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第9話「ユリカ、法の迷宮を行く」
しおりを挟む初夏の陽射しが柔らかく差し込む市役所の窓口。
真木誠は書類を手に、淡々と番号札を持ち待っていた。隣にはいつもの助手、天音ユリカがいる。彼女は整然とスーツを着こなし、どこか浮世離れした雰囲気を漂わせていた。
「誠さん、こちらの申請書類の書き方、一般の方々は少々混乱されるかもしれませんね」
ユリカは窓口の職員が案内している説明をじっと観察している。
「まあ、役所の手続きはいつだって面倒だしな」誠が苦笑する。
その時、前の女性申請者が窓口の職員に呼ばれた。
「こちらの住民票の申請ですが、印鑑が必要になります。お持ちでない場合は別途手続きが必要ですので、後日またお越しください」
女性は小声で「持ってないんです……」と答え、困った表情を浮かべている。
すると職員が、
「それから、申請書のこちらの欄は記入しないと受理できませんので、よくご確認ください」
と、少し急ぎ足に説明を重ねた。
ユリカの眉がわずかに動いた。
「誠さん。あの方の対応、少々過剰な気がいたしませんか?」
「過剰って……どういうことだ?」
「この手続きで通常必要なのは印鑑の有無だけです。それも簡単に代替措置が認められているはずですのに。加えて申請書の記入指示がやけに強調されている」
「つまり?」
「……私の推察ですが、窓口の方は何らかの理由で申請者に特定の方法で手続きを進めさせたいのではないかと感じます」
「それはつまり、誘導ってことか?」
「はい。おそらく職員の方は不注意やミスを避けるため、申請者に最も安全なルートを強く勧めているのだと思いますが……その過剰さは申請者の自由を奪いかねません」
誠は目を丸くした。
「なんだか、ややこしい話になりそうだな……」
ユリカは小さく微笑んだ。
「お手伝いいたしましょうか?」
「ユリカさん、本当にそんなことできるのか?」
誠は半信半疑のまま、ユリカの後について窓口に近づいた。
「失礼いたします。私もこちらの手続きを拝見しましたが、いくつか確認させていただいてもよろしいでしょうか」
ユリカは落ち着いた声で窓口の女性職員に話しかける。
「お客様に必要な情報を過不足なく伝えるのは重要ですが、申請者の選択肢を不当に狭めることは法的に問題が生じる場合もございます」
職員は少し戸惑いながらも答えた。
「それは…申し訳ありません。こちらのマニュアルに基づいて対応しておりますので」
ユリカは柔らかく微笑み、しかし確信に満ちた口調で続けた。
「マニュアルはあくまで指針であり、法律を超えるものではありません。例えば印鑑の代わりにサインでも代用可能であり、書類の記入も柔軟に対応できるはずです」
「ですが…」職員は言葉に詰まった。
「申請者の権利は尊重されるべきでございます。過度の誘導や強制は行政手続法にも抵触する可能性があります」
誠は横で驚きながらつぶやいた。
「ユリカ、お前、まるで弁護士みたいだな……」
ユリカは少しだけ笑みを浮かべ、
「そう言っていただけると光栄です。しかし私は専門家ではなく、単に興味があるだけでございます」
職員はしばらく考え込み、やがてうなずいた。
「わかりました。これからは申請者の自由意思を尊重して対応いたします」
ユリカは深くお辞儀をし、
「それが最も良い方法でございます」
誠はユリカの冷静かつ的確な法律知識に感服しながらも、彼女のどこか人間離れした雰囲気に改めて不思議な感情を抱いていた。
窓口の女性職員とのやり取りが終わり、誠とユリカは役所の外に出た。
暖かな日差しの中、ユリカは静かに口を開く。
「誠さん、あの職員様の行動には、ある種の『自己防衛』の心が見えましたね」
「自己防衛?」
「はい。過剰な説明や誘導は、彼女がミスや責任を恐れている証拠です。役所という場所は、ルールが厳格に定められているため、現場の職員様は法の『枠内』でしか動けません。ゆえに、申請者様のためと言いながらも、自分の身を守るために行動してしまうのです」
誠は息を吐き、少し笑った。
「なるほどな。人間ってやつは、そんなに弱いものか」
ユリカはふと遠くを見るような視線をした。
「……人間はとても複雑でございます。時に矛盾し、時に優しく、時に厳しく。わたくしにはまだ完全に理解しきれない部分も多いのですが」
誠は彼女の言葉に胸が熱くなるのを感じた。
「そんなお前が、時々すごく人間らしく見えるんだよ」
ユリカは軽く微笑んで言った。
「ありがとうございます、誠さん。わたくしは日々、学んでおります。人間のことも、そして法律のことも」
二人はそのまま歩き出す。
その背中には、まるで見えない宇宙の彼方から来たかのような静かな輝きが、ほんの少しだけ揺れているように見えた。
役所の建物を出ると、照りつける日差しが目にまぶしかった。
歩道に並ぶ植え込みからは、蝉の声が律動のように響いている。
「誠さん」
隣で歩くユリカが、唐突に言った。
「さきほどの女性職員様、実は“法の正しさ”よりも、“現場の慣習”を優先していましたね」
誠は、思い返すように目を細める。
「……なるほどな。あの誘導の仕方も、ルールの中にある“自己流の安心”ってわけか」
「はい。彼女にとっての“正解”は、マニュアルではなく“自分がトラブルを回避できるかどうか”でございました」
ユリカの声は落ち着いていたが、そこにはどこか寂しげな響きがあった。
「人は、そんなに臆病なのか」誠がぽつりと言うと、ユリカは少しうつむいた。
「……臆病というより、“痛みを記憶している”のだと思います」
「痛み?」
「ええ。おそらくあの方は、過去に誰かに責められたことがある。あるいは、制度の穴で申請者様が困るのを見てしまった。だから、自分が“悪者”にならないよう、あらかじめ手を打とうとしていたのです」
誠は思わず彼女の横顔を見た。
まるで、他人の内側をスキャンでもしたかのように正確な分析だった。
それは「刑事」としての自分が、時に届かない場所まで見抜いてくる。
だが──
「お前は、なんでそこまで人間の感情がわかるんだ?」
ユリカは歩みを止め、誠のほうを向いた。
その目は、まっすぐで、どこか痛いほどに透き通っていた。
「……知りたいのです。人間という存在を。あなたを」
「俺を?」
「はい。誠さんは、“正しさ”と“優しさ”の境界にいつも立っていらっしゃる。だから、わたくしは迷うのです。法は完璧ではないけれど、それでも人を守る盾であるべきか、それとも柔らかな毛布のように包むべきか」
風が吹いた。蝉の声がふと止んだように感じられた。
「それは……お前自身の答えを見つければいいさ」
そう言った誠の声には、どこか照れたような優しさがにじんでいた。
ユリカはふっと微笑む。
「そのために、もう少しだけ、おそばにいても……?」
「……ああ。よろしく頼むよ、相棒」
二人の影が、夏の歩道に並んで伸びていった。
その距離は、前よりほんの少し、近づいているようだった。
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