『天翔(あまかけ)る龍』

キユサピ

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第六章:「禁苑の双頭」

第八十二話:「母の叫び」

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黄楊は冷笑を浮かべ、短刀を母の首筋に突きつける。
「不知火よく聞け。母の命がおしいならば――お前の科学兵士を動かせ。
龍華の者どもを襲わせるのだ」

不知火の顔は蒼白になり、震える両手を胸に当てる。まだ幼い少女の瞳に、絶望と怒りが交錯していた。

「……私に……そんなこと、できるはずが……」

黄楊はさらに刃を押し当てる。
「できるのだ。お前が唯一の操者だからこそ、母を人質に取った。さあ、選べ。不知火――母か、仲間か」

冷たい山風が吹き抜け、雪片が舞う。
誰もが息を呑む中、十三歳の少女の小さな肩が震え続けていた。

坑道の冷たい空気が張り詰める。
黄楊は無造作に玲霞の母を引き立て、錆びた短刀をその喉元に押し当てた。血の気を失った顔に、しかし凛とした光が宿る。

「玲霞……」
かすれた声で娘を見つめる。
「この男の言葉に従ってはなりません。これ以上、悪に手を貸しては……母は、それを許さぬ。たとえここで命を落とそうとも……母は死を選びます」

その目には決意が宿り、震える腕で短刀の刃を自らの喉に押し当てた。

「やめろ!」玲霞が叫んだ瞬間——

黄楊の目が細く光り、彼は素早く母の腕をねじり上げる。
「自分で死ぬなど、つまらぬ真似を……」

次の瞬間、短刀を奪い取った黄楊の拳が母の頬を打ち据えた。乾いた音が坑道に響き渡り、母の身体が地面に崩れ落ちる。

「命の価値は俺が決める。お前らの意思など、くだらぬ」
黄楊の声は低く、冷ややかに坑道の奥に響いた。

玲霞の全身が震え、歯を食いしばる。
「……母上……」


黄楊の拳に打たれ、母が地に崩れ落ちる。玲霞はその場に膝をつき、必死に母へと手を伸ばす。

坑道の薄闇の中、リンと藍峯はその光景を固唾をのんで見守っていた。
「……玲霞?」藍峯が小声で漏らす。

その名は母の口から不知火に向けて確かに呼ばれていた。だが彼らが知るのは“燃え盛る炎のような少女、不知火”だった。

「誰のことだ……?」リンが眉をひそめる。

少女は振り返り、涙を堪えながらも凛と顔を上げた。
「……私の本名は、玲霞(れいか)と申します。ずっと……隠してきました」

松明の炎が揺れ、彼女の瞳の奥に秘められた決意を照らす。
その瞬間、リンも藍峯も初めて“炎を纏う不知火”の背後にある少女の素顔を見た気がした。

黄楊が叫ぶ。

「玲霞……いや、不知火と呼ぶべきか。お前は天才だ。科学兵士はお前の知恵がなければ成り立たなかった。今までここまで魏支国のために手を染めたお前がここで俺を敵に回すのか? 母の命が惜しくないなら、好きにするがいい」

母の喉には白い刃が押し当てられ、赤い筋がにじみ始める。
玲霞の瞳に迷いが揺らめいた。
リンと藍峯も身を乗り出すが、黄楊の気迫と短刀の鋭さが、迂闊な行動を許さなかった。

鉱山の坑道に、乾いた靴音と風を切る気配が近づいてくる。
雪の冷気をまとった天翔の一群が現れたのだ。

「黄楊――!」
天翔の声が坑内に轟く。

その瞬間、黄楊の目が鋭く光った。母を抱えた腕をさらに強く締め上げ、短刀を深く押し込む。刃先から赤が滲み、母の息が詰まる。

「……ちょうど良い。天翔まで揃ったか」
黄楊は低く笑い、場に集まった全員を見渡した。
「これで一層、俺の人質の価値が上がったな。お前たち、動くなよ?」

玲霞は必死に声を張る。
「天翔、仲間を不用意に動かしてはなりません! 母が……!」

天翔は剣を構えつつも、視線だけで仲間たちを制した。
緊迫した空気が、鉱山の奥で張り詰める。

「黄楊……貴様の企みは既に潰えた。禁苑も陳譚も失い、残されたのは人質一人だけだ」
天翔は剣を構えながら、あえて静かに語りかけた。
「まだ命を惜しむなら、その女を放せ」

黄楊は嗤う。
「命? ふん、俺はこの手で帝国を築く男だぞ。命惜しさに手を緩めるものか」

短刀の刃先をさらに母の喉へ押しつけ、血が一筋流れた。玲霞が声を詰まらせる。
「やめて……!」

その時、天翔がほんのわずかに視線を逸らし、藍峯へと目配せを送った。
藍峯は頷くと、坑道に漂う空気の流れを読み取る。鉱山の奥から微かに吹き抜ける風――それは幸運にも黄楊の背へと向かっていた。

藍峯は袖口に忍ばせていた小瓶を割り、極めて揮発性の高い眠り薬を粉末ごと散布する。
風がそれを拾い、無色透明の霧となって黄楊の背後へ忍び寄る。

「まだわからぬか、黄楊」
天翔の声が重く響く。
「貴様の終焉は、既に始まっている」

黄楊は嘲るように返す。
「ほざけ、俺は――」

その言葉の途中、黄楊の瞼が重く震え、呼吸が乱れ始めた。

坑道に響く風の音の中、黄楊は短刀を母の喉に押しつけたまま、冷笑を浮かべた。
「お前らが俺の前に立ちはだかろうとも、この女を――!」

その瞬間、黄楊は母に刃を突き立てようと身を前に傾けた。

だが、天翔は即座に剣を構え、刹那の間に間合いを詰める。
「来るな、天翔!」

リンも咄嗟に手を伸ばし、母の身を庇いながら黄楊の腕を押しのける。
「玲霞殿!落ち着いて!」

同時に、藍峯の撒いた眠り薬が坑道内の空気を漂い、黄楊の背後から静かにその身体を包み込む。
黄楊は短刀を握ったまま、ふらりとその場で動きを鈍らせた。

「……な、何……!」
黄楊の声は震え、意識が次第に霞んでいく。

天翔は一歩踏み込んで短刀を取り落とさせ、リンと共に母を安全な位置に引き寄せた。
玲霞は母の胸に飛び込み、涙ながらに抱きしめる。
「母上!もう大丈夫!」

黄楊はふらつきながらも最後の力で抵抗しようとするが、科学兵士たちが無言でその動きを封じ、力尽きる前に坑道の床に膝をつかせた。

藍峯は黄楊の背後に立ち、低く言葉を落とす。
「これで、貴様の力は終わりだ」

坑道には静寂が訪れ、雪の匂いと煤の匂いが混じった冷たい空気だけが残った。
玲霞は母を抱きしめ、弟の手を握りながら、深く息をつく。

「……皆、無事で良かった」
リンも肩の力を抜きつつ、仲間たちを見渡す。
「まだ油断はできぬ。黄楊が完全に無力化したか、最後まで確認しなければならぬ」

坑道の奥でうっすらと、黄楊の意識が薄れ、やがて動かなくなる。
静寂の中、凌ぎ切った命の重みが、誰の胸にも深く刻まれた――。
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