246条・詐欺罪に該当。さらに虚偽の診断書を提出していれば、刑法160条・私文書偽造等も追加できますね」
「……なあ、それ、誰に向かって言ってる?」
「記録です」
「そのうち、俺いらなくなる気がするな……」
真木が頭をかかえながらもシャッターを切ると、ユリカがぽつりと一言。
「それでも……私は助手なので」
少しだけ、笑ったように見えた。
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