『天翔(あまかけ)る龍』

キユサピ

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第三章:「運命の交差」

第三十三話:「日常を揺るがす知らせ」

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朝の光が差し込む清蘭堂で、リンは石臼に手をかけ、薬草を丹念にすり潰していた。
香り立つ青い匂いが部屋に満ち、乾いた葉が粉へと変わっていく音だけが響く。
「今日も……少しでも皆の助けになるといい」

呟く声は静かだが、胸の奥には燃えるような思いがあった。
黄震の墓参りを終えてからというもの、リンは自らを追い立てるように働き続けていた。
病に倒れた人々のもとへ薬を届け、痛みや苦しみを和らげる。――それが血の宿命に縛られた自分にできる唯一の務めだと信じて。

道を歩けば、咳き込みながら母の手にすがる子どもや、重い荷を背に汗を拭う商人の姿が目に映る。
そのどれもが、病を乗り越えようと必死に生きる日常の断片だった。
辛くも尊いその光景に、リンは心を揺さぶられる。
「私は……この命を生かさなければ」
その決意を胸に刻み、彼は今日も歩き続けた。



夕暮れ、茜色に染まる通りで、薬を抱えたリンに声をかける者がいた。
「おや、こんにちは。忙しそうですな」

振り返ると、荷車を押す見慣れぬ商人が立っていた。荷台には干し魚や穀物が積まれ、陽に焼けた顔に人懐こい笑みを浮かべている。
「ええ……病人のところへ薬を届けているんです」
「そうか、立派なことだ。体を壊さぬようにな」

軽口を交わすひととき、リンの表情もわずかに和らぐ。普段は作業に追われ、世間話などほとんどしない彼にとって、新鮮な時間だった。

やがて商人は、荷車を直しながら声を落とした。
「ところで……海の向こう、烈陽国の噂を聞いたことは?」

「烈陽国……?」
唐突な名にリンは目を瞬かせる。

商人はにやりと笑みを深める。
「最近、無敗を誇る若き武人が現れたらしい。尾ひれがついているだろうが、噂では“武神に比肩する力”だと囁かれている」

その声は軽い調子だったが、リンの胸に冷たい影を落とした。
「武神に……比肩する力……」

ほんの一瞬、兄・景嵐の姿が脳裏をよぎる。
恐れと憧れを同時に抱かせた、あの背中。
だがすぐに首を振り、その思いを押し殺した。

商人は軽く会釈し、人混みに紛れていった。
残されたリンは立ち尽くし、胸のざわめきを抑えるように薬を抱き締めるしかなかった。



夜の帳が降りる頃、リンは黄震の墓前に立っていた。
町の喧騒は遠ざかり、風が草木を揺らす音だけが耳に届く。

「烈陽国……本当は何が……」
呟いた瞬間、背後から柔らかな声が響いた。
「気になるのね、海の向こうのこと」

振り返れば、淡い光をまとう精霊の少女・璃音がいた。
その姿は月明かりに溶け、幻のように揺らめいている。

「君は……どうしてここに」
「私は風に宿るもの。知りたいと願えば、耳を傾けに来るわ」

璃音は墓石に手をかざした。刻文に淡い光が走り、古の記憶が揺らめき始める。
「烈陽国には、もともと四柱の武神がいた。二柱は夫婦神として国に留まり、残る二柱は大陸へ渡った。
 一体は破壊を司る“滅殺の武神”。もう一体は大陸を築いた“創世の武神”。
 だから大陸の人々は自分たちの神だと思っているけれど、本当の故郷は烈陽国。
 そして――“滅殺”の力は、すでに目覚めを始めている」

璃音の言葉は風と溶け合い、リンの胸奥に深く沁み入った。
次の瞬間には、彼女の姿は風に散るように消えていた。

残されたリンは唇を噛み、拳を震わせる。
確かにここ数か月、兄・景嵐の名は町から消えていた。
かつて恐れられ、名を囁かれるだけで人々を震え上がらせたはずの兄の存在が、まるで意図的に隠されたかのように誰の口にも上らない。

(兄上は……海の向こうに?)
戦慄が胸を走る。
兄が“破壊”の理を背負い、その宿命を確かめるために烈陽国へ渡ったのだとしたら――。



港へ向かう道を歩きながら、リンは深い息を吐いた。
夜の風は潮の匂いを運び、遠くで波が崩れる音が響く。
漁船や交易船の灯が水面に揺らめき、星空と重なり合う。

手に抱えた薬包みの温もりが、彼を現実につなぎとめていた。
(兄上の真実を知るために……そして自分の宿命にも抗うために……)

港に立ち、彼は静かに呟いた。
「……行くしかない」

船の甲板に立ち、夜の海を見下ろす。
波間に映る星々がきらめき、彼の決意を照らすようだった。

拳を握り、胸の奥で固く誓う。
「兄上、必ず追いつく。真実を知り、そして自分の力で守る」

清蘭堂の薬棚には、乾いた薬草の香りが満ちていた。
老薬師の夫婦が帳簿をつける手を止め、旅支度を整えたリンを見つめる。

「リンや、本当に行くのかね」
皺深い声に、リンは静かに頷いた。
「はい……兄を追わねばなりません。けれど、この町の薬は必ず守られます」

扉の外では、蒼龍門の後輩弟子たちが待っていた。
剣を佩いた若者が一歩進み出る。
「兄弟子、俺たちに任せてくれ。町を護ることこそ、俺たちの務めだ」
「ああ。だからこそ、私は行けるのだ。」

言葉は短くとも、信頼は確かに結ばれていた。
リンは老夫婦と弟子たちに深く頭を下げ、清蘭堂を後にする。

夜道を歩きながら、出会った商人の笑みがふと脳裏をかすめた。
――あの眼差し。見間違えるはずもない。
「……藍峯」
小さく名を呟き、拳を握り締める。兄を導くかのように現れたその影の真意は分からない。だが今は、ただ前へ進むのみだった。



港に着くと、漁船や交易船の灯りが水面に揺れていた。
船員たちが縄を解き、帆を張る音が夜に響く。
リンは甲板に足を踏み入れ、振り返らずに遠い町並みを心に刻んだ。

船がゆっくりと岸を離れる。
潮風が髪を揺らし、波間に星の光が跳ねる。
その背には、不安よりも使命の重みが確かに宿っていた。

血の宿命に抗う、最初の一歩。
リンの旅立ちは、夜空に瞬く星々とともに、静かに始まった。
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